Dom Mílton Antônio dos Santos, Arcebispo de Cuiabá
今回も、個人を扱うようでいながら、実はそうではありません。
私達は、信仰の真理を見極めようとする時、大抵、多くは「言葉」に向かいます(カトリックは極めて言語的な宗教です)。しかし、それでは、勢い、観念的になるのです。もちろん、観念も悪くないけれど、土俗的な私としてはw(そして、おそらくあなたにとっても)「現実」の方が大事なのです。(私は、「言葉」は「現実」に “仕え” なければならない、とさえ思います)
それで、今回も、「個人」の姿を見、よく見、しかし、それを通じて「教会の状態」を見ていこうと思います。
さて、ブラジルはクイアバのミルトン・ドス・サントス大司教。
感覚人間の私として、先ず画像で紹介します。
彼は左胸に2013年ブラジルで開催されたワールドユースデイのバッジを付けています。そして、首から非常にカラフルで楽しげな十字架を掛けています。
この十字架は明らかに一つの “徴候” です。そうですよね、神父様方。それとも、これは取るに足りない小さな事だと言うのですか? 「そうだ。小さな事だ」と答えるなら、失礼ながら、あなた方はあまり敏感ではないのであります。
これもミルトン大司教です。聖体拝領の場面です。
右の女性の背中にあるのはワールドユースデイのロゴです。
(大司教の持つチボリウムはほとんどコップのように見えます)
彼は、ワールドユースデイの前に、自分の教区に向けて『聖体拝領の時の態度』と題した一つの通達を出します(後述)。しかし、彼自身の「聖体拝領の時の態度」は上のようなものなのです。
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何がいけないのですか。御自分の教区民に対して非常に温かな笑顔を向けて、良いではありませんか。 |
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──と、あなたは言うかも知れません。
しかし、御ミサというものが「主の御いけにえ」の再現ならば──現代の神父様方に通りよくするために「少なくともその要素を無視できないものであるならば」と言い直したとしても──司祭も拝領者である信徒ももう少し厳粛でなければなりません。たとえ御聖体拝領の場で司祭と信徒がしばらくぶりで会って、懐かしさが込み上げても、そこで社交的な言葉を交わしてはならぬのが「御聖体拝領」の場です。御聖体拝領の場で、否、御ミサという場で、司祭には、天主様の “厳粛な黒子” に徹する、というぐらいの姿勢があってよいのです。「自分を出す」必要はありません。(偉そうな口振りです。しかし、私はそう信じます)
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しかし、私達があまり厳粛一方にしていると、人々が “つまらない” んじゃないですか? |
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神父様方はそのように考えるのですか?
私達に奥深いものを教えて下さい。奥深いものは最初は少々 “とっつきにくい” ものです。しかし、味わっていくうち、真の味が分かるようになるものです。パッと見て「楽しい」と分かる、というような、表面的な感覚に訴えるものを求めないで下さい。(新ミサの問題はここでは措いとくとして)
こういうのを何度も表示して、私もしつこい。しかし、こういうのは本当に、もうやめて下さい。何故なら、こういうのは、教会に侵入したメイソンたちが、あなた方の “ヒューマンな心” に鉤針を引っ掛け、あなた方を誘導した結果に外ならないからです。
そう、「マインド・コントロール」です。民間的な定義ではありますが、参照して下さい。私達はこれをゆめゆめ忘れるべきではないのであります。あなた方はあなた方が元々持っている “人情” を利用されたのです。
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ミルトン大司教の事に戻りましょう。
実は、このミルトン大司教ついては、カトリック信徒の某ブログさん(当サイトとは無関係)が既に伝えてくれています。お読みになっていなければ、どうぞお読みください。