日月星の行事

【星空をめぐる行事・信仰】
 日本では、日月星にまつわる行事としてタナバタや十五夜(十三夜)、月待信仰などがよく知られています。 いずれも、本来の素朴な営みはほとんど見られなくなりましたが、昭和の時代までは、星や月、太陽とかかわりの 深い他の行事なども含めて各地に存続していました。地域によっては、現在でもその名残を見出すことができます。 こうした行事や信仰にかかわる伝承は数多くのこされていますが、ここでは現地調査で得られた 記録や有形民俗資料をもとに、かつての日常的な暮らしのなかで生かされてきた日月星の文化の一端をご紹介します。

《本文中の引用文献について》
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オビシャ  2020/02/25

【新年の弓射儀礼】
 古くから狩猟道具として使われた弓ですが、後には武器となり、呪具としても利用されるようになりました。7世紀ころから正月十七日に 宮中で行われた射礼[じゃらい]は最も古い弓の祭祀儀礼とされ、『太平記』にも朝廷の年中行事として正月十六日に賭弓[のりゆみ]とともに 行われていたと記されています〔巻第二十四「朝儀年中行事」〕。現在、各地の古社などにのこる弓を用いた儀礼には、射礼由来と伝わる 事例がみられ、一部は百手[モモテ]と呼ばれる行事として四国地方の宮座に伝わる一方、近畿一円には中世より結鎮[ケッチンほか]が 広く行われ、こちらも弓射儀礼の一つとして現在まで伝承されてきました。
 肥後和男氏は『宮座の研究』〔文0277〕において、結鎮が『源氏物語』の記述を介して、古来から大神神社と狭井神社に伝わる鎮花祭 (はなしづめのまつり)に連なることを指摘しています。中世西日本の一宮や地域の中核寺社における弓射儀礼は、やがて各村落(宮座)に伝播 していくことになりますが、さらに17世紀初頭には、物流を介して関東地方にも伝播したと考えられています〔『宮座における歩射儀礼』文0278〕。 現在、関東地方で存続されている弓射儀礼のなかには、かつて畿内の古社で行われていた弓射儀礼の一部に類似する習俗をみることができますので、 西から東へという流れの一端を示す事象といえるでしょう。
 さて、関東地方の弓射儀礼はオビシャと呼ばれるのが一般的ですが、その語意は「歩射」を始めとして「奉射」「武射」「備射」などさまざまな 字があてられています。また、オビシャ以外にも弓祭や的祭、弓ぶち、天気祭り、日の出祭りなど多くの呼称があります。このうち、オビシャは 利根川下流域に濃密な分布を示し、特に的の構造や描かれる意匠に特徴がみられます。それは、基本的に日天、月天の的と位置付けられるもので、 源流である西日本の弓射儀礼の的とは一線を画す存在と考えられます。また、オビシャは単なる弓の儀礼だけでなく、地域の信仰や行事などに おいて中心的な役割を担う頭屋の交代という重要な節目の祭事でもあり、従来から行われていた頭屋組織の正月神事に射礼由来の弓射儀礼が習合 した可能性も否定できません。

【関東地方のオビシャ】
 関東地方において現在も行われている弓射儀礼は、新暦の1月あるいは2月に集中しています。一部で3月以降に実施される事例もありますが、 内容的には正月の弓射儀礼といえます。ただし、この他に弓術由来の行事が散見されます。それでは、現地での取材や聞き取りの記録をもとに 埼玉県、東京都、千葉県、茨城県、神奈川県の事例をみてみましょう。

《 埼玉県 》
11A:吉川市吉川 (2001.01.07調査)
 市内の香取神社に伝わるオビシャは、毎年1月7日の春祭りとして実施されます。氏子は460戸あり、神社の神事や祭礼の 運営に際し区域を1区から5区の当番区に分け、これらが交代で一年間の行事全般をとり仕切ることになっています。祭礼の 当日は、午前9時ころから境内の明の方(恵方)に的を設置します。これは直径が約1bあり、西内紙という和紙を貼り合わせて 作ります。紙の間には一年に見立てたユズリハの葉12枚(閏年のみ13枚)が収められており、表面には足のない烏をデザインした 絵が描かれています。
 11時過ぎから宮司が拝殿で祝詞をあげ、お祓い、代表者による玉串奉奠のあと、いよいよ弓取式です。まず、宮司と当番区総代が 1回で二矢、射場の入れ替えでひとりあたり計4回の弓射を行います。次に赤子が無事に成長するよう祈願して弓を取らせたあと、 各区の総代が交代で弓を射ます。そして最後に再び宮司と当番区総代が空に向けて矢を放ちます。
 このあと直会に入り、関係者が拝殿に着座して第一献から第二献、神饌披露、第三献と続く「三献の儀」が行われてご神酒を振舞います。 ひき続き神事に入り、12時50分ころから当番区の引き継ぎ(頭渡し)が行われて終了となります。その際に引き継がれるのは、弓、 弦、神号軸、神宮請社員名簿、焼き印、本殿錠、諸式控帳などとされます。
 この地域のオビシャの目的は、無病息災、悪霊退散、豊作祈願といわれ、弓取式において矢が的を射抜けば、その年は豊作になると されています。
11B:川越市下老袋 (2001.02.11調査)
 同じ埼玉県内でも、川越市下老袋にある氷川神社の弓取式は2月11日に行われます。神事は、神主を先頭に関係者、甘酒や豆腐田楽を 持った一行の入場で始まり、神社拝殿での祝詞奏上、お祓い、玉串奉奠で終了します。このあと弓取式に移り、本来は各地区から 選ばれたユミトリッコ(1〜6歳の長男)が弓を射ることになっていましたが、現在は羽織・袴を着用した地区総代が代わりに行います。
 的の意匠は同心円で、烏などの絵はありません。5人の総代が各3回の弓射を行いますが、これらはそれぞれ春作、夏作、秋作の 豊作を予祝するとともに、的の白い部分に矢が当たると晴れ、黒い部分に当たると雨が多いという具合に、卜い行事としての性格が 強く表れています。
11C:鴻巣市滝馬室 (2018.01.12調査)
 氷川神社で行われる的祭(まといさい)は市指定の無形民俗文化財で、五穀豊穣の祈願を目的として現在も続いています。早朝からの 準備を経て、午前11時より神事が始まります。まず、拝殿内そして境内の参列者のお祓いのあと、献饌の儀、祝詞奏上、玉串奉奠、拝礼、 撤饌の儀が行われ、11時30分過ぎから弓射儀礼となります。的は、網代編みしたヨシの下地に12枚の半紙(横向き3枚×4段)を繋ぎ合 わせて貼り付けたもので、そこに同心円が描かれています。また、弓はエゴノキと麻紐で6張作り、矢のほうは篠竹に紙の矢羽を付けた もの(12本)が事前に準備されていました。
 射手は、現在地元の小学6年生が行っていますが、本来はその年に満12歳となる長男(跡継ぎ)だけに資格があり、しかも神社より 許しのあった者だけが務めました。さらに、かつては古式に則った正装で行われていたようです。結果的に的祭の核心部分は大きく変化 していますが、実際の所作では古い仕来りを伝承している場面もみられます。それは、二人の射手によって最初に放たれる矢が、一方は 天にもう一方は地に向けられている点です。天に向けて矢を射る事例は他の地域でもみられますが、地に向けて矢を射る所作はあまり 見かけません。当社の神主によると、天に放たれる矢はいわゆる「鏑矢」を意味しているのではないかとのことでした。
11D:八潮市鶴ヶ曽根 (2019.01.20調査)
 八潮市では、正月の弓射儀礼が現在も3ヵ所で継承されており、今回取材を行ったのは鶴ヶ曽根の上地区と下地区です。この地域の弓射儀礼は、 地元で「弓ぶち」と呼ばれ、それぞれの地区で祀られている久伊豆神社の主要な祭礼の一つとなっています。かつては、宿番制を基本とした 古い仕来りに則って運営されていましたが、現在は神社境内の公民館を利用して実施されます。
 まず、下地区では午前11時から頭屋の交代に伴う神事があり、11時30分ころより境内で弓ぶちが始まります。地区にのこる四つの組 ごとに弓を射るのが特徴で、的は2個を一対として4基設置されていました。的の意匠は、いずれも赤または黒の同心円か鬼の文字、 さらには両者が合体したもので特に決まりはないようです。長いマダケを割ってその一方を直径80aほどに丸め、障子紙を貼った簡素な作り です。この形態は、茨城県や千葉県などの利根川流域にみられる的によく似ています。また、上地区では午後1時から神事、同1時30分より 弓ぶちというスケジュールでした。
 弓射の開始で注目されるのは、まず最初の一矢を空に向けて放つ所作でしょう。下地区、上地区ともにこれを鬼門(北東)とし、さらに 上地区では裏鬼門(南西)にも第二の矢を射ます。その後暫く射手が交代して的に矢を放ち、最後の射手が終えるのを待って弓や矢で的を 突き破る所作がありました。残された矢のうち、組の当番あるいは氏子全員が各1本ずつを小的や赤飯のおひねりとともに持ち帰り、神棚に 供えておくそうです。行事全体として、利根川下流域に広く展開されたオビシャの系譜を伝える祭事といえるでしょう。

 

 

[写真左上] 川越市氷川神社の弓取式 / [右上] 鴻巣市氷川神社の的祭
[写真左下] 北区熊野神社の歩射 / [右下] 八千代市のカラスビシャ

《 東京都 》
13A:新宿区中井・西落合 (2001.01.13調査)
 新宿区では、中井御霊神社と葛谷御霊神社でともに1月13日に備射祭が行われます。午前中は葛谷御霊神社で分木受渡しの儀、 ご神酒の儀、取肴の儀のあと、社殿の前で引き弓の儀が行われます。的は約1bの笊状円板に紙を貼ったもので、表に同心円を描き、 その中心に2羽の烏(2本足)が向き合った図案です。ビシャを行うのは送り番と受番のふたりで、小・中・大の矢を交互に射る ことでその年の豊凶を卜うといわれますが、鳥居に吊り下げられた的まで20bほどの距離があるため、射られた矢はほとんど的まで 届きません。
 午後になると、中井御霊神社でも弓射儀礼が行われます。拝殿での祝詞奏上、盃儀のあとに弓射の式があり、氏子から選出された ふたりの頭屋と宮司が弓を射ます。その際、一の矢は鬼門に向けて放たれ、二の矢が的に放たれます。こちらの的は、同心円の中心に 足のない飛翔する2羽の烏が描かれていて、時代とともに簡素化されてきた状況が窺えます。由来によれば、中井御霊神社が本家筋に あたり、葛谷のほうはその分霊を祀ったものといわれます。弓矢の製作や弓射の方法などを比較しても、中井のほうがより古い形式を 伝承しているものと考えられます。ただし、的に描かれた烏の絵に関しては、葛谷のものが本来の姿を継承しているのではないかと 思われます。
13B:北区志茂 (2016.02.07調査)
 この行事は、熊野神社の白酒祭として知られています。現在は毎年2月7日に行われていますが、元来は旧暦正月七日の年占神事 でした。弓射の終了後に振る舞われた白酒が祭の由来となっているようです。当日は境内の一隅に4本の竹と注連縄によって仕切られた 神籬が設けられ、その奥に神饌を供える棚があり、さらにその背後(神籬の外)に大きな的を確認できました。神事は、まず「祓いのことば」 で始まり、神籬に熊野の大神を迎え入れる「降神」、御神酒のフタを開ける「献饌」、「祝詞奏上」と進み、参列者全員が玉串を奉奠した あとは御神酒のフタを閉める「撤饌」があり、締めくくりとして迎え入れた大神が熊野へ帰る「昇神」の儀で終了します。
 その後、神籬を解いてから同じ場所で「弓射り神事」が行われます。神主を先頭に地区総代の代表二人が入場し、まず一人が「鬼」と 描かれた大きな的から5〜6b離れた場所に立ち、3本の矢を射ます。一本目は的から故意に外して放ち、二本目と三本目は続けて 命中させます。次にもう一人の代表が同じ所作を繰り返し、続いて神主や関係者の弓射りがあってすべてを終了しました。なお、的の 「鬼」という文字について地区総代の一人に伺ったところ、昔からこれを描いているということでした。

《 千葉県 》
12A:八千代市高津新田 (2004.02.11調査)
 高津新田のオビシャは2月11日に行われ、別名をカラスビシャといいます。この地区にある諏訪神社の氏子によって継承されている 神事です。氏子は現在47軒あり、毎年2軒(4人)ずつ交代で頭番を務めます。弓射が行われるのは社殿脇の境内で、的は篠竹で 作った六角形のものが一つだけです。描かれているのは烏が飛翔する絵で、足は2本となっています。的の数も含めて、少なくとも 50年ほど前からは変化がないとの話でした。ただし、同県内の市川市には三本足をもった烏を描いた的もあるといわれています。
 弓と矢についても、10年ほど前までは神社の境内に自生していた篠竹で作り、弦は麻ひもを利用した簡素なものでした。ここでは、 弓射に際して特にきまりがなく、氏子の人たちが適当に行っていましたが、古くは矢を放つ人もそのやり方にも決まり事があったものと 考えられます。実際に、当事者の話を伺っても祈願の対象や目的に関する説明は曖昧で、神事としての意味合いが希薄化している点は 否めません。このあと、近くの公会堂で頭番の引き継ぎと直会があり、その際、氏子の名簿を襟首に挿して渡すという風習が今でも 伝えられています。
12B:流山市鰭ヶ崎 (2001.01.20調査)
 鰭ヶ崎に伝わるオビシャは毎年1月20日に行われ、雷神社の7戸の氏子によって継承されています。ここの神事は、祝詞奏上のあと 弓射、トウ渡しの手順で進行しますが、神饌として米や神酒、鶴亀と松竹梅をあしらった供えものなどを確認しました。弓射の的は二つあり、 一方には青鬼の顔、もう一方には赤鬼の顔が描かれています。大きさは30×40a程の楕円形で、長さ約180aの篠竹に取り付けて 石灯籠の脇にそれぞれ立てます。また弓と矢はいずれも竹を利用した手作りのもので、的とともに毎年新しく作り替えます。これとは別に 本物の弓と矢も用意されていますが、別な場所に奉納されているとのことでした。
 弓射儀礼は、神官、氏子総代、世話人、初戸(ハナトで当番の最初の家)の順に行われ、矢が的に当たればその年は豊作になると言われます。 そして、当たらない場合は矢を持った手で的を打ち破るそうです。最後のトウ渡しでは、送り込みと称してさまざまな品物が次の当番に 引き継がれますが、これらは造花などで華やかに飾られた軽トラックに積み込まれて運ばれます。なお、境内にある記念碑によると、「古くは 備社田を耕作し、この備社田から得た収入をもって神社の維持管理や祭事の費用に充てられた」そうで、少ない氏子の人たちが伝統的な 行事を守り続けてきた歴史の重さを感じます。

 

 

[写真上左]ユズリハが入った吉川市の的/[上右]葛谷御霊神社の二羽の烏
[写真下左]八千代市の六角形の的/[下右]八潮市の鬼の的

《 茨城県 》
08A:常総市内守谷町 (2009.05.09調査)
 この事例は、行事の取材に基づくものではなく、現地において当事者の方から聞き取りを行ったものです。ここではオピシャと呼ばれ、 もとは向地地区の30軒ほどで実施されていましたが、その後S家一族が分かれて独自に行うかたちとなり、現在に至っています。当初は 8軒あったものの今は6軒だけとなり、持ち回りで頭屋を務めます。このような一族の集団は「マキ」と呼ばれます。
 オピシャは毎年1月20日(近年はその前後の休日)に行われ、その年頭屋となった家では当日の朝に以下のものを用意します。
・松竹梅膳:黒塗りの膳に大根で亀の形を作り、その背中に松の小枝、細い竹、梅の小枝を挿したもので、竹の先端部は二つ割にしてそこに 半紙で折った鶴を挟む。
・神酒:注器の土瓶には折り紙で作ったオチョウとメチョウを付ける。
・引継ぎの文書:いわゆるオトウワタシの際に引き継がれる唯一のもので、半紙に出席する一族全家族(男性のみ)の氏名が列記 されている。男児も含まれ、毎年書き改められている。
・弓矢と的:いずれも行事の中核をなす弓射に使われるもので、弓は事前に準備したウツギの枝で作り、弦には麻縄を利用する。また、 矢のほうは篠竹を材料として使い、数本を作る。的もやはり篠竹を用いて輪を作り、そこに半紙を張った簡単なものであるが、的には 必ず三本足の烏を描くことになっていた。
・料理:お頭付のスープ、小豆飯、川魚(ふな)の煮つけ。
 行事の流れは、まず出席者全員で御神酒をいただく「三献の儀」が行われ、頭屋の「引継ぎ」へと進みます。その際、書き改めた一族の 名簿を受け手(次の頭屋)の襟元に差し込むことになっており、帰宅したら名簿を神棚に供えておきます。次は「引継ぎの盃」に移り、 渡す側は5回、受け側は7回の盃をあけます。そしていよいよ最後の弓射儀礼になります。これは出席者全員で行いますが、 射る順番は特に決められていません。なお、的は必ず射抜かなければならないとされていて、そのことによりさまざまな祈願が成就 するものと考えられているようです。

常総市・松竹梅膳の図

《 神奈川県 》
14A:中郡大磯町西小磯 (2018.03.04調査)
 白岩神社の歩射行事は、関東地方での実施例が集中する1月や2月ではなく3月に行われます。最大の特徴は、世襲によって受け継がれた 12名の社人(ただし現在は11名)によって祭事が実施されるという点です。実際の運営は西小磯と東小磯の自治会役員が年番となって 交互に担当しますが、事前の準備においても重要な事項は社人が行います。例えば、弓射で使用する弓、矢、的の材料となる梅の枝木や竹、 篠竹は自治会役員が取り揃えたものを海で浄めたあと、御膳番と呼ばれる社人が加工して仕上げます。このうち、的は竹で網代に編まれた 円形の枠に12枚の半紙を繋ぎ合わせて貼り付けた構造で、中心に直径15a程の蛇の目が描かれています。なお、御膳番の一人が前日の 早朝に下帯一つで海に入って禊を行いますが、こうした伝統的な所作は次第に簡素化される傾向にあるようです。
 さて、祭礼当日は午後1時前に社人らの一行が鳥居をくぐって参道を進み、そのまま社殿に着座して神事が始まりました。この30分間に お祓い、祝詞奏上、玉串奉奠、巫女(中学生)の舞が行われ、その後弓矢を持った社人が一列になって社殿の周囲を時計回りに3周します。 さらに、参道に設けられた弓射の場所まで移動し、今度は的が置かれた周辺をやはり時計回りに3周します。そして二人の社人が各二矢を 射るわけですが、このとき第一矢は天に向けて、第二矢は的に向けて放たれました。今回は二人だけでしたが、かつては12名の社人全員が 行っていたようです。天に向けて矢を射る行為について、社人の一人は「明の方(恵方)をさしているのでは」と説明してくれました。

 

