日月星の文化財

【行事・信仰の語り部】
 日月星の行事や信仰とかかわりの深い社寺あるいは遺物などは、私たちの身近なところで意外に多く遺されています。なかでも近世を主体に 造立された石造遺物は、もの言わぬ信仰の語り部として貴重な存在です。現在では、暮らしや環境の変化によって散逸したり、破壊された ものも相当数あるものと推測されます。しかし、そこに表現されたさまざまな像容や文字などから、実にたくさんの情報を得ることができる のもまた事実です。それは、当時の人びとが行事や信仰をとおして太陽や月や星をどのようにとらえていたかを理解する重要な手がかりを 与えてくれるものです。また、私たちが何気なく参拝に訪れる寺院や神社のなかにも、太陽や月あるいは星にかかわる神を祀っている場所が あるかもしれません。ここでは、現地調査による記録を紹介しながら、文化財としての意義などについて考えてみたいと思います。

《本文中の引用文献について》
詳しい情報については、入館口(トップ頁)の目次中にある「文献資料」を参照してください。文献名に付随する数字が 分類記号を示しています。

月 待 塔

 月待行事にかかわる石造遺物として、月待塔があります。信仰に対する供養を 目的に造立されたもので、二十三夜塔を中心に各地で確認されています。これらを系統的に調査・分類することによって、造立された 時代における信仰の実態をある程度推測することも可能です。ただし、現存する遺物は中世以降に集中しており、それ以前における 有力な手がかりはほとんど見あたらないようです。

【月待板碑】
 中世に造立された板碑の一種で、月待供養を目的としたものです。関東地方に多く、薄い板状の石のほとんどが緑泥片岩を素材と しているため青石塔婆とも呼ばれます。現存する最古の月待板碑は、1441(嘉吉元)年造立とされています 〔『月待板碑の誕生』文0132〕。

【月待五輪塔】
 板碑とは別に、地輪部に「月待供養」の銘がある五輪塔がいくつか知られています。東京都西部のあきるの市には2基の月待五輪塔が あり、そのうちの1基は1486(文明18)年の造立です。この塔は空輪部と風輪部が欠損しており、現存する地・水・火輪部の高さは 約45aとなっています。中世の月待史料としては板碑よりも少なく、貴重な存在といえるでしょう。

月待供養の五輪塔

※地輪部梵字の右側に「月待供養」の銘文があります

【月待供養塔】
 通常、石造物に"〇〇夜(待)供養"とあるものを総称して月待供養塔としていますが、これらがすべて実際の月待信仰とかかわりが あったかどうかは明らかではありません。月待板碑の後をうけて、主に近世から大正時代にかけて造立され、関東地方の利根川流域など では、江戸時代初期と後期にそのピークがみられます。
 現在知られているものでは、十五夜、十六夜、十七夜、十八夜、十九夜、二十夜、二十一夜、二十二夜、二十三夜、二十六夜などの 供養塔があり、地域によってかなり偏った分布を示しています。関東地方では、多摩川水系や相模川水系において二十三夜塔を主体とし、 荒川水系では二十二夜塔が多くみられます。また、広大な流域をもつ利根川水系にあっては、山間部上流域の二十一夜塔、中流域の 二十二夜塔と十九夜塔の明瞭な分布境界の存在、さらには下流域から茨城県、栃木県、福島県にいたる十九夜塔の広域的な分布など、 それぞれに特徴をもった現況が認められます。なお、十九夜塔は、長野県や奈良県などにも分布しています。
 月待塔における主尊の選択は、ほとんどが仏教の教義に基づいており、十九夜と二十二夜では如意輪観音、二十三夜は勢至菩薩、 そして二十六夜が愛染明王とほぼ決まっています。これらは、石造物としての形態の変化とともに、時代背景や石工の技量とも あいまって実にさまざまな像容を表現しています。ただ、二十三夜塔においては主尊を刻さない文字だけの塔が多いことや、江戸で 大流行をみせた二十六夜待に関しては、信仰の広がりに比べて遺されている二十六夜塔が極端に少ないなど、月待信仰の実態を解明 するうえで重要な鍵を握っているとみられる事実がいろいろと明らかになってきました。また、近世の石造物であっても、単に 「月待供養」と刻まれた地蔵菩薩や月待講中が造立したさまざまな形態の石造物も認められます。二十三夜の供養を目的とした場合も、 地蔵菩薩を主尊としたものや石灯籠、石幢、石祠などを含めて広義の月待塔に含める見方があり、神道系の「月読尊」にかかわる石塔も 同様です。このように、月待塔の分類はさまざまな要素の組み合わせにより成立している側面があります。

  

[写真左]十九夜塔/[中]二十二夜塔/[右]二十三夜塔

※十九夜塔の彫像は如意輪観音、二十三夜塔は勢至菩薩を表しています

【造立の実態】
 供養塔は、月待講中による造立が一般的です。十九夜塔や二十二夜塔などでは女人講の比率が高く、同一地区で数十年おきに造立 された事例もみられます。近世後期以降の文字だけの銘文を刻した石塔では、その台石部分に講中の人名を刻んだものがありますが、 供養塔の造立となれば、それ相応の金銭的負担が発生することになり、それぞれの時代において地域社会の一員として果たすべき 責任が明確になっていたようです。
 たとえば、埼玉県加須市にある1893(明治26)年造立の十九夜塔は、寄進者とその金額を刻しためずらしい史料です。それによると、 寄進者は全部で24人おり、5円(1名)を筆頭に1円(4人)、80銭(1名)と続き、以下銭単位で減少して、もっとも少ないのは 15銭(1名)となっています。寄進額の合計は15円80銭です。当時の経済的相場については不明ですが、石塔の造立という行為一つ とってみても、信仰と地域社会の密接なかかわりを窺い知ることができます。

【月待塔に表れた月】
 月待信仰を代表する二十三待では、旧暦二十三夜の月を拝することが第一の目的としてありました。各地の伝承も、概略では ありますがそのような行事の実態をよく伝えています。二十三夜塔のなかには、月の姿を石に刻んだものがあり、そこから当時の 人びとが二十三夜月に対して抱いていたイメージを推察することが可能です。なお、この場合の月は、一対の日月をさすのではなく、 月が単独で表れているものを対象とします。下図には9例を示しましたが、下弦以降の月を表現したとみなされるものは〈A〉から 〈D〉までで、〈E〉と〈F〉については傾きが夕空の三日月になっています。また〈G〉は特殊な表現の事例で、〈H〉と〈I〉は 満月を表したものと推察されます。ただ、〈I〉に関しては、単なる日輪の可能性もあります。こうして比較してみますと、同じ 事象に対する感覚には、相当の曖昧さがあることがわかります。
 旧暦二十三夜の月といっても、月齢はいつも同じというわけではありません。実際には、下弦(半月)を境にして少し膨らんだ姿 から逆に少し細くなった形まで変化がみられます。石塔に刻まれた月は、総体的に細い傾向を示していますが、傾きに対する誤解は ともかくとしても、形に関しては二十六夜の月と混同した傾向が認められます。要するに、刻印された月の正体は、その地域の知識人や 僧侶、造立にあたっての世話人や願主、あるいは実際に作業する石工などの複合的な感覚の産物といえるものでしょう。手元の調査 資料では、今のところ月単独の像がみられるのは、18世紀後期から19世紀にかけての文字塔に集中しています。

二十三夜塔にみられる月の形

※〈A〉、〈B〉が一般的な傾きを示し、条件次第で〈C〉、〈D〉のように水平にみえることが あります。また、月齢という点では〈C〉の事例がもっとも二十三夜月に近い表現です。

