2016.04.21

大丈夫ですか? その指先

今回の話は、何か特別な式で祝福だけが行なわれる場合についてではありません。飽くまで、御ミサの御聖体拝領の行列の中、御聖体を拝領する人と祝福を受ける人が混在する場合についてです(私たちの現在の御ミサは大抵それであるわけですが)。
言いたいことは簡単です。上のイラストによって全てを理解した人は、以下を読んで下さる必要はありません。

私も、洗礼志願者だった時、御ミサの御聖体拝領の列に並んで司祭から祝福を受けていました。その時は特にそれに疑問を感じていませんでした。しかし、最後の最後になって(信者になって、或る理由で御聖体拝領ではなく祝福を受けた時)「あれ?」と思ったのでした。それは、司祭が私の頭の上に手をベタッと置いたことでした。謂ゆる「按手」式の祝福。で、私はその時、こう思ったのでした。「え? 私の頭に触ったその指で、次の人のための御聖体を持つの?」と。そして、「どうしてそうベタッと触るかな。頭に触らずに祝福することを考えないのかな」と。──思えば、これは洗礼志願者の頃から気づいていいことでした。私もぼんやりしたものでした。

ただ、こう言えるかも知れません。「司祭がその種の祝福の仕方をする時でも、もし御聖体を持つことになる人差し指と親指の先を相手の人の頭に触れないようにしているなら、問題ない」と。
しかし、実際のところ、どうなんでしょうか? 神父様方は注意深く必ずそうしていますか?

ここに一つの動画があります。福岡教区の小倉教会の御ミサを映し

たものです(クリスマスミサ2013年 小倉カトリック教会 - YouTube)

47:50 あたりから御聖体拝領の場面が始まります。

中央で御聖体を授けておられるのは、この教会のこの当時の主任司祭、山元眞[やまもと まこと]神父様であるようです。彼はかなり多くの人に、頭に手を置く形式の祝福を与えています。

それほど大きな映像ではないので、今ひとつはっきりしません。が、どうやら彼は、基本的には、御聖体に触れることになる人差し指と親指の先を、相手の頭に触れないようにしているようです。そのように見えます。

しかしそれでも、私は、この映像を見ながら十分に「危なっかしい」ものを感じないではおれません。「この分ではおそらく、なにかの拍子に指先が相手の頭に触れてしまうこともあるだろう」と思えてなりません。(彼は、見受けるところかなり自由に、幼い子供を可愛く思い、子供の頬に手をやっていたりするようですし)

小倉教会の動画をもう一つ(小倉カトリック教会 2014年正月ミサ -

YouTube)1:04:20 あたりから御聖体拝領の場面が始まります。

私の目には、この神父様は御聖体に触れることになる指先まで相手の髪に触れているように見えます。これは「明らかに」と言っていいように思われます。(注: 私は上の二枚の写真だけで言っているのではなく、動画を見て言っているのですけれども)

このように写真を大きく出させてもらってますが、私としては特に個人を責めているつもりはありません。私の言いたいのはこうです──「今、どの神父様の感覚も、こんなもんなんじゃないの?」

その指先、御聖体と人の髪の毛の間を行ったり来たり。

これは東京教区の千葉寺教会の公式サイトにある写真です。2010年「年間第5主日」~2010年「王であるキリスト」のトピック の中の「2010/10/17(日) 年間第29主日」)

私の「はっきりさせたい症候群」のために言えば、この神父様は高木健次というお名前の神父様のようです。かなりお若い神父様。

彼の人差し指と親指の先はこの小さな男の子の髪の毛に触れているようです。これも「明らかに」と言っていいでしょう。

彼はその左手に御聖体が入った聖器を持っています。だから、彼はこの後、この男の子の髪の毛を触った同じ指で、御聖体を取り上げたことでしょう。

どんな感覚してんねん!

..というところです。

昔の司祭は、聖変化されたホスチアのどのような細かな欠片も自分の指から落ちないようにと、親指と人差し指をくっつけたままにしていたものです。くっつけた指からも落ちる可能性は皆無ではない?かも知れません。しかし、兎も角、そのような「気の使い方」をしていたのです。それが、現代の司祭たちはどうでしょう(彼ら自身の “気持ち” としては “真面目” であり “誠実” だとしても)。上のあれらの写真をもう一度見て下さい。

彼らは気にしないのでしょう。何故?
おそらくは、「そのような “細かいこと” は神の『おおらかな愛』にはふさわしくない」という理由で。
今やこの「おおらかな愛」というのは、ほとんど一つの「万能薬」みたいなものになっているような気がします。

或いは、更に情け無い理由も彼らの内に働いているかも知れません。「だって、今、どこの国の神父様もそのようにしているよ」。
聞いた途端にヘナヘナとなりそうな理由ですが、しかし多くの神父様方は意外とそんな程度のところで日々を棲息なさっているのではないかと思います。(馬鹿にし過ぎですか。しかし、あなた方は実際、いろいろと嘆かれるに十分です)

