日月星の文化財

【行事・信仰の語り部】
 日月星の行事や信仰とかかわりの深い社寺あるいは遺物などは、私たちの身近なところで意外に多く遺されています。なかでも近世を主体に 造立された石造遺物は、もの言わぬ信仰の語り部として貴重な存在です。現在では、暮らしや環境の変化によって散逸したり、破壊された ものも相当数あるものと推測されます。しかし、そこに表現されたさまざまな像容や文字などから、実にたくさんの情報を得ることができる のもまた事実です。それは、当時の人びとが行事や信仰をとおして太陽や月や星をどのようにとらえていたかを理解する重要な手がかりを 与えてくれるものです。また、私たちが何気なく参拝に訪れる寺院や神社のなかにも、太陽や月あるいは星にかかわる神を祀っている場所が あるかもしれません。ここでは、現地調査による記録を紹介しながら、文化財としての意義などについて考えてみたいと思います。

《本文中の引用文献について》
詳しい情報については、入館口(トップ頁)の目次中にある「文献資料」を参照してください。文献名に付随する数字が 分類記号を示しています。

月待の石造物 2020/11/25

 民間信仰としての月待は、二十三夜待を主体に全国各地で行われてきました。日待や庚申などの信仰と習合した事例もみられ、 一部で多様化された側面をのぞかせています。
 こうした信仰に対する供養などを目的とした石造遺物は、中世以降に出現し始め、近世に入ると信仰の大衆化と相俟って、 いわゆる月待供養塔が数多く造立されるようになります。ただし、関東など一部の地域では、念仏信仰や地蔵信仰、産神信仰など との習合によって本来の月待とは性格を異にした習俗も隆盛し、それらにかかわる石造物は相当数みられます。ここでは、月待の 実態が認められない事例も含めて、紹介することにしましょう。

◇◇◇ 石造物の変遷

【月待板碑】
 板碑は、その名の通り板状に加工された石塔婆で、鎌倉時代から中世にかけて造られました。山形の頭部とその下の二条の切り 込みを特徴とし、碑面には阿弥陀如来などの主尊を示す種子、紀年銘、真言、願文、供養者名などを刻んでいます。目的とする 信仰によってさまざまなタイプが知られ、その一つとして月待板碑があります。
 これまで、関東を中心に少なくとも140基が確認されており、現存する最古の事例は、1441(嘉吉1)年造立となっています〔『月 待板碑の誕生』文0132〕。月待板碑の特徴は、碑面に「奉待月供養」や「月待供養」などが認められ、紀年銘の多くが「二十三日」 となっていることから、この時代の月待は二十三夜待であったことが分かります。

【月待五輪塔】
 板碑とは別に、地輪部に「月待供養」の銘がある五輪塔がいくつか知られています。東京都西部のあきるの市には2基の月待五輪 塔があり、そのうちの1基は1486(文明18)年の造立です。この塔は空輪部と風輪部が欠損しており、現存する地・水・火輪部の高 さは約45aとなっています。地輪部種子の右側に「月待供養」の銘文があり、中世の月待史料としては板碑よりも少ないことから、 貴重な存在といえるでしょう。
 また、時代は近世になりますが、千葉県銚子市では十九夜の五輪塔が2基見つかっています。このうち1基は1763(宝暦13)年 造立の「〇待十九夜講供養佛」塔で地輪部には如意輪観音二臂像も陽刻されています。他の1基は、おそらく享保年間(1716〜1736) の造立とみられますが、如意輪像はありません。いずれも、蓮台を含めた総高が180a近い大きな五輪塔です。

 

月待供養の五輪塔
〈左〉中世の月待供養塔 / 〈右〉近世の十九夜五輪塔

【月待供養塔】
《近世以前》月待板碑と同じ時代の石塔が、埼玉県新座市にあります。資料〔文0371〕によれば、1446(文安3)年十月廿三日、奉 月待という銘をもつ小型の石造物で、主尊は地蔵菩薩坐像です。紀年銘の廿三日から、二十三夜の月待塔であることが分かります。
《近世初期》茨城県筑西市では、近世以降の月待供養塔の原形と思われる石塔が2基確認されています。1652(慶安5)年と1663 (寛文8)年の造立で、いずれも自然石の中央に「三年三月」と主銘文を刻み、上部には日月像とサクの種子がみられます。紀年 銘の廿三日から、やはり二十三夜塔と判断できますが、「三年三月」の意味は不明です。

 

月待供養の石塔
〈左2枚〉中世の奉月待塔 / 〈右〉近世初期の三年三月塔

《近世以降》一般的に、石造物に"〇〇夜(待)供養"とあるものを総称して月待供養塔としていますが、これらがすべて実際の月待 信仰とかかわりがあったかどうかは明らかではありません。月待板碑や月待五輪塔などの後をうけて、主に近世から大正時代にか けて造立されましたが、西日本には少なく、東日本から北日本に多くみられるものの、分布密度は地域によって大きな差があり ます。
 現在、月待塔として分類されているものは、十五夜、十六夜、十七夜、十八夜、十九夜、二十夜、二十一夜、二十二夜、二十 三夜、二十六夜などがありますが、全国的にみられるのは二十三夜の供養塔だけで、その他は地域によってかなり偏った分布を示 しています。たとえば、関東地方では多摩川水系や相模川水系において二十三夜塔を主体とし、荒川水系では二十二夜塔が多くみ られます。また、広大な流域をもつ利根川水系にあっては、山間部上流域の二十一夜塔、中流域の二十二夜塔と十九夜塔の明瞭な 分布境界の存在、さらには下流域から茨城県、栃木県、福島県にいたる十九夜塔の広域的な分布など、それぞれの地域特性が認め られます。十五夜、十六夜、十七夜の各塔については主に利根川下流域でみられますが、造塔数は限られています。
 関東以外では、十九夜塔が長野県や奈良県などの一部に分布し、二十二夜塔が新潟県佐渡地方や山梨県、長野県、愛知県、岐阜 県などの一部にみられます。さらに、山形県では十八夜塔が集中的に造立されているのが大きな特徴となっています。
 ところで、月待塔における主尊の選択は、ほとんどが仏教の教義に基づいており、このうち七夜待の主尊は、
・十七日(夜):千手観音または聖観音
・十八日(夜):千手観音または聖観音
・十九日(夜):馬頭観音
・二十日(夜):十一面観音
・二十一日(夜):准胝観音または如意輪観音
・二十二日(夜):如意輪観音または准胝観音
・二十三日(夜):勢至菩薩
となっています。また、二十六夜については愛染明王を主尊としているようです。各地の像容を刻した月待塔を概観すると、概ね これに沿った主尊が選択されていますが、十七夜塔や十八夜塔の一部、それに十九夜塔の多くは如意輪観音です。これらは、女人講 による産神信仰との習合という共通した基盤があり、例外的な事例といえるでしょう。

   
〈左〉十五夜塔(千葉県)/〈中〉十六夜塔(茨城県)/〈右〉十七夜塔(愛知県)

   
〈左〉十八夜塔(山形県)/〈中〉十九夜塔(奈良県)/〈右〉二十一夜塔(群馬県)

   
〈左〉二十二夜塔(愛知県)/〈中〉二十三夜塔(青森県)/〈右〉二十六夜塔(奈良県)

◇◇◇ 月待の形態と月待塔

【十五夜塔】
 月待としての十五夜待の実態は不明ですが、十五夜を含む銘文を有する石塔が、茨城県や千葉県など関東の利根川下流域に点在 しています。像容としては、如意輪観音や子安観音がみられ、念仏あるいは産神信仰との深いかかわりが推測できます。このうち、 茨城県龍ヶ崎市にある1743(寛保3)年造立のそれは如意輪観音二臂像を浮彫し、「奉供養十五夜念佛」の銘をもっています。

【十六夜塔】
 十六夜待についても、月待の実態は分かりません。十五夜と同じように、千葉、茨城、埼玉各県の利根川流域に石塔がみられます。 像容は、如意輪観音のほかに大日如来、阿弥陀如来、地蔵菩薩、子安観音など多様性があり、念仏信仰との深いかかわりが窺われます。 茨城県藤代町(現取手市)には、1819(文政2)年造立で十六夜女講中の銘をもった石祠(天満宮)があり、この講中の実態がどう いうものであったのか気になるところです。

【十七夜塔】
 七夜待では、十七日の主尊が千手観音(あるいは聖観音)となっていますが、東京都奥多摩町には、この千手観音を刻した十七夜 待供養塔があります。これに対し、千葉家や茨城県の利根川下流域では、如意輪観音や子育地蔵などを主尊とした十七夜の供養塔が 点在しています。こうした状況は、十五夜塔や十六夜塔とよく似た傾向にあるといえるでしょう。
 関東以外では、愛知県名古屋市内の神社境内に1589(天正17)年造立の石塔があり、「十七夜待開眼供養」の銘を確認できます。 上部にサク、カーン、バイの種子を、中央には五輪の種子を配した意匠もさることながら、この時代の月待遺物そのものがたいへん 貴重な存在といえます。

【十八夜塔】
 この塔は特徴的な分布を示し、ほぼ山形県内に集約されます。同県内では十八夜の観音信仰がさかんで、その供養を目的とした 造塔とみられますが、後には周辺地域の観音巡拝とのかかわりを深め、地域によって集中的に造立されています。主尊は、聖観音 あるいは千手観音と考えられますが、像容を刻した石塔は少なく、ほとんどは文字だけを刻んでいます。
 十八夜塔は、他の東北各県でもみられますが、信仰の形態は異なるようです。たとえば福島県いわき市にある「十八夜」と刻ま れた石塔は、如意輪観音の像容をもち、いっしょに造立されている十九夜塔とともに安産祈願を目的とした産神信仰とのかかわりが 濃厚とみられます。

【十九夜塔】
 関東地方およびその周辺域における十九夜塔は、その造立数において群を抜いています。特に、利根川中・下流域から、千葉県、 茨城県、栃木県、福島県にかけての地域は、造塔密度のばらつきこそあれ、一大信仰圏を形成しているようです。長野県や奈良県な どの一部にみられる十九夜塔も、基本的には関東地方と同じ信仰に根差したもので、形態的な相違はほとんどありません。
 いずれにしても、これらの主尊としてほぼ如意輪観音が選択されているのは、なぜでしょうか。七夜待の教義では、十九日の主尊は 馬頭観音です。これまでの調査事例から、その痕跡を拾ってみましょう。
@ 主尊に馬頭観音の像容があるもの.1795(寛政7)年造立(埼玉県川島町)
A 種子としてウーン(六観音中の馬頭観音を示す)を刻んだもの.
・文字塔にウーンの種子のみ.1840(天保11)年造立(茨城県古河市)
・如意輪観音の像容にウーンの種子.1742(寛保2)年および1766(明和2)年造立(茨城県古河市)
B 十九夜文字塔に供えられた二股の卒塔婆に馬頭観音が墨書された事例.1848(弘化5)年造立(茨城県つくば市)
 これらの事例を見る限り、月待としての十九夜の本尊は、本来馬頭観音であるという意識がさまざまな形で表現されているといえる でしょう。
 一方、特定の日に本尊を配置する考え方としては、中国で生まれた「三十日秘仏」というものがあります。しかし、この場合も 十九日は如意輪観音ではなく日光菩薩です。結局、如意輪が選択された明確な根拠は見あたりません。観音信仰という大枠のなかで、 血盆経とかかわりをもつ如意輪観音が選ばれたとする見方もありますが、近世初期より出現する如意輪像と「十九夜念佛」の銘が既に 血盆経によって一体化されていたのかどうかは、今後も十分な検証が必要でしょう。いずれにしても、二十一夜や二十二夜と同じよ うに如意輪観音を主尊に据えることによって、安産祈願の信仰が広く定着したことは事実です。
 十九夜塔の形態としては、像容を刻んだタイプと文字のみのタイプに大別されますが、前者はさらに丸彫り、浮彫り、線刻などに 区分することができます。地域によって異なるものの、総体的には年代とともに像容塔から文字塔へのシフトが認められるようです。

【二十夜塔】
 利根川下流域では、「廿日」や「廿夜」などと刻まれた石塔が千葉県や茨城県で10基ほど記録されていますが、月待の実態などに ついては不明です。

【二十一夜塔】
 群馬県北部では、ややまとまった分布を示していますが、それ以外の関東地方では点在する程度です。像容塔の場合、主尊として 選択されるのは如意輪観音がほとんどで、十九夜や二十二夜と同じように産神信仰と結びついています。
 沼田市には、「念一夜」の銘をもった如意輪二臂の石塔があり、造立は1712(正徳2)年です。みなかみ町にも、如意輪観音を浮 彫りにして「二十一夜待供養」の銘をもった1856(慶応1)年の石塔がみられます。いずれも、銘文等から女人講によって二十一夜 待が行われていたものと推察されます。
 一方、利根川下流域の千葉県佐原市にあるのは、1744(延享1)年造立の「廿一夜講中供養」の銘をもつ像容塔ですが、主尊は 地蔵菩薩立像となっていますので、念仏講として月待が行われていた可能性を指摘できるでしょう。

【二十二夜塔】
 利根川流域では、上流部の二十一夜信仰圏と中・下流域の十九夜信仰圏にはさまれた区域を中心に、一部埼玉県の荒川流域を含め て多くの石塔が分布しています。埼玉県では北部と中部で400基以上、群馬県でも南部を主体に300基以上造立されており、一部の 地域で濃密な分布がみられます。
 こうした状況は、群馬県西部の十九夜信仰圏を介して、長野県から山梨県の一部、愛知県、岐阜県へと続いています。また、新潟 県佐渡市にも調査資料〔『佐渡の石仏』文0332〕があります。
 二十二夜待の主尊は如意輪観音で、七夜待の主尊と一致しています。像容の形態は、丸彫り、浮彫り、線刻とあり、特に浮彫り ではさまざまなタイプの石塔が知られ、十九夜塔と同じようなパターンを示しています。ただし、埼玉県には熊谷市と寄居町に丸彫 りの地蔵菩薩を主尊とする「二十二夜待供養」塔があり、産神信仰とは異なる習俗があったことも認識しておく必要があるでしょう。
 なお、甲信から東海地方にかけての二十二夜塔は文字塔が主体とみられ、オタチマチによって月の出に安産祈願を行うというのが 基本的な習俗となっているようです。