月待の社寺  2018/10/21

月待信仰の場所

 月待行事が行われた場所は、地域によりさまざまです。ただし、月の出を拝するという行為に関しては、ほぼ二十三夜待と二十六夜待に 集約されますので、実際にそれが可能な場所は限られています。理想的な地形としては、東の方角が開けた高台であれば最適でしょう。 そのような場所では、かつて月待行事が営まれた堂や寺院跡、神社などを確認することができますが、山間部では眺望のよい山の頂が 月待信仰の重要な舞台となっていた事例もあります。
 関東地方では、実際に月待行事が営まれたとされる建造物が各地にのこっています。そのほとんどが二十三夜待の主尊とされる 勢至菩薩を祀り、地元では三夜様、三夜堂、勢至堂などと呼ばれています。都市部には少なく、一般的に丘陵地から山地部の東または 南の方角が開けた場所に建立されているのは、月の出を拝することと深いかかわりがあるためと推察されます。
 一方、月読尊を祀る神社も各地に存在します。神仏混交の時代には、他の神仏を含めてこれらの多くが同じ境内で祀られていたようですが、 いずれも「三夜さま」と称して信仰されてきました。それが、明治時代の神仏分離政策によってそれぞれ単独の寺院あるいは神社となって現在に 至っている事例が多くみられます。
 いわゆる月待堂と呼ばれるものは、そうした勢至菩薩あるいは月読尊を祀った小規模な堂あるいは社殿で月待の行事が行われてきた痕跡を 遺す建物をさします。各地で近世以降に造立された二十三夜の石塔は、その多くが文字を刻しただけのタイプですが、造立された場所等から信仰の 対象をある程度判断することが可能です。つまり寺院の境内や月待堂の周辺にあれば勢至菩薩が、また地域の鎮守や氏神様などにあれば月読尊が その対象とみられます。一部には「二十三夜」よりも「月読尊」の石塔が濃密な分布を示すところがあり、こうした地域では神道系の月待信仰が さかんであったと推測できます。ただし本来の月待、つまり二十三夜待の本質は勢至菩薩や月読尊よりも月そのものにあったとみるのが適切でしょう。 したがって、二十三夜堂などで月待を行ったのは、仏教や神道とのかかわりが深くなった以後のことと考えられます。それ以前は、屋外で東方が 開けた適当な場所が選ばれていたでしょうし、おそらくそうした場所では月待塔が造立されたケースも想定されます。
 それは、二十六夜待において顕著に表れています。その昔、江戸の六夜待は海岸沿いか高台が舞台でした。当時の様子を記した史料によれば、 物見遊山も含めて多くの人出があったことがわかります。しかし、内陸の山間部では近郊の山などに登って月の出を待つことになります。 関東地方でいくつか知られている 二十六夜山 は、その典型的な事例です。

 

 

現存する二十三夜堂

※[上左]群馬県みなかみ町の二十三夜堂 / [上右]埼玉県小川町三夜堂内部
※[下左]東京都杉並区の 三夜堂扁額 / [下右]千葉県沼南町の新しい三夜堂


各地の月待堂・月待神社

これまでの調査内容を関東地方を中心にまとめました

茨城県 栃木県 群馬県 埼玉県
千葉県 東京都 神奈川県 その他

《 茨城県 》

◇ 二十三夜堂 〔TB01〕
曹洞宗萬年山大洞院境内の参道脇にある小堂で、地元では「二十三夜堂」と呼ばれて
います。中に祀られているのは勢至菩薩ではなく、高さ約2bに及ぶ石造の地蔵菩薩
で、月待と地蔵信仰の結びつきを示す事例の一つと考えられます。少なくとも20〜
30年前までは近郷近在から人びとが集まって霜月三夜(旧暦)の行事が行われてい
たようです。

【所在地】稲敷郡河内町中金江津
【創 建】(不明)
【本 尊】地蔵菩薩(石造)
【扁 額】(なし)
【行事等】過去に「霜月三夜さま」の行事あり
◇ 日立二十三夜尊 〔TB02〕
日立駅前から続く商店街の外れに「二十三夜尊」と刻まれた入口があり、その20b
ほど奥に勢至堂があります。また右手には「夢枕子育観世音大菩薩」と墨書された小
堂もあり、三夜尊と何らかの関わりがあるのかもしれません。現在も参拝に訪れる人
がいるようです。

【所在地】日立市鹿島町
【創 建】明治初期
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】二十三夜尊
【行事等】毎月二十三日(旧暦)が縁日
◇ 二十三夜尊 〔TB03〕
大子駅から数分の本町通りにある通称"百段階段"の途中にあります。この階段は十二
所神社の参道で、入口にはその鳥居が建ち、月待ち堂の脇には同神社の神灯もあって
これがよい目印です。堂内には、高さ1b程で板葺き屋根の古い社が収められ、そこ
に新しい勢至菩薩像が祀られていました。しかし、古い社殿や堂の前に遺された神灯
の一部と思われる石の存在などから、おそらくかつては月読命が祀られていたものと
推測されます。数十年前には、確かに月の出を待つ行事が行われていたことを確認で
きましたが、現在は年に一度昼間にお参りするだけの行事となっています。

【所在地】久慈郡大子町本町
【創 建】(不明)
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】二十三夜尊
【行事等】毎年八月二十三日(新暦)
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《 群馬県 》

◇ 二十三夜堂 〔TG01〕
旧月夜野町の住宅街の外れにひっそりと建っています。現地調査で偶然に見つけたも
のですが、聞き取り調査ができず詳しいことはわかりません。堂のすぐ近くに、昭和
四年に造立された「供養塔」があり、おそらく月待供養の石塔ではないかと思われま
す。また、堂の裏手には小高い場所があって、南東の方角を中心にすばらしい眺望が
を得ることができます。月の出を拝するには絶好のロケーションといえるでしょう。

【所在地】みなかみ町月夜野
【創 建】(不明)
【本 尊】(不明)
【扁 額】二十三夜堂
【行事等】(不明)
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《 埼玉県 》

◇ 二十三夜堂 〔TS01〕
旧入間郡名栗村の名郷から山伏峠に向かう途中の集落にあります。堂は車道から少し
入ったなだらかな傾斜地に谷を見下ろすように建っています。近世末期の再建と伝え
られていますが、その要因となった火災のために古文書類を遺失したため詳しいこと
はよくわかりません。少なくとも30年ほど前には「三夜さま」と呼ばれる祭りが年
に2回行われていました。

【所在地】飯能市名栗
【創 建】(不明)
【本 尊】勢至菩薩、薬師如来
【扁 額】(なし)
【行事等】かつての祭礼は1月23日と8月23日の年2回
◇ 勢至堂(三夜さま) 〔TS02〕
比企郡小川町の秩父往還道から少し入った白山神社に隣接する寺院が地元で「三夜さ
ま」と呼ばれ、本堂に向かって左手の小堂が勢至堂となっています。堂内には、二十
三夜の銘が入った奉納幕が張られ、太鼓や鉦なども確認できます。少なくとも20年
ほど前にはまだ二十三夜講が営まれていたようですが、内容的には昼間の行事で月の
出を待つことはありませんでした。

【所在地】比企郡小川町増尾
【創 建】(不明)
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】勢至堂
【行事等】かつて10月23日(新暦)に三夜さまの講あり
◇ 勢至堂 〔TS03〕
比企郡滑川町の勢至堂で、道路をはさんだ向かい側には月輪神社があります。堂とい
っても大きく立派な建物で、地域の人びとの篤い信仰心が窺われます。境内には、坂
戸の商人によって昭和二年に造立奉納された「二十三夜大勢至菩薩」の石柱がありま
すが、いわゆる月待塔ではなく記念碑的な意味合いを強く感じます。

【所在地】比企郡滑川町月輪
【創 建】建久七年伝、現建物は嘉永二年の再興による
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】(不明)
【行事等】1月、4月、10月の各23日(新暦)が縁日
◇ 二十三夜堂 〔TS04〕
昭和35年頃まで、桜沢の山崎地区にあったのが茅葺き屋根の旧二十三堂で、現在は
地区の自治会館が建っています。新しい堂は同じ敷地内にありますが、たいへん小さ
く本尊とともに道具類を収蔵しています。中には勢至菩薩を収めた厨子があり、こち
らは立派な造りです。扉には種子「サク」と二十三夜の月をあしらった飾りが施され
ていて、このような装飾デザインはあまり類例がないのではないかと思われます。そ
の後1992年に「二十三夜のまつり」が復活していますが、この地区ではもともと
二十二夜待信仰が主流であり、したがって月の出を拝するのは二十二夜、つまり旧暦
22日夜に実施されます。これは一種の前夜祭として位置づけられており、二十二夜
待と二十二夜待の関係を示す貴重な事例となっています。

【所在地】大里郡寄居町桜沢
【創 建】現在の堂は昭和35年改築
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】二十三夜堂
【行事等】11月23日(新暦)に二十三夜のまつり
◇ 二十三夜堂 〔TS05〕
寄居町の市街地から小川町方面へ八高線沿いに山間に入ったところが西ノ入地区で、
そのなかの一つの谷筋に栃谷集落があります。二十三夜堂は小高い場所に南東方向を
向いて建ち、裏手は墓地になっています。堂内は荒れていて本尊等はありませんが、
わずかに往時の面影を偲ぶことができます。入口から南東方向を眺めると、緩やかな
森の稜線が続いているものの、月の出を拝するのに大きな問題はなさそうで、おそら
くかつては地区の人びとがここに集まり、月待をしていたことでしょう。

