2016.04.21

場崎神父(札幌教区)

ちょっと更新を再開 (-_-) 。。

彼は司祭である。そして、その主観に悪意はないことだろう。しかし、「その主観に悪意はない」で全てが片付けば、こんな楽なことはないが、そうは行かないだろう。カトリック司祭の身にしてこのように天主の宗教の重要要素──秘跡、天国と地獄、天使と悪魔等──を「材料」にして(まあ、「ダシにして」とは言わないでおこう)「小噺・ジョーク集」を編むならば、どこか非常に “軽薄” であって(読者よ、心を潜めて見られよ)、結局は天主の教会に害をもたらさずにはおれないだろう。

場崎洋 Basaki You 著「キリスト教 小噺・ジョーク集」

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刊行年:2011年
出版元:聖母の騎士社

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もこの本を販売している。

場崎洋神父

場崎 洋[よう]神父

聖母の騎士社の「著者等紹介」にあるように、著者は札幌司教区の司祭である。「現在札幌司教館」とあるように、かつては札幌司教区の事務局長であられた(ことを私は知っている)。現在は札幌北26条教会の主任司祭。そして司教区の各種「役員会」「顧問会」「委員会」のメンバーである(教区関係機関 担当司祭一覧)。特に「神学生養成委員会」のメンバーというのが気になる。一体どんな「養成(教育)」をしてくれるものか。

私は、場崎神父のことばかりでなく、彼のこの本を出版したり販売したりしている上記カトリック機関の不見識を指摘させて頂く。どうしてか。私が「保守的な」「古い」「堅苦しい」「気難しい」頭をことさらに持っているからか。そのように言うことができたなら、彼らとしては簡単だろう。しかし、本当にそう言うことができるのか。日本にはいい表現がある。冒頭でも言ったが、「心を潜めて」モノを見るということである。以下、この本から少しく引用させてもらう。

注)これらの彼の(或いは、彼の集めた)「小噺」を表示するに於いて、私は如何なる省略もしていない。中略も後略もしていない。彼がこれらの「小噺」の “オチ” と考える所まで、結論・結末まで、きちんと転記させてもらった。

114.盆踊り

 お盆のころ、ある教会で晩のミサがあった。
 隣りの公園では盆踊りが賑やかに催されていた。
 司祭はそれにもめげす厳粛にミサを執り行った。
 「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される私の体である」

 司祭は聖体を高らかに奉挙した。その時だった。盆踊りの歌が大きく聞こえてくるではないか。
 「♪  月が出た出た~月が出た~あ、よいよい~♪」
 信者は聖体を見つめながら堪え続けたという。

pp. 262-263

私は「キリストのおもち」の話を思い出した。

この司祭に協力してこのようなイラストを描いたのは誰なのか。信徒か。──この司祭のことを擁護する信徒は居るに違いない。しかし、何はどうあれ、こういうのが「御聖体に対するお気楽な意識」から出たものであることは隠すべくもない。

108.ミサごたえ

ある教会で朝ミサがあった。
侍者がいないので真面目な爺さんがミサごたえをすることになった。
聖変化が近づいたとき爺さんは鳴らす鐘がないことに気が付いた。
爺さんは焦ってしまった。
いよいよ聖変化のときがきた。爺さんは瞬時、その難所をクリアした。
口で「カラン、コロン、カラン」と言ったのだ。

司祭も数人の信者も吹き出してしまったが、爺さんは真剣そのものだった。
聖体とぶどう酒の奉挙のときも頑張った。
「カラン、コロン、カラン」
するとひとりの坊やが父親の耳元で囁いた。
「パパ、どこかでゲゲゲの鬼太郎の声がしているよ。」

pp. 245-246

これが「ジョーク」なのだとしても、一体どの種のジョークなのか。こんなものによって誰が「笑う」のか。(けっこう居たりして、カトリック信者の中に!)

