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急いで書きます。(期待されていなくても)
松浦司教様、それから、例えば、Sr.
弘田。
あなた方は、左の女性は今、この状態で何をしていると思いますか。
私が「この女性は今、この状態で “世界のために働いて” います」と言ったら、あなた方はこう言うのでしょうか。
「これが? この姿が?
“世界のために働いて” いるんですって?!」と。
私も、ローズ・フェロンその人については、確定的なことを言うのを避けたいと思います。しかし、私達のカトリック界に、このようなことはあるものです。
しかし、地上的な心は、このような人(現象)のことを、或いはまたカタリナ・エンメリックのような人のことを、分からず、分かろうとせず、遠ざけます。
このような「犠牲の霊魂」たちが世界のために何をしているか、松浦司教様、あなたの目に映じることがあったならば、あなたの「教会は第二バチカン公会議によってこそ世界のために働き出した」という誇らかな宣言は、どこかに “吹っ飛んで” しまうでしょう。
池長大司教様なども──また言うのか. . .──御自分が聖ベルナデッタゆかりの地、ルルドやヌヴェールに行った時のことを縷々お話しになりながらも(2011.12.04 待降節黙想会)、ルルドの啓示が「償い」ということと強く結びついていたことには決して触れようとなさいません。何故ですか。何故なら、神が人間に「犠牲」を求めるなどということは、彼にとっては「酷」なことのように思われるからです。しかし、そうであるなら、彼は「キリスト教」の重要な部分とアクセス不調になっています。何故なら、あのイエズス様の御受難が、身代りの「償い」以外の何物でもないからです。しかし、物事はうまく出来ています、そこを、あの現代世界憲章が、「(キリストの秘義によって)人間性はわれわれにおいても崇高な品位(divine dignity)にまで高められた」とやったのでした。だから、それを信ずる聖職者の方々は、人々に「償い」を呼びかける必要など、ますます感じなくなったのです。
Sr. 弘田も、一生で一度でいいから、「修室で犠牲を捧げることの意義」について話してくれませんか。