【所在地】大里郡寄居町西ノ入
【創 建】(不明)
【本 尊】(不明)
【扁 額】(なし)
【行事等】(不明)
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《 千葉県 》

◇ 二十三夜堂 〔TC01〕
手賀西小学校の西側にあり、もともと吉祥院の寺域と伝えられています。堂は近年完
成したばかりの新しい建物で、現在も熱心な信仰があるようです。中には三日月の形
をあしらった小さな厨子が置かれていますが、本尊は確認できません。また、堂に向
かって左側奥に二十三夜の文字塔(造立年月は不明)があります。ただし、堂自体は
西向きに建ち周辺も傾斜地となっていて眺望はほとんどありません。実際に月を拝し
たところは別な場所であったと推測されます。

【所在地】柏市昭南町泉
【創 建】(不明)
【本 尊】(不明)
【扁 額】二十三夜堂
【行事等】(不明)
◇ 二十三夜神社 〔TC02〕
片貝漁港の北、作田地区にある小さな神社です。地元では月読神社あるいは三夜さま
とも呼ばれていますが、どのような行事が行われているのかわかりません。ただ、数
十年前までは旧暦の毎月23日に三夜講がありました。当日は月読尊が描かれた掛軸
をかけ、全員で飲食を共にしながら月が上るのを待ったということですから、月待信
仰のさかんな土地であったことがわかります。おそらく、かつてはこの神社で月待が
行われていたものと考えられます。

【所在地】山武郡九十九里町作田
【創 建】(不明)
【祭 神】月読尊
【扁 額】(なし)
【行事等】(不明)
◇ 二十三夜の社 〔TC03〕
JR久留里線久留里駅周辺に広がる住宅街の奥に小中学校があり、その裏山にひっそ
りと建っています。正面の破風部分には月の彫刻がみられ、建物の周辺には手水石や
石祠などが散在していることから、もとは神社として建立されたものと思われます。
中には小さな社があり、既存資料によれば木花ノ佐久夜毘売命を祭神としているよう
です。すぐ近くに浅間神社や木花ノ佐久夜毘売命の石塔があることから、久留里の月
待については浅間信仰との結び付きが推測されます。街中での聞き取りでは、かつて
すぐ近くにもう一つの小屋(こちらが本来の月待堂か)があったそうで、主に中町地
区のお年寄りが中心となって月待をしていたとのことでした。

【所在地】君津市久留里
【創 建】(不明)
【祭 神】木花ノ佐久夜毘売命
【扁 額】二十三夜
【行事等】過去に月待行事の伝承あり
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《 東京都 》

◇ 二十三夜堂 〔TT01〕
杉並区の日蓮宗日圓山妙法寺境内に建つ堂で、入口に立派な扁額が掲げられています。
都内とは思えぬ静かな環境のなかにあり、かつては人びとの篤い信仰に支えられてい
た様子が窺えます。「二十三夜堂縁起」という案内板によれば、縁結びと財運に霊験
あらたかとのことで、現在も多くの参拝者があるようですが、境内で実際に月の出を
拝める場所はなさそうです。

【所在地】杉並区堀ノ内
【創 建】(不明)
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】二十三夜堂
【行事等】(不明)
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《 その他の地域 》

◇ 二十三夜堂 〔TW01〕(山梨県)
武田信玄の菩提寺として知られる恵林寺の近くにあり、近年改築されたものです。聞
き取りができず詳細は不明ですが、改築前の調査資料によれば、地元のT家によって
明治26年に再建されたもので、個人の所有でありながら広く地域に根差した信仰の
拠点として重要な存在であったようです。また、かつては毎月二十三日夜に祭りが行
われていたという地元住民の話が紹介されています。

【所在地】山梨県甲州市小屋敷
【創 建】(不明)
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】なし
【行事等】(不明)
◇ 二十三夜尊 〔TW02〕(福島県)
小高い場所にある小堂は、地元で「二十三夜尊」と呼ばれています。旧正月の二十三
日が例祭日で、かつては船主の奥さんたちが熱心に信仰していたようです。堂内には
茨城県水戸市の二十三夜尊から分祀したと考えられる勢至菩薩(石造半浮彫立像)が
祀られ、この地域の人たちは今でも水戸市やいわき市平地区にある二十三夜尊に参詣
していますが、実際に三夜尊の行事として月待ちが行われていたかどうかは不明です。

【所在地】福島県いわき市江名
【創 建】(不明)
【本 尊】勢至菩薩(石造)
【扁 額】なし
【行事等】(不明)
◇ 二十三夜堂 〔TW03〕(宮城県)
杜の都として知られた仙台の中心部にほど近く、ビル街の一角に位置しています。
案内板によると本来は天台宗の寺院で「賢聖院」といい、地元では「二十三夜さん」
の愛称で親しまれているようです。かつては、本尊勢至菩薩立像の縁日である旧暦二
十三日に人びとが集まり、勤行・飯食を行いながら月の出を待つ二十三夜講を行って
いたとのことですが、現在は毎月二十三日が縁日となっています。

【所在地】宮城県仙台市青葉区
【創 建】1069年(1380年中興)
【本 尊】勢至菩薩
【扁 額】二十三夜堂
【行事等】(不明)
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二十二夜橋

 埼玉県比企郡小川町の槻川支流にある橋で、かつては土橋であったようですが、現在はコンクリート造りの立派なものに 改修されています。この橋のすぐ上流に1832(天保3)年造立の二十二夜塔があり、このあたりで二十二夜の月待行事が 行われていたのではないかと推察されますが、関連する資料などは見あたりません。
 比企郡から秩父郡にかけての地域では、かつて二十二夜待信仰がさかんでしたが、その実態は安産祈願を目的とした講が ほとんどであり、月の出を待ってこれを拝したという伝承は記録されていません。したがって、橋の命名については、行事とは 関係なく二十二夜塔の存在に由来している可能性も考えられます。

山間の川にかかる二十二夜橋

二十八宿の道標

 神奈川県南足柄市の曹洞宗寺院、大雄山最乗寺参道には、二十八宿の星座名を刻した石塔が道標のように点在しています。これは、 同寺の信者が寄進したもので、近世の元治期(元年)と明治期(40年)の二つの系統があります。二十八宿というのは、中国で 生まれた星座で、太陽や月、惑星の運行を把握するため、天の赤道に沿って不均等に設定された領域を示しています。密教では、 九曜、十二宮などとともに星曼荼羅として描かれ、庶民にとっては当年星供の対象としてなじみ深いものでした。
大雄山駅から歩きはじめますと、橋を渡って道路が右にカーブしたところが参道の入り口で、道標の基点となります。まず 「角一丁目」の石塔があり、ここから道路(一部旧道がのこる)に沿って点々と遺された姿を認めることができます。最終の 「軫二十八丁目」は境内へ上がる階段の下にあって、元治系のものは高さ2bを超える常夜灯になっています。ただし、途中には 不明の石塔が数基存在し、1982〜1983年の調査では元治系は10基しか確認できなかったほか、明治系も22基にとどまっています。 特に箕、斗、女、胃、觜、鬼の六宿については、いずれの系統も石塔の所在が不明です。倒伏や一部が土中に埋没している石塔も 少なくありません。
 近世には、宿曜経などの教義で二十八宿をもとにした本命宿その他を祭る星供が流行しましたので、これらの石塔は、そうした 庶民の願いが大雄山参りの信仰と結びついて造立された可能性が考えられます。しかし、最乗寺は禅寺であるため密教系の星供などは 行っていないということですので、詳しい経緯についてはよくわかっていません。
 

「危十二丁目」の道標
※ここでは元治系(右)と明治系(左)が並存しています.

