星 の 意 匠

【星辰を象るモノ】
 各地に散在する石造遺物のなかには、その一部に星辰を刻したものが少なくありません。多くは妙見信仰に関する石塔類に みられるものですが、他の石造物(石灯籠や石祠、供養塔、石段等)でも認められる事例があります。いずれの場合も、星辰を 表現しているのは陽刻、陰刻を問わず小円(○)が基本です。星といえばすぐに☆形を連想しますが、日本では古くから星の 意匠として○が使われてきました。また、その配列は実際の星座の一部を表現したものから、各種の紋章にみられるようなデザイン化 されたものまでさまざまです。なかでも多くの事例を有するのはおおぐま座の北斗七星で、基盤となる石造物の種類や造立目的などに よって変化に富んだ意匠がみられます。ここでは、それらの星辰像にスポットをあてながら、暮らしのなかでどのように活かされて きたのか考えてみたいと思います。

《本文中の引用文献について》
分類番号を付した引用文献の詳しい情報については、入館口(トップ頁)の目次中にある「文献資料」を参照してください。文献名に 付随する数字が分類記号を示しています。

山梨県塩山市の妙見塔 2013/10/06

【山里の石塔】
 丹波川本流から一之瀬川に沿って林道を分け入ると、険しい谷はやがて大きく開け、そこに一之瀬、二之瀬、三之瀬の集落が 点在しています。妙見の石塔があるのは山梨県塩山市二之瀬地区で、川沿いの一隅に1855(安政2)年造立の片岩タイプの石塔があり、 正面に「北辰妙見大菩薩」の銘文が刻まれています。高さは台石を含めて140aほどで、大きな岩の上で古木に囲まれた佇まいは、 この地に息衝いてきた信仰の証として強い存在感を示しています。道路をはさんだ反対側には、もう一基のよく似た石塔がありますが、 こちらは「浅間大菩薩」の銘をもっています。この二つの石塔は何らかの関連をもって造立されたものと考えられますが、地元でも 特別な行事が行われているという情報は得られませんでした。山深い集落にこのような立派な石塔が現存することは、当時の信仰の 実態がわからないだけに不思議な気がします。

【星辰図について】
 星の意匠は正面上部に刻まれており、線で結ばれた三つの小円がみられます。陰刻された像の大きさはいずれも直径約4aで、 この「。 ゜ 。」形は道教の霊符にも表れている星辰を示したものと同じ構図です。今のところ確実に同定される星は見当たりませんが、 一つには中国で妙見信仰に連なる道教の祭神とかかわりが深いとされるアンタレス(さそり座)を含む心宿三星、あるいはこと座の ベガを含む三星、さらに北辰(天皇大帝)や北斗などと同じ北極紫微垣の星である三公(りょうけん座)という可能性も残ります。 また、抽象的な見方をすれば三光天子(日・月・星辰)を表現したとする考え方も有力です。この見解に関する詳細については 「共極連珠の石碑」の項も併せて参照してください。

北辰妙見の石碑

※[右下] 塩山市の北辰妙見大菩薩塔と星辰[上]  /  [左下] 側面図

桐生市の霊符尊神塔

【不思議な孔をもつ石塔】
 桐生市街地のすぐ北に位置する吾妻山。その西側の谷(山田川)を遡ると、突き当りに「桐生自然観察の森」があります。 ネイチャーセンターや観察路などが整備され、四季を通じて市民の憩いの場となっているようです。その観察路の一つを登り、 途中から名久木坂峠への道を辿ると程なくやせ尾根に出ます。近くの木に「北斗七星石柱」と記した小さな道標があり、それに 従って尾根を西へ200bほど登ると少し視界が開けた場所に端正な石塔が建っていました。
 石塔は磁北から東に3度という僅かなズレでほぼ南を向いており、最上部に北斗の星辰図、そのすぐ下に直径約9aの孔が開き、 下部には「霊符尊神」と刻まれています。1833(天保4)年の銘があり、「當邨中」によって造立されたものです。星辰図の意匠は 実際の星の配置ではありませんが、輔星も描かれ、各星辰円は細線で結ばれているので一目でそれと判断できます。
 しかし、この石塔の特徴はなんと言っても石柱を南北に貫く円孔でしょう。正面から中を覗くと、背後にある樹幹の隙間から 対岸に連なる稜線を眺めることができます。念のため石塔の傾きを測定したところ、北側に約3度、東側に約5度の傾きがあるものの、 ほぼ真っすぐな状態であることがわかりました。いったい、この孔は何を意味しているのでしょうか。

【地域の伝承】
 地元で「北斗七星の石碑」と呼ばれている石塔に穿たれた一つの孔、そこには、次のような伝承が残されていました。それによると、 旧暦6月(現在では7月頃)のある特定の時期に、この孔から北斗七星を望むことができるというのです。この時期、日が暮れると 北斗七星は北の空から西寄りに傾き、時間の経過とともに更に北の空低く落ちていきます。実際に、孔からこの星群を認めることが可能と すれば、6月上旬(旧暦5月頃)が最適といえるでしょう。しかし、地元の人たちでも確実に見た人はいないようです。
 名久木坂峠から自然観察の森とは反対側の山道を下ると同じ町内の山崎地区に至りますが、その途中の沢筋にはかつてオカタと呼ばれる 地名が残っているそうです。昔は、尾根筋から人が住みついたといわれるように、この地域においても時代とともに尾根から谷筋へと 人の移住があったのではないかと考えられます。さらに、周辺の別な沢筋には三十六童神が祀られており、奥の山では三峯信仰による 修験者たちの修行の場もあったと伝えられています。そうした情報を考えあわせると、近世よりこの山域一帯に北辰あるいは北斗を祀る 妙見信仰が息衝いていたことは明らかです。しかも、そのシンボルである尾根上の石塔を介して北の星空を注視していた可能性が示唆され、 他に類のない事例となっています。