【二十三夜塔】
 月待信仰の主体を成すだけに、二十三夜の石塔はほぼ全国に分布します。ただし、造塔数は東日本から北日本にかけて多く、 西日本は少ないという状況です。
 二十三夜の主尊は勢至菩薩ですが、種子は「サク」で示されます。全体として、文字のみの塔が圧倒的に多いと思われますが、勢至 菩薩を刻んだ像容塔も各地でみることができます。関東地方の事例では、茨城県龍ヶ崎市の1668(寛文8)年造立のもの、同県稲敷市 の1673(寛文13)年と1674(延宝2)年造立のものなどがあり、栃木県佐野市には1823(文政6)年造立で、「二十三夜待月並供 養塔」というめずらしい銘をもった勢至塔もあります。
 これらに対し、一部の地域では本尊に地蔵菩薩を充てた事例が少なからずみられます。このうち、東京都青梅市には1702(元禄15) 年から1765(明和2)年造立の月待地蔵が3基あり、隣接する埼玉県飯能市でも2基確認されています。また、同県所沢市には馬頭 観音を主尊とした「三夜待供養」塔もあり、たいへんめずらしい事例といえるでしょう。
 二十三夜待では、旧暦二十三夜の月を拝することが第一の目的としてありました。各地の伝承も、概略では ありますがそのような行事の実態をよく伝えています。二十三夜塔のなかには、月の姿を石に刻んだものがあり、そこから当時の 人びとが二十三夜月に対して抱いていたイメージを推察することが可能です。なお、この場合の月は、一対の日月をさすのではなく、 月が単独で表れているものを対象とします。下図には9例を示しましたが、下弦以降の月を表現したとみなされるものは〈A〉から 〈D〉までで、〈E〉と〈F〉については傾きが夕空の三日月になっています。また〈G〉は特殊な表現の事例で、〈H〉と〈I〉は 満月を表したものと推察されます。ただ、〈I〉に関しては、単なる日輪の可能性もあります。こうして比較してみますと、同じ 事象に対する感覚には、相当の曖昧さがあることがわかります。
 旧暦二十三夜の月といっても、月齢はいつも同じというわけではありません。実際には、下弦(半月)を境にして少し膨らんだ姿 から逆に少し細くなった形まで変化がみられます。石塔に刻まれた月は、総体的に細い傾向を示していますが、傾きに対する誤解は ともかくとしても、形に関しては二十六夜の月と混同した傾向が認められます。要するに、刻印された月の正体は、その地域の知識人や 僧侶、造立にあたっての世話人や願主、あるいは実際に作業する石工などの複合的な感覚の産物といえるものでしょう。手元の調査 資料では、今のところ月単独の像がみられるのは18世紀後期から19世紀にかけての文字塔に集中しています。

二十三夜塔にみられる月の形

※〈A〉、〈B〉が一般的な傾きを示し、条件次第で〈C〉、〈D〉のように水平にみえることが あります。また、月齢という点では〈C〉の事例がもっとも二十三夜月に近い表現です。

【二十六夜塔】
 各地に点在しますが、山梨県や栃木県などではややまとまりのある分布をみせています。主尊が愛染明王ということで、染色や 紡織などに携わる人びとから信仰されたと言われるように、二十六夜の月待がそのまま二十六夜塔の造立に直結している事例は 意外に少ないかもしれません。
 関東では、近世初期の事例として、東京都中野区に1648(慶安1)年造立で二十六夜の銘をもつ文字塔(板碑型)があり、愛染 明王の種子である「ウーン」を刻んでいます。また、西日本の貴重な事例となる奈良県山添村の場合は、1711(正徳1)年造立の 石塔上部に日天・月天と種子「ウーン」を刻み、「為廿六夜塔二世也敬白」の銘があります。
 愛染明王以外の主尊をみると、聖観音立像を刻んだ1728(享保13)年造立の石塔が茨城県鹿嶋市で確認されています。「奉待 廿六夜二世安楽所」の銘をみると、かつての習俗として二十六夜待の存在が考えられるでしょう。

【その他】
 月に関する石造物として、「月読命」「月読尊」などの文字を刻んだ石塔があります。ただ、これらを一律に月待塔として扱 うかどうかについては、おそらくさまざまな見方があるでしょう。たとえば、造立の主体が月待講中であれば、そこに月待塔と しての役割を見出すことができますし、単なる神名塔であれば月待行事とかかわりは少ないものとみられます。
 

  

像容塔の主な形態
〈左〉丸彫りタイプ/〈中〉浮彫りタイプ/〈右〉線刻タイプ

◇◇◇ 石塔の造立と課題

【造立の実態】
 月待塔がどのように造立されたのか、その実情を探ることは容易ではありません。しかし、基数は限られるものの手掛かりとなる 銘文を記した事例がいくつか確認されています。埼玉県加須市にある1902(明治35)年造立の二十三夜文字塔の場合は、この時 代においても毎月二十三夜の月を敬拝していたこと、その供養のための資金を集めて碑を建てたことなどを確認することができます。
 また、月待塔では月待講中によって造立されるケースがよくあります。特に十九夜塔や二十二夜塔などでは女人講の比率が高く、 同一地区で数十年おきに造立された事例も少なくありません。近世後期以降の文字だけの銘文を刻した石塔では、その台石部分に講 中の人名を刻んだものをよくみかけますが、供養塔の造立となればそれ相応の金銭的負担が発生することになり、それぞれの時代に おいて地域社会の一員として果たすべき責任が明確になっていたようです。
 たとえば、これも埼玉県加須市にある1893(明治26)年造立の十九夜塔は、寄進者とその金額を刻しためずらしい石塔です。 それによると、寄進者は全部で24人おり、5円(1名)を筆頭に1円(4人)、80銭(1名)と続き、以下銭単位で減少して、最も 少ないのは15銭(1名)となっています。寄進額の合計は15円80銭です。当時の経済的相場については不明ですが、石塔の造立と いう行為一つとってみても、信仰と地域社会の密接なかかわりを窺い知ることができます。

【月待塔をめぐる課題】
 以上、月待をめぐる石造物について概観してきましたが、各地で専門的な調査が進展する一方で、行方不明となる事例も後を絶ち ません。信仰の証として保護されている月待塔もありますが、ほんの僅かです。文化財としての情報は確実に蓄積されているはずで すが、そこからどのような事実を見出せるのか、さまざまな角度から考察する必要があるでしょう。
 これまでの調査を振り返れば、二十三夜塔においては主尊を刻さない文字だけの塔が多いことや、江戸で大流行をみせた二十六夜 待に関しては、信仰の広がりに比べて遺されている二十六夜塔が極端に少ないなど、各地の月待信仰の実態を解明するうえで重要な 鍵を握っているとみられる事実が少しずつ明らかになってきました。しかし、近世の石造物で地蔵菩薩とともに「月待供養」の銘を 刻んだ石塔の存在や月待講中によって造立されたさまざまな形態の石造物と月待の関係など、明らかにしなければならない課題は数 多くのこされています。月待塔の定義からいえば、二十三夜の供養を目的とした場合は地蔵菩薩を主尊としたものや石灯籠、石幢、 石祠などを含めて広義の月待塔に含める見方があり、これは神道系の「月読尊」にかかわる石塔にも同じことが言えます。 いずれにしても、月待塔の定義や分類は、さまざまな要素の組み合わせにより成立している側面があることを理解しておくべきで しょう。

月待の社寺  2018/10/21

月待信仰の場所

 月待行事が行われた場所は、地域によりさまざまです。ただし、月の出を拝するという行為に関しては、ほぼ二十三夜待と二十六夜待に 集約されますので、実際にそれが可能な場所は限られています。理想的な地形としては、東の方角が開けた高台であれば最適でしょう。 そのような場所では、かつて月待行事が営まれた堂や寺院跡、神社などを確認することができますが、山間部では眺望のよい山の頂が 月待信仰の重要な舞台となっていた事例もあります。
 関東地方では、実際に月待行事が営まれたとされる建造物が各地にのこっています。そのほとんどが二十三夜待の主尊とされる勢至菩 薩を祀り、地元では三夜様、三夜堂、勢至堂などと呼ばれています。都市部には少なく、一般的に丘陵地から山地部の東または南の方角 が開けた場所に建立されているのは、月の出を拝することと深いかかわりがあるためと推察されます。
 一方、月読尊を祀る神社も各地に存在します。神仏混交の時代には、他の神仏を含めてこれらの多くが同じ境内で祀られていたようで すが、いずれも「三夜さま」と称して信仰されてきました。それが、明治時代の神仏分離政策によってそれぞれ単独の寺院あるいは神社 となって現在に至っている事例が多くみられます。
 いわゆる月待堂と呼ばれるものは、そうした勢至菩薩あるいは月読尊を祀った小規模な堂あるいは社殿で月待の行事が行われてきた痕 跡を遺す建物をさします。各地で近世以降に造立された二十三夜の石塔は、その多くが文字を刻しただけのタイプですが、造立された場 所等から信仰の対象をある程度判断することが可能です。つまり寺院の境内や月待堂の周辺にあれば勢至菩薩が、また地域の鎮守や氏神 様などにあれば月読尊がその対象とみられます。一部には「二十三夜」よりも「月読尊」の石塔が濃密な分布を示すところがあり、こう した地域では神道系の月待信仰がさかんであったと推測できます。ただし本来の月待、つまり二十三夜待の本質は勢至菩薩や月読尊より も月そのものにあったとみるのが適切でしょう。したがって、二十三夜堂などで月待を行ったのは、仏教や神道とのかかわりが深くなっ た以後のことと考えられます。それ以前は、屋外で東方が開けた適当な場所が選ばれていたでしょうし、おそらくそうした場所では月待 塔が造立されたケースも想定されます。
 それは、二十六夜待において顕著に表れています。その昔、江戸の六夜待は海岸沿いか高台が舞台でした。当時の様子を記した史料に よれば、物見遊山も含めて多くの人出があったことがわかります。しかし、内陸の山間部では近郊の山などに登って月の出を待つことに なります。関東地方でいくつか知られている 二十六夜山 は、その典型的な事例です。

 

 

現存する二十三夜堂

※[上左]群馬県みなかみ町の二十三夜堂 / [上右]埼玉県小川町三夜堂内部
※[下左]東京都杉並区の 三夜堂扁額 / [下右]千葉県沼南町の新しい三夜堂


各地の月待堂・月待神社

これまでの調査内容を関東地方を中心にまとめました

茨城県 栃木県 群馬県 埼玉県
千葉県 東京都 神奈川県 その他

《 茨城県 》

◇ 二十三夜堂 〔TB01〕
曹洞宗萬年山大洞院境内の参道脇にある小堂で、地元では「二十三夜堂」と呼ばれて
います。中に祀られているのは勢至菩薩ではなく、高さ約2bに及ぶ石造の地蔵菩薩
で、月待と地蔵信仰の結びつきを示す事例の一つと考えられます。少なくとも20〜30
年前までは近郷近在から人びとが集まって霜月三夜(旧暦)の行事が行われていたよ
うです。

【所在地】稲敷郡河内町中金江津
【創 建】(不明)
【本 尊】地蔵菩薩(石造)
【扁 額】(なし)
【行事等】過去に「霜月三夜さま」の行事あり
◇ 日立二十三夜尊 〔TB02〕
日立駅前から続く商店街の外れに「二十三夜尊」と刻まれた入口があり、その20b
ほど奥に勢至堂があります。また右手には「夢枕子育観世音大菩薩」と墨書された小
堂もあり、三夜尊と何らかの関わりがあるのかもしれません。現在も参拝に訪れる人
がいるようです。

【所在地】日立市鹿島町
【創 建】明治初期
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】二十三夜尊
【行事等】毎月二十三日(旧暦)が縁日
◇ 二十三夜尊 〔TB03〕
大子駅から数分の本町通りにある通称"百段階段"の途中にあります。この階段は十二
所神社の参道で、入口にはその鳥居が建ち、月待ち堂の脇には同神社の神灯もあって
これがよい目印です。堂内には、高さ1b程で板葺き屋根の古い社が収められ、そこ
に新しい勢至菩薩像が祀られていました。しかし、古い社殿や堂の前に遺された神灯
の一部と思われる石の存在などから、おそらくかつては月読命が祀られていたものと
推測されます。数十年前には、確かに月の出を待つ行事が行われていたことを確認で
きましたが、現在は年に一度昼間にお参りするだけの行事となっています。

【所在地】久慈郡大子町本町
【創 建】(不明)
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】二十三夜尊
【行事等】毎年八月二十三日(新暦)
※ここで  地域メニューへもどる

《 群馬県 》

◇ 二十三夜堂 〔TG01〕
旧月夜野町の住宅街の外れにひっそりと建っています。現地調査で偶然に見つけたも
のですが、聞き取り調査ができず詳しいことはわかりません。堂のすぐ近くに、昭和
4年に造立された「供養塔」があり、おそらく月待供養の石塔ではないかと思われま
す。また、堂の裏手には小高い場所があって、南東の方角を中心にすばらしい眺望を
得ることができます。月の出を拝するには絶好のロケーションといえるでしょう。

【所在地】みなかみ町月夜野
【創 建】(不明)
【本 尊】(不明)
【扁 額】二十三夜堂
【行事等】(不明)
※ここで  地域メニューへもどる

《 埼玉県 》

◇ 二十三夜堂 〔TS01〕
旧入間郡名栗村の名郷から山伏峠に向かう途中の集落にあります。堂は車道から少し
入ったなだらかな傾斜地に谷を見下ろすように建っています。近世末期の再建と伝え
られていますが、その要因となった火災のために古文書類を遺失したため詳しいこと
はよくわかりません。少なくとも30年ほど前には「三夜さま」と呼ばれる祭りが年に
2回行われていました。

【所在地】飯能市名栗
【創 建】(不明)
【本 尊】勢至菩薩、薬師如来
【扁 額】(なし)
【行事等】かつての祭礼は1月23日と8月23日の年2回
◇ 勢至堂(三夜さま) 〔TS02〕
比企郡小川町の秩父往還道から少し入った白山神社に隣接する寺院が地元で「三夜さ
ま」と呼ばれ、本堂に向かって左手の小堂が勢至堂となっています。堂内には、二十
三夜の銘が入った奉納幕が張られ、太鼓や鉦なども確認できます。少なくとも20年ほ
ど前にはまだ二十三夜講が営まれていたようですが、内容的には昼間の行事で月の出
を待つことはありませんでした。

