2012.09.18

いったい、どれほどの変化が?

私は、こんな表示や、こんな表示をするけれども、
「攻撃のための攻撃」をしているつもりはない。
「過去の醜聞をいたずらにほじくり返して」いるつもりもない。
私が気になるのは、いつも、「変化のなさ」だ。
それだから、過去のものも引っ張って来ることになる。
変化があれば、それらの記事は書いてないし、
変化があれば、それらの記事は取り下げる。
いつも、何であれ、基本的にそんな感じで書いている。
自己弁護的に聞こえるかも知れないけれど。
2001
レオ池長潤大司教
いったい
どれほどの変化が?
2011
レオ池長潤大司教
「人の過ちを衆目に晒すようなことをするのは善くない」と言う人も居るかも知れないけれども、第一に、池長大司教様は公人であられ、上のこれらの御行為も、彼の公的な職務の只中で為されたことである。そして第二に、上のこれらの両方において、大司教様は天主様に対して「失礼なこと」をなさっているように思われる。
そして、「人の過ちを」云々とは言うけれども、当の池長大司教様は果して、上の2001年のことを御自分の「過ち」と認識しておられるのだろうか???
私には、それがすごく疑問である。
認識しておられるなら、何故、その下の2011年のようなことになるのか?
というのは、その二つは「同じ」ではないにしろ、私には「似たようなもの」に思われるからである。どちらも「主の祭壇」に対する大司教様の御意識の中で起こったことである。
もし、初めのこと(2001年)をお振り返りになり、それとよく向き合われ、そして「素朴に」「考え込んで」おられたなら、第二のもの(2011年)は犯さずにお済みになったのではないか?
1989
デルコル神父様著『ご存じですか? 38 教会の典礼』より
管理人注: フリガナは [ ] で示した。
また、一部、数字の表記を漢数字から算用数字に直させて頂いた。
(c)「みんなでつくろう、元気になる宴会[ミサ]
京都のNICE87で、青年たちはみんなで言いました。“青年の力を信じて下さい” と。教皇ヨハネ・パウロ二世も、教会は青年たちの力を信じ、信頼していると、何回もくりかえされたのです。(…)
若者への信頼と愛。といって、青年たちが「その力で」京都のNICEのようなミサを組織することができるという意味にはなりません。また京都のカトリック教理センター発行の「グッドニュースレター」(1989年2月15日号)に報道されたミサのような、変わった、汚聖的なミサでもよいというのでしょうか? また、このミサをつくったルカ神父のような、正しい道からはずれた司祭に若者たちは、盲目的にだまされてもよいというのでしょうか?
「みんなでつくろう、元気になる宴会[ミサ]」という題でさえ、迷った考えを示しています。ミサは「みんなでつくる」ものではなく、キリストが作られたものですから、そのささげかたは勝手にできるのではなく、キリストが定められた教会の指導に従わなければならないのです。
実際に「宴会」という言葉に「ミサ」というルビを振った印刷物が出たようである。或る人はこのことを「『宴会』と書いて『ミサ』とルビをふるところがなんとも嫌らしい」と書いている。参照
ところで、冒頭で書いたように、私が気になるのは、この出来事の当事者達や監督責任のあった人達は、現在、この出来事をどう理解しておられるのか、ということである。過去のある時点でよくお振り返りになり、ご自分で再評価なさったろうか。それともただ何となくぼんやり続けて来られただろうか。
このようなとんでもない出来事を「不敬」や「冒涜」の問題とせず、単に「行き過ぎ」や「規則違反」の問題とするなら、現在、その当事者達の中に必要な変化が生まれていないとしても当然ではないか。
デルコル神父様の文章に戻る。上の続き。
第二次ヴァティカン公会議の典礼憲章第22条に、そのことは明らかに宣言されています。それなのに、どうしてこうなったのでしょうか?
また「グッドニュースレター」の記事に、こう述べています。
「昨年(1988年)11月23日、カロンデレット女子修道会京都修道院で、ちょっと楽しい、かわったミサがありました。この集いの発端は “ミサってどういうものかわからない” と言った青年の一言からはじまり、当日ミサの司会をしてくださったルカ師(フランシスコ会)の提案で、今回の企画が実現しました」と。
次にその記事ではそのミサをこう紹介しています。
まず自己紹介、それからコーヒーブレイク。次に修道院の食堂に場所をうつして、宴会[ミサ]をはじめるための心の準備と「手紙の朗読」(=第一朗読)、「イエスからの手紙」(=福音の朗読)と主の祈り。それから「種なしパンと大きな水差しに波々と入ったブドウ酒の入場」……「最後の晩さんの聖書の記録の朗読。パンとブドウ酒の聖変化へと宴[うたげ]は進行し、パンを割き配ってみんなでいただき、ブドウ酒も大きな水差しから一人一人のグラスに注がれます。御血はこれまでいただいたことのない量。……そしてこの御血は共同祈願のようにして、みんなで、“乾杯”、また “乾杯”。三回目は平和のあいさつ。互いに腕を組み交わし飲み合います。喜びのあまりか、あちこちで顔がポーッと赤い人もちらほら」と。それから、神父の話と、シスター方が朝早くから作った食事(メキシコ風カレーとサラダ)が、その次に、歌があり演奏があり、踊りだす人もあり、こうして、さいごに閉会のあいさつで終わるのです。
この宴会[ミサ]に参加した人はおよそ三十人でしたが、そのうちのひとりは、同「グッドニュースレター」の中にこう書いています。
「共に食事をし、歌い、踊り……ああ、何という素晴らしい集いであろう。これこそイエズス様が望んでいらっしゃることではないだろうか」と。
いったい
どれほどの変化が???
2011
小田武彦神父
「御ミサに出たら、ウワ〜〜〜ッ、こ〜んな嬉しいことないわ」って、分かるような形に(しましょう)
変化があったとすれば、
「今度ははっきりとした典礼規則違反は無いようにしよう」
ということぐらいのものだろう。
だから、これは「過去」のことではない。
1989年の想像を絶する「宴会[ミサ]」を経験した直後、或る一人の人によって発せられた言葉──「ああ、何という素晴らしい集いであろう」──に基本的に反応(共感)せずにはおれないものが、現在も少なくとも一部の聖職者達の心の内に残っている。
彼らは、1989年の出来事のようなものに関しては、「もし、そこにはっきりとした典礼規則違反があったのならば、それはもちろんマズかったろう」ぐらいのことは言うのだろう。しかし、それでいて、そのイベントを支えていた基本的な考え(いわゆる基本コンセプト?)に共感するものは持ち続けるのである。
だから、そのような聖職者は、典礼規則にはっきりとは違反しない形で、規則をいわゆる「柔軟に解釈」したり、柔軟に「適用」したり、あるいはバチカンに規則の緩和を求めたりさえしながら、御ミサを人々の心に「ピンと来るもの」に、「ワクワクするもの」にしようとし続ける。
(あるいは、ひょっとして、典礼規則にはっきりと違反してさえ?)
小さな子供達には罪はない
いや、もうこういう事をやっておられないなら、いいけれども。
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