 

霊符尊神塔

※[左] 正面(南側)のようす / [右] 北斗図と円孔

鎌倉市の妙見大菩薩塔

 鎌倉市内では、妙見信仰にかかわる石塔が数基知られていますが、北斗七星の星辰図をもつのは今のところ一基だけです。 この石塔は、鶴岡八幡宮の北側にあたる西御門の八雲神社境内にあり、1832(天保3)年に造立されたものです。「く」の字 形をした片岩タイプの薄い石に「妙見大菩薩」と刻まれ、北斗七星が陰刻されています。星辰を表す小円の大きさは直径約6〜 8aで、細い線によって結ばれています。ただし、輔星はありません。この北斗図も実際の星の配列ではなく図案化された ものですが、道教関係の史料や美術品等でよく見られる意匠です。
 また、台石正面には「講中」と9人の男性名、左側面に「當邨中」と願主2名(男性)、そして右側面に4人の男性名が それぞれ刻まれています。

 

妙見大菩薩塔

※[左] 古木の根元に建つ / [右] 北斗図

二本松市の妙見尊塔 2018/10/21

 北斗七星の星辰図を刻んだ石塔は、関東地方でいくつか知られていますが、福島県においても複数基存在することが 確認されました。これらは、いずれも福島県二本松市内およびその周辺域にあり、すべて妙見塔です。そのなかで杉田駅 から最も近い場所(南杉田共同墓地脇)に位置するのがこの石塔で、本体の高さが約87aあり、片岩状の自然石を利用して います。1826(文政9)年に造立され、背面に「講中」と刻まれていますが、他の文字が判読できないためどのような性格の 講であるかはよく分かりません。主銘文は「妙見尊」です。
 注目される北斗七星の星辰図は、主銘文の上部に横たわった状態、実際の星空では北極星の上に昇り詰めた状況で描かれて います。もちろん、造立当時にそのような意識があったとは考えられませんが、星の意匠としてはほとんど違和感のない構図 です。少し詳しく見ると、輔星の位置はほぼ間違いがないものの、「斗」の部分は拉げた四辺形になっています。陰刻された 星辰円の大きさは直径13〜15_(輔星のみ約5_)で、いわゆる柄杓の形になるよう線で結ばれています。そして最も 特徴的なのが、第一星である貧狼星の右隣に横向きの「剣」が認められることです。通常は第七星の破軍星と結び付くはずの 「剣」が、なぜ別な場所に描かれているのか、単なる間違いである可能性を感じつつもやはり気になるところです。
 地元の人の話によると、当地では妙見さまを蛇の神様として祀っており、現在も年配者に信仰されているようです。

 

西町の妙見尊塔

※[左] 全体の様子 / [右] 上部の北斗図

大玉村の妙見尊塔 2018/10/21

 二本松の妙見塔から25分ほど南へ歩くと、途中で安達郡大玉村に入り、大山地区に羽山神社があります。小さな氏神様の 境内には多くの石塔・石仏があり、その中の1基がこの妙見塔です。石の形態や大きさ(本体の高さ約72a)、碑面の意匠 などは二本松のものと似ており、片岩状の自然石に主銘文「妙見尊」と北斗七星の星辰図を配置しています。ただ、主銘文は 独特な字体で描かれ、星辰図も基本的に八つの円が線刻されているだけです。このうち七つは直径約25_の大きさで、残りの 小さな円は直径約9_です。第七星の破軍星には上向きに尖った形状の線刻図が付随していて、二本松の石塔と同様に輔星と 剣を有した北斗であることが分かります。また、背面には紀年名と思われる文字が認められますが、磨滅によって判読できない 部分が多く詳細は不明です。
 大玉村における妙見信仰の実態がどのようなものであったのか、この石塔だけの情報では推し量るすべがありません。しかし、 福島県では沿岸部に相馬妙見というよく知られた信仰の拠点が存在していますので、そうした流れに連なる可能性は高いものと 予測されます。

 

羽山神社の妙見尊塔

※[左] 境内に佇む石塔 / [右] 北斗図の部分

鹿沼市の七星庚申塔  2013/10/06

【埋もれた石塔】
 旧粟野町上永野地区(現鹿沼市)は山間の永野川沿いにひらけた集落で、石造物が多い地域です。特に庚申塔は随所にみられ、 地元の小学校に近い森の一角には6基の庚申塔が集中しています。その大部分は樹林地内にあり、1基だけが倒伏して落ち葉に埋もれて いました。暫く倒伏したまま放置されていたようですが、状態は比較的良好です。このような貴重な石塔が人知れず眠っていたことは 全くの驚きです。
 この地域では、昭和35年頃まで2ヵ月に1回(60日毎に巡ってくる庚申の日)、男性7人が一つの組を作り庚申待を行っていたと いう話ですが、当時はすでに当番の家に集まるだけの寄合的性格の強い行事だったそうで、庚申待と言いながら時代とともに形骸化して しまった様子が窺えます。

【構図と意匠】
 この石塔が造立されたのは1680(延宝8)年で、庚申塔としては初期の部類に入ります。全体の構成は、上から日月、規則的に配置された 七つの小円、向かい合った二頭の猿、そして銘文類と続きます。注目されるのは、日月のすぐ下に陽刻された七つの小円で、そのデザインは 家紋の一種である「七曜」によく似ています。本来の意味は日月と五星(水金火木土)を表しますが、地域によっては北斗を七曜と呼ぶ事例が あるように北斗信仰と七曜の混同がみられます。したがって、これら七つの小円を星辰像と見るならば北斗七星を表現した可能性が高いという ことになります。
 さらに、もう一つの大きな特徴は、小円群の下にある向き合った二猿の像です。近世以降の庚申塔には通常「見ざる聞かざる言わざる」の 三猿が刻まれていますが、初期のものでは二猿あるいは二猿+三猿タイプを多くみかけます。そして、星辰像をもつ庚申塔のほとんどがこれらの タイプです。

