2015.05.20

無思慮な一致崇拝 Part 9

Part 2 …  Part 4 …

忘れた頃にやって来るシリーズの続き。
分かっている人には読んで頂く必要なんか全然ない記事。

「一致」の旗は彼らの口実である

これは「証明」するわけにはいかないけれど、「保証」します。
「独断」にも見えましょうが、「保証」します。

世の神父様方、日本の神父様方、純真な神父様方。
あなた方は、第二バチカン公会議以降盛んに叫ばれるようになったこの「一致」の連呼は何処から来たと思いますか?

 「良心」から来たと思うのですか
 「教会」の「良心」から来た

違いますよ。この一種闇雲な*「一致」の連呼は、《彼ら》が獲得に成功した典礼の変化を〈安定化〉するために使っている〈口実〉です。

それは確かに一種「闇雲」です。
次のような事を視野の外に追い出しているからです。
無思慮な一致崇拝  Part 2, 同  Part 3

簡単に言えば──或る地域で「手による聖体拝領」が一旦〈標準的〉なものになってしまえば、以降彼らは「会衆の同じ姿勢は一致のしるし」と強調することで、それを〈安定化〉できるのです。

「手による聖体拝領」を推進して来た人達はどういう性質の人達だと思いますか?
それは、こういう人達です。「手による聖体拝領」が規準となった所ではしきりに「会衆の同じ姿勢は一致のしるし」と強調するが、何かの加減で自分が「舌で受ける御聖体拝領」が規準となっている所()に一人の司牧者として投入されることでもあったならば、その時には決して「舌で受ける御聖体拝領」のためには「会衆の同じ姿勢は一致のしるし」という標語を利用しないという、そのような種類の人達。

つまり、彼らに於いては、心から純粋に「一致は尊い」と思っているのではなくて、あくまで彼らが獲得した典礼形態の強固な維持のための、その道具としての「一致の重んじ」なのです。

この事は「証明」の問題ではなく、こんな言い方をすると偉ぶっているように聞こえるかも知れませんが、人間に対する──生きた人間 “心理” に対する──理解力、「洞察」の問題です。

しかしまた、そう難しいことではないようにも思えます。
神父様方がこれをお分かりにならないようであるのが不思議です。

問題は「善か悪か」ではないのです。

いわば「善の用法」なのです。

「善の悪用」というのがあります。

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