2015.07.30

或る司祭(東京教区) Part 2

彼の次の言葉を読む前に、くどいようですが、先日掲げたイラストをもう一度見ておいて頂きたい。カトリック司祭の言葉を読むに当たり、福音書に描かれた情景を「生き生きと」(公会議の精神がいつも言うように!)想起しておくのは悪いことではないでしょう?

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初聖体リーダー用テキスト

1.聖体は肉なのか

 イエズス様が神さまだということは、どうにかキリスト者でない人に納得してもらおうと思えば、納得してくれるかもしれないけれど、この聖体ということについては、ほとんど、不可能に近いといえる。もし今、用いているあのウエハースのようなパンがキリストの肉なのだと言ったら、いったい誰が信じるだろうか。

人は文章を読む時、まずは「字面」を読みます。で、彼の上の文章も、“形” としては、彼が「未信者の立場に立って」言っているという恰好です。しかし、もし私達が多少「生きた人間心理」というものを知っているなら、上の続きを読むことで、その最初の見方は変わることでしょう。彼は次のように続けます。

(続き)

神さまがいるということを信じるよりも、あれがイエズス様の肉だと信じることの方がむしろずっと難しいのではないかと思う。何故なら、あれはどうみてもパンだからだ。

どうみても?

私はこう言いたいと思います──
肉の目で「見る」馬鹿がどこに居るのか。

(続き)

あれがキリストの肉だとはとても信じられないという人はなにもキリスト信者でない人ばかりではない。カトリックの洗礼を受けている人のおそらくほとんどが、あれをイエズス様の肉だとは考えていないにちがいない。

「ちがいない」と来た。
そうして彼は、ご自分がその「ちがいない」人達の中の一員かどうかについては、はっきり言わないことでしょう。

次に彼は、なぜカトリック信者が「とても信じられないもの」を「信じています」と言うのかについて、彼なりの分析を始めます。

(続き)

しかし私がこういうと多くの所で人々が、何ということをいうのか、聖体という尊いものに対して、そんな不敬な態度をとるなんてもってのほかだ。それでもカトリック信者かといって、教会に来ることを禁止したり、神父の職務を停止させたりするのかもしれない。だけど、それでも、そういって、断罪する人々が本当にあれをイエズス様の肉だと考えているとはとうてい考えられない。

それほど「とうてい考えられない」ならば、神父様、あなた自身がそれを「とうてい信じられない」のでしょう。違いますか?
これは実質、「自白」「告白」の類でしょう?

彼の分析は続きます。

(続き)

彼らがそういうのは、本当は肉には見えないし、肉ではないのではないかと思っていたのに、そういう信じることの難しい事をあえてどうにか信じ続けて、やっと今のところ尊んだり、敬ったりできるまでになったのを、ここに来てこんなことを言われて、本当は肉ではないのではないかと質問をつきつけられて、今まで信じてきたことがくずれ去るのが怖いのかあるいは、せっかくの難関を突破して努力してその努力を捨てて、また以前の自分に舞い戻ってしまうのが嫌なのか、または、そんなことを考えもせずに、今までそういうものだと教えられ、疑問に思うこともなかったものだから、突然そういうことを言われてとまどっているのかなのだろう。(…)

まことに、人間というものは、自分を下敷きにしてでなければ他者理解ができないものです。つまり、自分の中に既にあるものを他者に投影してしか他者を理解できないのです。これは、ひとりこの神父様ばかりでなく、誰もがそうです。自己の中にないものは理解できないのです。
そう、誰もがそうです。しかしそれでも、私は言ってみたい。例えば、片柳神父様の言葉をご覧下さい。彼はナニも “頑張って” 信じているのではありません。彼は或る種の仕方でシンプルに信じているのです。

そうして、上の文章には「初聖体リーダー用テキスト」という題名が付いています。「リーダー」とは「leader」でしょうか、それともひょっとして「reader(読本)」?(いや、前者)
いずれにせよ、この神父様は、「初聖体」に何らかの形で関わる人達のために、このような文章を準備したらしいのです。

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