 

鹿沼市の庚申塔

※[左] 正面の意匠 / [右] 日月と七つの小円

小山市の七星庚申塔  2013/10/06

【里宮に祀られた石塔】
 この石塔がある小宅地区は、栃木県小山市の北西部、至近距離で栃木市に接する思川右岸の田園地帯に位置しています。もっとも北寄りに ある「上」という集落の外れには八幡神社が鎮座し、最初の鳥居から長い参道を進んで二つ目の鳥居をくぐると、その奥に社殿があります。 庚申塔は、さらに社殿の脇を抜けた先の社寺林の一角に建てられた小さな祠の中に祀られていました。本体の高さが約105aの石塔で、造立は 1675(延宝3)年の銘があります。ただ、中央部に明瞭な接合痕が認められますので、過去に半折した経緯があるようです。

【七つの星辰像】
 全体の意匠は、まず最上部に日月を配し、その下に二段に並べられた七つの小円、これらを支えるかたちで向き合った二頭の猿の像があり、 さらにその下には一般的な庚申塔でよくみられる三猿が刻まれています。これらを鹿沼市の庚申塔と比較すると、造立が5年ほど早く共通する 部分がみられる一方で、七つの小円の配置や三猿を有する点で大きく異なります。
 ここで、もっとも注目される七つの小円について詳しく見てみましょう。小円の大きさはいずれも直径3.0aから3.4aですが、上段に四つ、 下段に三つと分かれています。このようなデザインはこれまで見たことがなく、類似の事例も見当たりません。一体、この小円群は何を示す ものなのでしょうか。鹿沼市の庚申塔では、「七曜」と呼ばれる家紋の存在から北斗七星とのつながりを類推しましたが、小宅の場合も 一種の星辰像として捉えることが適当ではないかと考えられます。となれば、そこに連想されるのはやはり北斗であり、上段の四つが斗(マス)で 下段の三つが柄に相当するものかと推測されます。

 

小山市の庚申塔

※[左] 石塔全体 / [右] 日月と星辰円の配置

裾野市の北斗庚申塔  2022/07/25

【道教の星】
 裾野市は、文字通り富士山の広大な裾野が愛鷹山系と箱根山系を分ける谷間に吸い込まれる地域を中心として、東 西へと広がるまちです。御殿場線の岩波駅から西へ向かうと、そこはもう愛鷹山系の山麓で、緩やかに傾斜した大地 はかつての景観を色濃くのこした里山でもあります。東名高速道路のすぐ西側に位置する金沢地区も農村集落の面影 を随所に留めたところで、曲がりくねった道路や社寺、民家などの佇まいに歴史の重さを感じます。
 この地区には、北斗のような星文などを刻んだ庚申塔があり、かなり以前からよく知られた存在でした。1667(寛 文7)年という造立もさることながら、庚申に加えて、山王信仰や北斗信仰など多様な情報が刻まれた石塔に対する 関心の高さを窺い知ることができます。卍を中心とした図形は、上部の日月を除くと略図に示すとおりで、
A:下部にある北斗七星に似た7個の小円を線で繋いだ図
B:卍とA図の間にある2個の小円図
C:卍の左右にある4個の小さな四角形を線で結んだ四辺形の図
によって構成されています。また、卍とBの間には「ム」のような記号があり、Cの右側図形内にも記号か文字とみ られるものを二つ確認できます。