【所在地】比企郡小川町増尾
【創 建】(不明)
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】勢至堂
【行事等】かつて10月23日(新暦)に三夜さまの講あり
◇ 勢至堂 〔TS03〕
比企郡滑川町の勢至堂で、道路をはさんだ向かい側には月輪神社があります。堂とい
っても大きく立派な建物で、地域の人びとの篤い信仰心が窺われます。境内には、坂
戸の商人によって昭和2年に造立奉納された「二十三夜大勢至菩薩」の石柱がありま
すが、いわゆる月待塔ではなく記念碑的な意味合いを強く感じます。

【所在地】比企郡滑川町月輪
【創 建】建久七年伝、現建物は嘉永二年の再興による
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】(不明)
【行事等】1月、4月、10月の各23日(新暦)が縁日
◇ 二十三夜堂 〔TS04〕
昭和35年頃まで、桜沢の山崎地区にあったのが茅葺き屋根の旧二十三堂で、現在は地
区の自治会館が建っています。新しい堂は同じ敷地内にありますが、たいへん小さく
本尊とともに道具類を収蔵しています。中には勢至菩薩を収めた厨子があり、こちら
は立派な造りです。扉には種子「サク」と二十三夜の月をあしらった飾りが施されて
いて、このような装飾デザインはあまり類例がないのではないかと思われます。その
後1992年に「二十三夜のまつり」が復活していますが、この地区ではもともと二十二
夜待信仰が主流であり、したがって月の出を拝するのは二十二夜、つまり旧暦22日
夜に実施されます。これは一種の前夜祭として位置づけられており、二十二夜待と二
十三夜待の関係を示す貴重な事例となっています。

【所在地】大里郡寄居町桜沢
【創 建】現在の堂は昭和35年改築
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】二十三夜堂
【行事等】11月23日(新暦)に二十三夜のまつり
◇ 二十三夜堂 〔TS05〕
寄居町の市街地から小川町方面へ八高線沿いに山間に入ったところが西ノ入地区で、
そのなかの一つの谷筋に栃谷集落があります。二十三夜堂は小高い場所に南東方向を
向いて建ち、裏手は墓地になっています。堂内は荒れていて本尊等はありませんが、
わずかに往時の面影を偲ぶことができます。入口から南東方向を眺めると、緩やかな
森の稜線が続いているものの、月の出を拝するのに大きな問題はなさそうで、おそら
くかつては地区の人びとがここに集まり、月待をしていたことでしょう。

【所在地】大里郡寄居町西ノ入
【創 建】(不明)
【本 尊】(不明)
【扁 額】(なし)
【行事等】(不明)
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《 千葉県 》

◇ 二十三夜堂 〔TC01〕
手賀西小学校の西側にあり、もともと吉祥院の寺域と伝えられています。堂は近年完
成したばかりの新しい建物で、現在も熱心な信仰があるようです。中には三日月の形
をあしらった小さな厨子が置かれていますが、本尊は確認できません。また、堂に向
かって左側奥に二十三夜の文字塔(造立年月は不明)があります。ただし、堂自体は
西向きに建ち周辺も傾斜地となっていて眺望はほとんどありません。実際に月を拝し
たところは別な場所であったと推測されます。

【所在地】柏市昭南町泉
【創 建】(不明)
【本 尊】(不明)
【扁 額】二十三夜堂
【行事等】(不明)
◇ 二十三夜神社 〔TC02〕
片貝漁港の北、作田地区にある小さな神社です。地元では月読神社あるいは三夜さま
とも呼ばれていますが、どのような行事が行われているのかわかりません。ただ、数
十年前までは旧暦の毎月23日に三夜講がありました。当日は月読尊が描かれた掛軸を
かけ、全員で飲食を共にしながら月が上るのを待ったということですから、月待信仰
のさかんな土地であったことがわかります。おそらく、かつてはこの神社で月待が行
われていたものと考えられます。

【所在地】山武郡九十九里町作田
【創 建】(不明)
【祭 神】月読尊
【扁 額】(なし)
【行事等】(不明)
◇ 二十三夜の社 〔TC03〕
JR久留里線久留里駅周辺に広がる住宅街の奥に小中学校があり、その裏山にひっそ
りと建っています。正面の破風部分には月の彫刻がみられ、建物の周辺には手水石や
石祠などが散在していることから、もとは神社として建立されたものと思われます。
中には小さな社があり、既存資料によれば木花ノ佐久夜毘売命を祭神としているよう
です。すぐ近くに浅間神社や木花ノ佐久夜毘売命の石塔があることから、久留里の月
待については浅間信仰との結び付きが推測されます。街中での聞き取りでは、かつて
すぐ近くにもう一つの小屋(こちらが本来の月待堂か)があったそうで、主に中町地
区のお年寄りが中心となって月待をしていたとのことでした。

【所在地】君津市久留里
【創 建】(不明)
【祭 神】木花ノ佐久夜毘売命
【扁 額】二十三夜
【行事等】過去に月待行事の伝承あり
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《 東京都 》

◇ 二十三夜堂 〔TT01〕
杉並区の日蓮宗日圓山妙法寺境内に建つ堂で、入口に立派な扁額が掲げられています。
都内とは思えぬ静かな環境のなかにあり、かつては人びとの篤い信仰に支えられてい
た様子が窺えます。「二十三夜堂縁起」という案内板によれば、縁結びと財運に霊験
あらたかとのことで、現在も多くの参拝者があるようですが、境内で実際に月の出を
拝める場所はなさそうです。

【所在地】杉並区堀ノ内
【創 建】(不明)
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】二十三夜堂
【行事等】(不明)
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《 その他の地域 》

◇ 二十三夜堂 〔TW01〕(山梨県)
武田信玄の菩提寺として知られる恵林寺の近くにあり、近年改築されたものです。聞
き取りができず詳細は不明ですが、改築前の調査資料によれば、地元のT家によって
明治26年に再建されたもので、個人の所有でありながら広く地域に根差した信仰の拠
点として重要な存在であったようです。また、かつては毎月23日夜に祭りが行われて
いたという地元住民の話が紹介されています。

【所在地】山梨県甲州市小屋敷
【創 建】(不明)
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】なし
【行事等】(不明)
◇ 二十三夜尊 〔TW02〕(福島県)
小高い場所にある小堂は、地元で「二十三夜尊」と呼ばれています。旧正月の23日が
例祭日で、かつては船主の奥さんたちが熱心に信仰していたようです。堂内には茨城
県水戸市の二十三夜尊から分祀したと考えられる勢至菩薩(石造半浮彫立像)が祀ら
れ、この地域の人たちは今でも水戸市やいわき市平地区にある二十三夜尊に参詣して
いますが、実際に三夜尊の行事として月待ちが行われていたかどうかは不明です。

【所在地】福島県いわき市江名
【創 建】(不明)
【本 尊】勢至菩薩(石造)
【扁 額】なし
【行事等】(不明)
◇ 二十三夜堂 〔TW03〕(宮城県)
杜の都として知られた仙台の中心部にほど近く、ビル街の一角に位置しています。
案内板によると本来は天台宗の寺院で「賢聖院」といい、地元では「二十三夜さん」
の愛称で親しまれているようです。かつては、本尊勢至菩薩立像の縁日である旧暦
23日に人びとが集まり、勤行・飯食を行いながら月の出を待つ二十三夜講を行って
いたとのことですが、現在は毎月23日が縁日となっています。

【所在地】宮城県仙台市青葉区
【創 建】1069年(1380年中興)
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】二十三夜堂
【行事等】(不明)
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月待と地理 2020/05/25

 関東を中心とした周辺地域では、二十三夜待をはじめ十九夜待、二十二夜待、二十六夜待などの月待行事が盛んでした。 これらの供養を目的に造立された月待塔は地域によって夥しい基数に及び、実際に月待を行っていた社寺や堂宇も各地に 遺されています。しかし、少し視線を変えると信仰の証を示すものは他にも見出すことが可能です。
 ここでは、地理的な視点から地名や自然物、構造物などについて、月待に縁のある呼称を紹介します。

月待の地理的呼称分布

● 月待の滝〈A〉
 福島県境に近い茨城県大子町。その奥久慈を流れる久慈川の支流に「月待の滝」と呼ばれる三筋の滝があります。そこ から少し離れた地区には有名な「袋田の滝」もあり、この一帯は観光地として多くの人びとが訪れるエリアとなっています。
 さて、「月待の滝」と聞くと何やら月にまつわる信仰を思い浮かべますが、実はこの命名はかなり新しい時代に生ま れたものだというから意外です。以前は何と呼ばれていたのか気になるところですが、地元の70代の男性の話では特に 呼び名はなかったそうで、単に「滝」と言っていたようです。それが、どういう経緯で「月待の滝」になったのか。それは、 かつてこの場所で二十三夜の月待が行われていたという伝承が一つの拠り所とされています。しかし、一般的に二十三夜 待というのは、旧暦の23日夜に東の空から上る月を拝する行事ですから、その場所は視界(特に東方)が開けた平地 や高台などが基本的な条件となります。滝は、山間の谷で段差のある地形から発生するものですが、水の流れるところは その周辺で最も低い土地ということになります。つまり、月待を行うには最悪の条件です。
 今回、現地を訪れてその景観には感動したものの、ここを月待の聖地とするにはやはり無理があるとの想いを強くもち ました。地形図でも分かるように、この滝は凡そ東方から流れて西へと落ちています。滝の付近から東方に上る月を眺める ことはまず不可能と言えるでしょう。樹木などが一切なければ相当に高く上った月を見る可能性は残されていますが、それ では本来の月待とは言えません。それでは、滝と月待を結びつける他の要素はないのでしょうか。現時点の推論では、 この場所で月待の一部あるいは関連する行事が行われていたのではなかと考えられますが、確証はありません。実際に 月待が行われた場所がどこなのか、またどのような組織(たとえば月待講など)が存在したのか。今後も調査を継続する 必要がありそうです。
 なお、同じ大子町の市街地には、二十三夜尊(月待の小堂)が遺されており、現在も細々とした行事(参拝のみ)が 継続されています。

 

[左]大生瀬川と月待の滝 /[右]大子町内の三夜尊

◆ 二十二夜橋〈B〉
 埼玉県比企郡小川町の槻川支流にある橋で、かつては土橋であったようですが、現在はコンクリート造りの立派なものに 改修されています。この橋のすぐ上流に1832(天保3)年造立の二十二夜塔があり、このあたりで二十二夜の月待行事が 行われていたのではないかと推察されますが、関連する資料などは見あたりません。
 比企郡から秩父郡にかけての地域では、かつて二十二夜待信仰がさかんでしたが、その実態は安産祈願を目的とした講が ほとんどであり、月の出を待ってこれを拝したという伝承はほとんど聞かれません。したがって、橋の命名については月待 行事と関係なく二十二夜塔の存在に由来している可能性も考えられます。

山間の川にかかる二十二夜橋

■ 三夜尊入口〈C〉
 茨城県神栖市波崎にあるバス停です。千葉県の銚子駅と茨城県の鹿島神宮駅を結ぶ路線バスのルートで、銚子駅から2`余りの 銚子大橋を渡って間もなくの場所です。三夜尊は、二十三夜信仰の主尊である勢至菩薩を祀る寺院か堂宇ではないかと考えられ ますが、残念ながら現地を訪ねても探しあてることができませんでした。漁港から200bほどのところにほんの小さなお堂が あるものの、何を祀っているのか不明です。

三夜尊入口のバス停

▲ 二十六夜山〈D・E・F〉
 文字通り、かつて山頂付近で二十六夜待が行われていた山のことです。現在のところ、山梨県で2ヵ所、静岡県で1カ所が 知られています。まず、山梨県南都留郡秋山村のそれ(D)は、同村の西部、道志山塊の一角に位置する標高971.8bの山で、 もとは高金山あるいは高ヶ嶺山と呼ばれていました。山頂に近い広場に、1889(明治22)年7月造立の二十六夜塔が あります。
 二つ目は山梨県都留市の山(E)で、秋山村の二十六夜山から南西方向へ約10`離れた位置にあります。標高は1,297.3bで、 秋山村のそれよりも320bほど高くなっています。こちらの二十六夜塔は、山頂から西へ約20b下った場所にあり、1854(嘉永7) 年7月の造立です。いずれの山も麓の集落から人びとが集い、二十六夜の月の出を待って拝しました。
 最後は、静岡県賀茂郡南伊豆町の妻良漁港の南西に位置する標高は310.7bの山(G)で、明治時代には「朝日山」と呼ばれて いたようです。ただし、二十六夜待を行ったのは妻良の人びとではなく、少し離れた吉田集落でした。これら3ヵ所の二十六夜山 の現況については、こちらに 詳細を展示しています。

 

[左]都留市二十六夜山山頂 /[右]秋山村の二十六夜塔

▲ 二十三夜山〈G〉
 二十三夜山があるのは、千葉県夷隅郡大多喜町西部の低山帯です。標高は約250bで、付近一帯は300bに満たない尾根と谷が 複雑に入り組んだ地形です。麓の集落からは35分ほどで登れる距離にありますが、月待信仰の証となる二十三夜塔は南に450b ほど離れた別なピーク(約280b)に造立されています。この二十三夜塔は1806(文化3)年の銘があり、少なくとも当時の月待 信仰を知る手がかりとなりそうです。地形的にみるとこちらのほうが東方の月の出を拝す条件に適っているようで、本来の 二十三夜山であったかもしれません。ただし、かつては二十三夜山がいくつか存在した可能性もあり、さらなる調査が必要です。
 なお、大多喜町には三嶋大明神二十三夜宮や月夜見神社など月待信仰とかかわりの深い社寺が点在しており、月夜見神社では 毎年1月23日(新暦)に三夜様の祭礼が行われているようです。

● 二十三夜杉〈H〉
 埼玉県寄居町桜沢の山崎地区にある自治会館は、かつての二十三夜堂跡地に建てられています。昭和35年頃までは茅葺屋根の 大きな堂宇で勢至菩薩が祀られていました。その脇にあった杉の古木は直径1b余りで、地元では「二十三夜杉」と呼んでいた ことが、当時の様子を描いた絵の中にみられます。残念ながら堂の取り壊しとともに伐採されてしまったようで、今は見る ことができません。幸い、三夜堂は小さな堂宇としてすぐ近くに再建され、勢至菩薩を大切に祀るとともに、月待行事の道具類が 保管されています。
 ここでの月待は、旧暦22日夜に三夜堂の外で行われ、翌23日に勢至菩薩を祭る行事が行われています。女人講としての二十二夜 待と本来の二十三夜待が習合したような事例で、他にはみられない行事となっています。二十三夜杉の由来は不明ですが、かつての 月待信仰となんらかのかかわりがあったものと思われます。

