ちょっと嫌らしいけれど、やはりこれをやっておきます。何故なら、ただ「或る司祭」と言うだけでは、「そのような司祭がいるらしい」という程度の、頼りない、単に「噂」や「仮説」のようなものになってしまうからです。
人物の特定
ウェブサイト「ようこそ、ケイ・スチュワートの世界へ」が誰によって書かれているものであるかは、そのサイトをたまたま訪れた人が「見てすぐ分かる」というようなものではありません。それで、そこを明らかにしておきたいと思います。
①「ケイ・スチュワート」はペンネームであること
このこと自体は「ケイ」のサイトを少し読めば誰もが察しのつくところです。しかし一応「ケイ」本人の口から聞いておきましょう。
ようこそ、ケイ・スチュワートの世界へ >
16.0503-2B年年間26-29
(…)「ケイ・スチュワート」というのは、わたしの主に本などを出版する時や新聞に執筆する時の名前なのだが、これも実は「奉仕する者」との意味である。スチュワートはスチュワーデスという飛行機の中でお客さんに奉仕する女性の男性形。(…)
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で、左は、彼のサイトの左フレームの上部です。
そして、私は調べたので結論的に言いますが、その内容は、出版された或る一冊の本の内容と同じなのです。
マザー・テレサ「死の場面」―福音的センスの理解のために 単行本 – 1990/3 |
だから、まずもって、そのサイトの管理者「ケイ・スチュワート」と、あかし書房からの本の著者「ケイ・スチュワート」は等しいと思われます。つまり、そのどちらも「ペンネーム」であるが、その実体は同一人物であると。(常識的判断)
② ケイ・スチュワートは「坂倉圭」であること
ところが、前記の amazon の読者レビューの一つが次のように書いているのです。
ちなみにカタカナと言うか横文字のペンネーム使ってるけれども、文庫版でバレた(?)通り、著者はカトリック司祭:坂倉圭氏。
では、その「文庫版」というのを確認してみましょう。
マザーテレサ「死の場面」―福音的センスの理解のために (聖母文庫) 文庫 – 2005/10
坂倉圭 (著)
聖母の騎士社
なるほど、書名は同じですが著者名が「坂倉圭」となっています。
しかし、これだけではまだ、読者レビューが言うように彼が「カトリック司祭」であるかは分かりません。では、聖母文庫の発行元である聖母の騎士社のサイトを見てみましょう。
著者等紹介 坂倉 圭
東京教区司祭。数年一度は訪印し、ボランティア活動を続けている。
なるほど。
それ故、ここに一つの等式ができました。
「ケイ・スチュワート」=「坂倉圭(東京教区司祭)」
③ 坂倉圭は「坂倉恵二」でもあること
カトリック信者であるだろう人がこう書いていたりします。
私がよく読んでいるHPの「ようこそ、ケイ・スチュワートの世界へ」の坂倉圭(恵二)神父様が、最近亡くなられた方に贈られたお言葉です。(…)
この人はそのサイトの運営者を言うのに「坂倉圭(恵二)神父」という書き方をするのです。なぜ?
更に、オブレート会のサイトも次のような書き方をしています。
Sakakura, Kei (サカクラ・ケイ)
坂倉 圭
坂倉 恵二
出典 ようこそ、ケイ・スチュワートの世界へ
56私のエッセイ集と雑記/56.01小エッセイ
2004年8月16日
許可を得て複製
やはり彼の名として二つのもの、「坂倉圭」と「坂倉恵二」が並んでいます。なぜ?
しかし、ここではその「なぜ」を深く尋ねず、ただ名前たちの間の関係を──或る名前と或る名前を等号で結ぶべきかどうかを──単純に、図式的に見ていくことにします。
しかし、解答はすぐにやって来ます。「坂倉圭」と「坂倉恵二」はまったく等号で結ばれるべきなのです。何故ならば、何故ならば、最近の東京教区ニュースのインタビュー記事の中で、「東京教区の坂倉恵二神父」が次のように言っているからです。
教区司祭紹介 第54回
フランシスコ・ザビエル 坂倉恵二(さかくらけいじ)神父
1951年12月17日生まれ 1984年03月11日司祭叙階
(…)
坂倉 (…)詳しいことは、紙面の都合で語りきれないのですが、拙著「マザーテレサ『死の場面』福音的センスの理解のために」(聖母文庫)に詳しく書きました。
しかし、聖母文庫のその本の著者(名)は「坂倉圭」なのです。
このことは、人々が彼のことを「坂倉圭(恵二)神父様」と書いたり、「坂倉圭」と「坂倉恵二」を併せて書いたりすることと符合します。(私には、彼の名前に関する物事がどうしてこのようなことになっているのか、その理由は分からないけれども)
それ故、等式がもう一つできました。
「坂倉圭(東京教区司祭)」=「坂倉恵二(東京教区司祭)」
④ ケイ・スチュワートは
東京教区の「坂倉恵二神父」であること
ここに↑説明は要りません。
論理的に、三段論法的に、どうしてもそうなります。
⑤ ケイ・スチュワートは
東京教区の成田教会の現在の主任司祭
「坂倉恵二神父」であること
何故ならば、上の東京教区ニュースにあった霊名を含めたお名前「フランシスコ・ザビエル 坂倉恵二」が、東京教区が成田教会を紹介しているページにもそのままあるからです。
だから、最終結論。
「私はその通達を知らなかったわけではなく、知っていてやったのだ」(Part 1)とか、自分ではない「人々」の身になっているかのような形式で「あれはどうみてもパンだ」(Part 2)とか言っていたのは、この神父様なのです。東京教区に二人の「フランシスコ・ザビエル 坂倉恵二神父」が居ない限り。
*
彼の名前に関する物事。
彼は過去の或る時点まで確かに「坂倉圭神父」(ペンネームではない)だったのであり、しかし何故か或る時点から「坂倉恵二神父」になったようなのです。しかし、ここは彼のプライベートの部分として、私は深追いしないでおきます。
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これについては後日の補記があります。 |
了