星辰の配置を示す略図

 1957年にこの庚申塔を紹介した窪徳忠氏は、こうした図形について次のような考察を行いました〔『庚申信仰と北 斗信仰』文0432〕。まず、Aを単独で北斗七星としつつ、さらにBを加えて道教の北斗九辰あるいは北斗九君である 可能性に言及しています。この2星は左輔と右弼で、道教の北斗信仰が示されたものと捉えているのです。また、C に関しては右側図形内の刻文を文字の「元天」と解し、そこから道教の玄天大帝(北極星)と仮定した上で、北極星 をめぐる信仰と庚申信仰の結び付きを推察していることが分かります。「ム」についての記述はみられません。
 このように、星を示すと考えられる7個と2個の小円は、それぞれ別の星辰とみるかあるいは一体の星辰とみるか によって捉え方が異なります。仮に7個を北斗七星とすると、残る2個の図は何を示しているのでしょうか。たとえ ば、北斗を含む北極紫微垣を想定すると、天帝の神とされる天乙(天一)および太乙(太一)が有力な候補と言える かもしれません。夜空では5〜6等級の暗い星ですが、北極の政を司る重要な星です。しかし、すぐ上に刻まれた 「ム」が何を意味しているのか、またこれらの記号や図を連ねて配置した意図も理解できません。
 その後、こうした状況に新たな見解が示されました。加藤政久氏は『石仏使用語辞典』〔文0430〕において、この 庚申塔の「図を解く鍵の一つとして、星座の中に北斗九星があって、そのうちの七星は目に見えるが、残る二星、羅 こうと計覩(玄歳と折揺とも言われる)は北斗七星の尾のほうにあって見ることが出来ないと言うことです。そのこ とを表現している記号が『ム』だという訳です」と記述しています。かつて、窪氏が指摘した北斗九星(辰)という 見方がようやく活かされることになりました。ただし、加藤氏が引用した北斗九星は『成菩提集』(滋賀叡山文庫浄 土院蔵本)や『阿娑縛抄』に記されたもので、道教における北斗九星についてはふれていません。そこで、Cの図形 も含めて改めて整理しておきたいと思います。
 道教の教典とされる道蔵には、北斗九星にかかわる記載が少なからずみられ、個々の星名や構成にはいくつかのパ ターンが存在すると指摘されています〔『太微信仰と功過格』文0434〕。それによると、第八・第九星の名称は初期 段階で輔星・弼星が一般的であったこと、やがて宋代初期ころに至って高上玉皇・太微帝君が定着したと考えられま す。このうち輔星は、第六武曲星(ζ)と見かけの二重星を成すアルコル( 4.0等級)で、暗い夜空であれば肉眼で 認めることが可能な星です。しかし、弼星のほうは実在しない星で、見ることができません。弼には「たすける、た だす」などの意味があり、輔弼はまさに主君を陰で支える重要な役割をもった2星となります。石塔では、北斗の第 二・第三星の上に配置されているものの、道蔵におけるいくつかのパターンとは一致しないようです。「ム」の記号 が輔弼を見えない星と暗示していることは加藤氏が指摘したとおりですが、精確には肉眼で見えにくい星と実在しな い星を著しているということになります。卍の上に刻まれたボローン(梵字)は、山王神道と一字金輪仏頂の強い結 び付きを示すだけでなく、補星をより重要な存在として位置づけており、さらに陰陽道とのかかわりも示唆している と言えるでしょう。因みに、大崎正次氏によると中国で輔星がアルコル(80番星)であったのは宋代までで、明代末 か清代初め頃になるとζ星から少し離れた81番星が対象となったと述べています〔『中国の星座の歴史』文0129〕。
 次に、星辰図の特性が道教色を反映した北斗九星にあることを踏まえて、Cの図形を考えてみましょう。窪氏は北 辰信仰と庚申信仰のかかわりに言及していますが、その拠り所とした「元天」なる文字については、実物を見ても容 易に認め得る状況にはありません。そもそも4個の方形が星辰を著しているとは考えにくいのです。石造物で表現さ れる星は○が基本で、特殊な事例として五芒星が使われます。また、線で結んだ四辺形も特異な図形で、その配置や 彫刻の技術などに違和感をおぼえます。したがって、これらの図形は実在する星を表現した図ではないと判断してい ます。「元天」なるものも文字なのか記号なのか判別できず、仮に文字であったならば、かなり稚拙な彫刻と言える でしょう。ただし、北斗九星の上部(=北方か)にあって道教とのかかわりを想定すると、「元天」説を受け入れる 余地はまだ残されているようです。もし、元天が北極星を示しているとすれば、周囲の4個の小方形は北極四聖を表 現した図形かもしれません。つまり、この石塔に施された一連の図形は、相互に関連をもった道教の星辰信仰の世界 を表現した可能性を感じさせるのです。
 北斗七星を刻した庚申塔は北関東などでも散見されますが、北斗九星を取り入れた事例となると今のところ確認さ れていません。その意味においても貴重な存在です。

【裏返しの北斗】
 ところで、北斗信仰のシンボルともいうべき七星の配置をみると、それは実在する形と異なりちょうど裏返し(逆 向き)になった構図です。栃木県佐野市の石塔にも類似の北斗七星が認められますので、単に間違えたものとは考え られず、何らかの意図があって彫られているようです。たとえば、道教美術品の一つである明代の八卦七星文八角鏡 [はっけしちせいもんはっかくきょう]に浮彫りされた北斗は、やはり裏返しの意匠です。この形は、中国の前漢汝 陰侯墓出土の二十八宿円盤の中央に描かれた北斗七星によく似ており、この場合は、七星の配置にも特別な意味が込 められているものと考えられます。また、元時代の北帝図やそれを基にしたとみられる北辰帝君像図(江戸時代)に も、裏返しの北斗を認めることができます。その一方で、山王垂迹曼荼羅図(西教寺および四天王寺)や室町時代の 鎮宅霊符神像図、江戸時代の摩多羅神像図などに現れる北斗は、いずれも正常な向きの北斗であり、そこには明確な 一線が画されているようです。
 さらに、正倉院宝物である青斑石鼈合子の背甲部にみられる七星文についても、裏返しの北斗であることが知られ ています。この亀と北斗七星の関係を論じた資料〔『青斑石鼈合子と仙薬七星散』文0435〕によると、古代中国の天 円地方という宇宙観によって亀の背を天とみなし、腹部側を地とみることによって反転した北斗の意味を説明してい ます。つまり、天空から地上を見下ろしたときの北斗の姿と捉えているわけです。道蔵の北斗九星を構成する七星が 反転した配置を示していることを考えると、おそらく道教における北斗は、本来地上から眺める対象ではなく、天空 から俯瞰することを基本として捉えられているのではないかと推察されます。それを忠実に表現したのが、裾野市の 庚申塔に刻まれた北斗図です。しかも、七星ではなく九星が選択され、配置図全体として玄天上帝(北極星)とのか かわりも予測される構成は、北斗に対する篤い信仰が感じられます。
 なお、石塔の正面最下部にある向き合った二猿は、栃木県鹿沼市や小山市の庚申塔と共通するもので、いずれも七 星の彫像を有するという点で初期庚申塔における一つの象が見えてくるようです。ここに紹介している北斗の意匠の 多様性には、これらを造立した人びとの心情や地域の社会的な特性が反映されているのかもしれません。

裾野市の庚申塔

※[左] 笠付塔の全容 / [右] ムの下の北斗九星

共極連珠の石碑 2022/07/25

【高森道了尊】
 神奈川県伊勢原市高森台の高森道了尊には、碑面全体に星文を刻した石碑があります。ここは、大雄山最乗寺を 開山した了庵慧明禅師がその弟子とともに修業された旧跡地と伝えられ、毎年1月28日に大祭が行われます。道了 というのは修行したとされる弟子のことで、修験道の行者から後に最乗寺の守護となった人です。
 石碑は、境内の一角に積まれた石垣の上に二段の台石を置き、最上部に本体である高さ約 140aの片岩を載せたも ので、たいへん立派な石碑です。正面上部には「共極連珠」の銘があり、その下に大小の円で5種類の星文(添付図 中のAからE)が陰刻されています。造立は1853(嘉永6)年で、当時の陰陽職であった多田于門を願主として近隣 各地の信者世話役や名主などが連名で建立したものとみられます。これらの人たちについては、台石部分に詳細な記 録(一部磨滅により判読不可)があり「卜者」と位置づけられています。