三夜堂と二十三夜杉の絵

● 二十三夜坂〈I〉
 神奈川県相模原市緑区東橋本地区は境川を都県境として八王子市と接しています。その境川に架かる蓬莱橋のすぐ近くに、二十三 夜の石塔を収めた小さなお堂があります。石碑に刻まれた由来によると、かつて蓬莱橋周辺で多発した悲しい出来事を供養するため 1781(安永10)年に二十三夜講の本尊である勢至菩薩を祀ったのが始まりのようです。
 この蓬莱橋から南西方向に延びる道は170bほどの上り坂で「二十三夜坂」と呼ばれています。広い道ではありませんが、旧来の 農家を含めた閑静な住宅地が河岸段丘の上にも続いており、往時の雰囲気を感じさせてくれます。
 月待講によって供養塔が建てられたということは、おそらく二十三夜の月待が行われていたことでしょう。橋の袂は低地なので、 坂の途中かあるいは上り切った段丘上の見通しがきく場所で月の出を待ったのではないかと推察されます。

■ 十八夜前〈J〉
 東京都瑞穂町の殿ヶ谷地区内にあった地名で、別に「十八夜北」という地名もありましたが、いずれも現在は使われていません。 ここにみられる十八夜と いうのは、おそらく月待や観音信仰、農耕儀礼などにかかわる行事の一つと推測されますが、現在この付近ではそうした名残を 留める遺物や史料などは見あたらず、詳細は不明です。

二十八宿の石灯  2020/02/25

【星宿を辿る道】
 神奈川県南足柄市の曹洞宗寺院、大雄山最乗寺の参道に、二十八宿の星宿名と距離(丁目)を刻した石灯があります。二十八宿と いえば、奈良県明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に描かれていた星として話題になりました。それは、中国などで古代に 体系化された星座であり、形を変えながら星空を周期的に移動する月の運行を把握する目的で、天の赤道付近の領域を不均等に区分 したものです。密教では、北斗七星や九曜、十二宮などとともに星曼荼羅として描かれるなど、星供の対象としても知られた存在 でした。
 石灯は「角(かく)一丁目」から「軫(しん)廿八丁目」までの各石灯を辿ることで信者を最乗寺へと導いてくれる道標でもあります。 これらは、同寺院の信者らが結成した講中によって寄進されたもので、江戸期(元治元年)と明治期(明治40年)の2回にわたって 設置されました。
 しかし、1982年と翌年の調査では、元治系で10基、明治系も22基の確認にとどまり、特に箕(き)七丁目、斗(と)八丁目、 女(じょ)十丁目、胃(い)十七丁目、觜(し)廿丁目、鬼(き)廿三丁目の六つの宿については、いずれの系統も所在が不明でした。 確認できた石灯の中にも、一部が土中に埋没したり、倒伏あるいは火袋部分が欠損するなど、貴重な文化財であるにもかかわらず保全 管理については決して良好とは言えない状況であったのです。幸い、その後の整備により、元治系では2基が発見されて12基となり、 明治系でも4基が復活し、残る胃宿と觜宿については1990(平成2)年に再建されました。詳細については、 《二十八宿石灯の保全状況推移》を参照してください。

大雄山二十八宿石灯の分布略図
※1982年調査時の状況

【最乗寺の祭事と星宿灯】
 最乗寺は、1394年に了庵慧明禅師によって開かれました。その弟子となった相模房道了尊者は、かつて修験道の行者として知られて いましたが、慧明禅師の没後は道了大薩*垂と称されて最乗寺の守護となります。『大雄山鎮護妙覚道了大薩*垂御縁起』〔文0377〕 には「了庵禅師示寂の翌二十八日を以て大薩*垂飛んで天部に入り給ひしかば此の日を御命日とし、正月、五月、九月に大祭を行ひ 其の他は毎月二十七八両日を以て小祭を挙ぐ」と記され、28日の午前1時頃に実施される「御供の法要」を最も厳粛な行事として います。現在は27日夜に実施されているものの、信者の多くは27日から泊りがけで参列し、28日に開扉される大薩*垂の尊像を拝した といわれます。
 明治6年以前は旧暦の時代ですから、近世の「御供の法要」は深夜の星月夜であったことでしょう。この祭礼は、環境要件として 信者の人たちが星空に接する機会も提供していたことが分かります。
 さて、元治系の星宿灯は、最後の軫廿八丁目が大きな笠付きの石灯籠で、そこに奉納の由来が刻まれています。寄進を行ったのは、 小田原誠信社中の人びとで、麓から最乗寺に至る道のりが約28丁であることから、二十八宿の石灯を1丁毎に立てたようです。 これについて、『大雄山名所圖繪 道了大薩*垂鎮座』〔文0376〕は「山麓より當山に登るは二十八丁あり、一丁毎に程標建て燈籠と なし、祭日の夜火を点じ以て登山者の便に供す。名づけて二十八宿燈といふ。今は不断に電気を点せり」とあって、かつては祭りの 夜に火を点していたようです。こうした内容は、先の石灯籠の銘文とほぼ同じです。
 それによると、林麓から山門まで凡そ1680余歩で、60歩を1丁とすれば28丁になると説明しています。ところが、前出の御縁起 〔文0377〕では「麓から最乗寺までは廿八丁の坂道なり二十八宿星に象り二十八丁と称するも其実二十丁に過ぎず且つさして険峻の 所なければ婦人小児も歩行し得べし・・・・・」と異なる記述がみられます。1丁(町)の距離は、時代によって基準が変わりますが、 銘文の場合は6尺×60歩を基準としているようですので、これをメートル換算すると約109.1bになります。現在の一丁目石灯から 廿八丁目石灯に至る道のりは、道路の変化などを考慮しても長く見積もって3`未満でしょうから、約27.5丁でほぼ記述通りです。 もともとの参道がこの長さであったのか、あるいは28丁になるような石灯の配置を決めたのか分かりませんが、いずれにしても この距離感は、二十八宿の区切りとして相応しい条件を有していたことになります。いったい、誰がどのような経緯で二十八宿灯を 発案したのか、その背景と考えられる点を少し探ってみましょう。
 注)大薩*垂[だいさった]について、*垂は本来土篇が付いた字で示されます。

 

1982年当時の廿八丁目石灯籠と日月星宿灯
※元治系廿八丁目石灯籠の竿部に由来などが刻まれている

【二十八宿の信仰】
 二十八宿にかかわる信仰といえば、密教系の寺院を中心に現在も行われている星供(星祭り)がよく知られています。その教義の元は 宿曜経(文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶寺日善悪宿曜経)上下二巻の経典にあり、日本へは空海ら修行僧が806年に中国より持ち帰った とされています。『宿曜経の研究』〔文0378〕によると、宿曜経は「インド天文学の中の占星的なものを主眼的に述べたもの」で、三蔵 沙門不空が入唐後に南インドで得た占星術をまとめました。これが漢訳され、その後修注が加えられて764年に成立したようです。 その基盤にあるのが二十八宿と十二宮、七曜であり、「宿曜」はこれらの宿と曜に由来するといわれています。
 二十八宿の起源については、インド、中国、バビロンなど諸説があって明確にはなっていません。ただ、インドにおいては、古代の教典 (アダルヴァ・ヴェーダ、紀元前1000年頃)に二十八宿の順序について記述されているとされ〔文0378〕、また中国では、紀元前 433年につくられた貴族の墳墓から二十八宿の名を記した漆器が発見されています〔『中国の星座の歴史』文0129〕。
 いずれにしても、日月五星の運行を観測して暦日を定める天文学あるいは暦学的な利用と観測による吉兆日時などを占う占星的な利用を 目的として考えられたものです。ただし、インドの二十八宿では牛、女、虚の三宿が中国のものとは異なる星を対象としており、これは インド独自の十二宮の構成とも深いかかわりがあります。さらに、牛宿を欠いた二十七宿が併用されてきたという歴史と併せて理解する 必要があるかもしれません。二十七宿はインドだけで利用されたようですが、宿曜経には双方に関する記述の混濁がみられると具体的な 指摘がされています〔文0378〕。このうち占星的な部分は二十七宿に負うところが多く、中国を経て日本にも伝わりました。その後、 天の北極付近の星宿を重視する中国の天文や暦学が伝来したことで宿曜経とともに宿曜道として発展し、陰陽道に並ぶ重要な役割を担って きましたが、両者は次第に収斂されてしまいます。暦注としては宣明暦まで二十七宿が採用されたものの、貞享暦(1684年)以降は二十八宿と なっていますので、密教系占星術においても双方の併存が現在まで続いています。
 ところで、星供の際に掲げられるものとして星曼荼羅があり、北斗七星や九曜、十二宮、二十八宿などの仏神が多層に配置され、描かれて います。ただ、禅宗である最乗寺では、星供が行われたことはありません。そこで、星曼荼羅との絡みでもう一つ注目したいのは、神奈川県 伊勢原市の道了尊にある共極連珠の石碑です。
 これは、外縁部の中に北斗七星や北極五星、九曜、三星などを大小の陰刻円によって配置したもので、一部には星曼荼羅と似た意匠が みられます。1853(嘉永6)年に陰陽師を願主として造立されていますが、この地(道了尊)は慧明禅師や相模房道了尊者が修行を積んだ 旧蹟地として知られた場所でもあります。最乗寺に最初の二十八宿石灯が設置されるのはこの11年後の元治元年ですから、共極連珠碑や 陰陽師の存在が影響を与えた可能性は否定できません。
 二回目の設置(明治系)に関しては、新吉原遊郭の鼓楼主らが中心となっていますが、特段の事由によってというわけではなく、 前例に倣っての寄進であったと考えられます。単なる丁目石ではなく、そこに星宿の名を刻むことを重んじた背景には、そうした 知識や考え方を持った専門人の深いかかわりが窺えます。

 

1982年当時の参道の様子
[左]心五丁目付近 / [右]牛九丁目付近(旧道)

二十六夜山 2021/05/25

 二十六夜待は、旧暦二十六夜の月を対象とした行事です。近世には、江戸の六夜待として隆盛を極めた時期がありました。ただし、 その実態は月に対する信仰というより、遊興目的のイベント的な行事であったようです。一方、地方における六夜さまは、二十三夜 待のような信心深い行事が一般的でした。二十六夜待の主尊は愛染明王で、特に染色や養蚕などと深いかかわりをもつ人びとにより 篤く信仰されていたのです。
 平地では、海辺や小高い場所から月の出を拝することができますが、山間地の場合は東方を見渡せる高所へ登る必要があります。 したがって、その地域においてたまたま眺望の良い場所として選ばれたのが二十六夜山であり、信仰の証としてその名を後世に残し たものと考えてよいでしょう。しかし、地域共有の行事とはいえ標高数百bの山頂に立つためには、それなりの時間と体力が必要で あり、誰もが参加できたというわけではありません。そうした苦労を覚悟のうえで登られた山であるがゆえに、二十六夜山という地 域固有の呼称が生まれたのではないかと推察されます。なお、山上で月の出を待つ間は念仏などの行事が行われ、それぞれに地域の 特色が表れていて興味深いものがあります。
 現在知られているのは、関東周辺域に限られており、山梨県南部の2ヵ所と静岡県伊豆半島西部の1ヵ所となっています。

【山梨県南都留郡秋山村】
 同村の西部、道志山塊の一角に位置する標高 971.8bの山で、もとは高金山あるいは高ヶ嶺山と呼ばれていました。現在、尾崎と 浜沢の2ヵ所から登山道がありますが、いずれも整備されていて歩きやすい道です。尾崎の集落からは、二十六夜山の一部を遠望す ることができます。
 当該地の調査で得られた情報は、山頂下の平坦地にのこされている二十六夜塔と当時の信仰の実態についてです。まず、正面に 「廿六夜」と刻まれた月待塔は、山頂から北側へ少し下った940b付近の広さ約300平方bの平坦地にあります。石塔は、自然石を加 工した卵形で、高さ約72a。造立は1889(明治22)年7月吉日という銘があるものの、明治5年から6年へのグレゴリオ暦移行後の 旧暦表記という可能性も考えられ、今後さらに詳しく検討を加える必要があるでしょう。磁北から東へ70度の方角を向いていますが、 もとからこの位置にあったかどうかは不明です。
 二十六夜の行事については、大正の末ころまで旧暦8月26日の晩に、山頂付近で「二十六夜のまつり」が行われていたといわれま す。これは、秋山村18集落のうち最奥にある無生野から浜沢、原、尾崎、寺下、板坂、遠所、大地、栗谷、中野、神野にいたる11集 落が共同で運営していた行事でした。当日は夕方になるとそれぞれの集落から松明を持って山に登り、二十六夜の月が上るまでの間 は飲食をしたり博打などに興じていたようです。そして、いよいよ夜明け前に月が上ると、全員で月を拝みながら無病息災や農作物 の豊作、養蚕の成功など祈願したと伝えられています。
 山頂は意外に狭く、大勢の人が一度に集まることは難しいと思われましたが、かつては山頂一帯が広いカヤト(茅の原)になって いたそうで、遥か東方には隅田川に浮かぶ帆かけ船までみることができたとそうです。ただし、調査当時は西方の一部を除いて一面 の樹林帯であり、眺望はほとんどききません。特に東方の視界が全く閉ざされているのはたいへん残念なことです。下の平坦地も、 現況は周辺を雑木林に囲まれているため眺望は全くありません。かつてはカヤトであったとする伝承や月待塔がのこされている状況 などから判断すると、おそらくこの平坦地が「二十六夜のまつり」における中心的な役割を担っていた場所と考えられます。
 二十六夜塔の造立に関しては、その寄付を呼びかける趣意書が『原田平家文書』にのこされています。それによると、六夜待の主 尊である愛染明王が養蚕の守護神であるから、これからも養蚕が盛大になるように供養塔を安置して祈願所としたい旨の説明がみら れます〔『秋山村誌』文0003〕。愛染明王が染色関係だけでなく、養蚕の守り神として二十六夜待信仰と結びついていたことを示す 史料として注目されます。[1996年5月調査]

 