二十六夜山

 一般に、二十六夜待は旧暦の正月と7月に実施された事例が多いようですが、実際には8月や9月などにも行われていました。 また、月の出を待つ間の行事にもそれぞれ地域の特色が表れていて興味深いものがあります。二十六夜山は、その地域において たまたま眺望の良い場所として選ばれた山が信仰の証としてその名を後世に残したものと考えてよいでしょう。しかし、地域共有の 行事とはいえ標高数百bの山頂に立つためには、それなりの時間と体力が必要であり、誰もが参加できたというわけではありません。 そうした苦労を覚悟のうえで登られた山であるがゆえに、「二十六夜山」という呼称が生まれたのではないかと推察されます。
 関東地方で現在知られている二十六夜山は、以下の3ヵ所です。

【山梨県南都留郡秋山村】
 同村の西部、道志山塊の一角に位置する標高971.8bの山で、もとは高金山あるいは高ヶ嶺山と呼ばれていました。現在、尾崎と 浜沢の2ヵ所から登山道がありますが、いずれも整備されていて歩きやすい道です。尾崎の集落からは、二十六夜山の一部を遠望する ことができます。
 当該地の調査で得られた情報は、山頂下の平坦地にのこされている二十六夜塔と当時の信仰の実態についてです。まず、正面に 「廿六夜」と刻まれた月待塔は、山頂から北側へ少し下った940b付近の広さ約300平方bの平坦地にあります。石塔は、自然石を 加工した卵形で、高さ約72a。造立は1889(明治22)年7月吉日という銘があるものの、明治5年にグレゴリオ暦へ移行した後の 旧暦表記という可能性も考えられ、今後さらに詳しく検討を加える必要があるでしょう。磁北から東へ70度の方角を向いていますが、 もとからこの位置にあったかどうかは不明です。
 二十六夜の行事については、大正の末ころまで旧暦8月26日の晩に、山頂付近で「二十六夜のまつり」が行われていたといわれます。 これは、秋山村18集落のうち最奥にある無生野から浜沢、原、尾崎、寺下、板坂、遠所、大地、栗谷、中野、神野にいたる11集落が 共同で運営していた行事でした。当日は夕方になるとそれぞれの集落から松明を持って山に登り、二十六夜の月が昇るまでの間は飲食を したり博打などに興じていたようです。そして、いよいよ夜明け前に月が昇ると、全員で月を拝みながら無病息災や農作物の豊作、 養蚕の成功など祈願したと伝えられています。山頂は意外に狭く、大勢の人が一度に集まることは難しいと思われましたが、かつては 山頂一帯が広いカヤト(茅の原)になっていたそうで、遥か東方には隅田川に浮かぶ帆かけ船までみることができたとそうです。ただし、 現在は西方の一部を除いて一面の樹林帯であり、眺望はほとんどききません。特に東方の視界が全く閉ざされているのはたいへん残念な ことです。下の平坦地も、現況は周辺を雑木林に囲まれているため眺望は全くありません。かつてはカヤトであったとする伝承や月待塔が のこされている状況などから判断しますと、おそらくこの平坦地が「二十六夜のまつり」における中心的な役割を担っていた場所と 考えられます。
 二十六夜塔の造立に関しては、その寄付を呼びかける趣意書が「原田平家文書」にのこされています。それによると、六夜待の主尊で ある愛染明王が養蚕の守護神であるから、これからも養蚕が盛大になるように供養塔を安置して祈願所としたい旨の説明がみられます 〔『秋山村誌』文0003〕。愛染明王が染色関係だけでなく、養蚕の守り神として二十六夜待信仰と結びついていたことを示す史料として 注目されます。

秋山村の二十六夜待供養塔

【山梨県都留市】
 秋山村の二十六夜山から南西方向へ約10`離れており、菜畑山から今倉山へ続く尾根の西端に位置しています。標高は1,297.3bで、 秋山村のそれよりも320bほど高い山です。登山道は引野田と戸沢からのコースがありますが、戸沢ルートのほうが道はしっかりして います。
 現在の山頂からは、北方と南方の展望が得られるものの、肝心の東方は樹林地となっていて全く眺望がきかない現況です。この山も 山頂は狭いのですが、近くに平坦地がないことから、この場所で二十六夜の月の出を拝したものと推測されます。引野田で聞いた話では、 昔は山頂から東京品川方面を望むことができたということですから、集落にもっとも近く、二十六夜待が可能な山であったのでしょう。 当地の月待塔は、山頂から西へ約20b下った場所にあり、1854(嘉永7)年7月の造立で、秋山村のそれよりも35年ほど古いものです。 石は高さ約110aの自然石が利用され、正面には「廿六夜」とだけ刻まれ、左側面に発願主として法能郷中、玉川村中、上谷村中の名を 確認することができます。これらは、いずれも二十六夜山の北西側にある集落で、おそらく共同で月待行事を営んでいたものと思われ ます。
 現地調査では、二十六夜待の信仰についてほとんど情報を得ることができなかったため、後日都留市の教育委員会へ問い合わせて みましたが、残念ながら地元にも詳しい史料は残っていないという回答でした。

 

都留市の二十六夜山
※[左]麓の集落から二十六夜山を望む / [右]山頂付近にある供養塔

【静岡県賀茂郡南伊豆町】
 南伊豆の妻良港の南西に位置し、標高は310.7bで海に面しています。明治時代の測地図には「朝日山」という表記があり、地元でも 以前はそのように呼ばれていたようです。南伊豆には高い山がありませんので、この山の頂からは東方の海上から昇る朝日を望むことが できたといわれており、それが山名の由来につながっているものと考えられます。
 事前の情報では、二十六夜山への登山道はいくつかあるものの、近年は登る人もなく荒れているとのことでした。しかし、実際に足を 踏み入れてみると、最近になって山の会の人たちによって山頂へのルートが復元されていました。それは、妻良と吉田を結ぶ林道の途中に ある登山口から入る最短ルートです。現在、山域は全体が常緑広葉樹と落葉樹の混交林となっており、一部ではかなり密生した区域も みられました。山頂は80〜100平方bの広さで樹木が伐採されていましたが、北方から西方の一部で眺望があるものの、南方および 東方側は全く見通しがききません。 また、三角点と標札以外には、二十六夜待信仰にかかわるような遺物は確認できませんでした。 妻良での聞きとり調査によると、かつてはこの山で二十六夜待の行事が行われていたということですが、妻良では二十六夜さまを信仰 したとする伝承がないようですので、おそらく吉田集落の人たちによって信仰されていたものではないかと考えられます。以前は、 山域一帯に広いカヤトがあり、子どもたちがそこに登ってカヤスベリなどをして遊んでいたということですから、現状とは全く異なる 景観をみせていたことになります。
 この山での具体的な信仰についてはほとんど情報を得られませんでしたが、伊豆地方ではこの地域以外でも各地で六夜待が行われて いました。たとえば、山間部にある天城湯ヶ島町の矢熊、船原、数沢地区などでは、かつて「二十六夜さん」という月待行事があり、 矢熊地区の場合は旧暦の7月26日に裏手の天支山頂上に登り、中伊豆町や伊東市を隔てた相模湾から昇る月を拝していました。 このとき、わずかな間だけ月が三体になって現れるという伝承があります。二十六夜待では、一般的に身近な場所にある高台や山を 利用したケースが多かったものと推測されます。その意味で、妻良の二十六夜山は、山名に信仰の痕跡をとどめることができた貴重な 事例といえるでしょう。

日食供養塔

 東京湾に注ぐ多摩川上流の貯水池(奥多摩湖)脇の広場には、全国でもめずらしい日食供養塔があります。もとは旧小河地村原の 門覚寺(1882年に焼失)付近にあったもので、ダム建設に伴う集落移転によって1955(昭和30)年ころに引きあげられ、別な場所で 保管された後、現在地に移設されました。1799(寛政11)年11月の造立で、高さは約115aの自然石です。「日食供養塔」と彫られた 銘文の上部に日輪と思われる円がありますが、これが何を意味するかは不明です。
 案内板によれば、日食を社会異変の前兆とみて供養したものとされており、天文現象としての日食を供養したものと解釈できます。 月食なども含めて、当時の人びとが非日常的な天文現象に対して抱いた素朴な思いは、多くの場合これを凶事とみるのが一般的です。 この地域の伝承にも、日食や月食は、太陽あるいは月が人間の身代わりに病気になったとする見方が色濃く表れています。しかし、 そのことだけで、わざわざ供養塔を造立したとは考えにくいのではないでしょうか。類似の伝承は他の地域にも広く分布していますので、 この地以外にこのような石塔がみられないということは、やはり複合的な要因があったと考えるのが適切でしょう。
 そこで、まず推測されるのは、実際に発生した日食そのものを供養したのではないかということです。当時、この地域で観察可能な 日食を調べてみますと、供養塔造立前年の10月に東京で食分0.56の部分食があり、1796(寛政8)年6月に食分0.59、さらに1794 (寛政6)年11月には食分0.81の部分食が記録されています〔『日食月食宝典』文0164〕。確かに連続した日食があったことは 認められますが、このようなケースは特にめずらしいものではなく、直接のきっかけとしては結びつきが弱いようです。さらに、少し 見方を変えてそれ以前の社会情勢に注目してみますと、そこには大きな混乱の波が押し寄せていたことがわかります。
 寛政期の前は天明期で、約8年間続きました。しかし、この時代は天明の大飢饉により、庶民の暮らしは大きな危機にさらされていた ことが知られています。冷害や多雨などの気象異変のほかに、関東地方では天明3年の浅間山大噴火や同6年の利根川大洪水など、 自然災害が相次いで発生しました。しかも、その直後の11月には食分0.98の日食があり、まさに天変地異の様相を呈していたわけです。 その後、寛政期に入って情勢は回復に向かったものとみられますが、寛政6年から隔年ごとに3回続いた日食を機に、供養のための 石碑を建立したものと推測されます。現在のところ、このような供養塔は他に類例がなく、たいへん貴重なものとなっています。