【石碑銘の意味】
 碑面上部に刻まれた「共極連珠」とは、どのような意味でしょうか。『大漢和辞典(巻五)』には「拱極」という 成語の記載があり、「北極星に向ふ。拱辰に同じ。〔論語、為政〕子曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之也」 と記されています。一方、「拱辰」には「衆星が北辰に向ふことで、四方の民が天子の徳化に帰するをいふ」とあり ます。他に「拱北」という成語も記載され、やはり同じ意味をもっています。この場合の「北」は北辰と北極の双方 を意味しているのかもしれません。
 そもそも、「拱」という文字そのものに「めぐる、とりまく」という意味が含まれているようで、『大漢語林』や 『全訳 漢辞海』では「拱辰」について、多くの星が北極星をめぐるあるいは北極星を中心に回転すると解説してい ます。いずれの成語を用いるにしても、北辰が重要なキーワードであることに変わりはなく、基本的にそうした意図 をもって造立された石碑と考えられます。連珠は、文字通り連ねた珠ですが、この場合は北辰を巡る星々を表現した ものと推察されます。

【星辰図の構成】
 石碑全面に星文を刻んだ様子は、一見すると密教の星曼荼羅に似た意匠です。よく知られた北斗曼荼羅では、方形 式と円形式の2種類があり、中央に金輪仏頂が据えられ、その外側に北斗七星と九曜、十二宮を配し、最外縁に二十 八宿を廻らせています。両形式で各要素の配置や並びには多少の違いがみられるものの、基本的な構成はほぼ同じで す。
 さて、石碑の星辰図をみると、添付図で色分けしたように五つのグループに分けられます。まず、外縁を囲むよう に配された〔E〕の内側に、中心付近で横並びとなった〔A〕と〔B〕があり、それらを挟む形で上部に〔C〕、そ して下部に〔D〕を認めることができます。これらは、グループ毎に円孔の大きさが異なり、C>D>B>A=Eと いう具合に分類されます。以下、グループ別に特性を把握し、考察を行ってみましょう。
☆星辰図A
 この星文は7個の星で、唯一それぞれが細線で結ばれています。これは紛れもなく北斗七星を示したものですが、 輔星はみられません。北斗は、妙見信仰において北辰(現在の北極星ではない)とともに重要な位置を占め、密教の 北斗曼荼羅では貧狼星、巨門星、禄存星、文曲星、廉貞星、武曲星、破軍星の七星あるいはこれに輔星を加えた八星 として描かれています。ただし、石碑の円孔の大きさは直径約2aで、〔C〕や〔D〕に比べるといちばん小さく陰 刻されているのは、何か理由があるのかもしれません。このことは、別項で検討してみたいと思います。
☆星辰図B
 北斗の右側に、5個の星が折れ曲がって並んでいます。円孔の大きさは約 2.5aで、〔C〕や〔D〕よりは小さい ですが、北斗よりも少し大きく彫られています。道教では、陰陽五行(木火土水金)を基盤とする立場をとっていま すので、まずはこの五行と深くかかわる5惑星(木星、火星、土星、水星、金星)ではないかと推測することができ ます。しかし、これらは日月を含めて〔D〕の九曜に含まれており、何よりも「共極連珠」という銘を考慮すると、 天の北極付近にある星を重視する必要があるでしょう。そこで北斗とともに北の空で重要な星辰群と言えば、北極五 星(太子、帝、庶子、后官、天枢)をおいて他にはありません。
 ただし、実際の星空では多少の屈曲はあるものの、ほぼ横並びに見えるはずです。なぜ、これほどに異なった配列 なのでしょうか。その要因は、おそらく下図の基となった史料(古星図など)にあるようです。今のところ、星文の 配列に最も似ているのは中国の「淳祐天文図(蘇州天文図)」にみられる北極五星で、その敷写しとされる「渾天壱 統星象全図」や朝鮮半島の古星図である「天象列次分野之図」にも大きく湾曲した配列を認めることができます。五 星の星文は、北斗七星との位置関係までは考慮されていませんが、北極周辺を重要な領域と捉えている意図が読み取 れます。

天象列次分野之図(拓本)
(天極付近のみを天地逆向きに表示)
【京都大学理学研究科所蔵】

☆星辰図C
 山形に3個の小円を配した意匠は、道教の霊符や妙見社の札、妙見塔などで見られますが、身近なところでは紋章 にもさまざまな形態の三つ星紋としてよく知られたものがあります。円孔の大きさは約 4.5aで最も大きく、この大 小によって信仰上の重要度を示しているとすれば、かなり大きな意義をもつ星辰ということになります。しかし、北 斗七星が最小の円で示されていることを考え併せると、基本的にそういう意図があったかどうかは分かりません。い ずれにしても、この三星を理解するには二つのアプローチが必要となります。
 その一つは実在の星(星群)として扱う考察で、まず3個の星が山形に並び、なおかつ道教とのかかわりが深いと されるさそり座の主星アンタレスと両脇の二星を挙げることができます。また、吉野裕子氏は古代中国における皇帝 の礼服に北斗とともに描かれた山形の3個の星(霊符の意匠とほぼ同じ)を織女三星とみなし、これら二つをもって 三光中の星辰を代表するという考え方を示しています〔『大嘗祭』文0029〕。正倉院や四天王寺の七星剣には、北斗 とともに刻まれた山形の三星文があって、これを織女三星とする見方が有力ですが、こうした視点も重要でしょう。 それからもう一つ、北極五星との関わりを考えると、同じ北極紫微垣にある三公(りょうけん座)も山形の三星で描 かれています。因みに、野尻抱影氏は『星と東方美術』〔文0299〕のなかで、七星剣の山形三星を織女ではなく三公 とする推定を行っています。ただし、いずれの場合も北斗よりはるかに大きな円で描かれているという点で、この星 辰図が意図するところと整合するかどうか疑問を残します。
 そこで、もう一つのアプローチを考えてみます。それは、実在の星ではなく抽象的な存在の星として捉えるという 視点です。まず、道教では三清と称される三柱の最高神格があり、これは天上界の三清にも通じていますので、重要 な星神という捉え方ができます。もう少し普遍的な見方では、3個の円を日月星(日蓮宗では日月明星)の三光に比 定する解釈です。いずれも、ある意味で成る程と思わせる背景をもっているのです。それは、後で紹介する〔D〕の 九曜とともに一際大きな円で示されているという特徴にあります。実在する北斗や北極五星と、一方で抽象的な三星 や九曜をどのように表現するか、そうした意図が円孔の大きさに反映されているとすれば、「三星」=「三清」ある いは「三光」というアプローチの重要性も高まることでしょう。