[写真左]社殿を周回する社人 / [右]蛇の目が描かれた的

14B:川崎市多摩区菅 (2020.01.09調査)
 多摩川下流右岸地域にのこされた弓神事の一つで、毎年1月9日に子之神社境内で行われます。菅地区は上菅と下菅から成り、自治会と しては日本一の大所帯だそうです。子之神社の氏子も現在200軒ほどあり、お的祭はこの氏子会によって運営されています。
 当日は、午前10時より拝殿内でお祓い、祝詞奏上、玉串奉奠などの神事があり、その後祭壇に供えてあった弓矢と的を外に出して射場に 設置します。的は前年の12月中旬に採取したヨシを天日に干し、これを平たく潰して一辺が約60aの方形に網代編みしたものです。表には 同心円を描いた紙を貼り、裏には「鬼」の一字を書いた半紙が貼り付けられていました。また、弓は梅の木の二年生枝を使い、麻ひもを 張って弦とします。矢のほうは境内に自生するヤダケを約90aに切ったもので、矢羽根は和紙です。
 準備が整うとすぐに弓射が始まり、まず二人の神官が一矢ずつ的に向けて放ち、続いて役員、関係者が同様に一矢ずつ弓を射ます。儀式と いうより、遊びを楽しむという感覚がみられました。その後は、見学者も含めて誰もが自由に弓射を体験することができます。
14C:川崎市多摩区長尾 (2020.01.12調査)
 長尾神社は、市街地から離れた高い場所に祀られています。正月の歩射は、かつて1月7日の開催でしたが、現在は7日以降の最も早い 日曜日に行われます。午前10時より拝殿内で神事(お祓い、祝詞奏上、玉串奉奠など)があり、その後すぐに弓射へと移ります。
 的は、直径約160aの大的で、ヨシを網代編みし、模造紙(元は半紙)を貼って同心円を描きます。裏には、子之神社の的のように 「鬼」の字を墨書した半紙を貼り付けますが、長尾の場合は中央に大きな「鬼」の字があり、これを囲い込むように四隅にはそれぞれ小さな 「鬼」の字がみられます。これを高さ4bほどのマダケ3本とともに組んで参道に設置します。
 射手は7歳未満の長男二人で、それぞれ成人男性の介添人が付いて二組4人が紋付袴の正装で務めます。ただし、実際に弓を射るのは 介添人のほうで、男児は矢を渡す役割になっています。多少の変化はみられるものの、古い習わしが伝承されている様子が分かります。
 4人が的から七足半離れた場所に座すと、まず一組目が2本の矢を放ち二組目もこれに続きます。次に右回りで座を替えて2本ずつ放ち、 最後にもう一度座を替えて2本ずつ放って終了します。全体で12回弓を射ることになりますが、地元では矢が的の裏の鬼(の字)を射抜く とその年は豊作になると伝承されています。なお、矢は放つ度に射手に戻され、使用できなくなると予備の矢を使います。また、かつては ヨミヤといって、前日の夜に3、4人が拝殿に寝泊まりしていたそうですが、その際に禊などを行ったことはないとのことでした。

 

[写真左] 長尾神社の歩射 / [右] 的の裏に隠された「鬼」

【四国地方のモモテ】
 四国地方の弓射儀礼は一般的に「モモテ(百手)」と呼ばれます。現在も存続している地域があり、ここでは聞き取り調査の内容について 一部の事例を紹介します。

《 香川県 》
37A:三豊市詫間町 (2018.03.22調査)
* 松崎地区:3月下旬に実施されます。百手祭は、本来頭屋の引継ぎを目的とした神事で、そこに弓を射る行事もありましたが、詳細については 不明で、現在は頭屋の引継ぎのみ行われています。
* 大浜地区:3月上旬に、氏神様である八幡神社で行われます。前日には、頭屋の家にオイテサン(弓を射る人たち)が集まり、海に 入って水垢離を行いました。そして当日、社殿で神事が終了すると境内にて1回目の的射が始まります。射手は12人で、その年に厄年を 迎える人が務める習わしとなっていました。的は二種類あり、一つは樽のタガ(直径約1尺)に紙を貼って同心円を描いたもの、他の一つは やはり同心円を描いた白い扇をカワラケの上に載せたものです。境内での的射に続き、今度は場所を浜に移して同様に的射が行われます。 ただ、一つだけ異なるのは、最後にオイテサンがオサルと呼ばれる小さなぬいぐるみをばら撒くことです。これは、事前に集落の人たちが 分担して手作りしたもので、射手自身も少し大きめなオサルサンを腰に付けていると言われます。

《 高知県 》
39A:香南市夜須町 (2018.03.25調査)
 八幡神社において、毎年1月に行われる祭事です。かつては神主や氏子総代を中心に、頭屋の人たちが世話役として順送りに運営にかかわって きましたが、最近はそのような組織が崩れかけているようです。射手は12人ですが、こちらも本来務めるべき人がいなくなり、若い人や学生 などに依頼して何とか存続している状況にあると聞きました。弓射の手順は以下の通りです。
・まず、大的(同心円を描いたもの)を射る
・次に小さな橙を射抜く
・大的の下部に幕を掛け、そこに「鬼」と書いた紙を貼り、これを射る
最後の「鬼」については、牛鬼退治に由来すると伝えられています。

【弓射儀礼の目的】
 このように多くの弓射儀礼では、宮座あるいは頭屋(頭番)制の組織による祭祀という特徴があり、南関東のオビシャや四国地方の百手では 頭屋の引継ぎ神事と弓射がともに重要な役割を担っていることがよく分かります。それにしても、神前で弓を射るという行為は、いったいどの ような目的で行われるようになったのでしょうか。ここでは、三つの観点から各地の行事にみられる特性を整理してみたいと思います。

〔1〕的の形態
 的に関しては、その数、形状、大きさ、構造、材質、意匠など実に多種多様です。ただし、当初からの的が現在もそのまま受け継がれているかと いうと、全く変化がないとは言い切れない事例が少なからず見られるようです。とはいえ、現状では具体的な変化の内容を把握していませんので、 あくまでも取材で得られた情報をもとに考察してみましょう。
 まず、的の数は一つあるいは二つというのが一般的です。形状は円形あるいは方形が主流で、まれに多角形もあります。大きさは数十aから 1b以上のものまでありますが、多くは竹やヨシなどを編んで骨組みを作り、その上に紙を貼った構造となっています。そして、的を特徴づけて いる最大の視点は、そこに描かれた意匠にあります。現在も実施されている関東地方のオビシャの的を概観すると、比較的多く見られるのが「烏」 の絵です。事例では11A、12A、13A、08Aがその部類で、足がないものや二本足、三本足などさまざまな烏が描かれています。『熊野の太陽 信仰と三本足の烏』〔文0059〕によると、これは「三本足」の烏が本来の姿であるとしています。さらに烏の的とともに兎の絵を描いた的が対と なって弓射が行われる事例を多数紹介しています。古代中国において、三本足の烏は太陽の象徴であり、同様に月の象徴は兎あるいは蟾蜍と されています。確かに、聞き取り調査によると毎年1月中旬にオビシャが行われる茨城県龍ヶ崎市馴馬町の場合は、二つの的に描かれる絵は 三本足の烏と兎でした。
 さらに、前掲書では蛇の目(14A)、鬼の文字や顔(11D、12B、13B)、同心円(11B、11C、11D、14B、14C、37A、39A)なども 太陽を示すものと考察しています。すると、オビシャにおける的は太陽そのもの、あるいは太陽と月の象徴であるとみてよさそうです。ただし、 畿内の結鎮などに登場する的では総体的に鬼にかかわる描写が多いようで、一部は綱引きが習合した儀礼となっています。この綱は龍神信仰の 蛇であり、当然蛇の目の的とも深いかかわりが想定されます。
 したがって、南関東のオビシャに集中する三本足の烏と兎の的は、直接的な太陽や月そのものではなく、その象徴としての日天、月天という 捉え方が相応しいのではないかという気がします。それは西日本からの弓射儀礼の伝播と、古くからこの地域にあった日月信仰の習合の産物で あったかもしれません。更なる考察が必要です。

〔2〕弓射をめぐる儀礼
 実際の弓を射る所作に注目すると、的をあえて外すケース(13B)や第一矢または最後の矢を天に向けて放つ事例(11A、11C、14Aなど) があり、鴻巣市では天と地に向けて同時に矢を放ちます。射る方角を特定している場合は、これを鬼門や裏鬼門としたり(11D、13A)、恵方と する事例(14A)もあります。このような所作は、いったい何を意味しているのでしょうか。
 その重要な手掛かりとなる情報が『宮座の研究』〔文0277〕に記されていました。それは、奈良県添上郡帯解町(現奈良市)に伝承された 「ひきめ祭」の弓射において、素戔嗚尊があらぶれた時に弓矢でそれを鎮めたという故事に基づいて厄を祓うため、八本の矢で天地、東・西・南 ・北・北東・南西を打つ(地の矢は射る所作のみ)というものです。この際、五つの鬼の字が描かれた的は丑寅(北東)に立てられており、この 鬼門の方角に放たれた矢だけが的を射抜くようになっています。「ひきめ祭」はいわゆる鏑矢神事のことで、弓射によって四方を固める儀礼は 現在も伝承されていますし、同じ奈良県内のケイチン(結鎮)祭でも天地と東西南北に祓いの矢が打たれます。
 関東地方の弓射儀礼における先の事例は、いずれも一部のみが継承されていることになりますが、果たして伝播の途中で次第に消失したものか、 あるいは定着化と伝承の過程で簡略化されたものか、現時点では分かりません。帯解町の八本の矢の中に鏑矢があったかどうかは不明ですが、 その由来が素戔嗚尊にかかわる故事にあるということから、これら八方への弓射は、その地(宮座)の領域を祓い鎮め、新たな領域を確保する 目的であったと考えられます。さらに天地への弓射については、昼と夜の時間軸を一旦停止させることによって時の再生を図っていたのでは ないでしょうか。こうして放たれた矢を奪い合ったり、氏子が貰い受けて保管するなどの習俗は各地にみられます。
 なお、矢が的を外しても射抜いても、最後に必ず弓や矢を手に持って的を打ち破る事例(11D)は他にも多くあり、14世紀の『応安神事次第』の 「一ノ的ハ射ル、二ノ的ハ弓ニテツク、三ノ的ハ大刀ニテ切ル」という記述〔文0278〕に由来の手がかりを見出すことができそうです。

〔3〕弓射と「十二」の数
 儀礼の運営全体にわたって浮かび上がってくるのは、「十二」という数の示す重要性です。これを最も顕著に示しているのが埼玉県鴻巣市の 事例で、ここでは開催日(1月12日)、射手の年齢(12歳)、的を作る半紙(12枚)、放たれる矢(12本)など徹底したこだわりが みられます。また、四国地方の百手祭では12人の射手が重要な要素の一つとなっています。的に関しては、12枚の半紙で作る事例が神奈川県 大磯町にもあることや、埼玉県吉川市で的の中に12枚(閏年は13枚)のユズリハの葉が埋め込まれているという点などを踏まえて、そこに 旧暦の月の回り、つまり1年を区切りとした「時の経過」を見出すことができます。ユズリハについては、滋賀県蒲生郡中野村(現神崎郡八日市町) の弓射儀礼において、矢に「ゆづり葉」を付けていたとの記録〔文0277〕があり、おそらく12本(閏年は13本)の矢であったろうと推測 されます。
 このように「十二」の数にまつわる伝承は、弓、矢、的、そして射手に集中してみられます。それは、12本の矢であれ12人の射手であれ、 さらには射手の人数と各人の弓射回数の関係も含めて、とにかく的を12回射る必要があったのではないかということです。ユズリハの利用には、 その思いをさらに明確にする意図があったかもしれません。南関東のオビシャでは、的を日天・月天に置き換えることで天(昼)と地(夜)の 領域を弓射で鎮め、新たな甦りの年を迎えたいという人びとの素朴な願望が感じられます。

 これまで、律令時代幕開けの宮廷行事から始まった射礼、そして西日本の宮座を主体に拡散した弓射儀礼、さらにはオビシャに代表される 関東地方の弓射儀礼について、現地取材と文献資料の事例を中心にみてきました。しかし、伝統的な弓術や狩猟由来の儀礼とのかかわりには 全く触れていません。弓をめぐる神事や行事、習俗などに対するアプローチでは、歴史的視点と民俗的視点のどちらを重視するかによって 取り組み方は異なり、総体的な解釈においてもさまざまな見解が示されることになります。
 当館では、今後もオビシャにみられる烏および兎が描かれた的に焦点をあて、他の祭事にみられる日天・月天の鉾や幟などとの関係も併せて、 人びとが生業や暮らしのなかで日月信仰とどのように向き合ってきたのかを追及したいと考えています。

 

 

[写真左上] 弓で的を突き破る(八潮市) / [右上] 半紙12枚の的(鴻巣市)
[写真左下] 天と地を射る(鴻巣市) / [右下] 天に放たれる第一矢(大磯町)

十九夜待  2020/02/25

【十九夜の信仰】
 関東地方の茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉各県に接する利根川中・下流域では、近世以降に「十九夜さま」と称する 行事が各地で行われてきました。これらの地域には、いわゆる十九夜塔も数多く造立されており、大きな文化圏を形成 していることが分かります。この分布は、北方に広がりをみせて福島県から宮城県の一部地域に及び、さらに西に目を 向けると長野県北東部と奈良県、京都府の一部にも伝わっています(分布図参照)。
 十九夜の行事は、一般的な解釈として二十三夜待に代表される月待信仰の一形態とみられています。十九夜ですから、 本来であれば旧暦の十九日に上る月を拝して諸願成就を祈ることになりますが、各地で展開されてきた行事の実態は大きく 異なります。それは、基本的に安産祈願を主目的とした女人講による信仰と言えるでしょう。利根川中流域で十九夜信仰圏 と接する二十二夜行事も、多くは女人講によって産神信仰との強いかかわりがみられますが、こちらは同時に旧暦二十二夜 の月待が行われています。長野県の伊那地方では、現在も「お立待」と称して継続されている地区が数ヵ所あります。
 しかし、十九夜行事においては、今のところ月の出を待つ習俗を示唆する明確な記録は見あたりません。この信仰で主尊 として祀られるのは如意輪観音ですが、十七夜から二十三夜までの七夜待では十九日の主尊は馬頭観音であり、如意輪 観音は二十一日あるいは二十二日に充てられています。ここにも、十九夜と月待の関係に大きな疑念を抱かざるを得ない 要素が隠れているのです。
 さらに、各地の十九夜塔を概観すると、近世初期から中期にかけて造立された石塔の多くに「十九夜念佛」の銘文を確認 することができます。造立の主体も女人講とは限らない事例があり、「十九夜供養」銘だけの石塔も含めていくつか事例を 挙げると、
・〔藤心村善男善女〕
 正徳元年(1711)の「十九夜念佛供養」塔(千葉県柏市)
・〔諸衆男女敬白〕
 正徳三年(1713)の「奉供養如意輪観音十九夜」塔(茨城県つくば市)
・〔小野村男女中〕
 享保十二年(1727)の「十九夜供養」塔(茨城県新治村:現土浦市)
・〔久寺家村講中男女四拾人〕
 延享元年(1744)の「奉供養十九夜念佛」塔(千葉県我孫子市)
・〔善男善女講中二十四〕
 安永二年(1773)の「十九夜念佛」塔(千葉県関宿町:現野田市)
・〔講中老若男女〕
 寛政七年(1795)の「十九夜供養」塔(埼玉県北川辺町:現加須市)
などがみられ、他にも埼玉県大利根町(現加須市)の十九夜念仏供養塔に、世話人として男3人、さらに男27人と女23 人の名が台石にびっしりと刻まれている事例があります。おそらく、これらは念仏と深いかかわりをもつ講中ではなかった かと考えられますが、中期以降になると「念佛」の文字は次第に消失し、下流域においては子安講や観音講との習合がみられる ようになります。二十二夜待行事でも念仏や和讃を唱える地域はあるものの、銘文に「二十二夜念佛」などと刻まれた石塔を みる機会がないということは、両者が異なる系譜の信仰であるとみてよいでしょう。
 このように、十九夜の行事が月待信仰と看做されるのか否かについては、これまでもさまざまな指摘がありました。特に 月の出を待って拝すという行為が伝承や史料から見出せない点が注目されるわけですが、一方で月待を行っていなかった ことを実証する手立てもないのが実情です。

 

十九夜と二十二夜信仰の分布

※[上]東北地方 / [左下] 関東地方 / [右下] 甲信・東海地方

【各地の行事と伝承】
 ここで、聞き取り調査によって得られた各地の十九夜行事について整理しておきましょう。なお、調査項目は実施日、実施 場所、講の有無と講員、月待の有無、念仏(和讃)の有無などです。

《福島県》
* いわき市渡辺町:毎年10月19日に実施される女性の講。如意輪観音の掛軸の前で十九夜念仏を唱和し、安産祈願を行い ます。
* 白河市大和田:若い女性の講で、十九夜さま(石塔)に安産を祈願します。
《茨城県》
* つくば市栗原:毎年正月、2月、12月の各19日に実施。30人ほどの婦人の講があり、輪番制で宿を廻ります。当番は2名 ずつ2年間勤め、最後の講(2年目の2月)で二股塔婆を立てる習わしがあり、昔は妊婦が二股塔婆に安産を祈願しました。
* 総和町西牛谷(現古河市):輪番制による女性の講として2月と9月の年2回実施。各自が持ち寄った米で炊いた飯を十九夜 さまに供えて安産を祈願します。
* 五霞町元栗橋:28軒が輪番制で隔月に行っていた若い女性の講で、掛軸をかけ、米飯と線香を供えます。この米飯は参加者 から集めた米を炊いたもので、昼食と夕食に皆でいただきます。祈願は全員で掛軸を拝みました。
《栃木県》
* 野木町野木:毎年2月19日に公民館で実施される女性の講。安産の掛軸をかけて拝むほかに、近くの十九夜塔に参拝し 米飯や酒を供えて安産を祈願します。また、所定の場所(畑の角)に犬供養の二股塔婆を立てます。
* 小山市下生井:毎年2月19日に輪番制で行われる若い女性の講。十九夜さまに安産を祈願して十九夜念仏を唱えるほか、 柳の木で作った二股塔婆を十九夜塔に供えたり、道の辻に立てます。
* 下野市野田:2月から11月までの毎月19日に公民館で実施される女性の講。掛軸に各自百円(妊婦は千円)と線香を 供えて安産祈願を行うほか、十九夜さま(石塔)にも米を供えて拝みます。なお、このとき残った米は妊婦が持ち帰る習わ しがあり、家の米といっしょに炊いて食すとお産が軽くなると伝承されています。
《群馬県》
* 板倉町下五箇:毎月19日に五箇地区の25軒で行う既婚女性だけの講。十九夜さまの掛軸を拝して安産を祈願し、出産 後は十九夜塔にお礼の襷をかけます。
* 館林市下戸:正月19日と8月19日の2回、いずれも昼間に行われます。念仏を唱えました。
《埼玉県》
* 加須市三分野:毎年春3月と秋9月の2回(日は未定)、輪番制で実施される女性だけの行事。十九夜念仏と呼ばれ、参加者 全員が念仏を唱えながら安産を祈願します。
* 大利根町杓子木(現加須市):年に1〜2回実施されます。輪番制で若い女性ばかり15軒ほどが集まり、掛軸をかけて線香 やロウソク、食物などを供えます。お産が近い人は短くなったロウソクを持ち帰り、これを灯すとお産が軽くなると言われて います。
* 北川辺町柳生(現加須市):輪番制で年に6回実施される既婚女性の講。十九夜さまに線香を供えて、安産を祈願します。
《千葉県》
* 旭市倉橋:毎月19日に輪番制で実施される年配女性の講。お産の神様である十九夜の掛軸を拝することから、「オガミ」 の行事と言われています。
* 沼南町鷲野谷(現柏市):正月19日に実施される若い嫁たちの講で、安産祈願を行います。子安講あるいは観音講とも いわれます。

