2015.11.02

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一部引用

だが、司教団のこんな幼稚園児並みのロジックで案外効果があるところが、「日本ならでは」と言えるだろう。
有名な「難破船ジョーク」では、日本人を海に飛び込ませるには「皆さん飛び込んでますよ」と言えばよい、というオチになる。自分で何が正しいか考えるのではなく周囲の空気に流されてしまうというわけだ。

カトリック的。 2015/10/23(金

本当にそうですよ。。

注)一応言っておくと、「カトリック的。」さんは当サイトとは何の関係もありません。両者の間に交流はありません。

で、上の「カトリック的。」さんの言葉に、故・望月光神父様の言葉を添えましょう。

9 真理の相互理解を阻む仲よしムード
 日本の風土で生まれ育ったこうした社会の機構は、日本では相当の実績を挙げたし、今でも挙げているが、しかしどんな有効に働く機構にも、それが有効であればあるほど、必ず裏目に出る面を持っている。日本的タテ割社会のもつ裏目は、専門家が指摘するように個人の責任である個人的行為が阻まれ、無条件に有無をいわさず権威に従うよう、無言の力が働きかけて来るところにある。一切の自主的な批判や反省が許されず、もし雰囲気にのみ込まれないで、客観的充分な理由に基づく自己主張を敢えて企てると、周囲から白眼視される。そこでの雰囲気に抗することは、恐ろしい精神的圧力を感ずる。自分の属する集団を顧みないで──そこにどんな正統な理由があっても、単独で行動することを裏切りと取られる──(土居、56頁参照)。
 それで集団内部の和の維持がすべてに先んじ、平和が保たれるよう、雰囲気(仲よしムード)造りに専ら気が配られる。それで、うやむやのうちに妥協する融通性が美徳となる。従って多くの場合、個は孤立することを恐れ、時流に迎合し、付和雷同し、自主的でない事大主義に傾く。周りの者にどう思われるか、つまり自尊心のない他律的「恥」の文化が行動の規準となるのである。日本に幼少の時から住み、日本文化に慣れきって、日本語で著作活動をしている中国人作家陳舜臣氏も「日本人は外からどんな風に見られているか気にする度合が特に甚だしい」(『ヨソ者の目』13頁以下参照)と言う。少しでも日本文化と異なるものを身につけている人には、すぐ感じとられる特徴である。
 こうしたことは、逆に大事なことに係わる場合、真理の相互理解を非常に阻む。

で、話は違うようですが、敵の作戦の一つは、謂ゆる「善意」を身に纏[まと]うことです。自分にはどんな敵意もないかのように。

或る人が言ったという「自由主義者ほどセクト的な人間は居ない」という言葉は気に留められるべきです。

私たちはそのような人をどうやって見分けますか?
それは──どんなに普段ニコニコと笑顔で優しそうに見えても、或る特定のことに関しては奇妙にも(大して理に適った理由がありそうでもないのに)頑として譲らないという、頑として排除するという、そのような性質を見ることによって。

或いは、「不自然さ」を見ることによって。
人の目に一応「善」には映るが、しかしよく考えると「必要でもない必要」と言っていいようなものをその者が熱心に生きて(旗振りして)いるのを見ることによって。

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