 

妙見信仰の三星文
[左] 埼玉県秩父神社の妙見札 / [右] 山梨県塩山市(現甲州市)の妙見塔

☆星辰図D
 北斗七星の下に3個ずつ三段に並んだ星群は、星曼荼羅における構成要素の一つでもある九曜と考えられます。太 陽、月、螢惑(火星)、辰星(水星)、歳星(木星)、太白(金星)、鎮星(土星)の七曜に計都(彗星)と羅ご (架空の星)を加えたもので、これを円形に配した九曜紋は妙見ゆかりの社寺で多く見ることができます。円孔の大 きさは直径約4aで、〔C〕に次いで大きなものです。
☆星辰図E
 〔A〕から〔D〕を取り囲むように配置された28個の星辰で、二十八宿を表しています。本来は星宿それぞれの形 があるわけですが、この石碑では星曼荼羅と同じように一つの星宿を一つの星(小円)で表現しています。この円孔 の大きさは直径約2aですから北斗七星のそれと同じです。

 さて、全体の構図を改めて見直すと、中央に北極五星と北斗七星を据え、その上下及び周縁部に三星、九曜、二十 八宿を配した意図がみえてきました。おそらく、基本的に星曼荼羅の手法を取り入れつつも、独自の取り組みとして 北極五星や北斗、二十八宿の具体的な星宿は小さな円で示し、その間隙に具体的な天体の運行を司る抽象的な存在と しての星(信仰の対象)をより大きく表現したものと推測されます。
 ところで、この石碑がどのような目的で造立されたかについてはよく分かりません。願主が陰陽師であることや台 石に刻まれた多くの信者名から推察して、かつてはこの地で何らかの陰陽の祭りが行われていたものと考えられます。 そうした祭りの供養のために造られたのかもしれません。いずれにしても、今のところ他に類のない石碑となってい ます。  

 

共極連珠の石碑
[左] 大小の円孔が並ぶ碑面 / [右] 星辰の配置図 〈 拡大する 〉

北斗の石祠

【上川田の八幡宮】
 群馬県沼田市の上川田地区は、市街地から利根川を越えた山間地に集落が散在しています。この石祠は上川田保育園の真向かいに 建つ八幡宮の敷地内にあります。社殿脇に庚申塔などとともにひっそりとおかれているため、道路からはその存在に気づきません。 地元の人の話では、八幡さまは上川田地区共有の祀り神であり、毎年春(4月1日)と秋(10月1日)に祭礼が行われ、秋は天狗 さまの祭りと同時に開催されるといいます。昔は社殿付近に屋台(出店)が並ぶなどして賑わったそうですが、現在は地区の代表者が 参列して、神主にお祓いをしてもらう程度のことしか行われていません。また、付近の住民たちは石祠の存在は知っていましたが、 八幡宮との関係や北斗七星にまつわる信仰等については伝承が途絶えてしまったようです。

【石祠のなかの北斗図】
 石祠は高さ約82a、幅約36a、奥行き約46aで、大きな屋根が目立ちます。正面から見ると細く背の高い家形になり、二段に 組まれた祠の上段正面に独特な意匠の北斗七星が陽刻されています。星辰円は七つで、いずれも直径約3aですが、その配置は 正六角形の各頂点と中心部に置かれ、さらに中心から左上→真上→右上という具合に時計回りに線で結ばれ、最後の左下の円の先端に 剣のようなものが付いています。つまりこれが破軍星ですから、中心の星は貧狼星ということになります。紋章を覗いてみると、星の 配置は異なるものの同じように破軍星の先端に剣をあしらった意匠のものがありますので、結構身近な構図かもしれません。日本の 星の名にケンサキボシやシソウノケン、ヒチジョウケン(いずれも北斗七星)というのがありますが、『和漢三才図会』〔文0303〕には 漢名である「揺光」とともに「破軍剣鋒(ケンサキ)」と記されています。造立は1811(文化8)年で、「願主村中」の銘がありますから、 おそらく北斗七星にかかわる信仰(妙見など)の証として地域住民の総意を示した遺物と思われます。

 

北斗の星辰図をもつ石祠

※[左] 正面からみた全容 / [右] 陽刻された北斗

二つの星辰図をもつ石灯籠

【石灯籠の宇宙】
 神社の鳥居をくぐると、一対の狛犬とともにやはり一対の石灯籠をよくみかけます。その多くは火袋の三面に日月星がデザインされ、 それぞれ一つの大きな円、三日月、小さな円を三角状に配した孔などが穿たれています。ただし、なかには星辰を欠いた日月だけの タイプも少なくありません。このように、石灯籠に日月星は付きものですから特に目新しいものではありませんが、一つの石灯籠で 異なる星辰図を有する事例となるとかなり貴重な存在です。
 それは、群馬県桐生市境野町にある諏訪神社で見ることができます。境内の一角にある三基の石祠の前に立つ石灯籠は、一対の奉納 献火灯であり、右側が日(正面)と月(背面)を有し、左側に三つ(正面)及び七つ(背面)の星辰円を有するたいへんめずらしい ものです。造立は1768(明和5)年で、高さはいずれも135aほどです。