 以上は東北や関東の状況ですが、西日本の事例として奈良県の場合はどうでしょうか。

《奈良県》
* 奈良市横田町:毎年3月19日夜、地元の集会所に20人ほどが集まって行われる女性の講。十九夜さん(石塔)に檜の 葉塔婆を供え、安産を祈願します。そして無事に出産すると十九夜さんに新しい涎掛けを付けます。
* 奈良市南田原町:毎年4月19日の夜、27軒が公民館で実施する女性の講。薬師堂境内の十九夜さま(石塔)に板塔婆を 供えて拝み、公民館で念仏を唱和します。
* 奈良市茗荷町:毎月19日、集会所に14〜15人の女性が集まって実施されます。館内の十九夜さんと呼ばれる如意輪 石像に葉塔婆を供え、全員でこれを拝してから和讃を唱和します。また、出産が無事に済むと十九夜さんに新しい涎掛けを 付けます。
* 奈良市日笠町:毎年11月19日に公民館で実施される25軒の女性の講。安産と子どもの守り神とされる十九夜さん (如意輪石像)を拝し、十輪寺の住職が十九夜和讃を唱えます。

 

[左] 十九夜講(野木町) / [右] 二股塔婆(つくば市)

 

[左] 十九夜掛軸(いわき市) / [右] 十九夜塔(奈良市)

【十九夜行事の本質と伝播】
 利根川下流域の十九夜塔に刻まれた銘文から、十九夜信仰の基盤が念仏講にあることは既に記しました。同地域では、 十五夜念仏塔も比較的目につく存在で、他に十六夜念仏や十七夜念仏塔が僅かながら造立されています。今のところ、 十九夜念仏が隆盛をみた明確な理由は分かりません。しかし、主尊とされる如意輪観音がその後の産神信仰との習合に 深くかかわっていることは確かでしょう。信仰を支えた集団が、村や字単位の講から次第に女人講へと変化している ことも、十九夜塔の変遷をたどれば明らかです。
 ところで、利根川流域の産神信仰については、下流域で子安信仰が、中・上流域では産泰信仰の濃密な分布が知られて います〔『利根川−自然・文化・社会−』文0150〕。そこには、二十一夜あるいは二十二夜と産泰信仰、十九夜と子安信仰 という大枠としての特徴的な構図を見出すことができます。特に後者の場合は、犬供養の習俗を介した強い結び付きを 示しており、栃木、茨城、千葉各県の一部では、現在もその名残がみられます。
 犬供養は、お産が軽いといわれる犬にあやかり、それらが死んだときに行われる供養であり、多くは二股の卒塔婆を 立てます。これは、雑木の股木(枝)を50〜80aに切取り、股部の表面を削って経文を書いたもので、地域によって ザクマタとかザッカキなどと呼ばれます。語源はおそらく、サカマタ(逆股)からきているのではないかと推測されますが、 近年は板塔婆を股状に加工したタイプも見られるようになりました。十九夜行事で二股塔婆を供える地域は、意外に多い ようです。
 卒塔婆といえば、奈良の十九夜講では葉塔婆を供える地区がいくつか存在します。この卒塔婆は、幹の直径が3aほどの 檜の幼木を利用したもので、下部の枝を切り払った幹の一部を削り、上方には三角形の切り込みを3ヵ所いれて梵字を 記し、下方には祈願の文言を墨書しています。一般に三十三回忌の法要などに際して立てられるウレツキ塔婆によく似て います。関東では、犬供養の習俗と絡んで二股の塔婆を立てますが、奈良における葉塔婆は、特別な存在なのでしょうか。
 そこで、他の民間信仰に目を向けてみると、奈良盆地では閏年の庚申行事において塔婆を供える習俗の報告があります 〔『民俗社会の地域的差異について』文0379〕。しかも、この塔婆は地域により多様な一面をのぞかせているのです。 たとえば、奈良市東部や宇陀地方などでは葉付の杉や檜の幼木が一般的ですが、ほかにも葉付のカシノキや葉を付けない カシノキの棒、あるいは同じカシノキやネムノキなどで作る一方が二股状の棒などがみられます。このうち、二股タイプは 桜井市南西部や橿原市南東部、明日香村などに多くの事例があり、コウシントウゲ(トウゲは塔婆あげの意)とか、 サスマタ、マタンボなどと呼ばれているようです。ただし、犬供養の二股塔婆とは形状や目的が異なり、地元では二股の 棒を戸口に飾るのは泥棒除けの意味があると伝えられています。
 このように、奈良市東部の十九夜行事における葉塔婆は、庚申行事のそれとほぼ同じものが利用されていることが 分かります。それは、この地域の十九夜信仰が単なる民間信仰に止まらず、在来の寺院組織と深いかかわりをもちつつ 拡散していったことをよく示しています。
 各地の伝承で注目されるのは、それだけではありません。埼玉県と栃木県の聞き取りでは、過去の十九夜行事における 月待の存在を示唆する事例があります。その内容は「昔は十九夜の月の出を拝んだと言われている」とか「かつて年寄りが 十九夜の月の出を気にかけていた」というもので、いずれも確たる根拠はありませんが、二十二夜待行事にみられる月待 習俗との関連性も含めて、更なる検証が必要でしょう。因みに、大護八郎氏は江戸時代の『採蘭雑志』にある「十九夜の 月の出を待つ」という記述表現について、月待ではないかとの見解を示しています〔『月待信仰覚書』文0371〕。
 十九夜行事で唱和された念仏(内容としては和讃)については、さまざまな資料が紹介されていますが、その原形は 血盆経和讃にあると考えられます。関東地方と奈良県にのこる十九夜和讃は内容的に類似点が多くみられ、さらに奈良 県内の十九夜塔の造立年代と分布状況から伝播ルートを推察した報告もあります〔『奈良北東部の十九夜念仏について』 文0374〕。ここでは、福島県いわき市に伝わる和讃を紹介しておきましょう。

帰命頂礼 十九夜の 由来をくわしく 尋ねれば
若き女人の 大厄に 難産除けの 祈祷とて
清水をあらため 身を清め 九日十九夜 多けれど
寅の二月の 十九日 この念仏に 始まりて
帰依ある人も 無き人も 互いに誘い 誘われて
雨の降る夜も 降らぬ夜も 厭わず違わず けたいなく
十九夜講に 集まりて 我名を千遍 唱えなば
腹立つ度の 咎を消し 今世は祈祷 未来では
必ず救い とらんとて 大慈大悲の 御誓い
六観音の その中に 如意輪菩薩の 御誓い
あまねく衆生を 救わんと 六道巷に 立ち給う
悲しや女人の 身の障り 穢れ不浄の 定めなく
今朝まで澄みし 早や濁り 洗い濯いで 零す水
天神地神も 水神も 許させ給え 観世音
如意輪菩薩と 唱えなば 永く三途の 苦を遁れ
死して未来に 行く道は 四方の天も 雲晴れて
吹く風までも 法の声 藺香薫じて 天よりも
無明の花も 降り下り 中にも如意輪 観世音
慈悲の光明 輝きて 玉の天蓋 さしかけて
十悪五逆の 我われを 右と左に 伴いて
八萬由旬の 血の池を かそかな池と 見て通る
地獄地獄の 門徒たち なんなく通る 御慈悲に
先立つ者は 父母も 皆諸ともに 極楽に
導き給えや 観世音 極楽浄土の 涼しさは
妙法蓮華の 花咲きて 十方世界の 諸菩薩も
正念供養の 経陀羅尼 天より天女の 天下り
十二の音楽 練り供養 いざや十九夜 講半ば
この道教に 入らずんば 永く地獄に 落ちるべし
頼めや頼め ただ頼め 後生友達 講仲間
寺でも堂でも 在家でも 懸け念仏で 南無阿弥陀
即神成仏 南無阿弥陀
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

 奈良県(一部京都府を含む)の十九夜行事や和讃、十九夜塔などを見る限り、こうした信仰が関東地方から流入したとする 考え方には妥当性があります。犬供養など一部の習俗を除けば、ほぼ関東流の信仰が近畿地方の内陸部でひっそりと伝播・伝承 されてきたことになるでしょう。奈良市やその近隣地域では、一旦途絶えた十九夜講が近年復活した事例が多くみられますが、 お産や子育てを通して地域のコミュニティを深めたいという願いがあるのかもしれません。

十七夜待  2020/02/25

 十七夜とは、旧暦で17日の月をさし、この月の出を拝する行事が十七夜待とされています。いわゆる広義の月待信仰の一つで、 通常は正月・5月・9月に行われ、このうち正月の十七夜待がさかんでした。この十七夜待を供養する目的で建てられた石塔 (十七夜塔)が各地で確認されています。
 月待といえば、一般には二十三夜の月の出を拝する行事が中心です。本来は宗教的な要素を含まない素朴な信仰儀礼であったと 考えられますが、仏教との関係を深めるなかで七夜待と称する信仰が生まれました。これは十七日から二十三日の7日間に 六観音と勢至菩薩を配して祀るもので、十七日の本尊は千手観音あるいは聖観音とされています。東京都の奥多摩町には、 この十七夜待を供養したと思われる石塔が山間の道沿いにあります。1943(昭和18)年の再建塔ですが、もとは宝永元年(1704)の 造立とされ、千手観音の彫像をもっています。ただ、詳しい資料がないので、実際に十七夜待の行事が行われていたかどうかは 分かりません。
 ところで、千葉県成田市の「奉新造十七夜待」塔(宝暦二年)は如意輪観音の彫像を有し、茨城県藤代町(現取手市)の「十七 夜供養」塔(明和五年)には子育地蔵が刻まれています。これらは、いずれも利根川下流域にあり、産神信仰の一形態である子安 観音の信仰がさかんな地域と重なります。また、安産祈願を目的とした十九夜女人講による行事が各地で行われてきました。 したがって、二つの十七夜塔についても本来の月待ではなく、十九夜講、あるいは子安講などと同じ位置づけにあったものと 考えられます。
 それを、具体的に示す事例が茨城県常総市に伝承されていました。ここでは、旧暦の毎月17日に十七夜講と称して、輪番制に よる女性だけの集まりがあったのです。宿では掛軸を拝し、和讃を唱和しながら安産を祈願したということです。月待をしたという 伝承はありませんが、旧暦で実施されていたという点を踏まえると、かつては和讃を唱えて月の出を待っていた可能性もあります。
 このように、民間での十七夜待は、月待行事というよりむしろさまざまな信仰との複合行事として捉えたほうが分かりやすいかも しれません。地域によっては、埼玉県秩父郡の「十七夜念佛」塔のように念佛講との習合がみられるほか、十五夜に類似した行事の 性格も併せもっていたようです。

 

十七夜に関連した石塔類

※[左] 東京都奥多摩町の十七夜待塔 / [右] 埼玉県秩父郡の十七夜念佛塔

二十三夜待  2020/04/25

【月の信仰と三夜待】
 月は、地球にもっとも近い天体であり、古来より天文・暦法や信仰の対象として人びとの暮らしに深くかかわってきました。 夜の闇に貴重な明かりをもたらす存在感は絶大で、太陽とともに多くの神話や伝説、伝承に登場します。身近なところでは、 太陰太陽暦に象徴されるように、永い間人びとの生活のリズムを支配してきた歴史があります。月がもつ神秘さや不死の力に あやかりたいという想いは、やがて仏教をはじめとする宗教思想と結びついて「月をめぐる信仰」へと大きく発展しました。
 そうした民間信仰の一つに、月待行事があります。主として満月以降の遅い月の出を待ち、その出現に際してさまざまな 祈願を行うというものです。特に旧暦二十三日夜の月待は、二十三夜待としてほぼ全国各地で実施されてきました。
《二十三夜の来訪神》
 さて、月待のマチは何を意味するのでしょうか。『年中行事覚書』〔文0184〕によると、「マチは古くからの日本語で あって、その最初の意味は『おそばに居る』こと、即ち神と共に夜を明すことであったのだが、後々それを『待つ』ことだと 思ふやうになって、夕方の祭よりも、朝の方に重きを置く者が多くなったのである」と記述されています。マチは日待や庚申待 などにも通じるもので、柳田氏はこれらのマチ事に共通する各地の伝承を紹介するなかで、「人はただ二十三夜様といふ神様が あって、この晩は村々を御巡回なされ、信心の深い人々には徳を施し、恵みを垂れたまふものと思って居るだけであった」という ように、月待で共に夜を明かす神の存在を模索していたことが分かります。
 現在、伝承としてのこされた二十三夜の信仰は、勢至菩薩あるいは月読尊などを祀る習俗が中心で、宗教との深い結び付きが みられます。古来より「神と共に夜を明かす」ことが月待本来の意義であったとすれば、いつの時代か宗教の影響によって大きく 変容を遂げたことになります。
《月待の史料と遺物》
 月待に関する史料は少なく、古い時代の実態についてはよく分かっていません。『中世関東の月待史料』〔文0130〕には16世紀 から17世紀初頭の月待にかかわる史料が紹介されていますが、それ以前の具体的な状況は不明です。ただし、埼玉県川口市の史料 (詩文集『寒松稿』)から、慶長年代の後期(1606〜1612)には近世以降の基本となる二十三夜待行事の形態がすでに整っていた 様子を知ることができます。
 一方、中世の月待を知る有形資料として、15世紀中ごろに出現する月待板碑があります。その分布は関東南部に集中しており、 「奉待月供養」や「月待供養」などの銘とともに、その碑文からは当時すでに月天子すなわち勢至菩薩が月待の本地仏として信仰 されていたことが分かります。勢至菩薩は二十三夜待の主尊とされていますが、中世の月待板碑に「二十三夜」の銘はなく、 当時は月待といえば二十三夜を示していたものと推察されます。
 こうした板碑とほぼ同時代の月待関連遺物は、埼玉県新座市でもみつかっています。小祠内に保管されているため詳しい調査は 行っていませんが、地蔵菩薩坐像を浮彫にした小型の石造物で、資料〔文0371〕によれば「文安三(1446)年十月廿三日、奉月待」 などの銘が確認されています。地蔵菩薩と月待(二十三夜待)の関係をめぐっては、埼玉県所沢市(1677年)、同大井町(1705年)、 同飯能市(1722、1743年)、東京都青梅市(1702、1710、1765年)などで同様の事例があり、地域的な特性分布が注目されます。
 また、東京都五日市町(現あきる野市)には地輪部に「月待供養」の銘をもつ1486(文明18)年造立の五輪塔があり、中世の 月待板碑と近世の月待塔を繋ぐ重要な石造遺物の一つです。さらに時代が下って、1652(慶安5)年と1663(寛文8)年に茨城県 筑西市で造られた二基の月待塔は、自然石の中央に「三年三月」と刻まれ、他には類を見ない石塔です。上部にある種子[サク]と 日月像、そして何よりも「廿三日」という紀年銘から二十三夜待にかかわる近世初期の月待塔とみてよいでしょう。
 このように、中世から近世への過渡期における月待遺物の存在が各地で知られるようになったものの、その分布はあくまでも東 日本主体です。近世の月待塔にしても、西日本は少なく東日本から北日本にかけて多く見られるという状況は変わりません。いずれ にしても、石造遺物から得られる情報には限りがありますので、信仰の実態については現地での聞き取りを中心とした調査が不可欠で あるといえるでしょう。

 

[左(2枚)] 新座市の月待地蔵 / [右] あきる野市の月待五輪塔

【三夜待の形態と構成】
《月待行事の形態》
 広く月待行事を構成する主な要素としては、まず運営主体がどこにあるのかということを明確にする必要があります。個人 や家庭単位の営みなのか、あるいは地域集団としての講によるものなのかという区分けが基本です。さらに、講組織においては 講員の性質も重要なポイントとなります。
 実施時期については、旧暦での日程が大前提となりますが、月の出を待たずに解散するという形骸化されたケースでは、新暦で 行われる事例も少なくありません。同時に、どこで行うのかも行事の性格を律する重要な因子といえます。かつては、地域集団 として組やクルワなどがあり、各家を輪番制で宿とする方法が一般的でしたが、近年は地域の施設(公民館など)を利用する ケースが多いようです。地域によっては、月待のための堂宇も建立されました。
 行事の内容では、どのような場の設えが行われるのか、その際に準備されるもの、祈願の対象となる掛軸などの有無や念仏唱和の 有無、その他地域特有の習俗などを含めて全体の構成を把握する必要があるでしょう。以下に、関東・甲信地方を中心とした 二十三夜待行事について、要素別に整理してみたいと思います。
《運営の主体》
 民間信仰では、講を組織して運営される形態が一般的です。目的に応じて月待講、庚申講、念仏講、愛宕講、富士講、御嶽講、 産泰講など、実に多様な行事を賄っていました。月待講では、二十三夜待ばかりでなくやがて十九夜待や二十二夜待など信仰の 多様化に伴い、それぞれの講が成立することになります。さらに、一部では庚申行事や念仏行事、安産祈願の習俗などと習合する 事例が各地でみられ、より複雑化した講の成立が促されてきた実態があります。
 次に、講員の性質について注目すると、地域が一体となって老若男女で行われる事例から成人女性のみ、成人男性のみ、あるいは 年配の女性に限定されたケースまで、こちらも多様性に富んでいます。女性だけの講の場合は、十九夜講や二十二夜講のように 安産祈願を主体とした事例があり、このようなケースでは、女性の月待講に対して男性は庚申講を営むという構図もみられます。 こうした現象は、講そのものの多様化とも密接な関係にあるものと考えられます。
 講以外では、個人が家庭において実施する事例がみられ、茨城県伊奈町(現つくばみらい市)や同笠間市、奈良県宇陀市、同 山添村などで記録されています。
《実施時期》
 月齢の動きは、旧暦(太陰太陽暦)とほぼ対応していますので、二十三夜待の基本は1872(明治5)年まで採用された古い暦 により、毎月二十三日夜の開催となっていました。しかし、どの月も一様に行われたわけではなく、これらのうち一回または数回 程度は特別な行事と位置付けられていたようです。ただ、暮らしや社会が大きく変化するようになると、毎月の開催が困難となり、 やがては特定の月だけ実施されるようになりました。その典型的な事例が正・5・9・11各月の3回から4回というパターンで、 さらには正月のみ、9月のみ、11月のみなどへと簡略化される傾向が認められます。このように、奇数月の開催が主流化した 背景には、陰陽五行思想による陽の数(奇数)を重んじる考えが影響しており、近世に体系化された五節供のあり方にも通じて います。『日本歳時記』〔文0165〕の巻之二・正月之下には、「此月五月九月には世俗かならず日待・月待とて日月の祭をする 事あり」とみえますが、具体的な習俗については記されていません。
 ところで、11月の二十三夜待については、「霜月三夜」と称して特別な伝承を伴う地域があります。それは、タイシ講との かかわりです。旧暦11月23日といえば冬至に近く、新嘗の物忌みとも無関係ではありません。東日本や北日本では、タイシ講 との習合として二十三夜待を行っていた事例が多くみられます。
《実施場所》
 二十三夜待の場所は、個人(家)か講か、そして屋内の行事の有無、祈願の内容などによって異なりますが、本来の「月の出を 待つ」という行為を考えれば、東から南の空を見渡せる場所が最適でしょう。しかし、実際には月が上るまでの間待機する場が 必要となり、講組織にあっては講員の家を輪番でヤドとする方式が一般的でした。これは、他の講でも同じことが言えます。 したがって、ヤドの周辺から月が望めない地区においては、わざわざ場所を変えて月を拝したというケースもあったようです。
 関東地方などでは、二十三夜待を行うための専用の場を設けていたことが知られています。多くは高台などに建立された堂宇で、 月待堂とか三夜堂、二十三夜堂などと呼ばれます。勢至菩薩を祀り、太鼓や鉦などを備えていた状況から察すると、おそらくは 月待の念仏を営んでいたものと考えられます。
 近年にいたっては、輪番制による行事はほとんどみられなくなり、わずかに公民館や集会所などで寄合いがもたれる程度に なってしまいました。もちろん月の出を待つこともありません。しかし、それでもなお、人びとは三夜さまへの信仰を通して地域の 絆を深めようと努力しているのです。
《行事の構成》
 各地の聞き取り調査から認められる行事の構成は、以下のキーワードによって整理することができます。
@場の設定:単に人が集まるだけではなく、月待のための祭壇を設える場合がよくあります。その際に重要な役割を果たすのが 掛軸です。内容は仏画、神画、二十三夜や月読命などの文字という具合にさまざまです。仏画の場合は、観音や菩薩の立姿を 描いたものが一般的で、足元に半月状から三日月状の月を伴う構図が一つの特徴となっています。また、供えものとして線香、酒、 花、餅、赤飯、団子などが記録されています。中には針と糸を供えるという特異な事例(千葉県野田市)もあります。
A念仏:関東では茨城、栃木、埼玉、千葉の各県で記録があり、長野県や福島県でも行われていました。多くは月の出を待つ 間の取り組みであり、念仏講などと深いかかわりがみられます。なお、念仏といっても内容的に和讃を唱えるケースが少なく ないようです。
B祈願の内容:講中として共通の祈願を行う事例は少なく、女人講による安産祈願なども含めて集団および個別の願掛けとして さまざまな目的が設定されていました。具体例として、古典的な二世安楽から家内安全、商売繁盛、病気平癒、豊作・豊漁など、 実に多岐にわたった展開がみられます。

