2015.05.28

前回の表題の理由(わけ)

前回の表題はこうでした。

第二バチカン公会議を知らぬ時代の一信徒の生涯
(しかし、この信徒に何か特に不足があるだろうか)

私はマット・タルボト氏のことを特に「第二バチカン公会議を知らぬ時代の一信徒」として紹介したのでした。以下、そのわけ。

積極参加?  行動的参加?  共同参加?

マット・タルボト氏は、第二バチカン公会議後盛んに叫ばれるようになった信徒の御ミサへの「積極参加」「行動的参加」「共同参加」などと云ったガイネン・旗振りのことは何も知りませんでした。しかし、それにも拘わらず、彼の御ミサに対する姿勢は「積極的」ということを超えて、まさに「燃えて」いたのです。

世の神父様方はこの情景↑を何と見ますか?

もし彼が「カトリック信者として勝れた人」と言われるべきならば、天主様から大いなる御喜びを以って迎えられる人ならば、現代の神父様方(特に私の頭にあるのは「典礼学者」と呼ばれる人達のことですが)何を叫んでいるのか分からない、と云うことにならないでしょうか。

それとも、現代の神父様方の多くは、彼のような人のことを別に「カトリック信者として勝れた人」とは思わない、「感心な信者」というに留まる、というわけでしょうか?

疎外されていた?

現代の神父様方の中には次のような口振りの人が居ます。

昔のミサの形態は《司祭中心》であって、

或いは《司祭独占》ですらあって、

信徒を《疎外》するものであった。

しかし、それにしてはマット・タルボト氏は御ミサに通うことに熱心だったものです。《疎外》されていたにしては。
彼は非常に熱心だったのです。毎日通ったのですから。

人間の “実情” と離れたところで典礼を “理屈” で考えることは、学者さんたちの頭を、往々、非現実の森の中に誘います。

昔の御ミサには「足りない点」があった?

同じく、神父様方の中には次のような口振りの人が居ます。

昔の御ミサ観、或いは秘跡観には不足があった。御聖体をただ有り難がって拝んでいるだけでは足りない。飽くまで、私達の生き方が変わってナンボである。

これはその通りです(と一応言っておきます)。しかし問題は、この事のために、なにも御ミサの形や意味合いを変える( “復元する” でも結構ですが!)必要はなかった、ということです。何故なら、「キリスト信者としての生き方」のためには、日々の霊的読書なり、黙想なり、祈りなり、良心の糺明なりで十分だからです。
マット・タルボト氏の生涯が、それを立派に証明しています

しかしそこを、或る種の “専門家” たちは、信者たちが「キリストに於いて一つ」であることを、「互いに愛し合うべきこと」を、御ミサの只中で確認し “表現” しなければならない、とやったのです。
(天主様への崇敬の表現は “削減” しながら。参照

必要でもない必要。しかし、こんな言い方をしては何ですが、「心がどこか幼い人達」が、意外とそのような提案に惹かれるのです。

今回の主要部はこれで終わり。
以下は、どちらかと云うと個人に関すること。

内部の信徒の救いのことしか考えていなかった?

松浦司教様が自信満々で話しています。(下線は管理人)

公会議は教会内の問題を解決するために開催されるものですが、第二バチカン公会議は特別な問題がないのに開かれました。なぜかというと世界の現実と閉じた教会があまりにもかけ離れていて、世で苦しむ民が悲鳴を上げているのに教会は内部の信徒の救いのことしか考えていなかったからです。

2013年度札幌地区使徒職大会 (PDF)

しかし、第二バチカン公会議を知らぬ時代の一信徒マット・タルボト氏は「内部の信徒の救いのことしか考えていなかった」わけではありません。
「いや、私が言っているのは教会指導部のことで、個々の信者のことではない」などと言わないで下さい。教会の指導を離れて個々の信者があり得る筈もないので、そういう言い方はむしろ乱暴です。

マット・タルボト氏の物語を読めば、彼が信者・未信者を問わず人々の救いのことを考えていたことは明らかです。特に「(八)彼の隣人愛」の最後の方には、彼が「東洋伝道」のために決して楽ではない生活の中から多額の寄付をしていたことが書かれています。
そして、伝道、布教、それは取りも直さず「教会外の人々のため」です。その「東洋伝道」のために派遣された司祭たちも、東洋の「教会外の人々」のために働くのです。(もちろん、信者のためにもだけど)

だから、「内部の信徒の救いのことしか考えていなかった」、この言い方はどうしようもなく “異様” です。そして、私は松浦司教様と信者さん方の両方に言いたいのですが、こういうのは文脈、所謂 “前後関係” によっては擁護されないのです。

「擁護されない」と言いました。しかし私は、これを以って「発言の責任」を問いたいのではありません。そういうことではありません。私が気にしているのは、松浦司教様の “精神的視覚” のことです。

これは素人心理学ですが──マインド・コントロールされている人の特徴の一つは、その言動がしばしば「極端」になったり、反対に(反対でもありませんが)ひどく底の浅い、取って付けたような、「浅薄性」の際立ったものになったりすることだと思うのです。
そして、彼ら自身も、人から指摘された時など、自分の為した言動について、後から何かに気づくことはあるでしょう。しかしその時も、彼らはそれを、おそらく決まってこう解釈するでしょう──「言われてみれば確かに、少々 “言葉足らず” だった」。

そして、彼らは “追加説明” を始めるかも知れません。
そして、問題はそれで済んだと思うのです。

しかし本当は、事の真実は、決してそのようなものではないでしょう。「その時は たまたま 注意不足で、結果として言葉足らず” になった」──人は自分自身のことさえよく分かっていないもので、往々、そのように簡単に考えてしまうのですが。

しかし、もし彼らが自分の周りに優秀な指摘者を持っていたなら、彼らの「たまたま」はやがて 沢山の「たまたま」になるでしょう。

彼らの言動がしばしば「極端」になったり「浅薄」になったりするのは、「言語」という表層より一段深い所、「判断」そのものの層に問題が──“歪み” が──あるからでしょう。

どうも、口振りが偉そう過ぎるかも知れません・・・
しかしとにかく、松浦司教様に言っておきます。

たった一つ、あの “ゼノさん”、ゼノ修道士のことを考えただけでも、あなたの言葉は “異常” です。彼は教会や修道院を拠点に活動していたかも知れません。しかしそれでも、まったくカトリックの子供たちだけの面倒を見ていたわけではないでしょう?  ならば、彼のそのような心は何処から来ましたか? 「教会の心」とまったく無関係に、まったく彼の「個人的」な心から出て来たのですか?

あなたはあなたの言明の「極端さ」に気づくべきです。あなた自身の言語生活にもう少し「細かさ」を持つべきべきです。それが、教会内のフリーメイソン学派 * があなたの脳にかけたマインド・コントロールを解く第一歩です。

* いや、本当にそうなのです。あなたが「昔の教会」について言っている事は、彼らが天主様の教会を何とかしようとする悪意が、巧みに「善」を装いながら──善人は善によってこそ騙されるのです──あなたのところにまでやって来て、あなたの脳を染めた、その所産です。これを「大げさ」と笑う前に、あなたにとって “未確認情報” ではあっても、あの一連のものを一度じっくりと読んでみて下さい。気づいてみれば、意外と簡単です。

私の文章こそ、ひどい状態かも知れません。徒然なるままに書き殴り、まとめもせずに終わります。

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