2015.10.30

典礼学者たちの「連続性」を見る目は不確かである

「目が不確か」と云うか. . . その前に、彼らは実は本当の意味では真面目ではない人たちなのではないか? 彼らは物を真面目に( “まとも” に)見ているか?

或る司教様は、或る時、お見受けするところ、聖ピオ十世会は単純に「新しいミサは無効である」と主張していると思っているようでした。しかし、聖ピオ十世会は単純にそう言っているのではありません(詳細省略)
つまり、或る種の人々に於いては、「反対派」の人々の主張にあまり関心が持てないために、彼らの主張を十分に読まないようです。

そしてまた、そのような人たちは、「第二バチカン公会議に反対する人たちはただ第二バチカン公会議後の改革にだけ目が行っていて、公会議前にもあった事共のことは全く目に入っていない。つまり、その前後を通じての “一連の流れ”、“連続性” が全く目に入っていない」と思っているのかも知れません石井さん、違いますか?)
しかし、これも必ずしもそうではないのです。反対派の人たちが第二バチカン公会議のことに言及することが “多い” としても、「圧倒的」という言葉を付けてもいいほどに “多い” としても(結果は私たちの目に巨大でしたから、それに多く目を取られるのは人情というものです)、それでも、公会議前からあった或る種の動きについて全く知らないというわけでもないのです。ルフェーブル大司教様の伝記などによって。(聖ピオ十世会に感謝)

そして(話はちょっと変わりますが)、石井さんのような学者さんは、何と言いますか、概説的に、総論的に、第二バチカン公会議前の「典礼運動」と第二バチカン公会議後の「典礼改革」は全く “地続き” であるかのように、両者の間の連続性には何の問題もないかのように、軽く、涼しい顔して言うのですが、しかしその問題を本当に確かめるためには、一つ一つの “具体物”(事柄)を懇ろに手に取って、よく見詰めてみなければならないと思います。丁度、陶工が焼きあがった陶器の一つ一つを手に取って、それらが本当に良いものに仕上がったかどうかを吟味するように。或いは、刑事が一つ一つの証拠物に目を凝らすように。教会の行く末は、この、あれこれの “具体物” をどう「よく見る」かということに懸っていると思います。
その一例として、第二バチカン公会議後に於ける「手による聖体拝領」の導入( “再導入” でも結構ですが)の “具体的な経緯” を是非とも御検証下さい参照1参照2。(そして私に「どこに目ぇつけてやがるんだ。ケツにか?」などという下品な言葉を言わせないで下さい)

学者さんの頭というのは、一見緻密なようでいて、実はけっこう粗かったりします(彼ら自身はそれを “おおらか” と言うかも知れませんが)。或るものと或るものとの間にある共通項を人間の抽象能力でもって大枠で拾い、そこに曰く「連続性」を、曰く「連関性」を、簡単に見出すのであります。しかし私は、別に聖ピオ十世会に頭を “染められて” いるつもりはありません、飽くまで自分自身の目で見、自分自身の頭で考えているつもりなのですが、聖ピオ十世会のボンテール神父様(フランス人)の御著書の次の言葉に深く同意するものであります。

ディディエ・ボンテール神父著

『典礼運動』

ゲランジェ、ボデュアン、そしてブニーニ

神の都市の中に置かれたトロイの木馬

そのルーツ、そしてラディカルな結果

amazon    archive.org    フランス語

裏表紙にある言葉

Fr. Didier Bonneterre

確かに、歴史的に言って、ドン・ゲランジェと聖ピオ十世教皇様は真に典礼運動──すなわち「典礼に対する聖職者と信徒の熱意の刷新」──の源に位置する。しかし、彼らによって始められた運動の中にやがて新しいミサの式次第を結果することになる「同軸的な発展」があったとする主張は、虚偽の、悪質な主張である。

Certainly, historically Dom Guéranger and Pope Saint Pius X are truly at the origin of the Liturgical Movement, that is, “the renewal of fervor for the liturgy among the clergy and the faithful.” But it is a false and pernicious claim that there has been a “homogenous development” in the Movement begun by them resulting in the New Order of Mass!

もっとも、人間にとって「善悪」の問題は厄介なもので、「虚偽」と言い「悪質」と言っても、言っている本人たちには(教会内フリーメイソンを除いて)悪意はなかったりするものです。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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