   

[左] 二十三夜の仏画/[中]勢至菩薩立像(埼玉県)/ [右] 二十三夜の掛軸

【三夜待の習俗】
 個人や各家の実施事例は、茨城県と奈良県で見られます。
* 茨城県つくばみらい市:旧暦9月23日は、氏神祭りと称して地区内の二十三夜塔に赤飯を供えて参拝しました。
* 茨城県筑西市:三夜さまの日には、神社(氏神)の先にある二十三夜塔を家族で参拝し「二十三夜と祈念して、月々この 神念ずれば改心成仏疑いなし」と唱えました。
* 茨城県笠間市:旧暦23日は二十三夜の月待で、この夜はご馳走を作って供えものをし、月の出を待って拝みました。
* 奈良県奈良市:三夜さんは厄年の男の行事で、この日は兄弟や親戚などを家に招き、厄払いとして遅い月の出を拝みます。
* 奈良県宇陀市:旧暦1月23日夜は二十三夜さんの餅を供え、月の出を拝します。なお、42歳と61歳を迎えた年にはその祝いを 兼ねた月待となり、親戚などと一緒に月を拝します。
* 奈良県山添村:旧暦1月23日の夜は、三夜さんの重ね餅を盆に載せて縁側に供え、皆でご馳走を食べながら月の出を拝します。
 茨城県では、二十三夜待において氏神様を祀る習俗がみられ、講中による月待とは一線を画した信仰となっていますが、全県的に 分布するかどうかは不明です。奈良県の場合は、三夜待が厄払いの行事として定着していたことを窺わせる内容であり、全国的にも 興味深い慣習といえます。
 次に、講中による事例ではより多彩な習俗をみることができます。このうち最も一般的と思われるのは、茶飲みあるいは飲食 しながら月の出を待つというもので、この間に掛軸を拝したり、千葉県では歌や踊りを伴う場合もありました。その他、各地の 特徴的な事例を挙げてみましょう。
* 青森県鰺ヶ沢町:旧暦8月23日または9月23日の行事で、この夜はおはぎを作って縁側に供え、月の出を待ちました。
* 茨城県岩井市:旧暦11月23日夜の男女の行事で、混ぜご飯を食べながら月の出を待ち、全員で拝して朝になって解散しました。
* 茨城県筑西市:旧暦の毎月23日夜は男衆が広場に集まり、二十三夜塔に線香を供えて酒盛りをしました。
* 埼玉県飯能市:旧暦1月23日と8月23日に二十三夜堂で行う男女の行事で、男はお神酒を女は団子を作って供え、月の出を拝し ました
* 埼玉県寄居町:旧暦11月22日から23日に二十三夜堂で行われた男女の行事で、22日夜は堂内で女性が念仏を唱えながら、外では 男女が月の出を待ちました。そして翌23日は勢至菩薩を祀りました。
* 千葉県野田市:旧暦の毎月23日に行われた女性の講で、念仏をしながら月の出を待ち、いよいよ二十三夜の月が上ると月に針を かざし、その光で針に糸を通しました。
* 千葉県栄町:30年ほど前まで年に数回旧暦23日に行われていた行事で、夜遅く月が上ると全員で「南無得大士勢至菩薩」と三回 唱え、その後室内で煮豆(小豆やササゲなど)を食べて歓談しました。
* 山梨県大月市:オサンヤサマは輪番制で行われる年配女性の講で、掛軸を拝し小豆粥を食しました。
* 長野県小谷村:旧暦の毎月23日に輪番制で男女が参加して行われ、戸を開けて月の出を待ち、上ってくると床に手をついて 拝みました。
* 長崎県平戸市:旧暦の正・5・9月の各23日に近所の4〜5軒で行われ、月の出を拝して豊漁や豊作を祈願しました。
 なお、二十三夜待に関する伝承がいくつか記録されています。
○夜の12時前に別れる(散会する)と地震が起きる(茨城県つくばみらい市)
○三夜さまは、お金の貯まる神様である(茨城県竜ヶ崎市)
○願い事が叶わぬ時は、二十三夜の月を待て(千葉県館山市)
 つくばみらい市の事例は、月待が形骸化して次第に月の出を待てなくなった実態をよく示しており、その戒めとして伝承された ものと推察されます。

 

[左] 寄居町の二十三夜堂 / [右] 小川町の勢至堂内部

月待の社寺札(茨城県、長崎県)

【三体月の伝承】
 二十三夜待行事では、その夜の月が三体になって上るという「三体月」の伝承が和歌山県の熊野地方を中心に伝えられて います。近年、これが単なる言い伝えではなく、実際に発生しうる現象であることが分かってきました。二十六夜待においても 類似の伝承があり、その体験記〔文0160〕に詳細な報告があります。
 熊野の三体月は、月に供えものをしたり、念仏を唱えたり、またある地区では山に登って「三体月」を拝んだものであると いうことすが、ここに紹介されている事例は、6例中5例が霜月23日の月が対象です〔『熊野信仰の起源』文0057〕。また、 月の出そのものを特別な現象とみた事例を含めて、各地の伝承をみてみましょう。
* 青森県南津軽地方:正月は七福神、5月はアヤメ、9月は稲を積んだ形とみる〔『二十三夜の月を訪ねて』文0158〕
* 宮城県加美郡:3本のロウソクを灯した形とみる〔『東北の歳時習俗』文0142〕
* 茨城県潮来市:月が上る数分間は全体がキラキラと輝き、金の衣をまとったように見える
* 千葉県香取郡:御幣3本の形、あるいは帆をかけた船の形とみる
* 奈良県北葛城郡:輪を被ったように三つとみる〔『大和に残る星の古名(下)文0265〕
 このほか、熊野と同様に三体の月とみるところが埼玉県や静岡県、熊本県などにあり、二十六夜待の類似伝承も含めて信憑性の 高い証言が意外に多くのこされているという実態を無視することはできないでしょう。各地で何らかの事象が発生し、多くの人に 目撃されていたのです。
 実は、以前よりこれを自然現象と捉えて科学的に解明しようとする動きがありました。しかし、現象自体の予測が困難なうえに 発生する確率がたいへん低いという事情も重なって、明確な証拠は長い間把握されることがありませんでした。ところが、1992 (平成4)年になり、三体月伝承の本拠地ともいえる熊野地方において、ようやくその現象が写真撮影されたのです。発生したのは 二十三夜の月ではなく、六日月で偶然に確認されたものですが、「最初は完全に三体に見えた」という観察者の話を紹介しています 〔『熊野地方の伝説「三体月」の観察』文0058〕。この現象の正体は一種の蜃気楼と考えられますが、かなり複雑な条件のもとで 発生していたことが分かりました。
 いずれにしても、こうした神秘なる現象は、まさに「神と共に夜を明かす」行為を促す信仰の力といえるのではないでしょうか。

二十二夜待  2019/11/25

【二十二夜の信仰】
 二十二夜待も月待信仰の一形態とされ、一般的には旧暦二十二日の月を祭る行事と考えられています。その分布域は、現在のところ 関東地方(群馬県と埼玉県の一部)を中心に、甲信越地方(長野県と山梨県の一部および新潟県の佐渡島)、東海地方(岐阜県と愛知県 の一部)などにみられます。このうち、関東地方では伝承や行事にかかわる聞き取りから十九夜待と同じように産神信仰や念仏などとの 習合があったものと推察されるものの、行事自体が早くに衰退した地域が多く、現状では単なる寄り合いと化しているのが実態です。
 一方、長野県や愛知県では、現在も行事が存続(一部は復活)している地域があり、産神信仰と月の出を待つ習俗が一体となった往時の 名残を見出すことができます。この夜の月待は「オタチマチ」と称し、立ったまま月の出を拝する習わしでしたが、残念ながら今は ほとんど行われていません。また、佐渡島でも「二十二夜待・・・・二夜さん。(中略)女人講が多い。如意輪観音が多い。安産・子育てを 祈るという」と報告されています〔『佐渡の石仏』文0332〕。
 七夜待では、二十二夜待の主尊は如意輪観音であり、その種子は「キリーク」です。これは、各地の月待塔にもよく表われていて、 関東では多くの石塔で如意輪観音坐像(二臂あるいは六臂)が彫られていますが、甲信越や東海地方の場合は文字のみの塔が多く、佐渡 ではキリークの他に「サ」の種子(聖観音)を刻む塔も少なくありません〔文0332〕。これは、信仰の形態が決して一様ではないことを 示唆したものと思われます。
 いずれにしても、女性だけで講を組織し、安産や子育てなどを祈願の対象とした観音信仰という点では、ほぼ共通した土壌にあると 言えるかもしれません。

 

二十二夜と十九夜信仰の分布
※[左] 関東地方の信仰圏 / [右] 甲信・東海地方の信仰圏

【各地の行事】
 ここでは、聞き取り調査や現地取材の結果から各地の二十二夜待について整理してみたいと思います。
《埼玉県》
* 児玉町原(現本庄市):かつて、旧暦の毎月22日に当番となった宿を廻る年配女性の講でした。古いしきたりでは、「二夜さま」 と称する掛軸をかけ、炒り豆の粉で作りものをして食したといわれます。また、近くで犬や猫が死ぬと、三本辻に線香を供えて供養 しました。
* 本庄市東富田:毎月22日夜に行われた女性だけの行事で、二夜さまは安産の神さまと伝承されています。
* 寄居町小園:毎月22日の女人講で、当番の家を宿として順に廻ります。「二夜さま」の掛軸を拝し、会食をとった後に解散して いました。
《群馬県》
* 安中市野殿:毎年2月22日に組毎に実施されていました。輪番制による女人講で、当日は二夜さまの石塔に参拝して安産を祈願し、 いなり寿司などを供えます。その後、当番の家で掛軸を拝し、会食を共にしました。妊婦の場合は掛軸に御産銭を供え、短くなった ロウソクを持ち帰って点すと安産になるという伝承があります。
* 玉村町川井:秋から春にかけての毎月22日に、午後6時頃より11時頃まで行われていました。この地区には三つのクルワ(班) があり、それぞれ輪番制による女人講となっています。当日は、観音像が描かれた掛軸を拝し、鉦を叩きながら念仏を唱和しました。 その後、豆を炒って食べる習わしがあり、1班は大豆のみ、2班は大豆と黒砂糖、3班は大豆と餅あられという決まりがあったようです。

 

関東地方の二十二夜信仰遺物
※[左] 秩父市の二十二夜待塔と薬師堂 / [右] 安中市の二十二夜塔

《長野県》
* 伊那市高遠町:島畑地区から天女橋へと抜ける岩場に、二十二夜さまが祀られています。地元の今井幸司氏がまとめた資料(『信州・ 高遠島畑二十二夜さま』)では、高遠町霜町の和泉屋伊藤喜門が夢の神託によって勧請したものとされ、その後島畑の人びとの要望に より地区全体で守護されるようになりました。二夜さまの行事は、現在も旧暦7月22日の夕方から夜にかけて行われ、午後6時より 真言宗僧侶による読経が終わると多くの人びとが参拝に訪れます。二夜堂の隣に設けられた祭壇の最上段には金属製の手鏡が飾られ、 その下にさまざまな供物があり、ロウソク立てには多くのロウソクが点されます。人びとは、ここで願掛けを行い、それが叶うと天女橋で 「オタチマチ」をして月蔵山から上る二十二夜の月を拝したということです。聞き取りでは「祭壇で点された短いロウソクを持ち帰ると 安産になる」と言われており、願掛けの内容は安産祈願が本来の目的であったと考えられます。参拝者には半紙で包んだ小さな餅が 配られるようですが、近年はオタチマチをする姿はほとんど見られないとのことでした。
* 伊那市坂下:この地区の二十二夜尊祭として、毎年旧暦7月22日に山寺にある常圓寺(曹洞宗)の境内の一角(丸山公園)で 行われています。この場所には、かつて地元商店街で菓子店を営む中村庄助氏が1914(大正3)年に寄進した三基の石造物があり、その 一つが二十二夜塔です。当日は、これらの石塔を囲むように祭壇が設けられ、たくさんのロウソクが点されます。夕方になると参拝者の 姿が目立つようになり、人びとは持参した新しいロウソクに火を移して供え、代わりに短くなったロウソクを持ち帰ります。この ロウソクは短ければ短いほどお産が軽く済むという伝承があり、願掛けはやはり安産祈願が主な目的とみられます。その後も三々五々と 訪れる参拝者のほとんどが女性でした。かつては、二十二夜の月の出を立ったまま待つ「オタチマチ」をする人が多かったと聞きましたが、 この習わしは早くに廃れてしまったようです。現在は、午後7時頃から常圓寺住職らによる法要と講話があって行事は終了となり、 地域の活性化を担った行事という性格がよく表れています。

 

信州伊那地方の二十二夜尊祭
※[左] 天女橋から望む月蔵山 / [右] 常圓寺でロウソクを灯す参拝者

《愛知県》
* 名古屋市守山区:志段味地区には、現在2基の二十二夜塔があり、以前はそれぞれに二十二夜さまの行事が行われていました。 このうち、中志段味では8月22日の夕方から諏訪神社境内にある二十二夜塔の前に祭壇を設け、米、塩、水、果物などを供えます。 二十二夜と描かれた大きな提灯も飾られ、夕方から町内の人びと(特に子どもたち)が参拝に訪れます。かつては旧暦7月22日の 行事としてオタチマチがあり、二十二夜の月の出を待つ習俗もありましたが、今はすっかり廃れています。

 

名古屋市の二夜さま
※[左] 中志段味の二十二夜塔 / [右] 上志段味の勝手社と二十二夜塔

【月待と女人講】
 二十二夜の信仰が女人講によって営まれてきたことは、各地の事例からも明らかです。その主目的が安産や子育てに関する祈願で あることを考えれば当然と言えますが、こうした習俗は十九夜講にもみられます。ただし、こちらは本来が十九夜念仏を基盤とする 信仰であり、後に子安信仰とも習合するなど、同じ如意輪観音を本尊とする講でありながら、より女性特有の習俗に特化した実態が みられます。
 では、二十二夜の場合はどうでしょうか。埼玉県や群馬県の伝承では、月待を行ったという明確な事例は確認されていませんが、 長野県や愛知県での事例からは「二夜さま」への祈願(願掛け)と月待がいわばセットになって実施されていたことが分かります。 おそらく、関東地方においてもかつては二十二夜の月待が行われていたことでしょう。
 信仰の重要な証となる月待塔を年代別に整理すると、埼玉県や群馬県では18世紀初頭に造立が始まり、18世紀中頃から19世紀 中頃にかけてピークを迎えます。その一方で、甲信越地方や愛知県では18世紀末以降の造塔ですから、二十二夜の信仰は関東から 周辺の地域へと拡散した可能性が高いことを示しています。したがって、歴史の古い関東で廃れてしまった習俗が、伊那市や名古屋市 などの縁辺域では近年まで伝承されてきたものと推測されます。
 なお、関東地方では、二十三夜の行事を女性だけの講としている事例が意外に多く認められます。しかも、そのほとんどのケースで 念仏を唱え、二十三夜の月の出を拝していました。一部には小豆粥や煮豆を食すなどの習俗もみられ、埼玉県児玉町や群馬県玉村町の ような豆に関する食事とのつながりを想起させてくれます。こうしてみると、二十二夜の信仰は女人講でありながら、十九夜講よりは むしろ二十三夜講に近い存在であると言えるでしょう。

二十六夜待  2017/11/25

二十六夜の月と木星
※剣先星と呼ばれるめずらしい現象

【六夜さま】
 月待行事の一つとされ、二十六夜(実際には夜明け前)の月の出を拝することを目的とします。一般には、正月と7月の二十六夜が 対象ですが、地域によっては他の月にも行われていました。ただし、二十三夜待のように全国的な行事ではなく、やや偏った分布を 示しています。関東地方では、近世の江戸で隆盛をきわめた一時期があり、江戸の六夜待としてよく知られています。それらが影響して いるかどうかは不明ですが、近隣地域でもさかんに行われた記録があります。二十六夜待は、二十三夜待よりもさらに遅い月の出を 待つ必要がありますが、月齢二十六前後の月といいますと、その形は三日月のように細く、しかも東天に姿をみせるのは明け方に 近い時間です。各地の二十六夜待に関する伝承を以下に列記します。
* 秋田県仁賀保町:ロクヤマヂあるいはゴリヤクサマと呼ばれます。神社にて酒盛りをしながら月の出を待ち、月が昇ると豊作を 祈願しました。また、ところによっては番楽を奏し、月の出を待ちました。二十六夜の月に出は、船の形に見えたり、2本の ロウソクにも見えるといわれます(横山氏の調査)。
* 山形県酒田市(飛島):ロクヤの月さまといって、旧暦7月26日に村中でご馳走(餅、おはぎなど)を供え、月が出るといっしょに ご馳走をいただきました。特に願かけはしませんが、二十六夜の月の出は、年によって盃の二段重ねになったり、2本のロウソクに なったりします(横山氏の調査)。
* 東京都八丈島:ロクヤさまといって、旧暦7月26日の月の出を拝みました。このときの月は、船の形やロウソクの形に見えるという 伝承があります。
* 神奈川県横須賀市:人々は、毎年秋になると二十六夜さまを拝みに観音さまへ出かけました。月は鹿野山と竹岡の中間辺りから 昇ってきますが、船の真ん中に船頭が乗っている姿に見えたといわれています。