【星辰の正体】
 まず、正面の三つの星からみてみましょう。一般的な石灯籠に刻まれる星は、小円を三角状に配して抽象的な星宿を表現していますが、 この石灯籠の場合は三つの小円を斜めに並列させています。これは、明らかに特定の星を示したものと考えられ、このような意匠に合致 するのはオリオン座のミツボシ以外にありません。星辰円の直径は約2.5aで、これほど見事に表現されたミツボシは一目でそれとわかります。
 さらに石灯籠の存在を際立たせているのが、ミツボシの反対側(背面)に彫られた七つの小円です。配置はミツボシと同じ斜めの三星を ベースに右上二つの星の両側にそれぞれ二つずつ、計四つの星を加えた形です。したがって背面から中を覗くと、双方の三つの星がほぼ 重なります。実際の星空でこのような配列は見当たりませんが、想定される星は限られてきます。オリオン座のミツボシと対比された 位置づけを考えると北斗七星が妥当ですが、仮に抽象的な意味合いを重視すると七曜(太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星)のほうが 適切かもしれません。いずれにしても、他の一基にある日月とともに最も基本的な天空の概念を表現していることに変わりはないでしょう。

二つの星辰図をもつ石灯籠

※[左] 正面からみた全景 / [右上] 三つの星辰 / [右下] 七つの星辰

佐野市の北斗七星塔  2013/10/06

【山里の小さな北斗像】
 栃木県内では、北斗と考えられる七つの星辰円をもつ庚申塔が2基(鹿沼市および小山市)知られていますが、佐野市には小さな自然石に 北斗七星をあしらった石塔が作原地区(旧田沼町)に遺されています。これは真言宗豊山派の竜樹院境内にあり、秋山川を深く遡った作原集落の 最奥部に位置します。ただし、竜樹院は作原よりもさらに奥の大戸地区(現在は10軒ほど)の菩提寺になっているとのことですから、作原との かかわりがどの程度あったのかよく分かりません。
 この石塔には主銘文が見当たらないため、どのような目的で造立されたものか明らかではありませんが、上部に日月を配し、中央から下部に かけて少し変形した北斗七星が陽刻されています。七星の並びから判断すると、裾野市の庚申塔に刻まれた北斗と同様に裏返しの状態が示されており、 また最下部の第七星(破軍星)には剣が付随しています。形は異なるものの、群馬県沼田市の石祠にみられる剣を伴った北斗と同じ構図です。
 造立は1789(天明9)年ですから沼田市の石祠よりも少し早い出現となりますが、同じ七星を有する庚申塔と比較するとほぼ1世紀以上の年代差が あります。それにしても、近世には相当な山深いこの地で、北斗信仰なるものが実際に存在していたのかどうか、たいへん気になるところです。

 

佐野市の北斗塔

※[左] 石塔全体  / [右] 起ちあがった北斗の像

三ツ星大神の石段

 三つの星と思われる突起を刻した石段が、山梨県北杜市長坂(旧長坂町)の建岡[たておか]神社にあります。地元では 「三ツ星大神」として信仰され、人々は親しみを込めて「ミツボシさん」と呼んでいます。
 建岡神社は、深い杜に包まれた小高い丘の上にあり、周辺は集落と水田が散在する里山です(写真@)。創建は770年以降と 伝えられ、建御名方神を祭神として祀っています。境内へは、車道から二百十段余りの石段を上り詰めることになりますが、 一帯はスギ、ヒノキ、モミ、アカマツなどの古木に囲まれ、石段の途中には鳥居や石柱などが配置されるなど、その景観、雰囲気 ともに古社を思わせるたたずまいといえるでしょう(写真A)。三ツ星大神は、その長い石段の途中、二つ目の鳥居から続く87 段中の二ヵ所に少し離れて存在し、刻まれた位置や形状など全く異なる特徴を示しています。

 

〈写真@〉建岡神社の杜 /〈写真A〉三ツ星大神のある石段

 まず、下方のもの(タイプAとします)についてみてみましょう。その突起は石の正面にあって、比較的容易に認めることが できます。図示したように、三つの突起は一列に配置されておらず、真中が上方にずれたいわゆる山形を示していて、しかも それぞれの突起は特徴的な文様によってつながっています。しかし、これを上方から眺めますと石段の端面からほぼ等間隔に 突き出た三つのコブとして見ることができます(写真B)。もともとが、横方向から突起を見て三つの星と認められるように 作られた可能性も否定できません。
 また、上方のもの(タイプB)は、人によって踏まれる石段天面の手前側に荒削りな円形の突起として三個並んでいます。 タイプAとは逆に上からでは分かりにくいのですが、水平方向の目線ではまさにオリオン座の三つ星を連想させてくれます (写真C)。現在はここに案内板が掲げられ、以下のような説明が記されていました。
「百年余年知らずに踏んで来たに三ツ星大神下段の三ツ星は前にコブが出ているのでわかりやすいが、上段の星は見にくい。 氏子等も思わず踏んで来た尊い神様。先日、宮司中沢氏に伺ったら魔除けの神とか異動も可と聞き、早速、平成十二年十二月十九日 大安の日、塩・酒・米を供え、手すりの下へ移動しました。この神様は、舞鶴城址にもあるとのことです。上段二段目」

タイプAの文様(石段正面)

 