 

皆既日食と日食供養塔
※[左]オーストラリア日食(撮影:箕輪敏行氏) / [右]現在の供養塔の状況

遠 見 台  2018/01/27

【先島諸島の遠見台と役割】
 宮古・八重山地方は日本の南西端に位置し、多くの島嶼からなる地域です。16世紀初頭に琉球王国に組み入れられたあと、 17世紀初めには薩摩藩の支配下となりました。しかし、鹿児島(旧薩摩藩)から石垣島までは1000`以上も離れており、 沖縄本島(旧琉球王府)からも400`以上の距離があるため、宮古諸島においては宮古島を中心として、また八重山諸島に おいては石垣島を中心としてそれぞれに固有の文化が生まれ、伝承されてきました。そのような歴史を背景として、17世紀 中ごろになると沖縄や先島諸島周辺の海上監視を強化する目的で多くの島々に「遠見台」が設置されました。これが単なる 日和見の場でないことは、そこに課せられた任務の重要性と周辺にある遠見台とのネットワーク機能の構築をみれば明らかです。 現在、宮古諸島や八重山諸島においては30ヵ所以上の遺構が知られており、それらの多くが国指定の史跡となっています。
 遠見台の付近には、通常遠見を行う人(遠見番と呼ばれる)のための番所が設けられていました。人びとは昼夜を問わず交代で 海上の監視と通報の任に就いていたといわれます。具体的には、沖合を通過したり入港あるいは出航する船の状況を仔細に記録し、 報告することが求められていました。その報告の手段として、たとえば宮古島においては遠見台の所在地や監視の時刻、報告内容、 緊急性などの条件に応じて立火、立煙、飛船、飛脚、早馬、早遣等が使い分けられていたようです〔『宮古諸島の遠見台と烽火 の制』文0289〕。
 また、同資料には明治時代の「遠見番報告」の一部が紹介されていますが、それによると報告の内容は監視日や天気、風向きの ほか、どのような船がいつ、どの方角から現れ、それがいつ頃どちらへ去って行ったのかについて仔細に記録されています。 この中で、風向きや船の位置を示す方位は十二支による表記となっており、すべて方位石を用いた測定の結果と思われます。 遠見台にとっても、日和山と同様に方位石が不可欠の存在であったことがよく分かります。ただし、遠見台に方位石が現存する 事例は少なく、貴重な文化遺産としての保存が望まれるところです。

【各地の遠見台】

《 宮古諸島 》
 沖縄本島と八重山諸島の間に位置する宮古諸島は、宮古島、伊良部島、下地島、来間島、池間島、大神島、多良間島、水納島の 併せて八つの島嶼で構成されています。前出の資料によると、下地島を除く七つの島々に遠見台の遺構や伝承があり、これまで 池間島と宮古島の2ヵ所(狩俣、島尻)について現況の確認を行いました。以下にその状況を示します。 

宮古諸島の遠見台現況図(一部を除く)


▲ 遠見台からの眺望(池間漁港)

池間遠見台(宮古島市池間)

池間島は宮古諸島の最北に位置し、古くからカツオ漁によって栄えた海洋民の島です。民俗的にも古い伝承や習俗がのこされて おり、オハルズ御嶽(大主神社)を中心とする深い信仰とムトゥと呼ばれる強い地縁の絆が今なおしっかりと根付いています。 遠見台は、御嶽やムトゥなどが集中する信仰の拠点に隣接した高台にあり、そこからは池間の港から池間大橋、宮古島、そして 伊良部島方面を見渡すことができました。現在、方位石(地元でピャイイスと呼ばれる)はありませんが、国指定史跡の案内板に は昭和25〜26年頃まで存在していたことが記されています。
〔2017.11.28調査〕


▲ 方位石と大神島

▲ 整然と置かれた方位石

狩俣遠見台(宮古島市狩俣)

狩俣は、平良と池間島を結ぶ幹線道路沿いの集落です。農業と漁業を主な生業とし、多くの遺跡があります。遠見台は集落の東の外れ、 目の前に大神島を望む標高約30bの高台で、大きな水道用タンクが目印となります。崖線に積まれた石垣の一角に50uほどの広場が あり、一面に丈の低い草が繁茂していました。石垣の前に立つと、大神島周辺の海を一望することができ、遠見の機能を十二分に発揮 できる環境であったことがよく分かります。
方位石は直径約60a、高さが25〜30aの歪んだ円盤状で、南側の一部がそぎ落とされたような不整形を成しています。現在は、石垣 近くの積み石に載せられた状態ですが、元からこの位置にあったかどうかは不明です。粗い石の盤面には放射状の線が複数本認められ、 大小の穴もあります。各線の間隔は均等ではないものの、全体の構成から推測して、おそらく方位を示す線ではないかと考えられます。 念のためコンパスを置いたところ、比較的太くて明瞭な1本の線が磁北の向きとほぼ一致しました。ただし、日和山に設置された方位石に 共通する十二支の文字、即ち具体的な方位を示す目印等は見当たりませんでした。別な標識を利用していたか、あるいは方位を読み取る ための特別な用具が使用された可能性もあります。
いずれにしても、この遠見台は近隣の大神島や池間島の遠見台とネットワークが形成され、大神島からは立火によって、また池間島からは 飛船により情報の伝達が行われていたようです。
〔2017.11.28調査〕


▲ 石垣から望む海

▲ 石垣に組み込まれた方位石

島尻遠見台(宮古島市島尻)

島尻は狩俣から南東に3`ほど離れ、やはり農業と漁業を主な生業とする集落です。北向きの島尻漁港は大神島に最も近い港であり、ここから 定期船が通っています。遠見台は集落の北東の外れにあり、細い路地が下り坂になるところをヤマに分け入ってすぐの所です。番所跡と 思われる石敷きの小さな広場の先には石垣が連なっており、一部分だけ視界が開けた場所あって、ここで遠見を行っていたようです。 付近に倒伏していた旧平良市教育委員会の案内板によると、かつては数名の遠見番が交替で任務に就いていました。
全体の雰囲気は狩俣とよく似ていますが、方位石の設置は全く異なっていました。それは、海を見渡す石垣のほぼ中央に設けられた幅50a ほどの空間にすっぽりと水平に組み込まれていたのです。下部を含めた全体の形状は複雑で、盤面とその四方を加工したのではないかと 考えられます。この石の特徴は、狩俣の方位石では確認されなかった明瞭な内円線(直径約24a)をもっていることです。その中に方位線では ないかと推測される数本の線が見られますが、果たしてどうでしょうか。先の案内板には「方位を刻した針石(方位石)が設置されている」と 記されていますので、具体的な方位を示す何らかの標示があったようですが、確認できませんでした。
〔2017.11.28調査〕


星 見 石  2018/01/27

【八重山の稲作と星】
 八重山地方に星見場(星を観測する場所)が設けられたのは、17世紀後半の時代と考えられています。多くの星見場で 観測に使用する石が設置されたようで、星見石と呼ばれます。現在、星見石あるいは類似の機能を有する遺物として 存在が確認されているのは、石垣島、竹富島、小浜島、波照間島の4島で6ヵ所に及びます。このほか、宮古島においても 3ヵ所で星見石の可能性が高い石の遺構が知られています。
 星見場の役割は、稲を主体とした穀物の播種や収穫に際し、その最適期を特定の星が示す位置によって見定めることに ありました。当時の稲作は自然暦に頼っていたと考えられ、毎年安定した収量を確保するためには、まず播種の時期を正確に 知る必要があったわけです。そうなると、最も信頼できるのは天体の運行をおいて他にはありません。星の巡りは毎年同じように 繰り返されますので、決められた場所で決められた方法によって星の位置を観測すれば、年間の農事暦を把握することが 可能であったと思われます。当事者である農民たちが、そうした知識を持ち合わせていたかどうかは分かりませんが、作物の 収量確保は農民ばかりでなく、地域を治める役人にとっても重大な関心事でした。その背景に、人頭税の存在が重い足かせと なっていたようです。
 16世紀から17世紀初頭にかけて、琉球王国のちには薩摩藩と相次いでその支配下におかれた宮古・八重山地方では、 地域の人口を基準とした新たな税(人頭税)が課せられることになり、人びとの暮らしはますます困窮の度合いを深めて いきました。その後も、人頭税はより過酷な税へと変化した経緯があり、税を課す側とすれば早急に具体的な対応策を導入する 必要があったのでしょう。星見(星の観測)の普及は、その大きな柱の一つであったと推測されます。