二十六夜の月の出に関する伝承

 このほかにも、「月の出が三体に見える」とか「阿弥陀三尊の姿を拝むことができる」などの伝承が各地にあります。紀州の 熊野地方などでは、二十三夜の三体月としてよく知られており、元来が二十三夜待における信仰がその本筋ではなかったかと思われます。 八丈島の場合は、一度中断された行事を数年前に復活させ、地域の新たな行事としてとり組まれている事例です。行事の内容は かなりの変化がみられるものの、現代社会においても神秘な月を拝する行事への関心は高いといえるでしょう。

【近世のロクヤ待】
 江戸の二十六夜待は、前期と後期でその様相を異にします。前半期のそれは、信心深い庶民を中心とした本来の月待行事だった ようですが、後半期になると一種の流行と化した側面がみられます〔『二十六夜待』文0161〕。このころの六夜待は、湯島天神などの 高台や芝高輪、品川、川崎などの海岸あたりを中心に行われ、文化・文政の時代には万来の見物客でにぎわったことが多くの文献で 紹介されています。
 こうした月待の名所とされる場所が現在どうなっているのか、2017年に港区と文京区を訪ねました。 まず、足を運んだのは 芝高輪の海辺です。この辺り(現港区三田三丁目・四丁目付近)には「三田台」と呼ばれる台地が連なり、かつては品川沖の海を眺望 できる景勝地で、「月の岬」という別称があったほどです。この台地と北西側の低地は「魚籃坂」や「幽霊坂」等の坂道で結ばれ、一方の 南東側は亀塚公園付近が急な崖となる地形を示しています。特に史跡「亀塚」付近のピークからは、崖線の地形や植生などを詳しく観察する ことができ、往時の面影を偲ぶことができる場所となっています。
 また、「湯島の白梅」や「合格祈願」で有名な湯島天神(湯島天満宮)は、本郷方面から不忍の池へと下る地形の台地末端に位置しています。 その崖線は本殿の東側一帯を囲い、特に市街地との落差が大きい箇所は、「天神石坂(男坂)」と呼ばれる石段です。おそらく、かつては 境内末端にあたる崖線の上からロクヤ待をしていたものと考えられます。

[左]月の岬に遺された東崖線/[右]湯島天神の男坂から東方の眺望

 ところが、当時の状況を振り返ると、その実態は月待信仰の名を借りた遊興娯楽の行事と化していた様子が窺えます。 はたして、当時の江戸玩具に「御来迎」というものがあり、これは月待と称して夜遊びを楽しんだ遊客たちが、月待に参加した証と して買い求めたとされています。このような風俗の乱れが顕在化すると、幕府も取り締まりを行うようになり、江戸の一大イベントと 化した六夜待は天保期に入って急速に廃れていきました。江戸周辺では、茨城県や千葉県、神奈川県、山梨県、静岡県の伊豆半島、 東京都の伊豆諸島などで行われましたが、分布は局地的です。沿岸域ばかりでなく、山間部でも熱心に信仰されたところがあり、 この場合は周囲が見通せる高い場所へ登って月を拝することになります。山梨県南部や伊豆半島にある「二十六夜山」は、その名残を とどめた史跡として貴重な存在です。
 それでは、二十六夜待がいつごろから行われたものかというと、残念ながらその起源についてはよくわかっていません。いわゆる 中世の月待板碑のなかには、二十三夜待供養を目的としたものが多くみられますが、二十六夜待を具体的に示す史料はほとんどみられない ようです。近世以降に出現する二十六夜塔をみても、年代的には享保年間以降に多く造立された傾向を示しています。また、月待信仰では それぞれの月待を行う日によって本尊が決められており、たとえば二十三夜待であれば勢至菩薩を信仰することになります。二十六夜待の 本尊は愛染明王とされ、「愛」と「藍」が音で通ずるところから染物業者の守り神としても広く信仰を集めた経緯があります。したがって、 二十六夜塔のなかには、こうした染色あるいは養蚕関係の人たちが造立したものも少なくなく、本来の二十六夜待供養を目的とした石塔 とは区別して扱う必要があるでしょう。

 

江戸玩具「御来迎」
近世の伝統を受け継いで現在も作られている江戸玩具の一つ
四角い筒の下にある棒を押し上げると光背が開き仏像が現れる

【二十六夜の御詠歌】
 二十六夜待においては、月の出を待つ間に御詠歌などが詠われていました。岩手県盛岡市で、大正時代に二十六夜待を体験した 記事にも、東の空に向かって御詠歌を詠うようすが紹介されています〔『二十六夜尊の思い出』文0160〕。また、神奈川県三浦半島の 二十六夜待は戦前まで続いていたようで、横山好廣氏の調査によると、次のような御詠歌を歌いながら月の出を待っていたことが 分かります。

♪帰命頂礼タカナワの 二十六夜の御来光
拝もとすれども雲かかり 雲に邪険はなけれども 我が身が邪険で拝まれぬ
また来るロクヤを 体を清めて 拝みましょう(参りましょう)
ナムアミダーブーエー

 この歌は、武相流の口伝によるものとされ、三浦半島には数人の伝承者がいるといわれます。御詠歌は、西日本でも記録されて いますが、特に二十六夜だけのものではなく、念仏などを含めて二十三夜待や十九夜待などでも類似の歌があります。

オムツラサマ  2017/11/25

【利根川流域のオムツラサマ】
 オムツラサマとの出会いは、1994(平成6)年に始まります。その年の2月に茨城県つくば市栗原地区を歩いた折、当時 90歳になる女性から次のような話を聞きました。この辺りでは、かつて子どもが帯解を迎える前年、つまり6歳になったときに これを祝う風習があり、オムヅラサマと呼んでいたというのです。具体的には餅をついて丸餅を作り、そのうちの6個を縁側など において月に供えました。さらに、近所にも餅を配って歩いたといわれます。こうした祝いは、男女の区別なく行っていたそうですが、 かなり以前に廃れてしまった行事とみられます。
 これに関連して『日本星座方言資料』〔文0167〕では、茨城県新治郡某村から同県鹿島郡沼前村(現東茨城郡茨城町)に嫁いだ人の 話としてオムヅラサマを紹介しています。それは、子どもの虫封じのため毎月6日にオムヅラサマ(おうし座のプレアデス星団)に 団子6個を供えるというものでした。二つの事例を比較すると、行事の目的やつくりもの、それを供える対象などで相違がみられますが、 より古い記録である『日本星座方言資料』の記述が本来の行事の姿であったとみるべきでしょう。つくば市の事例ではオムヅラサマの 原意が失われ、したがって供えものの対象がプレアデス星団から月へと変化した可能性があります。いずれにしても、この当時は オムヅラサマという星名が極めて地域性の強い伝承ではないかとの認識をもっていました。
 ところが、1996年の調査で埼玉県幸手市と茨城県猿島郡五霞町において同時にオムツラサマを記録し、幸手市にはその転訛形と みられるオマツルサマという呼称も存在することが判明したのです。その後もこの星名の分布は拡大を続け、現在は利根川流域の群馬、 栃木、埼玉、茨城、千葉の5県に及んでいます。最新の記録は2017年9月の栃木県下都賀郡野木町で、埼玉・茨城両県での採集 から実に21年を経て、今なお受け継がれてきた事実に驚きを隠せません。ただ、残念なことに、いずれの地域においてもオムツラサマ にまつわる行事の伝承はなく、この件についての進展はみられない状況が続いてきました。

【星の神と餅】
 オムツラの「むつら」は「六連」を意味し、プレアデス星団の代表的な星名である六連星(むつらぼし)そのものです。東日本から 北日本にかけて広く分布していますが、「お(御)」を冠した呼び方が広範囲にみられるのは利根川流域だけの特色でしょう。おそらく、 茨城県に遺されたオムヅラサマの行事と深いかかわりがあるのではないかということは容易に推察できます。こうして、新たな情報を探す うちに一つの重要な手掛かりを得ることができました。
 それは、茨城県三和町(現古河市)のある農家に遺された文書の記述です。『当家嘉例式』と呼ばれるこの文書は、江戸時代末期の 農家に伝承された年中行事を詳細に記しており、年末のもちつきで作る餅の一つに「六星(小餅六つ)」を掲げ、さらに六星を「おむつらの事」 と註しています〔『三和町史民俗編』文0279〕。プレアデス星団の六星に六個の餅を供える行いは、先の『日本星座方言資料』に紹介された 行事と共通するもので、この習俗がオムツラサマの星名と密接な関係にあることを改めて示唆する結果となったわけです。
 さて、『当家嘉例式』の記述によれば、屋敷内に祀る神々に対する供え餅の種類が記されていますので、「六星」もそうした神の一つで あることが分かります。少なくとも、江戸時代末期における星の神(この場合はプレアデス星団)を対象とした信仰の存在がより明確化 されたことになります。それでは、六星に供える餅とは一体どのような餅だったのでしょうか。以下は『古河風土記』〔文0281〕と 『ミカヅキサマを祀る習俗』〔文0280〕の報告事例を基に現地調査の記録を加えて、その特徴について整理してみました。

(1)オムツラサマの餅は単独でなく、他の餅類と一緒に供えられる(大きな供え餅あるいは三日月形の餅)
(2)円形の小さな供え餅6個の場合と二段重ねで6組として供える場合がある
(3)一緒に供える餅の種類や並べ方などは家ごとに異なり、特定の型がみられない
(4)星の神とはいえ、正月の餅以外には日常的な信仰の実態がほとんど伝承されていない

 ここで、現地調査における聞き取りの記録から具体的な供え方の事例を見てみましょう。

[A]茨城県古河市恩名(2012年10月調査)
 大神宮さまなど三神を祀る神棚の下に座卓を置き、その上に半紙を4枚並べます。そして、右側3枚に直径約20aの大きな重ね餅を 一組ずつ、左側の1枚には直径約5aの小さな供え餅を6個縦に供えます。これらはオムツラサマの餅として代々受け継がれてきました。
[B]栃木県下野市上坪山(2014年10月調査)
 年末に餅を搗き、他の供え餅とともに三日月形の餅1個と直径約3aの小さな丸餅7個を作り、これらを半紙に並べて床の間へ供え、新年を 迎えます。なお、丸餅は6個がオムツラサマで残りの1個は太陽を表しています。

 これらは、いずれも調査時点において行事が存続していたものの、実際に供えられた状況は把握していません。また、オムツラサマの星名も 確認できませんでした。星の神に対する信仰が希薄になるなかで、その唯一の証である餅の存在感がより大きくなってきたことを実感する ばかりです。


オムツラサマの餅の図(実物は白餅)

【六星神社】
 プレアデス星団を星の神として祀る信仰は、全国的にもほとんど例がありません。そればかりでなく、正月の供え餅の習俗からは三日月信仰 との接点も垣間見ることができます。特に栃木県下野市の事例は、日月の餅と星神の餅を一体化した形態を示しており、この地域一帯に両者を 結びつける鍵が隠されているのかもしれません。利根川流域の三日月信仰については、茨城・栃木両県の一部で特に盛んな地域があり、いくつかの 三日月神社や三日月不動尊が知られています。 これらは、それぞれの地域において信仰の中心的な役割を担ってきたわけですが、現在はその 名残を留めているに過ぎません。一方、オムツラサマには僅かな習俗の一端が認められるだけで、具体的な信仰の実態は依然として謎のまま 残されてしまいました。
 何か有用な手掛かりはないものかと、新しい情報を探し求めるうちにようやくたどり着いたのは、茨城県の小貝川下流域で見つけた小さな社 でした。それは、驚くべきことに「六星神社」だったのです。場所は、つくばみらい市(旧伊奈町)の山王新田と呼ばれる地区で、民家が散在する 田園地帯の日枝神社境内にあります。覆い屋の中に古い社殿があり「六星大明神」という神が祀られていました。近くの農家の人に話を伺ったところ、 神社の由来や行事等についてはよく分からず、昔から疣取りの神様として信仰されてきたとのこと。関係する古文書類も存在しないようで、仮に 遺っていたとしても、日枝神社社務所(現公民館)の幾度かの火災によって焼失してしまったのではないかということでした。念のため、オムツラサマ についても確認しましたが、聞いたことがないという返事でした。
 それでも何とか具体的な手掛かりを得たいと、さらに聞き取りを行ったところ、一つの有力な情報を入手しました。それは、かつて毎年交代で務めた 神社の世話役の仕事の一つとして、小正月に六個の餅を供えていたというのです。これが、現在も伝承されているオムツラサマの餅に連なることは ほぼ間違いないものと思われます。したがって、旧三和町の文書に記された星の神の実態は、おそらく「六星大明神」のことを指すのではないかと 推測されます。しかし、現段階ではまだオムツラサマの信仰にかかわる全体像は把握できていません。因みに六星神社の例祭は9月6日ですが、 どのような神事が行われてきたのか不明です。今後はこの神社の来歴や古い時代の信仰の実態に関する事実を掘り起こし、プレアデス星団が星の神 として祀られた経緯を明らかにしていきたいと考えています。

 

 

[左]六星神社(正面)/[右]祭神「六星大明神」

三日月信仰  2018/11/21

 月は太陽とともに古い時代から人びとの暮らしと深いかかわりをもつ天体でした。 とりわけ、三日月(この場合は旧暦三日の月)に対する関心は高く、信仰や伝承ばかりでなく文学や芸術などにおいても特別な対象として 扱われてきました。
 現在、そのような信仰の名残を示すものとして、三日月神社や三日月塔、三日月餅などが確認されています。いずれも長い間人 びとの暮らしの中に息衝き、継承されてきた文化ですが、近年はその担い手を失い、存続が危ういと懸念される状況となっています。 ここでは、主に関東地方を中心とした三日月をめぐる信仰の記録を紹介します。

【三日月の習俗】
 三日月をめぐっては、季節による見え方(傾き)の違いに注目した俗信が広く流布していたことが知られています。その一部を社会的な 事象と関連付け、真面目に語られてきた経緯からも、三日月に秘められた不思議な力を感じずにはいられません。三日月の習俗には、そうした 力にすがりたいという素朴な願いが託されているのではないかと思えるのです。そこで、関東地方における伝承について、茨城県、栃木県、 埼玉県の事例を整理してみました。

《 茨城県 》
◇筑西市横塚(2012.03.03調査)
 庭の屋敷神の隣りに石があり、昔から「ミカヅキサマ」といって祀っている。毎年9月に新しい注連縄を作ってミカヅキサマにかけ、そこに オコワ(赤飯)を供えた。
◇古河市恩名(2012.10.06調査)
 東山田の三日月神社は、1月3日と3月3日が縁日で、昔は針供養の日に女性たちが豆腐を供えていた。
◇常陸大宮市鷲子(2018.09.06調査)
 旧暦の毎月3日に餅を搗き、大小の丸餅各1個を角盆に載せて井戸端に置く。そして三日月に手を合わせ、豊作を祈願した。

《 栃木県 》
◇栃木市川原田町(2012.05.01調査)
 毎年1月3日と旧暦3月3日に三日月神社へ参拝し、豆腐を供えている。神社にある石で手足にできた疣をこすると治ると言われていた。
◇鹿沼市上殿町(2012.10.20調査)
 以前は、旧暦1月3日にミカヅキサマ(三日月神社)へ家族でお参りに行った。女の人たちは、特製の大きな豆腐に針をさし、それを 神社に供えて針供養を行った。

《 埼玉県 》
◇大里郡寄居町小園(1993.05.01調査)
 かつて「メンゴンサイ」とよばれる三日月を拝する行事があった。これは、月ごとの三日月の晩に灯明(ロウソク)を灯し、野菜などの 供えものをして月を拝んだもので、地元の人たちは「カタッパジをやる」と称していた。
◇大里郡花園町(現深谷市)下郷(1996.09.17調査)
 旧暦の毎月3日にオミアカリ(燈明)をあげ、ご飯などを供えて三日月を拝んだ。
◇羽生市須影(1997.04.12調査)
 昔は「きょうは三日月さまだから拝むべェ」などと言って月を拝んでいた。

 茨城県や栃木県にはいくつかの三日月神社があり、それぞれの地域における三日月信仰の拠り所として大きな役割を果たしてきたことが よくわかります。参拝の際に豆腐を供えたり、針供養が行われたということは、日常の暮らしと深いかかわりがあったからでしょう。ただし、 常陸大宮市の事例は農耕儀礼的要素が反映された行事とみられます。一方、埼玉県では各家庭での信仰が中心とみられますが、燈明をあげ 供えものをして月を拝するという基本的な習俗は各地で行われていたようです。

【三日月神社】
 三日月神社は、一般的に単独で存在していますが、他の神社内に境内社として祀られている場合もあります。関東地方では、栃木県や 茨城県の一部に集中する傾向がみられ、特異な神社であることに変わりはありません。それらの多くは、元来屋敷神として祀られていた三日月さまが そのご利益に対する関心の高まりによって地域の神社へと生まれ変わり、やがて近在近郷より多くの参拝者を集めるようになったものと 考えられます。その背景として、栃木県内の一部地域の個人宅においては、今もなお屋敷神として祀られているという報告があります 〔『ミカヅキサマを祀る習俗』文0280〕。
 三日月神社の祭神は月読命としているところがほとんどですが、栃木市川原田町のそれは「朏尊」という三日月そのものを 祀っています。また、一部に「三日月不動」と称して不動明王を本尊としたり、月読命と不動明王を併せて祀るケースもみられます。 祈願の対象としては、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、学問成就などの一般的なものから、縁組や安産、金運上昇、さらにはイボ取りに いたるまで実にさまざまです。例祭日も神社によって異なり、年に1、2回程度の場合もあれば、毎月旧暦3日を縁日としているところも あります。

◆ 各地の三日月をめぐる社寺 ◆

調査年 所在地名 称 祭神または本尊備  考
青森県弘前市三日月神社 月夜見尊例祭は7月3日
宮城県仙台市三日月不動尊 不動明王I家の所有で眼病に効く
茨城県古河市三日月神社 例祭は1月3日と3月3日
茨城県つくば市三日月神社 月読命分霊不動明王を本尊とする
栃木県栃木市三日月神社 朏 尊芹澤家一族の所有
栃木県鹿沼市三日月神社 月読命駒場家の氏神
栃木県佐野市A三日月神社 月読命本尊は三日月唐沢不動尊
栃木県佐野市B三日月神社 例祭は1月3日
栃木県壬生町三日月堂 三日月尊天常楽寺本堂内
栃木県小山市三日月神社 月読命西念寺門前の小社
栃木県大田原市三日月不動堂 不動明王宝剣の石塔あり
栃木県真岡市三日月神社 三日月尊神例祭は1月3日と3月3日
栃木県足利市月読三日月神社 三日月塔石塔が御神体
栃木県足利市三日月不動堂 不動明王圓満寺境内
千葉県松戸市三日月神社 三日月大明神境内に石碑
東京都新宿区三日月不動尊 不動明王額の上に三日月をもつ

 

[写真@]三日月神社の祭礼(栃木市)/ [写真A]「朏尊」の扁額(栃木市)

 

[写真B]祈願の絵馬(佐野市)/ [写真C]供えられた豆腐(栃木市)

【三日月塔】
 三日月信仰の名残を留める遺物の一つとして、三日月塔と称される石造物があります。他の供養塔類に比べるとたいへんめずらしい存在 ですが、茨城県や栃木県などで見ることができます。これらの詳しい情報については 《 こちら 》 を参照してください。
 

 

[写真D]三日月塔(茨城県筑西市)/ [写真E]三日月天塔(栃木県佐野市)