秋山村の二十六夜山
〈左〉山頂は眺望なし /〈右〉広場の二十六夜待供養塔

【山梨県都留市】
 秋山村の二十六夜山から南西方向へ約10`離れており、菜畑山から今倉山へ続く尾根の西端に位置しています。標高は1297.3bで、 秋山村のそれよりも 320bほど高い山です。登山道は引野田と戸沢からのコースがありますが、戸沢ルートのほうが道はしっかりし ています。
 現在の山頂からは、北方と南方の展望が得られるものの、肝心の東方は樹林地となっていて全く眺望がきかない現況です。この山 も山頂は狭く、近くに平坦地もありません。おそらく、山頂付近のどこかで二十六夜の月の出を拝したものと推測されます。引野田 で聞いた話によると、昔は山頂から東京品川方面を望むことができたということです。集落にもっとも近く、二十六夜待が可能な山 であったのでしょう。
 当山の月待塔は、山頂から西へ約20b下った場所にあり、1854(嘉永7)年7月の造立で、秋山村のそれよりも35年ほど古いもの です。石は高さ約 110aの自然石が利用され、正面には「廿六夜」とだけ刻まれており、左側面に発願主として法能郷中、玉川村中、 上谷村中の名を確認することができます。これらは、いずれも二十六夜山の北西側にある集落で、かつては共同で月待行事を営んで いたものと思われます。
 現地調査では、二十六夜待の信仰についてほとんど情報を得ることができなかったため、後日都留市の教育委員会へ問い合わせて みましたが、残念ながら地元にも詳しい史料は残っていないという回答でした。[1998年5月調査]

 

都留市の二十六夜山
〈左〉麓の集落からの遠望 / 〈右〉山頂からの眺望

【静岡県賀茂郡南伊豆町】
 南伊豆の妻良港の南西に位置し、標高は 310.7bで海に面しています。明治時代の測地図には「朝日山」という表記があり、地元 でも以前はそのように呼ばれていたようです。南伊豆には高い山がありませんので、この山の頂からは東方の海上から上る朝日を望 むことができたといわれており、それが山名の由来につながっているものと考えられます。
 事前の情報では、二十六夜山への登山道はいくつかあるものの、近年は登る人もなく荒れているとのことでした。しかし、実際に 足を踏み入れてみると、最近になって山の会の人たちによって山頂へのルートが復元されていました。それは、妻良と吉田を結ぶ林 道の途中にある登山口から入る最短ルートです。現在、山域は全体が常緑広葉樹と落葉樹の混交林となっており、一部ではかなり密 生した区域もみられました。山頂は 80〜100平方bの広さで樹木が伐採されていましたが、北方から西方の一部で眺望があるものの、 南方および東方側は全く見通しがききません。また、三角点と標札以外には、二十六夜待信仰にかかわるような遺物は確認できませ んでした。
 妻良での聞きとり調査によると、かつてはこの山で二十六夜待の行事が行われていたということです。ただし、妻良では二十六夜 さまを信仰したとする伝承がないようですので、おそらく吉田集落の人たちによって信仰されていたものではないかと考えられます。 以前は、山域一帯に広いカヤトがあり、子どもたちがそこに登ってカヤスベリなどをして遊んでいたということですから、現状とは 全く異なる景観をみせていたことになります。
 この山での具体的な信仰については、ほとんど情報を得られなかったものの、伊豆地方ではこの地域以外でも各地で六夜待が行わ れていました。たとえば、山間部にある天城湯ヶ島町の矢熊、船原、数沢地区などでは、かつて「二十六夜さん」という月待行事が あり、矢熊地区の場合は旧暦の7月26日に裏手の天支山頂上に登り、中伊豆町や伊東市を隔てた相模湾から昇る月を拝していました。 このとき、わずかな間だけ月が三体になって現れるという伝承があります。二十六夜待では、一般的に身近な場所にある高台や山を 利用したケースが多かったものと推測されます。その意味で、妻良の二十六夜山は、山名に信仰の痕跡をとどめることができた貴重 な事例といえるでしょう。[2001年5月調査]

 

〈左〉南伊豆町の二十六夜山頂上 /〈右〉薄明の二十六夜月

日食供養塔 2021/05/25

 東京湾に注ぐ多摩川上流の小河内ダム(奥多摩湖)脇の広場には、全国でもめずらしい日食供養塔があります。この貯水池は、東 京都の水道用水確保のため1957(昭和32)年に完成したダム湖で、計画から26年の歳月を要しています。ダムの建設に伴って土地や 家屋を失い、移転を余儀なくされた人びとの暮らしぶりや心情については、『日蔭の村』(石川達三著)に詳しく綴られていますが、 そうした暮らしを支えてきた多くの習俗や慣習、行事なども水没の憂き目にあいました。民俗文化財の一部は、集落の移転とともに 移設され、保存されたものもあります。その中の一つが、日食供養塔です。
 この石塔についての詳しい状況は知られていませんが、これまでの断片的な証言等を整理すると、その足取りが見えてきます。ま ず、造立されたのは1799(寛政11)年11月で、旧原村にあった門覚寺の参道でした。現在は、出野というバス停の近くに湖底へと続 く尾根があり、その終端は旧多摩川が大きな弧を描いていたところで、川面から20bほどの高さにあった旧道を挟んで寺や民家が並 んでいました。
 ところが、1882(明治15)年の大火によりほとんどが焼失してしまい、誰もが自宅を再建するのに精一杯の状況で、寺の再建はと うとう実現されませんでした。やがてダム建設が始まると、遺された日食供養塔を含む石塔類は、1955(昭和30)年に引き上げられ、 河内の寺に移されたようです。供養塔の造立には、門覚寺が何らかの関与をもっていたことが考えられますが、そうした経緯を示す 史料は見あたりません。

門覚寺周辺略図

 供養塔は、高さ約 115aの自然石で、上部に日輪を刻み「日食供養塔」と彫られています。案内板によれば、日食を社会異変の前兆 とみて供養したものとされており、天文現象としての日食を供養したものと解釈できます。月食なども含めて、当時の人びとが非日常 的な天文現象に対して抱いた素朴な思いは、多くの場合これを凶事とみるのが一般的です。この地域の伝承にも、日食や月食は、太陽 あるいは月が人間の身代わりとして病気になったとする見方が色濃く表れています。しかし、そのことだけで、わざわざ供養塔を造立 したとは考えにくいのではないでしょうか。類似の伝承は他の地域にも広く分布していますので、この地以外にこのような石塔がみら れないということは、やはり複合的な要因があったと考えるのが適切でしょう。
 そこで、まず推測されるのは、実際に発生した日食そのものを供養したのではないかということです。当時、この地域で観察可能な 日食を調べると、供養塔造立前年の10月に東京で食分0.56の部分食があり、1796(寛政8)年6月に食分0.59、さらに1794(寛政6) 年11月には食分0.81の部分食が記録されています〔『日食月食宝典』文0164〕。確かに連続した日食があったことは認められますが、 このようなケースは特にめずらしいものではなく、直接のきっかけとしては結びつきが弱いようです。さらに、少し見方を変えてそれ 以前の社会情勢に注目してみると、そこには大きな混乱の波が押し寄せていたことが分かります。
 寛政期の前は天明期で、約8年間続きました。しかし、この時代は天明の大飢饉により、庶民の暮らしは大きな危機にさらされてい たことが知られています。冷害や多雨などの気象異変のほかに、関東地方では天明3年の浅間山大噴火や同6年の利根川大洪水など、 自然災害が相次いで発生しました。しかも、その直後の11月には食分0.98の日食があり、まさに天変地異の様相を呈していたわけです。 その後、寛政期に入って情勢は回復に向かったものとみられますが、寛政6年から隔年ごとに3回続いた日食を機に、供養のための石 碑を造立したものと推測されます。現在のところ、このような供養塔は他に類例がなく、たいへん貴重な存在となっています。

 

皆既日食と日食供養塔
[左]オーストラリア日食(撮影:箕輪敏行氏)/ [右]現在の日食供養塔

星 見 石  2018/01/27

【八重山の稲作と星】
 八重山地方に星見場(星を観測する場所)が設けられたのは、17世紀後半の時代と考えられています。多くの星見場で 観測に使用する石が設置されたようで、星見石と呼ばれます。現在、星見石あるいは類似の機能を有する遺物として 存在が確認されているのは、石垣島、竹富島、小浜島、波照間島の4島で6ヵ所に及びます。このほか、宮古島においても 3ヵ所で星見石の可能性が高い石の遺構が知られています。
 星見場の役割は、稲を主体とした穀物の播種や収穫に際し、その最適期を特定の星が示す位置によって見定めることに ありました。当時の稲作は自然暦に頼っていたと考えられ、毎年安定した収量を確保するためには、まず播種の時期を正確に 知る必要があったわけです。そうなると、最も信頼できるのは天体の運行をおいて他にはありません。星の巡りは毎年同じように 繰り返されますので、決められた場所で決められた方法によって星の位置を観測すれば、年間の農事暦を把握することが 可能であったと思われます。当事者である農民たちが、そうした知識を持ち合わせていたかどうかは分かりませんが、作物の 収量確保は農民ばかりでなく、地域を治める役人にとっても重大な関心事でした。その背景に、人頭税の存在が重い足かせと なっていたようです。
 16世紀から17世紀初頭にかけて、琉球王国のちには薩摩藩と相次いでその支配下におかれた宮古・八重山地方では、 地域の人口を基準とした新たな税(人頭税)が課せられることになり、人びとの暮らしはますます困窮の度合いを深めて いきました。その後も、人頭税はより過酷な税へと変化した経緯があり、税を課す側とすれば早急に具体的な対応策を導入する 必要があったのでしょう。星見(星の観測)の普及は、その大きな柱の一つであったと推測されます。

【星見の方法】
 石垣島の川平地区で行った聞き取り調査では、かつて明治生まれの人たちがムルブシ(プレアデス星団)を見て米作りをして いたと聞きました。ただし、どこで、どのような方法を用いていたのか、詳しい内容は分かりません。星見石の利用については、 大正13年発刊の『八重山民謡誌』〔文0290〕に「ンニ星の見方について、立冬の節には日没後東天に現われる昴星座 (ムリカ星)が胸部の高さ程昇った時、各部落の後方に設けられた「星見石(プシィミ)」を中心にして、この星と石と目とが 一直線上に見えた時が種子取の好い時節である」と記されています。種子取(タニドゥル=播種)の後に行われるのが種子取祝で、 この地方に伝わる農耕儀礼の一つです。また、星見石以外の方法として竿丈、やこう丈、眉丈、雨垂丈等の観測方法が報告されて います〔『八重山文化論集』文0261〕。このうち、竿丈は「星見場に三尋(約十二尺)の星見竿を垂直に立て、そこから三尋西方に さがって座り、東方の「すばる座」を仰ぎ見、「群星」が眼と竿の先を結ぶ線上の高さ(竿丈)に見えた時期を稲の播種の好適期と 定めていたようである」とあります。
 前者の星見石の場合は、胸部の高さ程になったムリカ星が対象となりますが、石の高さや観測者との距離が不明なため、実際に どの程度の仰角で観測していたのか不明です。さらに、現在見られる星見石には、柱状に立てられたタイプや側面に孔を有するタイプ、 そして方位線を刻んだタイプがあり、それぞれに異なる利用が行われていたことでしょう。一方、竿丈の場合は高さ三尋の竿から 三尋離れた位置に座して観測すると、目標とする星の仰角は約38度(一尋を約 1.2b、眼の高さを約 0.8bとして算出) になります。
 なお、宮古島に遺された3ヵ所の遺構は高低差のある二つの石から成り、この場合の観測は人の目》第一の石》第二の石》 目標の星を結ぶ線になります。観測の精度は向上しますが、その一方で設置の際の位置決めと観測線の設定はより精確さを求められる ことでしょう。天文(星の見分け方など)に関する知識と、それを利用する技術の普及がどのように進められていったのか、それを 解明する糸口は既に久米島や多良間島、波照間島で発見されている星の史料にあると思われます。

【各地の星見石】

竹富島の星見石(八重山郡竹富町)
 

▲〈左〉側面にある孔 / 〈右〉石に刻まれた由来

 この星見石は、1979年に初めて竹富島を訪れた際に出会った石です。当時健在であった上勢頭亨氏よりいろいろと話を伺いましたので、 それを整理してみましょう。まず設置場所ですが、元は北岬の丘(人通りの多い道端)にあったようです。その後関係者で議論を重ねた末に 赤山公園に移設されたといわれています。移設の理由は分かりませんが、諸作物の栽培と気節(四季)を定める目的で造られたものです。 実際に星の観測が行われたのは人頭税時代(17世紀中ごろから19世紀末)とされ、夜の8時から9時頃に側面にあけられた孔から卯の方角 (東方)を見て、その中に星が見えるとき、あるいは見えないときを以って作物の播種や収穫期を見定めていたということです。
 簡単な計測を行ったところ、石本体部の大きさは高さ約100a、最大幅が約80aあり、厚さは最大約40aでした。そして、底面から 約30aの位置に扁平面を貫く孔が穿たれています。孔の大きさは、西側が約13aの円形ですが、東側は最大22aのD字形となり、その 中心線は真東から20度ほど南へずれていました。またこの孔はほぼ水平のため、狭い視界内で確実に星を捉えていたとするとかなり低い 高度で観測が行われていたいたものと推測されます。
 ところで、この石には由来が刻まれています。「往古ハ暦ナク草木ノ緑ノ模様星ノ出没ノ模様等デ春夏秋冬ノ季節ヲ定メ以テ作物ヲシタト 言フ」とあり、ここで星というのは竹富島でムリカブシと呼ばれるプレアデス星団のことです。人頭税に苦しめられた人びとは、一体どのような 想いでこの星を観ていたのでしょうか。
〔1979.05.24調査 ※撮影は2013年12月〕

登野城の星見石(石垣市)

▲ 市街地の道路沿いに立つ 

 石垣島に現存する星見石の一つで、高さ約145aの柱状石が1基だけ遺されています。場所は市街地の北東、八重山農林高校の先の 県道沿いにある自動車販売店の一角で、すぐ脇に小さな川があります。底部はコンクリートによって固定されており、また周辺の環境も 大きく変化しているため往時の面影は見られません。仮に当初から単独の石であったとすると、そこから決められた方向に一定の距離を おいて石の先端に目標とする星を捉えていたことになります。  しかし、『星見石と人頭税石』〔黒島為一著『情報やいま』2002年11月号掲載〕によると、この星見石に伴う別な石が存在して いたということです。このタイプの星見石では、通常背丈の高い石と低い石が一対となって利用されますので、観測の方法としては低い 石から高い石を仰いで各頂点を合わせ、その延長線上に位置する星を観測することになります。なお、宮古島のブ・バカリ石やウンヌン ナックと呼ばれる石造物も、同様に二つの石が対となった構成です。
〔2017.11.30調査〕

