Part 1で紹介した同じ文章の中で、彼はこんなことも言っています。
ようこそ、ケイ・スチュワートの世界へ >
04.05(13-18)
17.ミサへの疑問
(…)イスラム教でも仏教でも人はちゃんと生きていけるし、神さまの子と呼ばれるのはカトリック者だけではなく、この地上に住む人間ならだれでもそうだ。人はキリスト教でなくても、生きていっているのだ。だから、カトリック信者としてどう生きるかということよりも神の子で人間としてどう生きたかということの方が大切なような気がする。そういう所に焦点をあててきたイエズス様なのだし、それを教会がうけついでいるのなら、教会のもつ神秘なども、皆に分けたらいいのではないか。カトリック信者だけが、罪を犯して苦しい時に、ゆるしの秘跡をもってゆるされるのではなくて、どんな人もさまざまな形で神さまからゆるされて再出発ができるのだということを、カトリック教会こそが、宣言していかなければならないのではないかと思う。いわば、秘跡の普遍化(カトリック)である。私たちだけがミサやゆるしの秘跡の恵みに浴しているのはもったいないということかもしれない。(…)
まるでマリア・ディバインマースィーのような、彼女に話しかけている「イエス」のようなことを言います。参照
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しかし、その「イエス」やこの神父様ほどではないにしろ、近頃、「カトリック」という言葉をあまりに単純に「普遍的」という言葉と結び付けて、変なことになっている神父様がおられるようです。──晴佐久神父のことですが。
未信者さんによる極めて正しい指摘
・晴佐久昌英神父を批判する - 三多摩の鐘