【三日月餅】
 これは文字通り三日月の形をした餅であり、一般には正月の供え餅として作られる場合が多いようです。関東地方では、三日月文化圏とも いえる栃木県南部を中心に現在も受け継がれているところがあり、その供え方は地域により変化がみられます。具体的な事例をいくつか紹介すると、

[A] 正月に三日月形の餅を一つ作り、その両側に二段重ねの小さな丸餅を添えて床の間へ供えた(栃木県栃木市)。
[B] 年末に大きなオソナエ餅とともにミカヅキ(三日月の形をした餅)とオテントウサマ(小さな丸餅)を一組を作る.オソナエは元旦に飾るが ミカヅキとオテントウサマは正月三日になってから左に日、右に月の配置で床の間に供えた(栃木県下野市)。
[C] 三日月餅は右側に三日月、その左側に小さな丸餅を配したもので、正月三日の一日だけ供える(茨城県結城郡八千代町)。

など、明らかに三日月を意識した習俗と認められる点がいくつかあります。
 この餅の供え方については、他に12個の小さな丸餅を周囲に配したタイプや事例にあるような日月一対のタイプと12個の丸餅を 組み合わせたタイプなどがあって興味は尽きません。さらに、地域によっては6組の丸餅(オムツラサマ=星の神)を加えた事例報告も あります〔松崎かおり、前出〕。いずれにしても、三日月餅は単独で扱われることがほとんどないとみられ、これは多様な餅文化の一つの 形式を示しているものと考えられます。今のところ三日月信仰と三日月餅の関係はよく分かりませんが、おそらく月そのものの象徴と しての三日月形ではないかと思われます。ただし、栃木県鹿沼市の三日月神社で例大祭(1月3日および旧暦1月3日)のおりに神前へ 供えられる三日月形の餅は、明らかに信仰の対象を表しています。

[写真F]三日月餅の一例 / [写真G]三日月餅とオムツラサマの餅
※いずれも記録の一部を再現したもの

 関東地方以外の事例としては、三重県と奈良県の一部地域で記録があります。これらは、ほとんどが「三日月さん」と呼ばれる三日月形の 餅一つと12個の小さな丸餅の組み合わせによって構成されています。

《 三重県 》
[D] 名張市葛尾
 ここでは、年末に供え餅を作る際にミカヅキの餅とホシの餅(小さな丸餅)をいっしょに作る。用意した丸盆の奥側にミカヅキの餅を置き、 その手前にホシの餅を12個並べ、正月に供え餅とともに神棚へ供えた。これらは、小正月にさげて家族で食べた。
[E] 名張市安部田
 やはり、年末に正月の餅(オソナエ)といっしょに作る。三日月の餅と12個の小餅の組み合わせだが、並べ方は不明である。これらを、 正月三日に月がよく見える屋外へ供えた。
[F] 伊賀市三田
 暮れの餅つきで三日月形の餅を1個だけ作る。これを「オトコの餅」と呼び、他の供え餅とともに床の間に供えたあと、三日を過ぎたら下 げて男だけが食べた。

《 奈良県 》
[G] 山辺郡山添村岩屋
 正月の供え餅の一つとして年末に作る。三日月形の餅は大きさが10〜15a、「ミカヅキサン」と呼ばれ中央にヘソになる小餅を載せる。 これを丸盆の中央から少し奥側に置き、その周りを囲むように12個の小さな丸餅(12ヵ月を表す)を並べる。供えるのは旧暦1月3日の 夜(つまり三日月の宵)で、場所は縁側である。他に「サンヤサンの重ね餅」というのがあり、こちらはミカヅキサンの餅を二つ二段重ねに したもので、旧暦1月23日夜(二十三夜月)にやはり丸盆に載せて縁側に供えた。
[H] 山辺郡山添村毛原
 作る餅の種類や並べ方、供え方は岩屋の事例と同じだが、縁側ではなく他の供え餅とともに神棚へ供えた。
[I] 宇陀市室生下笠間
 ここでは、かつて年末に「ホシモチ」と称して5種類の餅を作っていた。それらは、ミカヅキサン(三日月)、ジュウサンヤサン(十三夜)、 ジュウゴヤサン(十五夜)、ニジュウサンヤサン(二十三夜)、ニジュウロクヤサン(二十六夜)で、このうち三日月の形をしたミカヅキサン だけが今でも作られている。供えるのは月齢に関係なく毎年1月3日で、「お月さまに供える」と言って、お盆などに載せて玄関先へ出して おく。

 以上の伝承では、三日月そのものに供えるケースと神棚に供えるケースがみられますが、本来は[G]の事例のように旧暦の3日に供える 餅であったと考えられます。ただし、[I]の事例にあるホシモチ(5種類の餅)について、以前は「月待」と呼ばれていたとの情報もあり、 他の事例とは少し異なる習俗として捉える必要があるかもしれません。


[図@] 奈良県山添村岩屋の三日月餅
※イメージ図のため実物はすべて白餅となります

オツキヨウカ  2019/05/25

 旧暦の4月8日は「卯月八日」です。かつては、各地でさまざまな行事が行われてきましたが、最近はほとんど見られなく なっています。春の山に分け入ったり、花を立てたり、先祖供養の墓参など、いわゆる灌仏会と花祭りにかかわる習俗が目立 ちます。大阪や京都、兵庫、奈良、滋賀など近畿地方の各府県では、この日「天道花」を立てるところが多くありました。京 都市下京区には天道神社があり、5月(新暦)の天道花神事は古い歴史をもっています。
 天道花は、長い竿の先端に花を付けて主に庭や軒先などに立てるもので、天道(太陽)だけでなく釈迦や月、新仏など地域 によって供える対象は異なります。この花は、もともと神の依代とされ、したがって花を高く立てるのは神や祖霊を迎え入れ るためと言われます〔『花祭りと春山入り』文0282〕。
 ところで、奈良県では多くの地でこれをオツキヨウカと称し、月(地域によって星も加わる)に供えるとしています。この ような習俗は同県と接する三重県西部や京都府南部、大阪府北部でも確認され、さらに広がる可能性があります。それでは、 これまでに記録した行事の内容を整理してみましょう。

《 三重県 》
◎伊賀市島ケ原山菅(2015.03.14調査)
 マダケを伐り出して枝葉を取り除き、長さ4b程の竿を作る。その先端にモチバナ(モチツツジ)の花とシャクナゲの葉を 括り付け、すぐ下に芋ほり籠を下げて庭に立てた。籠の中には5個の草餅を入れたが、これは必ず奇数個を原則とした。なお、 実施日は不明。
◎名張市葛尾(2016.04.09調査)
 新暦5月8日に行っていた。ヤマからモチバナやフジの花を採ってきて、直径約1寸、長さ約3bのマダケの先端に結わい 付けて庭に立てた。

《 奈良県 》
◎宇陀市室生下笠間(2016.04.09調査)
 旧暦4月7日に、ヤマからツツジとフジの花を採ってきて竹の先端に結び付け、夜になると庭に立てた。翌日(8日)には、 早くも竹から花を取り外し、そのまま母屋の屋根に投げ上げた。昔から「オツキヨウカ、花より団子」という言葉があり、毎 年田植え前の行事として行っていた。
◎奈良市下狭川町(2017.03.18調査)
 新暦5月8日に行う行事で、子どものころに見た記憶がある。それによると、ヤマから伐り出した直径8a程の杉の幹の先 端に小さな籠を取り付け、すぐ下にはヤマで採取したモチバナを束ねて取り付けて庭に立てる。こうして、昼も夜もなく数日 間は立てておいた。
◎吉野郡川上村高原(2019.04.08調査)
 かつては旧暦4月7日から8日にかけて行われていたが、近年一軒だけが5月8日に再現している。竿はヨウカザオと呼ば れ、根元の太さが7〜8a、高さ6〜7bの杉の若木を利用する。竿は先端部分だけ葉を残して枝を取り払い皮を剥く。これ は毎年新しく用意した。竿の先端にはヤマから採取したツツジ、ヤマブキ、シャガの花と庭に咲いたボタンなどを括り付け、 庭に立てる。子どもたちは、「花より団子・・・・・・」などと唱えた。また、オツキヨウカにはヒウチモチを作って氏神様や家の 神様などに供えた。このモチは火打石の形をした蓬団子のことで、高原地区に昔から伝わる作りものである。7日にたてた竿 は8日の夕方に取り外し、花を処分して物干竿などに利用された。

《 京都府 》
◎相楽郡南山城村南大河原(2017.03.17調査)
 新暦5月8日に行う行事で、10年ほど前までやっていた。物干し竿くらいの長い竹竿の先端に高さ約30aの目籠を取り付け、 その下にヤマで咲くモチバナを束ねて縛り付ける。目籠には何も入れずに一晩立てておくと、その中に三本足の蛙が入ると言 い伝えられている。

《 大阪府 》
◎豊能郡豊能町吉川(2019.03.25調査)
 今から70年位前までやっていたが、その後は見たことがない。ヨウカビと言っていたが、オツキヨウカとも呼ぶ。昔は、新 暦5月7日にヤマからモチツツジやコメツツジの花を採ってきて、高さ7〜8bのハチクの竿(枝をすべて取り除く)の先端 に結わい付けて庭に立てた。この竿は8日いっぱい立てたあと取り外し、花などは処分した。ヨウカビには仕事を休み、粽を 作って食べた。

 以上のように、奈良県宇陀市や川上村では本来の旧暦4月7〜8日に行われていましたが、他の事例はほとんどがいわゆる 月遅れの5月7〜8日に移行しているようです。また、利用される花はモチツツジを代表とするツツジ類がすべてに共通して いるほか、一部でフジやヤマブキなども使われます。花と一緒に籠を取り付ける事例が3例ありますが、三重県伊賀市ではそ の中に草餅を5個入れるといい、京都府南山城村のそれは三本足の蛙が入るのを目的としています。『卯月八日の行事−三本 足の蛙の事例を中心として−』〔文0283〕によれば、三本足の蛙に関する伝承が奈良県北部に多いことを紹介していますが、 その背景に関する考察からは結論が得られていません。中国では月の象徴として兎や蟾蜍がよく知られているものの、月との かかわりは推測できても三本足の根拠は未詳です。宇陀市の事例にみられる団子や伊賀市の5個の草餅などと考え合わせると、 おそらく伝承の核心は対象物ではなくその数、つまり数字そのものにあるのではないかと思われます。実際のところ、伊賀市 の聞き取りでは「草餅は必ず5個でなければならない」として、数の重要性が強調されていました。中国では、陰陽説の考え 方から偶数(陰)よりも奇数(陽)が重んじられ、日本でもそうした慣習が一般に広まったことは周知のとおりです。江戸時 代に設定された一、三、五、七、九月の五節供などは、その顕著な例といえるでしょう。
 なお、宇陀市の事例で「毎年田植え前の行事として行っていた」という伝承からは、ヤマから採取した花(ツツジとフジ) を神の依代とし、それを天高く掲げることによってヤマの神を田に迎え入れるという構図を垣間見ることができそうです。そ の天上において、昼は太陽が夜には月が廻っています。太陽も月も、いわば永遠に「時を継続させるチカラ」の象徴です。天 道花には、そのようなチカラにあやかりたいという素朴な願いが込められているのかもしれません。

オツキヨウカの伝承がのこる奈良県北部の山郷


[左]八日竿のように仕立てられた杉 /[右]コバノミツバツツジ(山添村)

キシュウ  2018/09/16

【鬼宿日について】
 古代中国やインドの星座である「二十八宿」のうち、第23宿は「鬼宿」で南方(朱雀)七宿の一つとして「たまほめぼし」の 和名をもっています。西洋の星座ではかに座のγ、δ、η、θに相当します。鬼宿は二十八宿中で最善の宿とされ、陰陽道でも すべてに吉とされるめでたい宿でした。古い暦では年、月、日のそれぞれに各宿が割り当てられていましたが、西暦862年から1684年 までの823年間使用された日本の宣命暦では、牛宿を除くインドの二十七宿が採用されたことにより、毎月の鬼宿にあたる日が 定まっていました。

二十七宿による鬼宿日

月の宿(読み)鬼宿日備  考
1月 しつ11日 室(1日)から11番目の日
2月 けい9日 奎(1日)から9番目の日
3月 7日 胃(1日)から7番目の日
4月 ひつ5日 畢(1日)から5番目の日
5月 しん3日 参(1日)から3番目の日
6月 1日 鬼(1日)がそのまま鬼宿日
7月 ちょう25日 張(1日)から25番目の日
8月 かく22日 角(1日)から22番目の日
9月 テイ*1てい20日 テイ*1(1日)から20番目の日
10月 しん18日 心(1日)から18番目の日
11月 15日 斗(1日)から15番目の日
12月 きょ13日 虚(1日)から13番目の日

*1:テイは「氏」の下に一を加えた字で表す

 したがって、かつてはこうした鬼宿日に祭礼や行事、祝い事などが各地で行われていたようです。ただし、ここに表記した月日は あくまでも旧暦によるものですので、現行暦には当てはまりません。因みに、子どもの通過儀礼として今でもさかんな七五三の 行事は、かつての11月15日の鬼宿日が本来の起源ですが、現行暦でもそのままの日付で定着している事例の一つです。

【奥能登のキシュウ】
 日本の沿岸各地では、正月を中心にいわゆる「船祝い」の行事が行われます。石川県の奥能登地方のそれは、地元で「キシュウ」と 呼ばれ、現在も存続している地区が少なくありません。2013年5月に実施した聞き取り調査の記録を整理してみましょう。

《 輪島市の事例 》
○名舟町:キシュウは2月11日の行事で、フナオコシとも呼ばれる。この日は、奥津姫神社に漁師らが集まり、神主のお祓いを 受けて海上安全と豊漁を祈願する。漁船を所有している人は神社のお札をもらい、御神酒とともに船に供えた。また、カコ(漁夫)と して働く人たちは、船主宅に集まって飲食を共にした。なお、7月31日に行われる夏の祭礼では、日本海に浮かぶ舳倉島の神で ある奥津比女を漁港脇の海中に建つ鳥居から奥津姫神社へ迎え入れる神事がある。
○光浦町:1月11日に行われる。基本的には、個々の漁師がそれぞれの船に祀った神へ供えものをし、その年の海上安全と大漁を 祈願するものである。また、カコとして働いている場合は船主の自宅などに集まって飲食を共にした。
○大沢町:かつては2月11日だったが、今は1月11日に行っている。この日は、集落の氏神さまに参詣し、船には大漁旗を立てて 船霊(ふなだま)さまに御神酒などを供える。ただし、現在は信仰というよりも寄合い的要素が強いという。
○門前町:2月10〜11日の二日間行われる。この日は船主がカコを集めてご馳走を振る舞う。また、漁師たちは自分の船にオカガミ (鏡餅)、御神酒、海上安全の札を供えた。それまでオカにあげていた船をキシュウの日に海へおろすことから「起舟」の意味が あるという。そして、このキシュウ日から漁が始まる。
○輪島崎町:1月11日に行われ、漁師たちが氏神さまへ参詣する。

[左] 奥津姫神社の鳥居(輪島市名舟町)/ [右] 輪島市の大沢漁港

《 七尾市の事例 》
○能登島向田町:キシュウは2月11日の行事で、この日は船に竿を立て、太鼓を叩きながら漁港付近の海上を一周する。港にもどると 、集会所で直会を行って解散となった。
○能登島祖母ケ浦町:毎年2月11日はキシュウであるが、漁師らが個別に行っていた。船霊さまに御神酒を供える程度であると いう。
○能登島野崎町:2月11日に行う。この日は、民宿あるいは組合事務所などに漁師が集まり、料理をごちそうになった。今は、二隻ある 定置網の船主が漁夫を招いてご馳走を振る舞っているという。
○能登島閨町:毎年2月11日がキシュウ日で、漁師らが集まり飲食を共にした。海上での安全や豊漁を祈願したものと思われる。

《 鳳珠郡能登町の事例 》
○真脇:キシュウ日は休漁とし、それぞれの船にサカキ、オカガミ(鏡餅)、御神酒などを供えて海上の安全と大漁を祈願した。

【加賀地域のキシュウ】
 能登半島の南に位置する加賀地域においても「キシュウ」の行事が伝承されていました。これらは、主に北前船交易の中継地や寄港地で、 そうした交易文化とのかかわりが深い行事であったようです。

《 白山市の事例 》
○美川:毎年2月11日に漁師が主体となって行われる行事で、この日は氏神さまである藤塚神社に参拝し、その後手取川上流部にある 白山比盗_社(本宮)へ参拝に行く。

 以上のように、この調査では輪島市や七尾市の事例が多く記録されています。実施日は、いずれも新暦の1月11日あるいは2月11日です。 本来は旧暦の1月11日であったはずですが、明治時代の太陰太陽暦からグレゴリオ暦への改暦以降もそのままの日付で継続されて いるのでしょう。2月11日というのは、他の多くの民俗行事が改暦後にいわゆる月遅れで実施されるようになったのと同様です。 輪島市大沢町の事例からは、かつて月遅れで実施していたものが、何らかの理由で1月11日に移行したことが分かります。

【キシュウの意味】
 さて、キシュウとは一体どのような意味でしょうか。先に紹介した伝承の中にもいくつか重要なことばを見出すことができます。 一つは輪島市名舟町の事例にある「フナオコシ」であり、もう一つは輪島市門前町の事例で語られた「起舟」がそれです。ことばは違いますが、 どちらも同じ意味をもつことは明白で、新たな年の始めにオカへあげていた船を水にもどして漁の準備をする日であったというわけです。 いわば海の仕事始めに際し、この一年の安全な操業と豊漁を祈ることは、いずれの漁師にとっても欠かすことのできないオコナイと いえるでしょう。そうして選ばれた日が最善の日とされる鬼宿日であり、しかも新年最初の1月11日であったとしても十分に理解できます。 これに関して『石川懸鳳至郡誌』〔文0284〕に「其きしうといふものは、年頭に鬼宿星を祭りしより轉訛せしなりと傳へ、海上の 安全を祈り併せて海神の恩恵に報賽する祭祀とし、亦毎年一月十一日に行はる」と記されています。これは輪島前神社の船方祭についての 記述ですが、単なる鬼宿日のことではなく、年の始めに鬼宿星を祭ることから転訛して「キシュウ」になったというのです。さらに 『能登=寄り神と海の村』〔文0187〕によれば、輪島市輪島崎町の古老から聞いた伝承(この古老も若いころに古老から聞いた話)として、 輪島の空には毎年旧1月11日に鬼宿星がめぐって現れるが、この星には海の神様が宿っていて漁師には大切な星である。鬼宿と書いて キシュウと呼ぶようになった、とあります。いずれの記述も鬼宿の星そのものが信仰の対象となっていたことを窺わせるもので、たいへん 興味深い内容です。ただし、後者の文献では鬼宿星の伝承とキシュウ行事との関連性については触れられていません。
 確かに、鬼宿と書いてキシュウと読むことは可能です。すると、奥能登のキシュウ行事はやはり鬼宿を語源とする呼称なのでしょうか。 前出の『石川懸鳳至郡誌』には、農村域で行われる行事に「吉祝」があり、古くは「吉初」と書かれたとあります。これらも、キシュウと 無関係ではなさそうです。その後の調査報告である『奥能登の漁村行事「キシュウ」について』〔文0285〕によると、鬼宿や起舟、吉祝など についていずれもキシュウの語源である可能性に触れながら、同時にそれぞれの整合性に欠ける点を指摘した上で、鬼神信仰の構造と各地の 事例をとおして考察を深めています。そして「キシュウは年に一度この聖域から訪れる祖霊を祭り、豊漁の予祝と予見を目的とした儀式に ほかならない」と述べ、「オニイワイ」(鬼祝)と記したいとも書いています。
 今のところ、キシュウの語源を的確に説明できる見解は見あたりません。ただ、少なくともかつての奥能登において鬼宿の星を祭る信仰が 存在したことは間違いないと思われます。二十八宿にかかわる信仰や伝承は全国的にも希少であり、さらなる情報の発掘に向けた取り組みが 必要です。 