荷川取のブ・バカリ石(宮古島市)
 

▲〈左〉手前の高い石と奥の低い石 / 〈右〉二つの石と星を結ぶイメージ像

 平良の荷川取港付近にある人頭税石のことです。案内板の解説によれば、地元でぶばかり(賦計り)石と呼ばれていることやこの石より 身長が高くなったら人頭税を課せられたという言い伝えがあることを紹介しつつ、人頭税の史実とは無関係であろうと説明しています。 現在のブ・バカリ石は、住宅街の一角に高さの異なる一対の石として遺され、道路の向かい側は公園や港の岸壁です。いずれも海岸を埋め 立てて造成されたもので、元々は海でした。近くに住む人の話では、昔は石が海岸線に立っていたと言い、子どもたちの遊び場の一つと なっていました。残念ながら二つの石の位置関係は覚えていませんでしたが、興味深い情報と言えるでしょう。少なくとも、現状の石の 配置が本来の状態でないことが示されたわけです。『人頭税石?−八重山からの問題提起−』〔文0085〕には、この石が道路工事によって 移動されたことや元の状態に関する論考が掲載されています。
 そうした事情を踏まえつつ現況の確認を行ったところ、二つの石の高さはそれぞれ約144aと約78aで、両者の内端間の距離は約3b でした。さらに、低い石から高い石を見通して各頂点を結んだ観測線の仰角は、簡易的な計測で5〜7度です。地面の傾斜を考慮しても 10数度ではないでしょうか。また、この観測線の方位は磁北から約42度西に寄っています。宮古島の磁針方位は西偏約3度40分です ので、ほぼ北西の方向を望む設定となります。本来の設置状態とはかけ離れていますが、黒島氏が提起されているようにブ・バカリ石が 人頭税とかかわる石などではなく「ブス(星)ハカリ石」であるという説はほぼ間違いないものと思われます。
〔2017.11.27調査〕

城辺町のウンヌンナック(宮古島市)
 

▲〈左〉高い石と奥に隠れた低い石 / 〈右〉サトウキビ畑の中に立つ

 ウンヌンナックとは「鬼の杵」という意味だそうです。城辺町は宮古島の南東部に位置していますが、そのさらに南岸近い七又集落の サトウキビ畑の中にありました。ブ・バカリ石の項で参照した黒島為一氏の資料では、当地に二対のウンヌンナックがあることになって いますが、今回確認できたのは1ヵ所だけでした。早速、この土地を所有する方から話を聞いたところ、約55年前に当時の城辺町教育 委員会が二つの石を町役場に移転させましたが、諸々の事情によりほどなく戻ってきたということです。位置的には、ほとんど元あった 場所に納まっているとされています。
 承諾をいただいて畑に入ると、かなりの踏み跡がみられました。石の周辺には多少の空間があるものの、低い石から高い石を見通すのは 容易ではありません。一見してブ・バカリ石と似たような形態を示していますが、低い方の石は荷川取よりもスマートな柱状タイプです。 簡易計測の結果は、大きさが約133aと約83aで、内端間の距離は約 2.1bでした。また低い石の頂点と高い石の頂点を結ぶ観測線の 仰角は、簡易計測で10〜11度あり計算でもほぼ同じ値となりました。ただし土地の傾斜が不明のため、実際の仰角は分かりません。 そして、観測線の方位は磁北から東へ約152度にあたり、西偏値を考慮してもほぼ南南東の方角ということになります。ブ・バカリ石の ような原位置を大きく逸脱した石の配置とは異なるものの、石を元の場所に復帰した際の条件次第で星見の設定は大きく変化します。 たとえ設置の方向を正しく復元できたとしても、二つの石の傾きや高さを高い精度で再現するには事前の精密な測量データが不可欠です。 そういう意味で、現状の二つの石の関係は少なくとも移設前と比べて大きく変化している可能性があると考えるべきでしょう。
〔2017.11.29調査〕

                                                                       

群星の文化  2020/01/25

 三つの主要な島嶼群から成る沖縄県では、それぞれの生業や暮らしのなかで特有の文化が育まれてきました。それは、 祭祀と信仰の文化とも言うべき一面をもっています。社会組織の急激な変化に伴い、古い行事や習俗が次第に廃れゆく 時代にあって、かつての信仰の全容を再現することは困難であるにしても、遺されたそれらの断片から当時の人びとの 心象を解き明かす努力は必要でしょう。
 星の文化という視点で捉えると、比較的共通性が多いようにみえますが、個別の要素ではそれぞれに独自の信仰や 習俗が伝承されてきた事例も少なくありません。ここでは、おうし座のプレアデス星団である「群星」をとおして、 沖縄や八重山の人びとと星とのかかわりを探ってみたいと思います。

【 天の群星 】
 琉球文化には豊かな古謡の世界があり、現在も歌い継がれているものが数多くあります。沖縄本島北部の一部離島を含む 国頭郡地方に伝わる「天の群星[てぃんぬぶりぶし]」もそのひとつです。琉球諸島において、「群星」は文字通りに 小さな星の集まりとして認識され、その呼称もブリブシ(沖縄地方)、ンミブス(宮古地方)、ムリカブシ・ムルブシ (八重山地方)など、実に多彩な転訛がみられます。
 ところで、古謡に表れた群星といえば八重山地方の「ムリカ星ユンタ」がよく知られており、その哀愁に満ちた旋律は、 聞く人の心に淡々とした響きを与えてくれます。石垣島に伝わる「ムリ星ユンタ」にも、農耕において目安となる星(ンニ星、 カブシ星、ユサレ星など)が登場します。さらに、沖縄を代表する教訓歌として歌い継がれている「てぃんさぐぬ花」 では、
   天の群星や 読めば読まりしが
   親の言し事や 読みやならん
とあって、プレアデス星団の数は数えられても、親の言葉は数えきれるものではないと教えています。このように、群星は 古くから人びとの暮らしに深くかかわり、大きな拠り所とされてきました。
 さて、「天の群星」が伝承されているのは、名護市の北にある国頭郡本部町と伊江村(伊江島)です。これらは、いずれも 地域特有の行事において歌われ、踊りを伴います。その行事とは、伊江村の「二才踊り[ニセウドゥイ]」であり、本部町の 「ウシデーク」なのです。
 二才踊りは伊江島の村踊りであり、島独自の芸能として伝承されてきました。「二才」は若者のこととされ、「青二才」 からきた言葉ではないかと考えられます。島内の各地区ごとに複数の唄と踊りがありますが、このうち東踊い[アーリウドゥイ] と西踊い[イリウドゥイ]のなかに天の群星[伊江村ではティンヌブリ]が組まれています。

 1.スリ天の群星や 皆が上ど照ゆる
    スヌマンザイ照ゆる
 2.黄金三つ星や 我一人上ど照ゆる

 歌詞の意味は、天の群星は皆の上に照っているが、黄金三つ星[クガニミツブシ]は私の上にだけ照っているという内容で、 両者を対比させています。三つ星は、言うまでもなくオリオン座三星のことですが、現地では「黄金」という修飾語について、 たいへん尊いものを敬うときに用いる言葉であると聞きました。人びとにとってプレアデス星団とともに重要な存在であった ことがよく分かります。踊りについては、二人の踊り手がゼーと呼ばれる道具を手に持ち、飛び跳ねるように舞いますが、 全体的に優しい動きが多い二才踊りのなかでは、唯一躍動的な踊りとされています。
 一方、伊江島航路の本島側玄関口である本部港から少し離れた本部町渡久地の「天の群星」は、ウシデーク行事における 唄と踊りの一つとなっています。ウシデークは沖縄諸島の各地で現在も行われ、一般に臼太鼓(踊り)と称されていますが、 現行の踊りを見る限りにおいて使われるのは臼太鼓のような楽器ではなく、チヂンと呼ばれる小型の鼓です。
 ウシデークは、単独の行事というより多くは盆(旧暦)やウンジャミ(海神祭)、シヌグ、十五夜などと結びついています。 いずれにしても、女性だけで行われるのが大きな特徴で、渡久地では旧暦7月22日にシヌグの一環として継承されてきました。 開催場所は西のアサギ(渡久地神社)前にある広場で、昭和初期の記録〔文0365〕によると東と西から繰り出した踊り手が広場で 合流し、一つの円陣を作って踊りが始まると記されています。この時に採譜された歌詞は以下のとおりです。

 1.天の群星や よめばよまれゆい
    親の寄言の よみのなゆみ
 2.天の群星や みなが上ど照ゆる
    黄金三つ星や 我上ど照ゆる
 3.あの星と月と見比べて 見れば
    あの星やうすさ 月の美しゃ
 4.あきよ天川や 島横に なたい
    なまで来んさとや な来んさらめ

 このように、1番から4番のなかで群星が登場するのは1番と2番だけです。しかも、1番は「てぃんさぐぬ花」にある 歌詞とほぼ同じ表現であり、2番は伊江島のそれとほとんど変わりがありません。同じ題名の曲でありながら、歌詞の 構成には大きな相違が認められ、旋律もまた異なります。実は本部町には渡久地以外の地区でもウシデークに「天の群星」が 歌われているものの、歌詞や旋律はそれぞれに特徴があるという話を現地で聞きました。
 それでは、伊江島のウスデークはどうなのか気になるところですが、残念ながらこの島にはウシデークと呼ばれる行事は 伝承されていないようです。ただし、それに類似する行事として「アヤーメウタ」というものがあり、一部の地区で細々と継承 されています。もしかすると、かつてはアヤーメウタのなかで「天の群星」が歌われていた可能性も考えられますが、それを 示唆する資料は今のところ見出せていない状況です。
 時代の変化や伝播の過程で、歌詞が変化したり全く別な曲に取り入れられる事例は数多くあります。おそらく、ここで 紹介した唄以外にも天の群星を組み入れた曲はあるはずです。その先にさらなる解明の糸口を求め、沖縄の夜空で群星が最も 親しまれてきた要因を見出していきたいものです。   

 

「天の群星」伝承地
〈左〉伊江島の城山 / 〈右〉渡久地の西のアサギ

【 群星御嶽 】
 八重山では、さまざまな祭祀の場として御嶽[オン]が重要な役割を担っています。そこは神聖な領域とされているため、 基本的に一般の立ち入りはできません。なかでも石垣によって仕切られたイビと呼ばれる空間は、女性神職であるツカサ だけが立ち入ることのできる特別な場所であり、御嶽の核心部分です。
 石垣島の川平地区には、現在五つの御嶽がありますが、このうち集落の北西部、川平貝塚からさらに奥の台地に存在する のが群星[ムリブシ、ンニブスなどさまざま]御嶽です。その由来について記した喜舎場永c氏の「群星御嶽の由来略記」が 同御嶽の神元家[カンムトゥヤ]である早野家(南風野家より改名)に伝わっています〔『石垣島・川平諸御嶽の由来と群星 御嶽の神口』文0294〕。内容を要約すると、南風野家の女性がある夜外に出てみると、中天の群星から長張提灯のような火が 降りて森林との間を上下するのを目にし、それを家人などに伝えたところ、火が降りた森林内で白米の粉の印が見つかりました。 そこで、この場所が神の安置されるべき所とされ、南風野家が主となり御嶽をつくったというものです。この由来では、 「群星」「火の柱(霊火)」「白米の粉」が重要なキーワードになっているものと思われますが、さらに突き詰めれば、天上の 星々と稲作の関係を示唆している可能性もあります。
 実は、この地域の御嶽について整理した『八重山島由来記(御嶽々名并同由来)』(1705)には群星御嶽の記述がなく、 それに該当するのが稲干御嶽[イニフスオン]とされています。「ンニブシ」と「イニフス」の音が似ているため聞き間違えて 誤記されたというのがその理由ですが、全く逆の見解に基づいた指摘もあります〔『琉球諸島の民話と星』文0369〕。根拠と されるのは、『八重山島由来記』の稲干御嶽に関する記述に由来が記されていないこと、および川平村ではそれまで掲げていた 御嶽の扁額を1916(大正5)年になって「群星」に書き改めたという二点です。後者の情報については確認できていませんが、 果たして以前の扁額に記された文字は何であったのか、ぜひ解明したいものです。
 いずれにしても、地元の人の話によると、川平の重要な祭祀である結願祭と節祭[シチィ]は現在の群星御嶽で行われており、 同所が地区を代表する拝所であることがよく分かります。各家に配布されるという「川平村神事日程表」〔文0370〕には年間で 26回に及ぶ神事が記載され、主要な生業である農耕と深いかかわりがみられます。八重山地方においては、星見石や星見場など 古くから特定の星を利用した農業が営まれてきましたので、群星(稲干)御嶽が形成された背景には、古来の星辰信仰が少なからず 影響しているのかもしれません。

 

群星の降臨説話
〈左〉川平の群星御嶽 /〈右〉プレアデス星団

三日月塔  2017/11/25

【三日月信仰と三日月塔】
 月をめぐる習俗の一つに三日月(この場合は旧暦三日の月)さまの信仰があります。特に「三日月に豆腐を供える」という伝承は主に東日 本や北日本の各地にみられ、現在も行われている地域が少なくありません。
 三日月塔は、そのような信仰の名残を示す有形資料の一つで、主として自然石の表面に「三日月供養」あるいは「三日月塔」などの文字が 刻まれた石塔をさします。同じ月を対象とする信仰でよく知られた月待塔などと比べると極端に数が少なく、しかもある特定に地域に散在 しています。これまで北日本や東日本で確認されていますが、関東では茨城県と栃木県、東京都、千葉県などで記録されています。しかし、 それらの地域においても三日月をめぐる習俗については伝承が希薄なため、石塔が造立された目的や信仰の実態などはよく分かっていません。 ただし、茨城県桜川市真壁地区(旧真壁町)には近世から昭和にかけて造立された29基に及ぶ三日月塔の調査報告〔『真壁町の石仏・石塔』 文0300および『真壁町の石造物−寺社編−』文0301〕があり、今後の現地調査や聞き取り調査によっては信仰の実態を把握する手掛かりが 得られる可能性も残されています。

【各地の三日月塔】
 これまで、現地調査によって確認された三日月関連の石造物を都県別に整理しました。ほとんどの事例が個人の造立によるものですが、三日月不動の 信仰においては講などの組織が関与していた可能性もあります。