「世界標準」が常に正しいわけではないのであります。人間の世界というのは、全体として愚かになる、全体として無神経になる、そして全体として不信仰になるという、そういう恐ろしい一時期を持ち得るのであります。善意であってもそのようになる一時期が。(今がその時だと思います)

最後にこれを紹介しましょう。以前も取り上げさせてもらった札幌司教区の場崎洋神父の文章です。これは私の意見ですが、カトリック信者はこれにちょっと驚いた方がいいと思います。強調は私。

説教 於手稲教会 場﨑洋神父

先週、北26条教会で追悼ミサがあり、その中で盲導犬を連れていらした方がいました。聖体拝領のときその犬はご聖体を頂けるのではないかと何気なしに期待している表情で見上げています。それで、目の見えないその方に、あなたの犬の名前は何ですか、と尋ねると、「ベスです」と答えられました。それで、「ベスのうえにも祝福がありますように」と犬の頭に手を置いて祝福しましたベスは祝福を受けたのか、受けないのか、とにかく嬉しそうに喜んでいました。

カトリック北26条教会

彼は、御聖体に触れる仕事をしている人差し指と親指の先を、犬に触れないように保護したでしょうか?(と云うか、これはそんな問題でもない、“それ以前” のような気もしますが)。私にはどうも、彼がそんな神経を使う人のようには思われません。

私は、「髪の毛は汚い、その本性上、汚い」とか、「動物は穢れている」とか、そんなことを言うつもりはありません。特に盲導犬など、私より献身的に働いているかも知れません。しかしそれでも、何かしらの「わきまえ」があるべきではありませんか?

私は、高木神父様のような若い司祭についてはあまり責めたくないかも知れないのですが、しかし、彼のことは責めたい気がします。何故って、彼は「いい歳」だから。「いい加減、第二バチカン公会議以降の全過程を振り返り、何事か気づけよ」と言いたい。

彼は、犬の頭に触ったその手で御聖体には触れなかったとしても、少なくとも聖体器や他の聖具には触れたことでしょう。

以上、現在の教会環境(ノヴス・オルド)の中で行なわれていることについて書きました。けれど、私はノヴス・オルドを非難したくてこれを書いたのではありません。何故なら、もし聖伝の御ミサを捧げている神父様が同じことをしたなら(話の上の仮定)、やはり同じことだからです。だから、これは「ノヴス・オルド」とか「聖伝の御ミサ」とか云う以前の話です。

つまりそれは、ほとんどこう云う話です。想像してみて下さい──

あなたは或る日、或る人のお宅にお呼ばれしました。居間でその家の人たちと歓談していましたら、その家の小学生の男の子が帰って来ました。見ると、外は風が強かったのか、髪が乱れています。その子の母親がそれに目をとめ、「あら、髪がグシャグシャじゃないの」と笑って、その子を呼び寄せ、その子の髪を自らの指で直しました。そしてそのあと──もうお分かりでしょう──その母親はそのままの手で、裸の(包装されていない)お饅頭を一つ取って、「これ、美味しいんですのよ。召しあがってみて下さい」と言って、あなたに差し出しました。

私は「不潔恐怖症」でも何でもない人間ですが、それでも、そのようにする人が居たなら、心の中で「おいおい」と思います。今回、上でした話は、私の中で、これと似たようなものなのです。もちろん「汚聖」ということも考えますが、それ以前のこのレベルからの問題でもあるのです。

神父様方、もう少し神経使いませんか。
祝福する時、別に「按手」形式でなくても、手を空中に置いて、つまり「手をかざす」形式の祝福でもいいではありませんか。
そのようにして何か不足がありますか?

そのようにしても、祝福を受ける人は、神父様の声で、自分が祝福されたことが分かります。神父様は祝福の言葉を述べて、最後に「はい、結構ですよ」とでも言えば、その人は祝福が終わったのだと分かります。

そこを、なんでもかんでも身体的接触をしなければ「親しみがわかない」のだ、「温かみに欠ける」のだ、「水臭い」のだと、そんなふうに考えているとすれば、おかしなことです。そんな考えで、同じ手(指)で人の髪にも触り、御聖体にも触る、などということをしなくてもいいでしょう。

もちろん、「祝福だけ」をする機会は別です。その場合はいいのです。例えば、卒業式とか卒園式とか、他にもあるでしょう、とにかく御ミサではない、御聖体拝領を伴わない場合は、幾らでも親しく相手の頭に手を置いて祝福なさればいいのです。

しかし問題は「祝福を受ける人」と「御聖体を受ける人」が “混在” する場合です。つまり現在の御ミサに於ける場合ですが、その時はもう少し神経使いませんか。

補記)本当は、そもそも、その「混在」が御ミサの構成をどこかおかしくしているのです。しかし、ここでは触れません。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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