十 八 夜  2019/02/25

【十八夜と作神さま】
 十八夜というと、まず思い浮かぶのは月待信仰としての「十八夜待」です。ただし、二十三夜待や十九夜待などと比べると、信仰の 実態はよく分かっていません。本来の月待行事であれば、いわゆる二十三夜待のように十八夜の月の出を待ってこれを拝するという 伝承がのこされているはずですが、これまでのところ具体的な記録も見当たらないようです。十九夜待信仰が念仏供養や安産祈願を 目的として一部の地域で受け継がれてきたように、十八夜の場合も特定の行事あるいは習俗を基に継承されてきたものと考えられます。
 現在、十八夜と呼ばれる行事は、山形県を中心に東北地方から一部関東地方にかけてみられます。しかし、その形態は一様ではなく、 概ね二つの系統に分類されるようです。一つは、十五夜や十三夜のように農耕儀礼の一環として行われるもので、千葉県や茨城県、福島県、 宮城県などのそれぞれ一部地域に伝えられています。それらの多くは旧暦9月に実施されているようですが、地域によってはそれ以外の 月にも行われることがあります。ここで、千葉県と茨城県の事例を整理してみましょう。

《 千葉県 》
◎富津市富津仲町(2008.11.02調査)
 旧暦8月18日に行われる行事で、この夜の月は十五夜の月よりも丸く見えると言われている。月がよく見える窓際に、ススキや餅、 柿などを膳に載せて供えた。夕方、八坂神社の神主が各家を訪ね、主人が右手で餅を抱えた姿をお祓いして回った。これは、月が上る 前に終わらせなければならないという。
◎館山市波左間(2009.03.18調査)
 新米がとれると、その米で餅を搗きお櫃の蓋に盛って月に供えた。これは十八夜さまといって、餅は供え餅の形にした。

《 茨城県 》
◎伊奈町足高(1999.11.14調査)
 旧暦9月18日に行う。十五夜や十三夜と同じように縁側などに台を置き、そこにススキとオミナエシ、団子、里芋、さつま芋、 線香などを供えた。そして「十八夜に晴れると大麦や小麦がよくできる」と言われている。
◎牛久市城中町(2002.04.14調査)
 月が見える縁側などに台を置き、そこにススキ、柿、栗などを供える。旧暦8月15日の十五夜には大麦の神を祀り、旧暦9月 13日の十三夜には小麦の神を、そして旧暦9月18日の十八夜には米の神をそれぞれ祀るという。

 いずれの事例も、十五夜や十三夜に続いて行われる行事であることがわかります。また、十八夜には餅が重要な意味をもって いるようで、稲作によって得られた米の収穫に感謝することが主な目的ではなかったかと思われます。十五夜や十三夜を「芋名月」 とか「栗名月」などと呼ぶ地域がありますが、『霞ケ浦の民俗』〔文0288〕によると稲敷郡美浦村では十八夜を「米月見」と称して いるようです。まさに月見行事の一つと捉えていたわけです。

[左] 居並ぶ十八夜塔(山形市山寺)/ [右] 福島県いわき市の十八夜塔

【十八夜と観音信仰】

〔1〕岩谷観音と十八夜塔
 さてもう一つの十八夜は、山形県内に遺された夥しい数の十八夜塔にまつわる信仰です。中でも密度が高いとされる山形市山寺地区 を歩くと、思わぬ場所で複数の石塔を見出すことができます。ここは立石寺で有名な土地ですが、多くの参拝客が訪れる谷筋の街にも 例外なく造立されています。調査を行った三ヵ所の合計11基についてみると、そのほとんどは、自然石に「十八夜塔」あるいは 「十八夜供養塔」、「奉待十八夜供養塔」などと刻まれ、本体部の大きさは96aから約220aとまちまちです。石塔の造立は 1741年から1824年にかけて行われており、上部に日月を配するものが8基、これに加えて観音の種子を刻むものが4基あります。
 それでは、山形県における十八夜とはどのような信仰なのでしょうか。山形市の西、中山町岩谷地区には岩谷観音堂があり、 十八夜観音としてよく知られています。ここに祀られているのは聖観音で、三十日秘仏では18日が観音菩薩に充てられ、さらに 十七日(夜)から二十三日(夜)までの七夜待においては十八日(夜)の本尊が聖観音であることによるものです。
 中山町立歴史民俗資料館に展示されている「岩谷十八夜観音縁起略」(岩峰家に伝わる史料)によると、岩谷観音の開基は579年と 伝えられ、二体の聖観音(黄金仏)を祀ると記されています。阿弥陀堂様式の拝殿と神殿造りの本殿(1826年建立)があり、周辺には 多くの宗教遺跡が散在しています〔『民俗資料選集35』文0286〕。本殿が造営されたころが信仰の最盛期とみられ、以後明治期末まで 続いたようです。
 別当寺として天台宗日月寺があり、この辺りが出羽三山参りの街道の一つであったことから、その山先達を務めていた関係で修験との かかわりが生まれました。その結果、江戸中期以降は主に眼病平癒祈願の対象として栄えたといわれます。これは、かつて奉納された 絵馬にもよく表れています。また、時代は不詳ながら口寄せ巫女の一つである「オナカマ」の聖地としても知られるようになり、 奉納物であるオナカマ習俗にかかわる道具類は昭和59年に国指定の重要有形民俗文化財となりました。かつては年3回の例祭に多くの 参詣者が集っていましたが、岩谷の集落は昭和に入ってから年々人口が減少し、同55年に最後まで残っていた1軒が移転したため廃村と なり現在に至っています(資料館の展示資料による)。

〔2〕月待と十八夜塔
 それでは、こうした岩谷観音の歴史において十八夜の信仰がどのような存在であったのか、『民俗資料選集35』の記述から関連する 項目を以下に拾い出してみたいと思います。
@月待に関する情報
・岩屋観音堂内から、十八夜・二十三夜と書かれた古い二本の掛軸が見つかった
・日月寺の住職が、十八夜の月の出を待つ行事を行っていたと証言した
・昔から、岩谷観音の若者たちは二十三夜講を結成し、二十三夜の月の出を待って礼拝するのが習わしであった
・12月17日に夜通し観音を念じ、18日の朝日を拝んで解散する行事があり、観音のお日待という
・岩谷観音資料から山形市、中山町、西川町、大江町、朝日町、東根市、村山市において十八夜講の存在が知られる
A十八夜塔に関する情報
・十八夜塔の分布は、山寺を中心とした山形市・東村山郡・西村山郡に限られる
・岩谷観音と山寺を結ぶ道路沿いに分布するものと山形方面から集まって来るものとがあり、いずれも岩谷観音を指向している ようである
・大郷地区の月山神社前には「お十八夜様」というお堂がある
 まず、月待に関する情報では、掛軸の存在と日月寺住職の証言から月待が行われていたことは確実とみられます。ただし、もともと 二十三夜の月待が盛んであったという背景や「観音のお日待」という習俗を考えると、住職が言う「十八夜の月の出を待つ行事」が 何を意味しているのか、判断に迷います。また、堂内にあったとされる掛軸も十八夜と二十三夜の併記とみられ、どの地域の講から 奉納されたものであるかも分かりません。したがって、これらの情報だけでこの地域に十八夜の月待が定着していたと考えるのは 早計です。
 では、十八夜塔についてはどうでしょうか。県内の分布が限定された地域にあることや岩谷観音へと連なる分布特性が指摘されて いますが、このことは『霊を呼ぶ人たち』〔文0287〕でも同様の見解が示されています。同書によると、確認された十八夜塔 の総数は256基で北は大石田町から南は上山市までの範囲にあります。山寺付近の密集地域を除くと、凡そ岩谷観音へ通じる道沿いに 分布している様子が窺えます。このうち、地元の中山町内に遺された十八夜塔は13基で、紀年名が明らかな10基はいずれも1732(享保17) 年から1782(天明2)年の50年間に集中して造立されています。石塔の分布は、講が存在した地域とほぼ重なりますが、実際に 講名を刻んだ十八夜塔がどの程度あるのか知りたいところです。いずれにしても、岩谷の十八夜観音信仰が各地の講によって支えられ、 その供養を目的とした石塔がかつての信仰の道沿いに多く造立された経緯は理解できます。

〔3〕観音霊場をめぐる信仰
 ところで、十八夜塔の分布については、一つ気になる課題があります。それは、山形市山寺付近に集中して造立された十八夜塔の存在 です。現地調査の11基をみると、いくつか興味深い点が浮かび上がってきました。その一つは1741(寛保1)年と1760(宝暦10)年 造立の2基に「キリーク」の種子[しゅじ]がみられることです。十八夜待の本尊とされる聖観音(正観音)の種子は「サ」ですから、 これは明らかに別の観音を対象としていることが分かります。キリークは千手観音あるいは如意輪観音の種子ですが、この石塔の場合は 千手観音であろうと推察されます。それを解明する手掛かりが観音巡礼にありました。
 最上地域には、室町時代に開創されたと伝わる最上三十三観音の霊場があり、古くから近在の信仰を集めていました。第一番は天童市 若松寺の聖観音、第二番が山寺の千手院(千手観音)ですが、この二寺が観音霊場に加えられたのは1603(慶長8)年から1614(同19) 年の間とみられます。それは、この件に深く関与していた最上家第11代当主である最上義光が、1603年に奉納した三十三観音霊場の ご詠歌の額に記された第一番霊場が現在の第三番千手堂(山形市)となっていたことから、その後1614年に没するまでの期間で霊場の 再整備が実施されたものと推測されるわけです。
 おそらく、若松寺の聖観音と山寺の千手観音は、これを契機として多くの巡拝者で賑わったことと思われます。つまり、山寺一帯の 夥しい十八夜塔の中には、岩谷観音信仰の供養とは異なる性格のものが混在している可能性が高いといえます。少なくとも、先に紹介 した2基の種子は千手観音であり、しかも1741年の石には「寶珠山薬師如来」の銘が刻まれています。薬師は立石寺の本尊ですので、 この種子が千手院の千手観音をさしていることは間違いありません。
 もう一つ、調査した十八夜塔のうち、1804(文化1)年と1824(文政7)年の石には、いずれも「導師」という銘を確認することが できます。この2基には種子がないため、第一番の聖観音か第二番の千手観音、あるいは他の霊場における観音信仰のもとで、導師に よる供養塔の勧めがあったのではないかと考えられます。それが、講に対してなのか個人に対してなのかは不明ですが、山寺の十八夜 塔群に関しては、造立の年代によっていくつかのタイプが存在するとみてよいでしょう。

 以上のように、山形県における十八夜の信仰は、岩谷の観音堂を中核として周辺地域に拡散する一方で、この地域の観音霊場を巡る 信仰にも深くかかわる展開をみせてきました。しかし、周辺各地の十八夜講の実態が不明な状況においては、月待信仰としての位置づけは 曖昧です。仮に講中による月待の習わしがあったとして、果たして十八夜に限定された行事となっていたのかどうか。おそらくは、本来の 月待である二十三夜信仰と習合した形態をとっていたものと推察されます。なお、同じ観音信仰では十七夜(千手観音)や関東の利根川 流域を中心に如意輪観音を祀る十九夜、二十一夜、二十二夜などの信仰がありますが、これらはいずれも安産祈願を目的とした女人講が 通例で、山形の十八夜信仰とは性格を異にするものであることが分かります。

[左] 眼病平癒を祈願した奉納絵馬 / [右] 国指定の文化財・オナカマ道具
※いずれも中山町歴史民俗資料館にて展示

天道の行事  2019/10/25

【太陽をめぐる信仰】
 「おてんとうさま」という言葉を聞いて、何かしら郷愁を感じる人は随分少なくなりました。しかし、単なる「太陽」ではなく 「お日さま」でもない、いわば「天道」なるが故の呼称として今でもなお大きな存在感を示しています。昔の人びとにとっては、 お天道さまへの感謝なくして日々の暮らしが成り立つことのない時代があったのです。
 天体とのかかわりが希薄になった現代でも、元旦には各地で初日の出を拝する光景を見ることができますが、かつては日の出や 日の入りに手を合わせることは日常の姿でした。静岡県裾野市で、明治生まれの女性が毎朝釜の蓋にご飯を供え、東を向いて唱え言を しながら手を合わせていたこと、また夕方にも西を向いて同じ所作をしていたという話は、素朴な太陽信仰の一面を窺わせます。
 太陽をめぐる信仰のなかでも、天道念仏にはいくつかの形態があり、神・仏・修験などさまざまな要素を習合した行事として各地に みられますが、ここでは関東地方の事例をもとにその習俗の一端を紹介します。 

[左] 幻想的な日迎えのとき / [右] 日送りに太陽の再来を託す

【千葉県の天道念仏】
 関東地方における天道念仏の基本は、ある特定の場所で念仏を唱えるというもので、かつては多くの地域で行われていたものと みられます。千葉県内の事例を挙げると、

○東葛飾郡関宿町(現野田市)
岡田地区では、5月1日に二ヵ所で行われていた。この日は日の出から日の入りまで2〜3人が交替で鉦を叩き続ける。
○印旛郡栄町
かつては、毎月のように天道念仏をやっていた。人びとは当番の家に集まり、掛軸をかけて全員で念仏を唱えた。

など、文字通り念仏を主体とした行事であったことが分かります。
 一方、東京湾岸の船橋市では屋外に祭壇を設け、念仏だけでなく踊りを伴う形態の天道念仏が行われてきました。このうち、海神地区の それは一時途絶えていましたが、1981年に保存会が発足して再開されています。以下に記す行事の内容は、2018年3月11日に行った 取材を整理したものです。
 海神では、念仏堂(浄土宗)の境内に祭壇を設えますが、鉄パイプと角材などで組まれた二段の棚は北を正面として中央に高さ3〜4b の梵天が据えられていました。出羽三山の信仰を象徴するこの梵天は、目視確認で先端に五色の御幣を束ね、その下に花飾りを施した作りに なっています。千葉県は出羽三山信仰の盛んな地域ですが、各地で作られる梵天の構造を詳述した資料〔『梵天に見る房総の出羽三山信仰の現在』 文0321〕によると、構成素材の種類や色の使い方、設置場所などにおいて地域的な特色があるようで、他の地区で天道念仏に立てられる梵天も紹介 されています。さらに棚の四隅(柱)にも色梵天が取り付けられ、それらの間を埋めるように五色の幣束が並びます。そして中央の梵天の正面に 大日如来が祀られ、そこには20a程の紅白の重ね餅が供えてありました。その下にも花や酒、果物などの供物が見えます。
 こうした準備が整うと、午前11時に全会員(約20名)が記念撮影を行って行事が開始されます。祭壇の正面(大日如来)に向かって座した 一同は、まず天道念仏を唱和しながら香をまわし、そして11時20分過ぎに念仏踊りへと移ります。踊りは、鉦(1人)、太鼓(3人)の 後に扇を持った踊り手が輪をつくり、時計回りに移動します。その際の鉦と太鼓の基本的なリズムは、@チンチンチン/トントコトン、Aチン チンチン/トントコトコトコ、Bチンチンチン/トントコトンという単純なもので、この繰り返しになります。また、踊りのほうも両手を上下 左右に振りながら前進する簡素な動きです。
 海神の事例では、行事そのものが一度途絶えていること、再開後は保存会による運営に委ねられているなどの点で、生業を背景とした本来の 習俗がどの程度引き継がれているのか分かりません。信仰面よりも娯楽性を重視する傾向は否めないものの、郷土の伝統を守り続けたいという 想いはひしひしと伝わってきました。

[左] 祭壇中央に掲げられた梵天 / [右] 祭壇正面で念仏を唱和

【栃木県の天祭】
 栃木県では、天祭と呼ばれる行事が各地で行われてきましたが、現在も実施されているのは数ヵ所とみられます。いずれも祭壇を設けますが、 それが山上(天道山)の場合や高い櫓の上、さらには組み立てた天棚の上部などいくつかの形態があります。また、実施時期は山に登る場合で 4月上旬頃、天棚を設置する形態では二百十日を中心とした季節になります。
《 那須烏山市の事例 》
 県東部に位置する那須烏山市三箇の塙地区には、古くから伝わる天祭行事があります。松原寺の境内に天棚を設け、神官、僧侶、行人が一体と なって二百十日(9月1日)を中心に二夜にわたって開催されてきましたが、現在は一日だけの日程となっています。案内板によると、起源は 口伝で約三百年前とされ、念仏踊りを有した貴重な習俗として1983年に国の無形文化財に選択されました。
 天棚上部の祭壇は、四隅にそれぞれの方角を示す色梵天(北方=黒、東方=青、南方=赤、西方=白)を掲げ、屋根中央部には黄色(地)の 梵天が据えられています。祭壇内部を見ると、最奥部に白い大きな御幣3本とその手前に小さな五色(右から黒、青、黄、赤、白の順)の幣束が 並び、さらにその手前には12組の小さな供え餅と3組の大きな供え餅が供えられています。おそらく、12という数字は十二天や一年の区切り などを意味するものと考えられ、また3という数字は出羽三山や熊野三山などがその基盤にあるのでしょう。そして、祭壇の上部に掲げられて いるのは日天(右側で金色)と月天(左側で銀色)です。このような祭壇の設えは、いずれも行事の基本的な性格を示す重要な要素であり、 総体的に神道や修験道との深いかかわりが窺えます。なお、梵天は天棚以外にも水垢離場に1本あり、さらに出羽三山の石碑(天棚から数百b 離れた道路沿い)と熊野三山の石碑(天棚の近く)にも各3本が立てられます。これらはすべて白い梵天です。
 さて、行事は午前10時より開始され、まず神官1名、僧侶1名、行人3名が本堂を出て水垢離場へ向かいます。今はバケツに汲み置きした 水で手を清めるだけですが、昭和50年代までは参道の下を流れる用水を堰き止めて水垢離をとっていたようです。ここからは出羽三山の 石碑まで歩いて梵天の下で祈祷を行い、再び境内に戻ると今度は熊野三山の石碑の前で祈祷を行います。
 10時半を過ぎると、関係者(神官、僧侶、行人、地区代表者など)が祭壇に座し、神官が一連の神事を執り行います。その後、短い梵天が 神官の手によって祭壇から下ろされます。これを受け取るのは、本来地区内の若い婿とされていますが、近年は該当者がおらず年配の関係者が 代行していました。この梵天は、長さが1bほどの木材で、先端に半紙をかぶせて麻紐で縛り、その下にも半紙を巻き付けて同じ麻紐で固定 したものです。そして、梵天を受け取った人はそれを肩に担いで天棚1階の内側を時計回りに歩き始めます。地元の人は「ムコ回り」と呼んで いますが、本来は行人を先頭に天棚を周回するゴライゴウ(御来迎)の習俗であり、行事の重要な場面の一つです。かつては、塙でもそうした 取り組みが行われていたものと推察されますが、信仰と暮らしが乖離するなかで運営に携わる人材の減少や日程の短縮などにより、後半部の 太鼓や踊りが次第に行事の主役として注目されるように変化したものでしょう。
 太鼓と踊りは、地元の子どもたちによって演じられ、11時から@オカザキ、A赤い羽根、Bはやし太鼓、Cさいた桜の奉納太鼓があり、その後 奉納踊りとして@つき綾、A扇踊り、B七つ綾、C軽井沢と続きます。囃子も含めて、現在は成人女性や女生徒も参加していますが、かつては 男性だけの行事であったと聞きました。なお、先に紹介した「ムコ回り」は、奉納踊りが終了するまで交代で継続されます。
 行人については、地区内において選ばれた男性(品行方正などの要件があるという)が出羽三山で修行を行い、その後経験を積んだうえで務める 習わしですが、後継者をいかに育てるかという課題は切実です。行事の安定的な継続は、地域社会の変容と文化財指定との狭間にあって、大きく 揺れ動いているのが実態であると感じました。