【 茨 城 県 】

三日月塔(筑西市)

JR水戸線のにいはり駅から北に約80bの稲荷社境内にあります。自然石タイプの文字塔で、地上部の高さは40a余りです。 1853(嘉永6)年の造立で、上部には左に日輪、右に月輪が陰刻されています。なお、施主の銘は個人の名前となっており、熱心な 信者が供養の目的で建てたものと推測されます。〔2012.03.03調査〕

三日月尊塔(筑西市)

三郷地区の雲照寺(不動尊)境内に馬頭観音や延命地蔵などの石塔とともにあります。片岩状の自然石に近い石を利用した文字塔で、 地上部の高さは約66aです。主銘文は「三日月尊」とだけ刻まれており、1884(明治17)年の造立です。施主名はありませんが、 「中嶋」という姓を確認できるので、やはり個人が建てたものと考えられます。なお、この石塔は中央部に接合痕があり、過去に 何らかの要因で半折した経緯をもっているようです。〔2012.03.03調査〕

【 栃 木 県 】

三日月塔(足利市)

梁田町の星宮神社境内に多くの石塔や石祠とともに遺されています。この神社はかつての村の鎮守で、昔は真言宗成就院の別當として 虚空蔵菩薩を祀っていたことから、明治期の神仏分離政策によって星宮神社となった経緯があります。石は高さ約34a(台石を除く)、 厚さが10a足らずの片岩タイプで「三日月塔」とだけ刻まれています。残念なことに、紀年銘などは全く見当たりません。造立当初 からこの場所にあったかどうかも不明です。〔2015.05.01調査〕

三日月天塔(佐野市)

この塔があるのは、佐野市の北部で群馬県境に近い旧田沼町飛駒の黒沢地区です。山間の彦間川沿いに散在する20軒余りの集落で、 その中ほどにある天満宮の境内にひっそりと眠っていました。駒型と思われる石には、上部に月輪(左)と日輪(右)があり、 その下に大きく種子「シャ」が刻まれ、それに続いてさらに「三日月天」の文字があります。「シャ」は十二天のなかの月天を示す 種子で、これを祀る石塔はたいへんめずらしい存在です。1868(慶應4)年の造立ですが、誰が建てたものかは分かりません。 〔2017.05.02調査〕

【 千 葉 県 】

三日月不動尊塔(柏市)

布施地区の真言宗飛龍山圓性寺本堂裏に二十三夜塔などと並んで建っています。台石の上に高さ約65aの尖頭角柱を載せたタイプで、 1896(明治29)年に土谷津(布施の一集落)の年寄中によって造立されました。主銘文の「三日月不動尊」というのは、三日月の 本地を不動明王とする仏教の教えに基づいた信仰と考えられ、また真言祈祷大系の一つである『十結諸大事』〔『真言秘密加持集成』文0302〕 に説かれた「三日月拝見の大事」が不動明王の検印を結ぶ所作で行われることと深くかかわっているようです。なお、この石塔はもと 土谷津内の道路沿いにあったということです。〔2013.11.02調査〕

三日月大朋神塔(松戸市)

松戸市には「三ヶ月」という地名が遺されており古くは三ヶ月村でした。そしてこの地に鎮座しているのが他ならぬ三日月神社です。 その社殿の裏側に、立派な石組台座に載った石塔があって「三日月大朋神」と刻まれています。おそらく、大朋神は「大明神」のことで しょう。石は高さ約75aの笠付塔です。1751(寛延4)年の造立ですから、これまでに確認した三日月塔類の中では最も古いものです。 〔2015.05.03調査〕

【 東 京 都 】

三日月供養塔(あきる野市)

旧西多摩郡五日市町(現あきる野市)の戸倉地区にあるK家が所有する三日月塔です。自然石を利用した高さ約80aの文字塔で、 主銘文は「三日月供養」(※養の字は旧字)と刻まれ、文字通り三日月信仰の供養を目的として建てられたものと思われます。 1877(明治10)年の造立です。願主は個人で、調査時の当主であったK氏の先々代にあたる方とのことですが、三日月を拝したり 供えものをするなどの特別な行事は行っていないようです。〔1994.04.16調査〕

妙見の石造物  2020/07/29

 妙見信仰に関連した石造物には、いくつかのタイプがみられます。ここでは、関東地方を中心とした調査事例を紹介しましょう。 石塔のなかには星辰を示す小円を刻んだものがあり、これらは別項で 星の意匠 として展示していますので、そちらを参照してください。

【妙見にかかわる文字塔】
 一般的には「妙見」や「妙見菩薩」などの銘を刻んだもので、一部の北辰、北辰妙見、北斗などの銘をもつ石塔も含みます。月待塔の ように特定の地域に集中する分布はみられませんが、信仰の証として各地に散在しているようです。このタイプは像容がないため、得ら れる情報は文字だけが頼りとなります。
《 神奈川県 》
 神奈川県では、鎌倉市内に2基、相模原市で1基が確認されています。
◇鎌倉市A:市内のなめり川沿いにある大倉稲荷の参道を入ったすぐ左手に8基の石塔群があり、そのなかの1基です。台石の上に高さ 約63aの不整形片岩を載せ、「妙見大菩薩」の銘を刻んでいます。造立は1866(慶応2)年で、個人によるものと推察されます。
◇鎌倉市B:安国論寺の入口付近にある名越大黒堂には、小さな境内に3基の石塔があり、そのうちの一つ。高さ約117aの片岩タイプの 石の中央に「北斗尊星」とあり、左右に「天鈿女命」と「猿田彦大神」が併刻されています。1808(文化5)年の造立で、庚申信仰や 陰陽道などとの習合が感じられる資料です。
◇相模原市:大島地区の住宅街にあります。高さ約106aの自然石に「妙見尊」とだけ陰刻されています。1842(天保13)年の造立で、 下部に人名らしき文字があるものの、磨滅のため判読できません。
《 新潟県村上市 》
 市内の真言宗観音寺境内にあります。台石の上に高さ約80aの自然石を載せ、大きく「妙見塔」と彫られています。1855(安政2)年 の造立ですが、由緒等はわかりません。
《 長野県富士見町 》
 松目地区の路傍に、庚申塔や筆塚塔などとともに立っています。台石の上に高さ約91aの自然石(表面は整形)を載せたもので、主 銘文は「妙見菩薩」となっています。造立は1972(昭和47)年の再建塔で、個人名があります。古い石は確認できませんが、かつて この地に妙見信仰が存在したことは確かでしょう。紙垂をつけてあったと思われる細い縄を見ると、近年も継続して祀られていた 可能性があります。

   

〈左〉神奈川県の北斗尊星塔/〈中〉新潟県の妙見尊塔/〈右〉長野県の妙見菩薩塔

 ところで、神奈川県西部を中心とした地域では「妙見菩薩」ではなく、特徴的な字体で「北辰妙(明)見星」と刻む数多くの石塔が確認 されています。特に山北町や開成町などに集中してみられ、冨士講の信仰集団によって造立されたものです。ただし、こうした石塔が 見られるのはある特定の講だけで、その創始者(行名を名山寿行という)が大きな影響を及ぼしています。資料〔『足柄の冨士講』文0406〕 によると、この妙(明)見は一般的な妙見信仰ではなく、名山寿行による富士信仰と星辰信仰を結び習合させた厄除けのための個人祭祀を 石碑にしたものといわれます。確かに、これらの石塔には日月をはじめとして九曜、七曜、二十八宿などの文字が多くみられ、日本の 星神信仰を垣間見ることができます。その代表としての北辰妙見星なのかもしれません。いずれにしても、富士講との習合を示唆する文化財 として貴重な存在です。

[左] 藤沢市の北辰明見星塔AとB[右上] / [右下] 小田原市の北辰明見星塔

【妙見にかかわる像容塔】
 妙見像には、元来定型化されたタイプがなく、また時代によって変遷がみられます。石塔の多くは近世以降の造立ですから、坐像、立像、 亀に乗る像などの違いはあっても、概ね右手に剣を持ち左手は持珠の象がよくみられます。
《 埼玉県飯能市 》
 市内に2基の像容塔がみられます。
◇石塔A:旧名栗村の寺院境内にある高さ50a余りの舟形タイプの石造物です。1864(元治1)年に、個人によって造立されたものですが、 すぐ近くには同一の名が刻まれた二十三夜塔もあります。この石塔の彫像は二臂で右手に剣を持ち、左手には宝珠らしきものを載せています。
◇石塔B:Aからほど近い旧飯能市域にも類似の石塔(1831年造立)があり、こちらは玄武に乗った彫像が見られます。この地域は秩父 妙見宮の影響が大きかったとみられ、近世における個人あるいは講組織などによる篤い信仰が感じられます。
《 神奈川県相模原市 》
 相模原市田名地区の山王神社境内にあります。高さ約59aの浮彫り坐像が台石に載っています。これらが一体のものであるとすれば、台石 に講中と刻まれているように、妙見にかかわる講が存在していた可能性があります。

 

〈左〉埼玉県の石塔A /〈右〉神奈川県の像容塔

【その他の石造物】
 埼玉県富士見市の甲子大黒天には、境内に倒伏した石灯籠があり、その円柱部に「北斗星 妙見霊神」の銘が刻まれています。 1681(天和1)年の造立で、関連する石造物としては古い時代のものと思われます。願主は個人で、残念ながら造立の目的などは 不明ですが、近世初期の妙見信仰を理解する手がかりとして貴重な資料です。

 

妙見が乗る玄武(左)と妙見の石灯篭

七 星 剣  2022/09/25

【七星剣の星文】
 七星剣は、一般的に「七星」の文様をもつ剣の総称とされています。元来は中国で生まれ、やがて朝鮮半島や 日本へ伝わりました。国内では、古文献に星文を有する剣の記述があり、四天王寺(7〜8世紀)や正倉院(9 世紀)、法隆寺(12世紀)が所蔵する七星剣などがよく知られています。これら3点に共通するのは、いずれも 剣の表裏に北斗七星が象嵌あるいは線刻されていることです。また、他の天体文として法隆寺のものは両面に日 月を有し、四天王寺の剣は表側(陽面)のみに@一文字の三星とA屈曲した三星を刻しているほか、正倉院の剣 では2種類の三星に加えて、二つの星が斜めに三列並んだ星文(C六星A)を認めることができます(星文図参 照)。

日本の七星剣にみられる星文の模式図

 さらに、共通する3種の星文をもつ四天王寺と正倉院の各剣を比較すると、星文の配置には統一性がみられま す。前者では、陽面の切っ先から@一文字三星−A屈曲三星−B北斗七星と並び、後者の場合は陰面の切っ先か ら@−A−B−C六星Aという配列です。ただし、陽面側は切っ先からC−B−A−@と逆の配列になっており、 @とAの向きも互いに異なります。なお、刀身全体の文様構成としては、法隆寺所蔵品を含めて各星文間に主と して雲文などが刻まれています。
 さて、七星剣については、これまでにさまざまな論考が発表されていますが、そのうち北斗七星だけでなく他 の星文に関する考察を行っている資料がいくつかあります。1941年には、末永雅雄氏が『日本上代の武器』〔増 補版は文0438〕において七星剣の解説を行い、星文の一部についてもその正体に言及しているものの、具体的な 論考には至っていません。したがって、ここではそれ以降の資料について整理してみたいと思います。

七星剣をめぐる星文の解釈
星文の分類 たなかしげひさ説 根来昭仁説 野尻抱影説 杉原たく哉説
文0439/1965 文0437/1970 文0299/1971 文0436/1984
四天王寺 @U 牽 牛 星 参宿三星 河鼓三星 牽 牛 星
AT 織 女 星 心宿三星 三 公 織 女 星
B(陽面)T おおぐま座 南斗六星 北斗七星 北斗七星
B(陰面)T こぐま座 北斗七星 北斗七星 北斗七星
正 倉 院 @T 牽 牛 星 参宿三星 河鼓三星 牽 牛 星
AU 織 女 星 心宿三星 三 公 織 女 星
BT 北斗七星 北斗七星 北斗七星 北斗七星
C スバル星 南斗六星 三 台 三 台
注) ・論考者氏名の下欄は、文献記号および発行年を示す.
・星文分類の丸数字は星文図の種別を、ローマ数字はタイプを示す.
・@の牽牛星と河鼓三星は、呼称が異なるだけで同じ星辰をさす.