そして、これがたとえ「ジョーク」なのだとしても、仮にも天主の宗教の重んずべき典礼に関する事柄をこのように笑いの材料にすることができるとは、一体どういうことなのか。

127.わたしについてきなさい

イエスが弟子を選ぼうとして食パン、アンパン、ジャムパンに声をかけた。
「わたしの弟子になりたい者はわたしについてきなさい」
しかしイエスに従ったのは食パンだけだった。どうしてなのだろう。
イエスは言った。
「耳のあるものは聞きなさい」
アンパン、ジャムパンには耳がなかったのである。

※ 食パンには耳(パンの耳)がついている。

p. 289

中学生でも笑わないのではないか。
そして再び言おう。どうして聖主の聖言をこのように「ジョーク」の材料にすることができるのか。

61.天国の門で(一)

聖人のような司祭が死んだ。
間違いなくこの人は天国に行くはずだった。
しかし彼は天国には入れなった。
あとで天国の門に立っているペトロにその理由を尋ねた。
するとペトロが言った。
「本当に残念です。あの方は天国に入る切符をもっている方なのに。
天国に通じる門は大変狭かったのです。すると彼は倒れてしまったんです。
それで医者に診てもらったところ、『狭所恐怖症』だったのです」

p. 164

これだけである。本当にこれだけなのである。「狭所恐怖症だったのです」──これが “オチ” なのである。

89.楽園での禁止事項

 なぜ楽園で蛇が人間を唆したか、その理由を教えよう。
 楽園では約束があった。言うまでもなく園の中央の木の実は食べてはいけなかった。
 ところがもうひとつ禁止事項があったことを忘れてはいけない。
 それは楽園内が全面禁煙だったのである。喫煙家の蛇はイライラしながらじっとしていられなかった。それでストレスが溜まり女を騙してみたくなったのだ。彼はヘビースモーカーだったのである。

p. 210

これもこれで終わりである。どこが面白いのか。頭の中はどうなっているのか。そして、人類にとって重大な「原罪」に関するこの逸話をこんなふうに扱うのは、司祭としてどうか。まともか。そして、創世記の蛇をこのように描いてみせる彼は、現実の悪魔の脅威を感じているだろうか。

75.嵐の中で

イエスは「向こう岸へ渡ろう」と弟子たちに言った。
そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎだした。
すると、激しい突風が起こり舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
しかし、イエスはともの方で枕して眠っていた。
弟子たちは言った。
「先生、わたしたちが溺れてもかまわないのですか」
イエスはなかなか起き上がらなかった。福音宣教でとても疲れていたからである。しばらくしてイエスは目を覚ました。
弟子たちがしきり叫んだ。
「主よ、助けてください。あなたも溺れてしまいますよ」
イエスは言った。
「恐れることはない。わたしはライフジャケットを身につけているからなんの心配はない」

pp. 186-187

これもこれだけなのである。どこが面白いのか。
そして、これでは聖主が、自分の安全だけをちゃっかり確保して、他者の身の危険のことはお構いなしの人のように映るではないか。

それでも、彼のことを擁護するカトリック信者は居るだろう。しつこく居続けるだろう。彼らは言うだろう──「神父様は別に、これらによって典礼や秘跡 “そのもの”、聖書の内容 “そのもの” までも馬鹿にしているのではないのです。確かに、それらを話の “材料” にはしているかも知れません。しかし、これらの小噺は “全体” として読まれねばなりません。神父様はあくまで、話の全体、情景全体の可笑しみを言っているのです。だから、問題ありません」と。

しかし私は「そんなものではないのです」と申し上げる。人間の生きた「心理」や「意識」に於いて、そんなものではないのだと。
彼のこの本は、聖なるもの、尊ぶべきもの、そして真剣に恐れるべきものに対する直接的な、あからさまな「否定」ではなくても、「軽視」の徴候、その十分な徴候でなくて何であるか。

注)もちろん、彼の持つ「信仰」が或る種のものならば、彼自身にとっては決してそういうことにはならない。「軽視」でも何でもないのである、ご本人にとっては。──御聖体が「ほぼシンボル」であり、地獄も悪魔もその存在が定かでないということならば。
場崎神父ご本人としては──又あの坂倉神父に於いても──その “主観” に於いては、少しも “不真面目” なつもりはないのである。“真面目” なのである、ご本人たちとしては。謂ゆる “気持ち” としては。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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