【星見の方法】
 石垣島の川平地区で行った聞き取り調査では、かつて明治生まれの人たちがムルブシ(プレアデス星団)を見て米作りをして いたと聞きました。ただし、どこで、どのような方法を用いていたのか、詳しい内容は分かりません。星見石の利用については、 大正13年発刊の『八重山民謡誌』〔文0290〕に「ンニ星の見方について、立冬の節には日没後東天に現われる昴星座 (ムリカ星)が胸部の高さ程昇った時、各部落の後方に設けられた「星見石(プシィミ)」を中心にして、この星と石と目とが 一直線上に見えた時が種子取の好い時節である」と記されています。種子取(タニドゥル=播種)の後に行われるのが種子取祝で、 この地方に伝わる農耕儀礼の一つです。また、星見石以外の方法として竿丈、やこう丈、眉丈、雨垂丈等の観測方法が報告されて います〔『八重山文化論集』文0261〕。このうち、竿丈は「星見場に三尋(約十二尺)の星見竿を垂直に立て、そこから三尋西方に さがって座り、東方の「すばる座」を仰ぎ見、「群星」が眼と竿の先を結ぶ線上の高さ(竿丈)に見えた時期を稲の播種の好適期と 定めていたようである」とあります。
 前者の星見石の場合は、胸部の高さ程になったムリカ星が対象となりますが、石の高さや観測者との距離が不明なため、実際に どの程度の仰角で観測していたのか不明です。さらに、現在見られる星見石には、柱状に立てられたタイプや側面に孔を有するタイプ、 そして方位線を刻んだタイプがあり、それぞれに異なる利用が行われていたことでしょう。一方、竿丈の場合は高さ三尋の竿から 三尋離れた位置に座して観測すると、目標とする星の仰角は約38度(一尋を約 1.2b、眼の高さを約 0.8bとして算出) になります。
 なお、宮古島に遺された3ヵ所の遺構は高低差のある二つの石から成り、この場合の観測は人の目》第一の石》第二の石》 目標の星を結ぶ線になります。観測の精度は向上しますが、その一方で設置の際の位置決めと観測線の設定はより精確さを求められる ことでしょう。天文(星の見分け方など)に関する知識と、それを利用する技術の普及がどのように進められていったのか、それを 解明する糸口は既に久米島や多良間島、波照間島で発見されている星の史料にあると思われます。

【各地の星見石】


▲ 側面にある孔

▲ 石に刻まれた由来

竹富島の星見石(八重山郡竹富町)

この星見石は、1979年に初めて竹富島を訪れた際に出会った石です。当時健在であった上勢頭亨氏よりいろいろと話を伺いましたので、 それを整理してみましょう。まず設置場所ですが、元は北岬の丘(人通りの多い道端)にあったようです。その後関係者で議論を重ねた末に 赤山公園に移設されたといわれています。移設の理由は分かりませんが、諸作物の栽培と気節(四季)を定める目的で造られたものです。 実際に星の観測が行われたのは人頭税時代(17世紀中ごろから19世紀末)とされ、夜の8時から9時頃に側面にあけられた孔から卯の方角 (東方)を見て、その中に星が見えるとき、あるいは見えないときを以って作物の播種や収穫期を見定めていたということです。
簡単な計測を行ったところ、石本体部の大きさは高さ約100a、最大幅が約80aあり、厚さは最大約40aでした。そして、底面から 約30aの位置に扁平面を貫く孔が穿たれています。孔の大きさは、西側が約13aの円形ですが、東側は最大22aのD字形となり、その 中心線は真東から20度ほど南へずれていました。またこの孔はほぼ水平のため、狭い視界内で確実に星を捉えていたとするとかなり低い 高度で観測が行われていたいたものと推測されます。
ところで、この石には由来が刻まれています。「往古ハ暦ナク草木ノ緑ノ模様星ノ出没ノ模様等デ春夏秋冬ノ季節ヲ定メ以テ作物ヲシタト 言フ」とあり、ここで星というのは竹富島でムリカブシと呼ばれるプレアデス星団のことです。人頭税に苦しめられた人びとは、一体どのような 想いでこの星を観ていたのでしょうか。
〔1979.05.24調査 ※撮影は2013年12月〕


▲ 市街地の道路沿いに立つ

登野城の星見石(石垣島市)

石垣島に現存する星見石の一つで、高さ約145aの柱状石が1基だけ遺されています。場所は市街地の北東、八重山農林高校の先の 県道沿いにある自動車販売店の一角で、すぐ脇に小さな川があります。底部はコンクリートによって固定されており、また周辺の環境も 大きく変化しているため往時の面影は見られません。仮に当初から単独の石であったとすると、そこから決められた方向に一定の距離を おいて石の先端に目標とする星を捉えていたことになります。しかし、『星見石と人頭税石』〔黒島為一著『情報やいま』2002年 11月号掲載〕によると、この星見石に伴う別な石が存在していたということです。このタイプの星見石では、通常背丈の高い石と 低い石が一対となって利用されますので、観測の方法としては低い石から高い石を仰いで各頂点を合わせ、その延長線上に位置する星を 観測することになります。なお、宮古島のブ・バカリ石やウンヌンナックと呼ばれる石造物も、同様に二つの石が対となった構成です。
〔2017.11.30調査〕


▲ 高い石(手前)と低い石(奥)の現況

▲ 二つの石と星を結ぶイメージ像

荷川取のブ・バカリ石(宮古島市)

平良の荷川取港付近にある人頭税石のことです。案内板の解説によれば、地元でぶばかり(賦計り)石と呼ばれていることやこの石より 身長が高くなったら人頭税を課せられたという言い伝えがあることを紹介しつつ、人頭税の史実とは無関係であろうと説明しています。 現在のブ・バカリ石は、住宅街の一角に高さの異なる一対の石として遺され、道路の向かい側は公園や港の岸壁です。いずれも海岸を埋め立てて 造成されたもので、元々は海でした。近くに住む人の話では、昔は石が海岸線に立っていたと言い、子どもたちの遊び場の一つとなって いました。残念ながら二つの石の位置関係は覚えていませんでしたが、興味深い情報と言えるでしょう。少なくとも、現状の石の配置が 本来の状態でないことが示されたわけです。『人頭税石?−八重山からの問題提起−』〔文0085〕には、この石が道路工事によって移動 されたことや元の状態に関する論考が掲載されています。
そうした事情を踏まえつつ現況の確認を行ったところ、二つの石の高さはそれぞれ約144aと約78aで、両者の内端間の距離は約3b でした。さらに、低い石から高い石を見通して各頂点を結んだ観測線の仰角は、簡易的な計測で5〜7度です。地面の傾斜を考慮しても 10数度ではないでしょうか。また、この観測線の方位は磁北から約42度西に寄っています。宮古島の磁針方位は西偏約3度40分ですので、 ほぼ北西の方向を望む設定となります。本来の設置状態とはかけ離れていますが、黒島氏が提起されているようにブ・バカリ石が人頭税と かかわる石などではなく「ブス(星)ハカリ石」であるという説はほぼ間違いないものと思われます。
〔2017.11.27調査〕


▲ 高い石と奥に隠れた低い石

▲ サトウキビ畑の中に立つ

城辺町のウンヌンナック(宮古島市)