 まず、たなかしげひさ氏に関しては星文の比定を行っているものの、その根拠が明確でないため選定した意図 は分かりません。根来昭仁氏の場合は、『史記』天官書の北斗七星にかかわる記述において、それらの個々の星 が竜角(心宿でさそり座の一部)、南斗(いて座の一部)、参宿(オリオン座の一部)と密接な位置関係にある ことを重視しています。また、古代中国で天神の祭神として祀られた廟のなかに、日月、参辰(参宿と心宿のこ と)、南斗などが含まれることに注目し、七星剣には信仰の対象たる星々が刻まれていると解したようです。
 野尻抱影氏は、末永氏の発表などから早くに関心を抱いていたとみられ、1954年の『続星と伝説』〔文0441〕 に「七星剣」と題した小文を掲載しています。このとき既に三公と三台説を提唱し、その後はたなか氏の発表を 受けて1969年4月1日付読売新聞夕刊において、同氏の論考に対する考え方を述べています。したがって、表中 に示した文献『星と東方美術』は、そうした経緯を踏まえた上での最終的なまとめと言えるでしょう。同書のは しがきや本文中にも簡潔に記されています。
 たなか氏と野尻氏が行った考証では、星文の比定で3点の相違が認められるものの、四天王寺所蔵剣のB(陰 面)をこぐま座とした見解を除けば、AとCの星文をめぐる相違に論点が絞られます。野尻氏が一貫して述べて いる考証の原点にあるのは、七星剣の由来に「三公戦斗剣」との深いかかわりを認めている点で、それは三公や 三台が天上の高官として紫微宮を守護しているという考え方に基づいているようです。
 その後、従来の論考を精査し、新たな視点でこの課題と向き合ったのは杉原たく哉氏でした。同氏が注目した のは@とA、それにCの各星文と北斗との関係です。こうした考察の過程を経て導き出された結果が、表中に示 した星々なのです。野尻説との相違は、Aの屈曲三星だけとなっていますが、提示された根拠は個々の星文に止 まらず、全体の構成や配置などにも着目して捉えられており、これまでにない斬新な切り口と言えます。その論 点を整理すると、以下の3点に絞られるでしょう。
a)『晋書』張華伝の宝剣譚で、キーワードとなる「斗牛」を本来の南斗と牛宿から北斗と牽牛へと置き換える ことを前提とすると、天文図では紫気が現れるという位置(斗牛の間)に該当するのが織女三星であること
b)さらに、この並びを北斗の反対側へ辿ると三台の六星が存在し、こうした夜空の星々の連なりが四天王寺お よび正倉院所蔵の七星剣に刻まれた星文の配置と一致すること
c)前項で示されたライン(特に北斗のβ星−織女−牽牛)は、紀元前 450年頃の牛宿の初度(やぎ座β星の位 置が冬至)を知る重要な指標であったこと
 以上を主体とする考察から、四天王寺と正倉院所蔵の剣を「斗牛剣」と称し、法隆寺所蔵の剣とは性格が異な ることを示した上で、「単に天に現れた一直線の宝剣の紫気を直刀に写し込んだだけであり、その意味では変則 的で素朴な剣といってよいだろう」と述べています。
 杉原氏は、斗牛剣が張華の宝剣譚という一説話から発生したものと捉えていますが、一つだけ気になるのは 「斗牛」の意味が南斗・牛宿からなぜ北斗・牽牛へと置き換えられたのかということです。この論考の最も重要 な基盤であるだけに、それを前提条件とするだけの十分な説明がみられないのは残念なところです。いずれにし ても、古代の剣に刻まれた星文には、その時代の宇宙観が反映されているものと思われます。
 ところで、星文の核心とも言える北斗七星については、その由来や思想などは論じられているものの、剣に施 された意匠に関する論考はほとんどみられません。たとえば、法隆寺所蔵の剣と他の二振の剣とでは、七星の配 置に一部で相違が認められます。それでも、北斗七星の基本形は維持されているため、一目でそれと判断がつく わけです。しかし、朝鮮半島や台湾における近世の刀剣類のなかには、○や●で表現された七つの星をジグザグ に刻み、その間を波線で結んだ意匠がみられるのです〔文0437〕。時代は異なるものの、こうした表現の違いは どこからきているのでしょうか。
 もう一つの課題は、北斗七星の象に二通りの向きが存在することです。いわゆる星空で見られる正常な北斗と、 それを裏返した北斗ということになります。七星剣の文様は、天体文に限らず陽面の意匠が陰面では裏返しとな るのが一般的です。したがって、陽面に正常な向きで配置された北斗七星は、陰面側から見ると裏返しの状態と なるわけです。法隆寺と四天王寺の剣はいずれもこのタイプですが、正倉院の剣だけは陽面が裏返しの北斗で、 陰面に正常な向きの北斗を有しています。
 正倉院と言えば、青斑石鼈合子という宝物にも亀の背に裏返しの北斗が描かれており、いずれも道教思想との かかわりが感じられます。中国では、唐代に道人が玄宗へ献上したと伝えられる景震剣の北斗もやはり裏返しで す。「剣の観念」という意味では、辟邪の剣の超越性を念頭に、それが星によって根拠づけられているとする考 え方があります〔『古代東アジアにおける「剣の観念」』文0442〕。このように、敢えて向きを変えているのは、 それを所持する者の神的な権威の表徴をより高める効果を示唆しているのかもしれません。

【他地域の七星剣】
 北斗七星を象嵌あるいは線刻した剣は、これまでに考察した三振以外にもいくつか知られています。現在のと ころ、山形県や千葉県、長野県、高知県に存在し、その一部については象嵌の分析や刀身の銘文などに関する研 究成果が発表されています〔『東アジアの古代象嵌銘文大刀』文0443〕。
 このうち、山形県の剣では星文が北斗七星だけですが、他の3剣には北斗以外の星文も認めることができます。 それらは、資料から読み取れる限りにおいて少なくとも3種あり、1種はAと同じ意匠で屈曲した三星を示して います。そして、他の2種(DおよびE)は近畿圏の3剣ではみられなかった意匠です。いずれも三寅剣だけに 施されているもので、Dは二星が一組となって三角状に配置され、中央から左右へ山形の線で繋がっています。 Eについては、二星一組が少し間をおいて斜めに並び、ぞれぞれが直線で結ばれているのです。これら3剣が有 する星文の意味について考えてみましょう。
◇ 三寅剣
 長野県小海町に伝わる小刀とされ、三寅というのは寅の歳、寅の月、寅の日に造られたことに由来するようで す。北斗七星を含めた各星文の配置は、切っ先からE−D−Bと並び、北斗はタイプTを裏返した象です。この 剣を詳しく調査した西山要一氏は、Eについて『晋書』天文志や『新儀象法要』の星図を参考に、「北斗のそば に三公が2ヵ所にあると記されていることから、これらを一つにまとめたものと思われる」と述べています。 それは、「三公は三星をV字型に繋ぐ形が普通であるが、三寅剱では二星一組にしてV字型に繋いでいる」とい う見方に基づいているようです。また、Dに関しては三台であると比定し、総体的に四天王寺や正倉院の七星剣 における野尻氏の考え方をほぼ踏襲するような立場をとっていることが分かりました。
 西山氏の説によれば、図形的にD=C、E=A(ただし比定は三公)となり、四天王寺と正倉院所蔵の剣にみ られる星文との関係が気になります。杉原氏は、これら二剣を星文などの由来から「斗牛剣」と捉えていますが、 三寅剣には@(一文字三星)の星文はありません。年代的には3剣共に7〜8世紀の製作と考えられているもの の、三寅剣の星文構成からは少なくとも「斗牛の剣」に結びつく要素は見出せないようです。仮に西山説をとる にしても、星文の配置は杉原説と一致しません。
 Dについては、西山氏が比定したように、三台で間違いないものと考えられます。ただし、正倉院の剣とは意 匠が異なるため、CをタイプTとしてDのほうはタイプUに区分しておきます。タイプTの分割型は、『淳祐天 文図(蘇州)』などに描かれた三台と同じで、タイプUの連結型は『格子月進図』や『新儀象法要』蘇頌星図、 『天象列次分野之図』などにみられる象です。これらのなかでは最も古いとされる『格子月進図』の場合、線の 繋ぎ方が星文とは一部異なりますが、後者の二つの天文図は星文と一致します。
 さて、もう一つの星文Eは難題です。確かに象としてはAに類似していますが、星の数はあくまでも6個であ り、これを三公が二つ重なった状態に見做せるかどうかということになります。この星文では、形状よりも六星 のほうに重要な意味があると考えられるからです。そこで、北斗の近くにあって相互のかかわりが深いとみられ る星群を探すと、有力な候補の一つとして文昌星を挙げることができるでしょう。前出の各天文図にみられる星 の配列とは一致しないものの、天の六つの役所としてその運行の集計を主るとされる星です。
 星数に関しては、一部の天文図で七星として描かれている事例も認められますが、『史記』天官書に「斗魁戴 匡六星曰文昌宮」とあり、それ以後も『開元占経』や『晋書』天文志、『隋書』天文志、『歩天歌』、『宋史』 天文志など一貫して文昌六星となっています。各天文図に示された星の配列も、多少の差異はあるものの基本的 に山形の三星が二つ向き合う構図を示し、元の時代を過ぎると一方の三星の並びが次第に直線的に変化する傾向 がみられます。葛飾北斎が描いた文昌星図(1843)にも、左に横一文字の三星と右に山形の三星の意匠を認める ことができます。いずれにしても、三寅剣の星文は山形あるいはV字形という見方ではなく、左右対称の三星が 向き合った象として捉えたいと思います。
 また、文昌星は信仰面においても古くからよく知られた存在であったようです。稻畑耕一郎氏は、『史記』を はじめとする各天文志や古典などに文昌宮や三台(三能も同じ)の一部を司命神とする記述があることにふれ、 「これら中天にある星辰が、「司命」の名をもって呼ばれるのは、それらの星が、天上にあって人の死生や運命 を掌握しているものと古代の人々に信じられたからであろう」と述べています〔『司命神像の展開』文0444〕。 道教においても、文昌星を神格化したとされる文昌帝君が広く祀られてきたように、北斗の傍らに位置する文昌 星が三台とともに重要な存在であったことがよく分かります。なお、三寅剣(あるいは四寅剣)は韓国にも4例 (16〜18世紀)あるようですが、星文は北斗七星と二十八宿です〔文0443〕。いずれも両刃の剱で、長野県の三 寅剣との関係は分かりません。
◇ 千葉県の七星剣
 成田市の稲荷山遺跡から、1983年に刀剣の断片2点が出土しています。その後2003年のX線調査によって象嵌 が確認され、北斗七星を示すことが判明したと報じられました〔2007年3月6日付毎日新聞〕。そこに掲載され た成田市教育委員会提供のスケッチをみると、切っ先から長さ約13aの断片には北斗七星の一部と推察できる象 嵌がみられ、いわゆる桝形(αβγδ)の内側にも三星以上から成る星文を認めることができます。後者はおそ らく、天理(四星)と呼ばれる星の可能性が高いと考えられます。『史記』天官書では「在斗魁中貴人之牢」と あるのがそれで、四星に囲まれた場所を貴人が入る牢獄とみたのでしょうか。大崎正治氏は、裁判や刑獄をつか さどる本来の文官は大理(二星)なので、これは天理ではなく大理とみたほうが正しいのではないかと推察して います〔『中国の星座の歴史』文0129〕。近世の『史記天官書図解』〔1754年〕では、注で「天理星貴人牢」と 併記されており、少なくとも江戸中期にはこうした見方が一般的だったのかもしれません。仮に天理であったと しても、なぜ剣に刻まれたのか根拠は不詳です。
 さらに、刀身の中間部にあたる長さ約6aの断片には二星の象嵌があり、これらを繋ぐ線とV字形を成す線の 一部が途切れていることから、全体として3個の星から成る文様ではないかと推察されます。これまでに知られ ている事例では、Aに類似する意匠とみられます。
 遺跡からの出土品という点では、たいへん貴重な文化財ですが、今のところ関連する資料が限られるため詳し い考察はできません。何よりも断片に遺された情報は少なく、刀身全体の象嵌文が不詳であるのは残念なことで す。
◇ 高知県の七星剣
 四万十市の一宮神社に伝わる両刃の鉄剣で、1988年のX線調査により北斗七星などの星文が確認されています。 このときは、銀象嵌との鑑定から古い時代の七星剣と考えられてきましたが、その後の再分析によって真鍮象嵌 との指摘がなされ、年代を特定できない状態が継続しています。そこで、改めて精密な調査を実施する計画が進 展中です。
 この剣は、2015年秋に高知県内の聞きとり調査を行った折に、四万十市の郷土資料館(現郷土博物館)へ立ち 寄り、展示してあったレプリカを見学しました。別室で保管されている実物は錆で覆われていますが、レプリカ では刀身の中央部に北斗七星の象嵌が細長く施されているのを確認できます。星を示す○は大きく、それらを繋 いでいるのは直線ではなく波状の線です。これは、他の七星剣ではみられないもので、最も大きな特徴と言える でしょう。ところが、近世における朝鮮や台湾の剣に七つの星をジグザグに配し、その間を波線で繋いだ意匠が 存在することを知りました〔文0438〕。いわゆる北斗の形状ではありませんが、同類の文様と考えられます。
 当時のレプリカ(2019年より未展示)では、刀身の片面しか観察せず、反対側を見逃していました。後に、両 面の図版が掲載された資料〔文0443〕で確認したところ、反対側にも北斗七星があり、切っ先近くに別な星文を 見つけました。それはAと同じ屈曲した三星で、四天王寺の剣に刻まれた意匠と比較すると、北斗に対する向き が逆になっています。成田市の七星剣で推考した二星+αの星文も含めて、野尻説では三公であり、杉原説に従 えば織女三星ということになります。少なくとも四万十の剣の片面だけに北斗と並んで配置されている点を考慮 すると、織女三星が相応しいでしょう。北斗と山形三星の組み合わせは、道教の古美術品や霊符などにもしばし ば登場します。

 

[左]七星剣のレプリカ ☆ [右]北斗七星の象嵌

 ここまで、個別の考察を加えてきましたが、最後に山形県を含めた四振の剣について、北斗七星の表現方法に 関する特性を整理しておきましょう。比較する項目は、意匠のタイプ、形状の向き、繋ぎ線の種別、刀身長に占 める星文長の割合の4点です。
 三寅剣と山形県の剣では、星文が片面だけにあり、いずれも裏返しの北斗となっています。これらは、その基 盤にある道教信仰の影響を受けていることを示していると言えます。刀身長と星文長の関係については、特に意 味があるわけではなく、単なる傾向を把握するための数値です。ただし、四天王寺、正倉院、法隆寺の3剣はい ずれも6〜9%ほどで、全長34a余りの短い三寅剣でも約16%ですから、高知県の七星剣に刻まれた北斗七星の 大きさが際立っていることがよく分かります。

北斗七星の星文特性
比較特性 三寅剣(長野県) 七星剣(千葉県) 七星剣(山形県) 七星剣(高知県)
7〜8世紀 9世紀 14〜16世紀 (不詳)
 意匠のタイプ T (不詳) U(変則)*1 特殊形*2
 形状の向き 陽面:裏返し
陰面:な し
陽面:正 常
陰面:(不詳)
陽面:裏返し
陰面:な し
陽面:正 常
陰面:裏返し
 繋ぎ線の種別 直 線 直 線 直 線 波 線
刀身長に占める
星文長の割合
約16% (不詳) 約8% 約46%
注) *1:第6星と7星の位置が若干異なるので、変則形とした.
*2:大きく長い意匠で、星の配置も含めて特殊扱いとした.

 七星剣は、大陸由来の刀剣の一種です。これまで、天文民俗の視点から天体文、特に星辰文に絞って考察を行 ってきました。しかし、それぞれの刀身には、今回取り上げていない種々の文様や銘文が数多く存在しています。 したがって、七星剣が有する性格は、背景にある歴史や政、思想、信仰、文化などを含めた総体として捉える必 要があることは言うまでもありません。
 そのうえで、従来より盛んに論じられてきた星文の解釈は、三寅剣や成田市出土の七星剣にみられる新たな星 文とどのようにつながるのか、あるいは全く別な視点での解釈を必要とするのか、課題は増すばかりです。今後 も、多方面での科学的な分析が進展し、新たな知見が得られることを期待したいと思います。