〈写真B〉タイプAの三ツ星大神 /〈写真C〉タイプBの三ツ星大神

 さて、問題はこれが本当に星を象ったものなのかどうかということですが、タイプBの刻像を見る限り、オリオン座の三つ星を 模したものと考えてよさそうです。ただ、タイプAに関しては、星そのものというより抽象化された文様という印象を強く受けます。 仮に三つの小円突起を星と見た場合、その配置からこれをさそり座の三星と解することも可能です。
 案内板によれば、この三ツ星大神には魔除けの役割があるようですので、信仰上の理由からつくられたことは間違いなさそうです。 タイプAの山形の星象については、妙見信仰の石塔などで見られる場合があり、これは道教とも深いかかわりのあることがよく 知られています。しかし、建岡神社の縁起や祭神から三つ星(さそり座も含めて)との関係を探っても明確なつながりはみられません ので、三ツ星大神は本来の神社信仰とは別に後世になって生まれたものと推察されます。
 いずれにしても、三つ星の星象を刻んだ石造物は少なく、まして石段のそれはほとんど類例がありません。信仰の実態も含めて、今後 詳らかにしなければならないいくつかの点について、解明が必要となるでしょう。

笛吹市の星石  2013/10/06

【甲州の果樹の里】
 山梨県といえば果樹栽培、特に桃と葡萄が特産の地としてよく知られています。旧御坂町(現笛吹市)の竹居地区も甲府盆地の 東にあって、山麓の斜面に広大な葡萄棚が広がっています。その一角を占める室部集落の近くでは、表面に多くの星辰円を刻んだ 貴重な石塔が陽の目を見ずに眠っていました。後に石の重要性が見出され、いくつかの紆余曲折を経て、現在は室部公民館の敷地内に 置かれています。かつては地元でもほとんど関心をもたれなかった石塔が俄かに脚光を浴びるようになったのは、そこに穿たれた 細長い二つの溝だったのです。これが過去に出現した彗星の記録としてたいへん貴重な資料と判明し、他の実在する星々の記録と ともにマスコミにも取り上げられました。
 そうした詳しい経緯を知りたくて、現地調査では三人の地元の方に話を伺いましたが、いずれも断片的な情報に終始し、内容的にも いくつか異なる点があって目的は達成できませんでした。ただ、70代の男性がかつてこの石の上で遊んだという話は微笑ましく、 当時の暮らしの一端を彷彿とさせてくれます。なお、石塔は「竹居の星石」という愛称で呼ばれています。

【星石の構成】
 星石は幅が約130a、高さ約38aの横長の自然石で、左寄りに日月が並び、右寄りには「一道禅流」と「八百萬神」の銘文が、 そして両者の間に27個の星辰像(うち2個は彗星)が散在しています。これらは最も広い場所で1.6aから2aの少し深めの変形円孔に なっており、2個の彗星についてはそれぞれ約6.5aと約6aの尾が付随しています。しかし、この石には造立年を示す銘文が見当 たりません。したがって記録された彗星の検証は、専門家による軌道計算の結果から1607年のハレー彗星あるいは1811年出現の大彗星 のいずれかではないかと考えられています。こうした状況から背景の星空を推定すると、まず彗星の軌道に近い北斗七星が目に つきます(ただし六星)。さらにU字形に並んだ六星はかんむり座と見当がつきますが、他の円孔については特徴がないため同定は 容易ではありません。なお、彗星の尾は太陽の反対側に現れるため、石塔の彗星ではこれが逆向きに示されていることになります。
 星石の隣りには、1984年に建立された「星石のいわれ」と題する石碑があります。その一部を抜粋すると「文化の発達しない昔は人々の 日常生活も農作業も天体の運行に基づいて行われており 一道禅流・八百萬神と刻まれた石碑の前に立つと 神仏に助けを求めて生きて 来た先人達の心にふれることができる。−(中略)− 昔の人々は天変地妖をことごとく神仏の祟りと信じていたから 星祭りは八代郡 竹居土俗の修法がとられたと思われるが 明らかでない」と記されています。
 それにしても、星石が誰の指導によっていつ造られたのか。そして何よりもその原図となる星の記録は誰がどのような目的で描いたのか。 他に類のない貴重な文化財であるだけに、現在もなお多くの謎に包まれたままであるのはたいへん残念です。

〈注〉星石の研究については、以下の文献を参照してください。
○「竹居の星石を考察して」文0304
○「花鳥山麓の星石 続」文0305

 

彗星が記録された石

※[左] ケースに収められた星石 / [右] 北斗と彗星の像

石垣の星印 2014/09/28

【富山県富山市】
 富山市内の富山城では、本丸南西部の石垣と西ノ丸南西部の石垣に星印が刻まれています。いずれも、石積みの陵を構成する角石の 側面いっぱいに描かれ、このうち本丸の石垣については間近に見ることができます。これらの星印は、いわゆる「一筆書きの星」として 知られる図形で、その閉じられた形状から魔除けの意味をもつものと考えられています。本丸石垣の星印を見ると、太い線によって 陰刻されているのがわかりますが、大きさは実に約50a×約60aもあって見事です。ただし、図形が少し歪んでいるうえに一部不鮮明な ところもあるため、全体像を把握するには工夫が必要でしょう。

【島根県松江市】
 こちらも、市内にある松江城の石垣に遺されています。星印があるのは城内の二ノ丸下の段にある石垣で、南東側の陵を構成する角石と その付近の石に集中して見られます。手の届く範囲で確認できたのは五箇所ですが、いずれも大きさは富山市のものよりずっと小さく、 約10aから20aとさまざまです。形状も不揃いで、おそらく複数の石工が鑿で刻んだものと推察されます。ここでは、星印以外にも さまざまな刻印を観察することができますが、これらは星印も含めてやはり魔除けを目的としているようです。
 

 

石垣の星印

※[左] 富山城の星印 / [右] 松江城の星印