ウンヌンナックとは「鬼の杵」という意味だそうです。城辺町は宮古島の南東部に位置していますが、そのさらに南岸近い七又集落の サトウキビ畑の中にありました。ブ・バカリ石の項で参照した黒島為一氏の資料では、当地に2対のウンヌンナックがあることになっていますが、 今回確認できたのは1ヵ所だけでした。早速、この土地を所有する方から話を聞いたところ、約55年前に当時の城辺町教育委員会が二つの 石を町役場に移転させましたが、諸々の事情によりほどなく戻ってきたということです。位置的には、ほとんど元あった場所に納まっている とされています。
承諾をいただいて畑に入ると、かなりの踏み跡がみられました。石の周辺には多少の空間があるものの、低い石から高い石を見通すのは 容易ではありません。一見してブ・バカリ石と似たような形態を示していますが、低い方の石は荷川取よりもスマートな柱状タイプです。 簡易計測の結果は、大きさが約133aと約83aで、内端間の距離は約 2.1bでした。また低い石の頂点と高い石の頂点を結ぶ観測線の 仰角は、簡易計測で10〜11度あり計算でもほぼ同じ値となりました。ただし土地の傾斜が不明のため、実際の仰角は分かりません。 そして、観測線の方位は磁北から東へ約152度にあたり、西偏値を考慮してもほぼ南南東の方角ということになります。ブ・バカリ石の ような原位置を大きく逸脱した石の配置とは異なるものの、石を元の場所に復帰した際の条件次第で星見の設定は大きく変化します。 たとえ設置の方向を正しく復元できたとしても、二つの石の傾きや高さを高い精度で再現するには事前の精密な測量データが不可欠です。 そういう意味で、現状の二つの石の関係は少なくとも移設前と比べて大きく変化している可能性があると考えるべきでしょう。
〔2017.11.29調査〕


                                                                                                                            

三日月塔  2017/11/25

【三日月信仰と三日月塔】
 月をめぐる習俗の一つに三日月(この場合は旧暦三日の月)さまの信仰があります。特に「三日月に豆腐を供える」という伝承は主に東日 本や北日本の各地にみられ、現在も行われている地域が少なくありません。
 三日月塔は、そのような信仰の名残を示す有形資料の一つで、主として自然石の表面に「三日月供養」あるいは「三日月塔」などの文字が 刻まれた石塔をさします。同じ月を対象とする信仰でよく知られた月待塔などと比べると極端に数が少なく、しかもある特定に地域に散在 しています。これまで北日本や東日本で確認されていますが、関東では茨城県と栃木県、東京都、千葉県などで記録されています。しかし、 それらの地域においても三日月をめぐる習俗については伝承が希薄なため、石塔が造立された目的や信仰の実態などはよく分かっていません。 ただし、茨城県桜川市真壁地区(旧真壁町)には近世から昭和にかけて造立された29基に及ぶ三日月塔の調査報告〔『真壁町の石仏・石塔』 文0300および『真壁町の石造物−寺社編−』文0301〕があり、今後の現地調査や聞き取り調査によっては信仰の実態を把握する手掛かりが 得られる可能性も残されています。

【各地の三日月塔】
 これまで、現地調査によって確認された三日月関連の石造物を都県別に整理しました。ほとんどの事例が個人の造立によるものですが、三日月不動の 信仰においては講などの組織が関与していた可能性もあります。


【 茨 城 県 】

三日月塔(筑西市)

JR水戸線のにいはり駅から北に約80bの稲荷社境内にあります。自然石タイプの文字塔で、地上部の高さは40a余りです。 嘉永六年(1853)の造立で、上部には左に日輪、右に月輪が陰刻されています。なお、施主の銘は個人の名前となっており、熱心な 信者が供養の目的で建てたものと推測されます。〔2012.03.03調査〕

三日月尊塔(筑西市)

三郷地区の雲照寺(不動尊)境内に馬頭観音や延命地蔵などの石塔とともにあります。片岩状の自然石に近い石を利用した文字塔で、 地上部の高さは約66aです。主銘文は「三日月尊」とだけ刻まれており、明治十七年(1884)の造立です。施主名はありませんが、 「中嶋」という姓を確認できるので、やはり個人が建てたものと考えられます。なお、この石塔は中央部に接合痕があり、過去に 何らかの要因で半折した経緯をもっているようです。〔2012.03.03調査〕


【 栃 木 県 】

三日月塔(足利市)

梁田町の星宮神社境内に多くの石塔や石祠とともに遺されています。この神社はかつての村の鎮守で、昔は真言宗成就院の別當として 虚空蔵菩薩を祀っていたことから、明治期の神仏分離政策によって星宮神社となった経緯があります。石は高さ約34a(台石を除く)、 厚さが10a足らずの片岩タイプで「三日月塔」とだけ刻まれています。残念なことに、紀年銘などは全く見当たりません。造立当初 からこの場所にあったかどうかも不明です。〔2015.05.01調査〕

三日月天塔(佐野市)

この塔があるのは、佐野市の北部で群馬県境に近い旧田沼町飛駒の黒沢地区です。山間の彦間川沿いに散在する20軒余りの集落で、 その中ほどにある天満宮の境内にひっそりと眠っていました。駒型と思われる石には、上部に月輪(左)と日輪(右)があり、 その下に大きく種子「シャ」が刻まれ、それに続いてさらに「三日月天」の文字があります。「シャ」は十二天のなかの月天を示す 種子で、これを祀る石塔はたいへんめずらしい存在です。慶應四年(1868)の造立ですが、誰が建てたものかは分かりません。 〔2017.05.02調査〕


【 千 葉 県 】

三日月不動尊塔(柏市)

布施地区の真言宗飛龍山圓性寺本堂裏に二十三夜塔などと並んで建っています。台石の上に高さ約65aの尖頭角柱を載せたタイプで、 明治二十九年(1896)に土谷津(布施の一集落)の年寄中によって造立されました。主銘文の「三日月不動尊」というのは、三日月の 本地を不動明王とする仏教の教えに基づいた信仰と考えられ、また真言祈祷大系の一つである『十結諸大事』〔『真言秘密加持集成』文0302〕 に説かれた「三日月拝見の大事」が不動明王の検印を結ぶ所作で行われることと深くかかわっているようです。なお、この石塔はもと 土谷津内の道路沿いにあったということです。〔2013.11.02調査〕

三日月大朋神塔(松戸市)

松戸市には「三ヶ月」という地名が遺されており古くは三ヶ月村でした。そしてこの地に鎮座しているのが他ならぬ三日月神社です。 その社殿の裏側に、立派な石組台座に載った石塔があって「三日月大朋神」と刻まれています。おそらく、大朋神は「大明神」のことで しょう。石は高さ約75aの笠付塔です。寛延四年(1751)の造立ですから、これまでに確認した三日月塔類の中では最も古いものです。 〔2015.05.03調査〕


【 東 京 県 】

三日月供養塔(あきる野市)

旧西多摩郡五日市町(現あきる野市)の戸倉地区にあるK家が所有する三日月塔です。自然石を利用した高さ約80aの文字塔で、 主銘文は「三日月供養」(※養の字は旧字)と刻まれ、文字通り三日月信仰の供養を目的として建てられたものと思われます。 明治十年(1877)の造立です。願主は個人で、調査時の当主であったK氏の先々代にあたる方とのことですが、三日月を拝したり 供えものをするなどの特別な行事は行っていないようです。〔1994.04.16調査〕


                                                                                                                            

妙見の社寺

 妙見信仰に関連する社寺はかなりの数にのぼり、地域によって濃密な分布を示しています。呼称は妙見寺、妙見宮、妙見社、北辰社、 星の宮などさまですが、明治時代の神仏分離政策によって寺院や神社として改称を行ったところが相当数あるようです。したがって、 妙見の名がなくとも、それにかかわる神仏を祀る社寺は基本的に妙見信仰と深いかかわりがあるといえでしょう。
 福島県では、相馬市の相馬中村神社、原町市の相馬太田神社、小高町の相馬小高神社が相馬三妙見と呼ばれ、兵庫県八鹿町の但馬妙見 (日光印)や熊本県八代市の八代神社(妙見宮)とともに日本三大妙見と称されています。そのほか、大阪府枚方市の星田妙見、山口県 下松市の降松神社、佐賀県小城郡の晴気妙見神社など、現在も篤い信仰に支えられています。以下に関東地方の事例を紹介しましょう。

