2011.06.23

仁 丹

自慢のように聞こえたらアレですが、拙記事 Sinister arts がスペイン語になりました。 Part 1 Part 2 Part 3 Part 4 Final
また、ポルトガルのリスボンに住む人からも連絡があり、「ポルトガル語に翻訳してネットに乗せたいが、よかですか」とのことでした。「よかよか」と返事したのですが、まあ、いつになるか分からない雰囲気。結局、立ち消えになるかも知れません。
どちらもルイジ・ヴィラ神父様つながりの人です。まあ、そのへんの人しか積極的には喜んでくれません。
Federico Severino
ポルトガルの人は興味深い話をしてくれました。彼はなんと、パデルニョーネの教会のあのグロテスクなエントランス・ドア(参照)やブレーシア・カテドラルのあの司教席(参照)を作った彫刻家、フェデリコ・セヴェリーノ(右写真)を直接知っているというのです。彼自身はセヴェリーノと言葉を交わしたことも会釈を交わしたこともないそうですが、彼の近所に時々来るので、「見かける」のだそうです。近所の人々からの伝聞(まぁ.. 噂話?)も彼の耳に入るのでしょう。
もう少し書けば、彼の近所に或る人が住んでいて、セヴェリーノは時々その家を訪れるのだそうです。キャンピングカーを運転してやって来て、一度来ると2、3ヵ月はその家に留まるのだそうです。
これ以上書くと罪になるのかも知れませんが・・・少しぼかして書けば、セヴェリーノとその或る人との関係は、決して好ましい関係ではありません。
また、その或る人は、彼の話によれば、共産主義者だそうです。そしてセヴェリーノは、彼の話によれば、「オカルト・パワー」を信じているらしいとのことです。
メールをくれた人は、定年退職して現在は隠居生活を送っている、子も孫もいる善きおじいちゃんらしい人です。文面は誠実さと温かさを感じさせるものでした。最近は日本の被災した人達のために祈っている、とありました。話をデッチ上げて面白がるような人ではないでしょう。Chiesa viva の主力執筆者とも友人、知人、そのへんの関係のレベルは分かりませんが、少なくともよくメール交換する仲のようです。
彼の話が本当だとすれば(本当だと思いますが)、セヴェリーノはまずカトリック的な人ではないでしょう。下手をすると、やはり「サタニスト」の名に値する人でしょう。あり得るでしょう、あれらのサクヒン(参照)を作れる人ですから。
まあ、バチカンにおけるゲージツ家の選定は──その方面へのセキュリティー(チェック態勢)は──残念ながらその程度だということです。(これを冷たい批判にしてはいけないけれども。)
ブレーシア・カテドラルの事例(呪いの凝集)やパデルニョーネの教会の事例(参照)が世界中で知られることになればいいと思います。それらは小さな種です。しかし、その持っている性質は確実です。曖昧なものではありません。
仁丹みたいなもんです。小さい粒だけれども、これを服用すれば、今まで「教会内フリーメイソン員」の存在の可能性について「う〜ん」と曖昧に判断保留していた人達も、あるいは決定的に目が覚めるかも知れません。
某掲示板で、新らしくなった大阪梅田教会のことが取り上げられていましたね、ご覧になりましたか。
さっそく写真を一枚頂きましょう(ドロボー)
http://www.osaka.catholic.jp/no_side/201103photo.html
「祭壇背後の十字架が磔刑像ではない。復活のキリストである」程度の話ではありません。とうとうここまで現代ゲージツ家たちの哲学(あそび)とお付き合いしちゃいましたか。
つまりは、こういうことだ。
キリストの教会でキリストの十字架が後退させられる。その代りに、“霊性” に関する現代芸術家のおそらくは個人的な解釈から生まれたであろう「作品」がメイン・ステージに上がる。
気違い沙汰だと思う。
献堂式ミサは、駐日ローマ教皇大使のカステッロ大司教様と池長大司教様によって捧げられたとの由。これは、彼らがこれを受け入れたしるしです。大司教様たちがそうなのですから、この教会からこの奇妙な円環が取り去られることは難しいでしょう。(ですから皆さん、何か嘆願する時、教皇大使を経由しないで、直接バチカンに書き送りましょう。自慢じゃないが、私なんか初めからそうです)
作者はチェッコ・ボナノッテ(Cecco Bonanotte)。イタリアの彫刻家で、少しは名のある人みたいですが、それが何だというのでしょう。世俗の評判が何でしょう、「専門的」な世界における評価が何でしょう、それらにどれほどの価値があるというのでしょう。いいえ、毛筋ほどの価値もありません。それどころか、キリスト教会で、真のキリスト教会でこんなことをするのは、カステッロ大司教様、池長大司教様、ほとんど「冒涜」に近いことだと思います。
「冒涜」という言葉を調べに、その「教会的な定義」を調べに、書斎(比喩的)になど行かないで下さい。“知的” な人達。
先程、フェデリコ・セヴェリーノはやはり「サタニスト」の名に値する人かも知れないという話をしましたが、このチェッコ・ボナノッテという人だって、あるいはニューエイジ的な思想の持ち主かも知れません。円環が東洋的な「循環」の思想を思わせます。(輪の上下左右の四箇所に、救いの神秘を象徴する彫刻が施されているようです。しかしアリス・ベイリーだって見かけ上、「イエス」を、「キリスト」を、排斥しません。)
今の「東洋的な循環」云々の推測が当たっていようとどうだろうと構いません。要するに、教会の指導者の方々は、教会に使う大事な絵や彫刻を選ぶ時、作者の持つ信仰をあらかじめチェックするということを、少しもしていないでしょう。それが間違いだと思う。「芸術家にそこまで要求するのは」と思うわけでしょうが、それが間違いだと思う。
人間は直ぐ対象の人間を「ジャンル分け」して、彼は「シンガー」だからどうの、彼女は「アーチスト」だからどうの、と考えます。しかし神様が人間を見る時の御目にはそんなジャンル分けはなく、ただ全ての人間が「霊魂」であります。
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