2011.05.15

パデルニョーネの「復活のキリスト」教会 (6)

「サタンの煙: 悪魔的芸術家たち」シリーズで三人の悪しきゲージツ家たちを紹介したが(参照)、もう一人追加である。決定的に追加である。
フェデリコ・セヴェリーノ
Federico Severino (1953-)
パデルニョーネの教会の
怪奇な扉を作った男
パウロ6世ホール (5)」で、私は、「パウロ6世ホール」とファッツィーニの『復活』を指しながら、こう書いた。
「60〜70年代、教会の中で悪魔/悪霊が跳梁跋扈していた時代に敵が画策し、置いていったということだ。この建物と、この彫刻は。」
こう書いた裏には、「少なくとも今は、その時代とは違う。だいぶ良くなった」という私の思いがあった。
いや、やはり一応は、そう思っていいのだろう。かなり良くなったことは良くなったと。今では、教皇様が御聖体拝領における「跪いて、舌で」という仕方に対するご自分の preference を暗にであれお示しになり、トリエント・ミサも徐々にであれ回復しつつある。そしてとにかく70年代などは酷かったのである(私はWebで知っただけだが)。
しかし、それでも、あらゆる悪いプロセスが終ったわけではない。建築の方面では、私達はファチマの新聖堂のことなどを知っている。そして美術の方面でも、「悪魔的芸術家たち」は続いているようなのである。このフェデリコ・セヴェリーノにおいて歴然である。
さて、手っ取り早い表示を心掛けよう。パデルニョーネの教会の扉の、あの異形醜悪怪奇な彫刻を作ったこの男の他の作品を、ここに並べる。
作品についての「説明」など聞いては駄目である。題名すら聞かない方が良い。そういうのを聞くと、人間は必ず「納得」する部分があるから。
人間という悲しき高等動物は、他者(ひと)によってというよりも、まず己れ自身の「知性」によって騙されるものである。
どのような理由の下にであれとにかくこのような作風の作品を「作れる」(それは一種の「能力」だが、霊的盲目の故にこそ可能となっているネガティブな能力である)人の作品が、以下の如く、イタリアの多くのカトリック教会に納められている。
その一つは、ローマの通称パンテオン(Wikipedia-it)、聖母マリアと殉教者大聖堂(Basilica di santa Maria ad Martyres)である。この教会はトリエント・ミサなども行なっているようだが、その反面、昨年、彼の手に成る十字架の道行きのパネルと説教壇を導入している。
もう一つは、これもローマのサン・ヴィターレ聖堂(Wikipedia-ja)である。
ここには彼の作による祭壇(おそらく可動式の)が入っている。これも昨年。
更にもう一つ紹介すれば、これである。
以前も見かけたこの椅子は、ブレーシアのカテドラルの司教席である。2005年に納められたらしい。今はモナーリ新司教が座っている。
背面はまたもや「樹」である。アダムとエバが禁を犯したところの善悪の知識の木。
底部のぐちゃぐちゃ感がやはり気持ち悪い。
以前は「悪魔の顔の方に似ている」と書いたけれども、こう近くで見るとそう恐ろしげではない。しかし、ひたすら暗くどんよりしている。不気味な沼のようである。神の御独り子らしい霊の輝きは少しも感じられない。
そして私は、この人物の額の上にある、極めて特徴的な皺に気づいた。
これはあたかも「刻印」されたかのようであり、その形は人間の額の皺としては不自然である。こんな額の皺を持った人は居ない。
それともこれは茨の冠を押し付けられたためにできた傷だとでも言うのか。
「陰謀論者」の私の妄想だろうか、私にはこの皺の形はこれに見えるのである。
その人物(「イエズス様」とは私は決して言わない)の額には、この印がベッタリと刻印されているように見えるのである。
ちなみに言えば、上でも挙げた左の二枚だが、これらは「Inferno」と題された一連のプレート作品の一部であり、ブレーシアに在るパウロ6世をその名に冠したカトリック施設の中に納められている。
で、これは今までこの辺のことを多少見て来た私がその卓越せる第六感でw思う事なのだが、彼らは「パウロ6世」の周りで、「パウロ6世」に対して、《二重の態度》を持っているのである。すなわち一方では、「呪いの凝集」で取り上げたモニュメントのように、彼らは「パウロ6世」に純度100%の呪いを向ける。しかし他方では、彼らは「パウロ6世」を讃え、パウロ6世の出身地にして司祭叙階を受けた土地である「ブレーシア」を愛し、そしてあたかもそれが彼らの拠点でもあるかのようにして、そこから色々と「信仰的」な集会や施設などを立ち上げるのである。
もう一度言う。彼らは「呪いの凝集」で見られたような確かな呪詛を、紛れもない呪詛を、100%の、否、200%の呪詛を、「パウロ6世」に向けている。この事は言い訳が立たない。それは「たまたま」ではない。それは、それ一つで十分である体の、あまりにも確定的な信号である。──と同時に、彼らは「パウロ6世」を愛し、場合によっては人の目に「深い傾倒」と映るほどの愛を示し、「パウロ6世」の名を冠した美術コレクションやらカトリック施設やらをブレーシアに持つのである。「パウロ6世」と「ブレーシア」の名の周りに「信仰的運動」と「美術」を集めるのである。
この矛盾、この二重性の意味は何か?
これを解けば、彼らの愛する「パウロ6世」は、あくまで彼らの働きの金字塔としてのパウロ6世なのだということである。彼らの愛する「ブレーシア」は、実のところ「パウロ6世の出身地にして司祭叙階を受けた土地」だから彼らが愛するところのものなのではなく、「彼らの働きの金字塔としてのパウロ6世」との関連で、それのみにおいて、彼らが彼らの誇りを置くところの場所なのだということである。
他方、彼らが今も昔も常に呪詛を、呪詛だけを向けて来た「パウロ6世」が、居るであろう。
私はうまく書けただろうか?
それとも「我田引水」と思われるのがオチであり「関の山」だろうか?
解答: 二人の「パウロ6世」が居たということである。
そう考えた方が、私は、彼らの態度に合点がいく。
まあ、物事を少しも玩味しない人達に言っても仕方がないけど。
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