【秩父神社(妙見宮)】
 埼玉県秩父市にあり、例年12月に行われる大祭は日本の三大曳山祭の一つとして知られています。妙見神は、平安中期以降に合祀 されたようですが、当時この地を本拠地とした武士団の一つに平秩父氏がいました。これは平良文を祖とする千葉氏と同じ流れをくむ 一派であり、千葉氏が崇めた妙見信仰がこの地にも勧請されたものとみられています。祭神は八意思金命、知々夫彦命、天御中主神の 三神で、最後が妙見神つまり仏教の妙見菩薩です。なお、本殿内には現在も妙見宮があるといわれています。
 12月の例大祭においては、御輿が神社から御旅所に渡御したあとの神事がもっとも重要で、その斎場に置かれた亀石に大幣が奉安 されます。亀は玄武の象徴であり、妙見菩薩もこの亀に乗ります。当地では、妙見さまが武甲の男神と亀の石上で逢うとの伝承が ありますが、これは神社と妙見山(武甲山)の関係をよく表しています。地理的にも、神社と亀石を結んだ線を延長した先に武甲山の 山頂を望むことができます。おそらく、秩父盆地特有の地形や歴史的な背景を基盤に、信仰の定着が図られてきたものと考えられます。

【北斗寺】
 茨城県つくば市にある真言宗豊山派の寺院です。本尊は金輪聖王で、本堂の東側に妙見大士の堂があります。伝承では 821(弘仁12)年の創建で、北斗七星を祀るとありますから、北辰妙見と北斗が混同されています。旧暦1月7日が例大祭で 星供養(星祭)が行われ、多くの参拝者でにぎわいます。

【星宮神社】
 この呼称をもつ神社には、かつて妙見菩薩や虚空蔵菩薩を祀っていたところがあります。千葉県などでは妙見信仰が、栃木県では 虚空蔵信仰が主流であり、福島県などでは両者が混在するものの、秋田県の星辻神社は虚空蔵菩薩に由来する社が多いとされています 〔『虚空蔵菩薩信仰の研究』文0065〕。
 埼玉県では、飯能市西部の山裾に星宮神社があり、もとは妙見菩薩を祀っていました。境内には芭蕉の句碑というものがあり、 その句には「北斗」が詠まれています。この地は秩父妙見社に近く、また付近には妙見菩薩の石塔なども数基みられることから、 かつては妙見信仰がさかんであったことが窺えます。

 

秩父神社の亀石(左)と北斗寺の妙見堂

妙見の石造物  2012/02/20

 妙見信仰に関連した石造物にはいくつかの種類があります。ここでは、関東地方を中心に当館が調査を行った事例を整理しました。

【北辰妙見の石塔】
 「北辰」あるいは「北辰妙見」、「北斗」などの銘をもつ石塔は、その信仰の証として各地に造立されています。多くは文字のみの 石塔ですが、なかには星辰を示す小円を刻んだものもあり、これらは別項で 星の意匠 としてまとめましたので、そちらを参照してください。
 神奈川県内には比較的多くの妙見塔があり、鎌倉市や藤沢市、小田原市などの西部地域に散在しています。特に小田原市と藤沢市の ものは、浅間信仰(富士講)との深いかかわりを示し、主銘文の上方に日月とともに富士山を象った図が刻まれています。共に「名山」 という号があり、ほぼ同じ字体で「北辰明(ママ)見星」と彫られていますが、残念ながらいつ造立されたものか不明です。藤沢市の 事例では、同じ場所に新旧と思われる二基の石塔が存在し、石の形状や銘文の一部に相違があることから、由来を紐解くいくつかの 手がかりを得られるかもしれません。また、鎌倉市では文字塔が三基確認されており、一つは「北斗尊星」、他は「妙見大菩薩」の銘が あります。

神奈川県の妙見塔
※[左] 藤沢市の北辰明見星塔AとB[右上]  /  [右下] 小田原市の北辰明見星塔

【妙見尊塔】
 埼玉県入間郡名栗村の寺院境内にある高さ50a余りの舟形タイプの石造物です。1864(元治元)年に、個人によって造立されたもの ですが、すぐ近くには同一の名が刻まれた二十三夜塔もあります。妙見を著した像はさまざまなタイプがあるといわれていますが、 この石塔の彫像は二臂で右手に剣を持ち、左手には宝輪らしきものを乗せています。
 また、ここからほど近い飯能市にも類似の石塔(1831年造立)があり、こちらは玄武に乗った彫像が見られます。この地域が 秩父妙見宮の信仰圏であったことを考えますと、これらの石塔から推測されるのは、近世において個人あるいは講組織などによって 支えられた篤い信仰の存在です。いずれにしても、月待塔などに比べますと妙見の石造物は数が少ないだけに、信仰の実態を探るうえで 貴重な文化財といえるでしょう。

【妙見の石灯籠】
 埼玉県富士見市の甲子大黒天には、境内に倒伏した石灯籠があり、その円柱部に「北斗星 妙見霊神」の銘が刻まれています。 1681(天和元)年の造立で、関連する石造物としては古い時代のものと思われます。願主は個人で、残念ながら造立の目的などは 不明ですが、近世初期の妙見信仰を理解する手がかりとして重要な存在です。

 

妙見が乗る玄武(左)と妙見の石灯篭

七 星 剣  2017/11/25

 七星剣は、文字通り「七星」の象嵌文様をもつ剣のことで、他に法隆寺や東大寺正倉院、四天王寺のものがよく知られて います。これら三点に共通するのは、いずれも剣の表裏に七つの星文、すなわち北斗七星が刻まれていることです。また、 四天王寺の剣では他に一文字の三星や山形の三星をもち、正倉院のそれは、さらに二つの星が斜めに三列並んだ星文を有して います〔『星と東方美術』文0299〕。同書に掲載された図版によると、四天王寺と法隆寺の剣では表側(陽面)の文様 に対して裏側(陰面)はそれを透視したと考えられる状態に描かれていますが、正倉院の場合は四つの星文だけが表裏ともに同じ 配列で描かれています。さらに「七星」の部分だけに注目すると、前二者は表側が正しい向きの北斗七星であるのに対し、後者は 逆向きの北斗です。したがって、裏側は三点ともに逆向きということになります。
 「七星」以外の星文について、野尻抱影氏は山形の三星を北極紫微垣にある三公(りょうけん座)、三列の六星を三台(おおぐま座)と 比定し、一文字の三星は河鼓三星ではないかと考察しています。過去には別な見解を示す資料もあるようですが、少なくとも古代の 人びとの星辰に対する感覚は、現代人とは全く異なる次元のものであったことを理解しなければならないでしょう。
 さて、四国の七星剣は高知県の旧中村市(現四万十市)にある一宮神社で発見されました。現在は四万十市の郷土資料館が保管し、 その複製品が展示されています。この剣は両刃型という特徴をもっていますが、象嵌の材質が当初は銀とされたものの、その後の 再分析で真鍮と判明しました。そのため時代の推測に異なる見解が示される結果となり、多くの謎を秘めたまま現在に至っている 状況です。
 実物は、展示の写真を見る限りすっかり錆に覆われていて肝心の七星文は確認できませんが、ショーケースに入ったレプリカには、 はっきりと描かれていました。象嵌が施された星文は剣の中央部にあって、いわゆる逆向きの北斗七星です。それぞれの星は少し つぶれた円形で示され、さらに不規則な波線によって結ばれています。展示されているのは裏側(陰面)ですので、表側(陽面)は 見ることができません。資料では表裏に象嵌が施されているということですから、反対側にも星文があるはずで、それはおそらく正しい 向きの北斗七星ではないかと考えられます。それにしても、個々の星辰円を結ぶ波線は何か特別な意味があるのでしょうか。やはり、 謎多き七星剣といえます。

 

[左]七星剣のレプリカ    ☆    [右]北斗七星の象嵌

七つ井戸

 妙見信仰は、本来北辰(北極星)を祀るものですが、日本では北辰と北斗(七星)が混同され、七にちなむ史跡や自然物、造形物 などが各地に伝承されています。なかには北斗七星との具体的な関係を指摘できる事例もみられますが、基本的には七という数字が そのものが重要であったと考えられます。
 埼玉県の秩父市には、妙見信仰にゆかりの史跡として「七つ井戸」があります。これらは、秩父神社の北側で国道140号線に沿う 約1.3`の区域に点在しています。このうち第四、第五、第六の井戸では1983年の調査で水が湧き出ていましたが、他の3ヵ所 (第一・二・七)はすでに埋め立てられ、残る1ヵ所(第三)も水がたまる程度の状況となっていました。このような井戸は、 荒川右岸の中位段丘の麓から湧出している清水を利用して造られたものといわれ、七つ井戸に限らず他にもたくさん存在していた ようです。理由はわかりませんが、このうちの7ヵ所を妙見信仰にゆかりの井戸として選定したものでしょう。

水神が祀られた第五の井戸