[左] 天棚正面 / [中] 出羽三山の梵天 / [右] 奉納太鼓

《 高根沢町の事例 》
 高根沢町は、宇都宮市と那須烏山市に挟まれた町で、かつては9地区余りで天祭が行われていました〔『高根沢町史・民俗編』高根沢町、2003〕。 このうち、石末原地区では公民館に隣接した地蔵堂の境内で現在も継続されています。以下は、現地での聞き取りによる行事の概要です。
◎第一日目(8月第一土曜日)
・朝から草刈りなどをして会場周辺を整備します。倉庫に収納していた天棚を外に出し、組み立てと飾り付けを行います。
・午後から行事が始まり、まず神主が祝詞を奏上するなどの神事があり、続いて御行様と呼ばれる行人二人が手を清め(本来は水垢離)、 祈祷を行います。
・御行様を先頭に多くの人が後に続き、天棚を周回します。このとき、天祭囃子が演奏されます。これらはゴライゴウ(御来迎)で、何回か 繰り返されます。
◎第二日目(8月第一日曜日)
・7時ころより、御行様の水垢離(手の清め)、御来迎などが午前中いっぱい実施されます。
・午後は直会があり、その後片付けをして終了となります。
 ところで、高根沢町には天祭供養を目的とした石塔が4基確認されています(前掲書)。このうちの1基が原公民館入口にあり、1788(天明8)年 という紀年名は4基中もっとも古い造立です。このような供養塔は他の地域ではほとんど見られず、貴重な存在といえるでしょう。

[左] 石末原地区の天祭供養塔(後方)/ [右] 地蔵堂と天棚収納庫

妙見信仰  2022/04/25

妙 見 の 歴 史

【日本での展開】
 古代中国では、北辰と北斗七星が重視されてきました。この北辰をめぐる信仰のひとつが妙見で、日本へは朝鮮半島を経由 して伝わったとされています。こうした伝来とその後の展開について、小村純江氏は「妙見信仰の研究略史」をまとめてい ます〔『妙見信仰の民俗学的研究』文0395〕。これまでの研究事例をもとに、その拠り所となる史料や考え方を整理して 分かり易く示したものですが、日本への伝来については妙見菩薩を説く『七佛八菩薩所説大陀羅尼神呪経』と他の密教経典との 関係から、仏教とともにあるいは仏教渡来からあまり時を前後しない時期であろうとの見方があるとしています。
『日本霊異記』には、下巻の第五話「妙見菩薩変化示異形顕盗人縁」などの説話があり、奈良時代の妙見習俗を知ることができ ます。さらに、河内国石川郡春日村の蘇我馬子創建と伝えられる妙見寺に、飛鳥時代に連なる碑の破片が所蔵されているとする 史料から、この寺が「白鳳の世において妙見信仰の一つの拠点であったことが想像される」との見解もあります〔『妙見信仰の 史的考察』文0396〕。
 また、その後の展開の様相については、小村氏が以下のように主として四つの捉え方を整理しています。
@ 妙見信仰をひとつの流れ(徐々に変容)として捉える。
A 伝来当初から二つの系統の妙見信仰が存在していた。
B 当初はひとつの信仰がやがて二つに分かれ、階層の違う二つの系統の信仰が並行に存在していた。
C 当初は二つの系統であった妙見信仰が、その後習合し展開していった。
 いずれの考察も、妙見の本質に迫るべく論考を重ねてきた経緯が窺えますが、そこには北辰をめぐる他の信仰とのかかわり、 あるいは北斗七星を含めた古代中国の思想や天文観などの深い関与が如実に表れているように思われます。
 奈良時代前期にはすでに伝来していたとみられる『七佛八菩薩所説大陀羅尼神呪経』では、北辰菩薩を妙見としていますが、 この北辰=妙見菩薩の考え方は、後に北辰・北斗を混同した見方へ変化することになります。密教における北斗信仰の影響は もとより、鎮宅霊符神や真武神など陰陽道や道教などとのかかわりも大きく、そこに表現された像容も多岐にわたります。
 さて、伝来初期の信仰の主体を成していたのは、北辰崇拝であったようです。具体的には、北辰に燈明を献ずるというもので、 先の『日本霊異記』(下巻第五話)に示されています。さらに、これが『続日本紀』巻三四(宝亀八年八月癸巳の条)に、光仁 天皇が河内の妙見寺に上野国群馬郡および美作国勝田郡からそれぞれ五十烟の封戸を施入したことにつながっているとの見方が あります〔『日本における星神信仰の一考察』文0388〕。787(延暦6)年には、桓武天皇が河内国の交野に天神を祀ったと する記述が『続日本紀』にあり、その祭文から天神は北辰であるとされています。その後『公事根源』によると、796(延暦15) 年三月三日に自ら北辰に燈を献じますが、同時に三月十九日には勅を発して、民衆が北辰を祭ることを禁じています(『類聚 国史』延暦十五年三月条)。
 朝廷における北辰への献燈は「御燈」として定着し、859(貞観1)年からは恒例化されました。「御燈略年表」〔文0396〕に よると、御燈の記録は1466(文正1)年九月まで記載されており、約670年間継続していたことになります。また、この間の 天暦年間(947〜957)には北斗法が修せられるようになり、1021(治安1)年からの尊王星供と併せて、平安中期から南北朝の 時代まで、妙見菩薩をめぐるさまざまな修法が仏教関連の宮中行事として行われていたようです〔文0396〕。
 平安時代末期あたりからは、武士や地方の豪族に妙見を崇拝する風潮が高まり、一部にはその信仰を祖先系図に取り込もうと する姿勢が窺えます。東国では、平良文を祖と伝える千葉氏や平秩父氏、西国では大内氏などがよく知られています。特に千葉氏 の妙見崇拝は、北斗七星を守護神とするもので『仏説北斗七星延命経』に説かれた「破軍星」が重視されました。
 もうひとつの流れは、日蓮宗による妙見(北斗)の布教です。真言・天台の両密教では、早くから妙見菩薩を祀ってきましたが、 井原木憲紹氏によると日蓮宗の場合は、宗祖が北辰・妙見信仰を認識していたものの、法華経の立場からは妙見を本仏釈尊の垂迹 と認めず、北斗七星として御遺文に記されたと考えられています〔文0388〕。日蓮宗の布教における妙見の導入は、関東の中山門 流によって行われたとする見解がありますが、その推進者である法華寺三世日祐が千葉胤貞の猶子であったことを考えれば頷ける ものがあります。1331(元徳3)年の「千葉胤貞譲状」によれば、肥前国小城郡光勝寺職および同妙見座主職が日祐に譲与されて いますので、関東地方ばかりでなく肥前国や京都においても妙見の普及があったものと推察されます。
 近世以降は、各地の妙見宮や妙見社などをとおして妙見の大衆化がよりいっそう進んだものとみられますが、そこには仏教のみ ならず、道教や陰陽道などさまざまな信仰の総体として受容されてきた歴史を垣間見ることができます。

【妙見の正体】
 妙見については、北極星あるいは北斗七星も加えて、これらを一体的に神格化したものとする説明がよくみられます。また、北 極星を北辰と表現する場合もあります。しかし、北極星や北辰ということば、そしてそれらが示す概念は、時代によって大きく異 なっていました。ここでいう妙見の正体とは、信仰上の真の姿という意味ではありません。いわば天体としての北辰の正体をどう 捉えておくべきかという意味になります。
 さて、古代中国の天文学では、星々の廻りが重視されてきました。その中心となる北の空は特に重要な領域と看做され、多くの 星座が充てられています。星空の動きは、夜空の一点を軸として回転しているように見えますが、これが天の北極で、現在北極星 と呼ばれる星は、そこに最も近い星ということになります。では、古代中国において天の北極と北極星の関係はどうなっていたの でしょうか。

天極付近の星座関係略図(一部未表記)

 その前にひとつ確認しておきたいのは、この課題にかかわる重要な天文現象です。歳差と呼ばれるこの現象は、地球の地軸(自 転軸)が約 26000年という時間をかけて公転面に垂直な方向に対し半径約23.4°の円を描くというもので、北側の方向が天の北極 となります。現在はすぐ近くにこぐま座α星(ポラリス)が位置していますので、北極星と呼ばれているわけです。ということは、 天の北極から北極星までの距離(角度)は、僅かながら常に変化しているということが分かるでしょう。これが目に見えて明らか になるのは少なくとも数百年のスパンになりますが、紀元前数千年から続く中国の歴史を考えれば、北極星となるべき星は時代と ともに変化していたという状況を念頭においておく必要があります。
 それでは、天の北極やそこにもっとも近いとされる星が、古代中国でどのように認識されていたのか、当時の天文史料を少し整 理してみましょう。まず、「北極」ということばは固有の星ではなく、星座の名として使われています。天の北極については、天 枢や天心などと記述され、本来そこ(あるいはその近く)にある星は、極星や枢星、紐星などの語で表現されているようです。い ずれにしても、天極(北極)の領域にあっては北極の星々(四星から後に五星となる)が重視されていたのです。それは、これま での歳差による地軸の移動が、北極五星の近くで変化してきたことを考えてもよく分かります。なお、中国で歳差の現象が確認さ れたのは西暦 350年頃と考えられていますので、北極星となるべき星が正しく特定されるようになるのは、それ以降の時代からと なります。ただし、天の北極に対する星座の位置変化(見かけ上の移動)は認識されていたはずですから、本来の北極星となるべ き星は、常に意識されていたことでしょう。
 そこで、紀元前2000年頃より西暦2000年にかけて、どの星が北極星になり得たのかという観点から北極五星の一部と近年の研究 成果から得られた有力な星について、その北極距離(天の北極からの角度)を集計してみました。これらは、歳差のデータも含め て竹迫忍氏の古天文の部屋(http://kotenmon.com/)を参照しています。北極五星のうち、太子と帝星は北極距離の最少値( 6.5° 以上)からみて対象外とし、第五星については清朝の『欽定儀象考成』に天枢とあり、この星の同定をめぐる見方の違いを大崎正 次氏が整理しています〔『中国の星座の歴史』文0129〕。従来有力とされたのは、きりん座のHR4893(イェール輝星星表)ですが、 竹迫氏は同じきりん座のHR4852を含めて、時代により第五星が変化したとする考え方を示しています。時代的には、後漢から晋、 南北朝にかけてはHR4852が、その後の隋、唐、宋ではHR4893が北極五星の枢星であったとするものであり、北極星の変遷を考察す る上で重要な指摘です。したがって、ここでは二星を枢星1及び枢星2として扱うことにしました。また、紀元前2000年以前に北 極星であったりゅう座のα星、そして現在の北極星であるこぐま座のα星を加えてあります。

歳差による北極距離の変化

年 代 T:右枢
11αDra
3.65m
U
HR4927
6.01m
V:庶子
HR5430
4.25m
W:后宮
HR5321
4.82m
X:枢星1
HR4852
6.40m
Y:枢星2
HR4893
5.28m
Z:大星
1αUMi
2.02m
備 考
-3600 4.54       
-3400 3.41       
-3200 2.28       
-3000 1.15       
-2800 0.09      星Tの最小期
-2600 1.11       
-2400 2.24       
-2200 3.37       
-2000 4.497.948.119.4112.9115.35  
-1800 5.616.817.338.4911.8114.29  
-1600 6.735.686.627.5810.7113.21  
-1400 7.844.566.006.719.6012.14  
-1200 8.953.435.495.908.4911.05  
-1000 10.052.315.125.157.379.9717.19
-800  1.244.954.526.258.8816.12星Vの最小期
-600  0.534.974.075.137.7815.04星Uの最小期
-400  1.285.193.844.016.6913.95星Wの最小期
-200  2.365.593.882.895.5912.86 
0  3.476.134.191.764.4911.76 
200  4.596.774.700.643.4010.66 
400  5.717.495.370.492.319.55星Xの最小期
600  6.838.266.131.611.278.44  
800  7.949.076.962.730.557.32星Yの最小期
1000  9.069.917.833.841.206.21 
1200  10.1610.778.734.962.245.09 
1400  11.2611.659.656.073.323.97 
1600  12.3612.5310.587.184.412.86 
1800  13.4513.4111.518.285.501.76 
2000  14.5314.3012.459.386.590.74 

 * V〜Yが北極五星の星々を示し、XとYはいずれも異なる時代の枢星とされる
 * Uは近年の研究で北極星と推定された星、T右枢はりゅう座のα星、Z大星はこぐま座α星を示す
 * 項目欄のなかで"m"を付した数値は等級(星の明るさ)を示す
 * 表中の北極距離は角距離(°)を示し、2°以内の場合は赤色の数字で表記した

 まず、より古い時代には、りゅう座のα星〈T〉が紀元前2801〜同2792年に北極距離が0.09°で文字通りの北極星でした。この星 は、少なくとも紀元前3400年から1200年ほどの間は天の北極から4°以内にあり、長い間指標とされたことでしょう。その後を概観 すると、紀元前 764〜同 682年に最小値4.93°のHR5430〈V・庶子〉、紀元前 609〜同 599年に最小値0.53°のHR4927〈U〉、紀元 前 367〜同 295年に最小値3.82°のHR5321〈W・后宮〉、西暦310〜 318年に最小値0.04°のHR4852〈X・枢星1〉、西暦792〜 820 年に最小値0.55°のHR4893〈Y・枢星2〉、そして西暦2097〜2113年に最小値0.46°を迎える現在の北極星〈Z〉へと続きます。
 北極星の変化に関する従来の一般的な解釈は〈T〉→(帝星)→〈Z〉が主流でしたが、大崎正次氏は〈T〉→(帝星)→〈Y〉→ 〈Z〉という見解を示しています〔文0129〕。これに対し、竹迫氏は従来の考え方を改め〈T〉→〈U〉→〈X〉→〈Y〉→〈Z〉 という見方を提唱しました。こうした研究は、今後さらに進展するものと期待されます。なお、『随書』天文志には、当時の極星 (紐星)が天の北極から1°余り離れていると記されていますが、これに該当するのはHR4893と考えられます。いずれにしても、竹 迫氏が示したパターンは、天の北極に最も近い星という観点で最適な変遷モデルと言えるでしょう。ただし、UとXについては光度 が 6.0を超える暗い星ということで、おそらく当時は、帝星や后宮(W)などが各時代の北極星を探す際の指標とされていた可能性 があります。
 北極星の本質について確認したところで、本題にもどりましょう。妙見信仰の対象は、あくまでも北辰です。現在では北辰= 北極星という解釈ですが、中国ではどのように捉えられていたのでしょうか。古い時代の辞典とされる『爾雅』には「北極謂之北辰」 とありますが、大崎氏はこの場合の北極を星座ではなく北極星と解しています。『開元占経』では「北極者一名天枢、一名北辰」と あり、『晋書』天文志にも「北極、北辰最尊者也」とみえます。このように、北辰は本来天極に位置する星であったことが分かります。
 中国における天極の星(北極星)の変化から推測すると、おそらくHR4893の時代に日本への北辰に関する何らかの伝来があったもの と思われます。今のところ、北辰が日本へ伝わるのは奈良朝以前とみられるものの、それは中国で生まれた天皇崇拝と深い関連がある と考えられてきました。その拠り所となっているのが『春秋緯合誠図』の「天皇大帝北辰星也」です。廣畑輔雄氏は、奈良時代の漢詩 集『懐風藻』所収の漢詩のいくつかに「天皇を北辰に結合して考える思想」が窺える事例を示した上で、引用した「詩の作者の多くが 持統朝乃至文武朝から奈良朝の初期にわたって活躍した人々であることを考えると、これらの思想はかなり早くからわが国に伝わって いたものと思われる」と述べています〔『古代日本における北辰崇拝について』文0400〕。
 伝来初期の北辰崇拝に、道教や陰陽道などが深いかかわりをもっていたとして、この時代の北辰は如何なる星であったのでしょうか。 『日本霊異記』に見られるような民間の北辰祭事といい、8世紀末頃から記録が現れる宮中の御燈行事にしても、人々が燈を献じた 星はいったいどこに輝いていたのか。残念ながら、伝来当時の北辰の正体を解き明かす史料は、今のところ見出すことができません。 ただし、時代が下ると鎌倉中期の『塵袋』に北辰と北極は同じ星か別な星かという一文があります。そのなかで北極五星にふれ、北辰・ 北君・元鏡・元宿・北天と記していますが、北辰がどの位置に該当するのかはっきりしません。それを図示しているのが『別尊雜記』 巻第四十(平安時代後期)です。北極五星と四輔の位置関係をみると、四輔から最も離れた星が第一星(北君)で、以下第二星(北辰)、 第三星(元鏡)、第四星(元宿)、第五星(北天)となっています。第二星はこぐま座のβ星ですから、信仰の対象としてはこの北辰が 当時の天極の星という認識であったかもしれません。
 一方、妙見そのものの正体はというと、妙見菩薩をはじめとして妙見尊星王、鎮宅霊符神、天之御中主神などさまざまな姿で現出して います。これらは、母体となる信仰の影響を強く受けたものですが、その背景にあるのは北辰(一部北斗を含む)に対する崇拝にほか なりません。いずれにしても、日本で北辰とされる星が時代によってどのように変化したのか、そもそも天体としての北辰(北極星)と 信仰上の北辰が同じ認識であったかどうかさえ判然としない現実は、信仰の歴史を探るうえで大きな課題を提示しています。

【北辰と北斗】
 妙見をめぐる信仰・習俗を考える際には、「北辰と北斗の習合」についても理解しておく必要がありますが、これまでは深く掘り下 げた検証が行われていないようです。ひとつの見解として、金指正三氏は「北極星すなわち北辰と北斗七星とは、普通の人の眼には北 辰を中心として天空をめぐっているので、一つの星座であるかの如く見える。それから『北辰北斗』と併称するようになり、北辰を妙 見菩薩の化現として崇拝していたものが、いつの間にか北斗七星が妙見菩薩の化現であると考えるようになった」と指摘しています 〔『星占い星祭り』文0203〕。『桜陰腐談』や『宿曜私記』『園城寺伝記』などの資料をもとに、北辰と北斗が混同された様子を明ら かにするとともに、さらには北斗七星の輔星を妙見とする説まであることを紹介しています。
 北辰と北斗を一体として見るというこのような考え方は、時代を遡るほど頷ける部分があります。それは、天の北極が移動する歳差 の影響です。紀元前2800年頃にりゅう座のα星が北極星として動かぬ星であったことはすでに紹介しましたが、実はこの時代に北斗七 星は、現在よりもずっと天の北極に近い空で日周運動をしていました。特にε星(1.77m)とδ星(3.31m)は、西暦2000年の位置と比 較して約18〜21°も近くにあり、見かけ上は北斗七星全体が天極付近の星群であったわけです。時代が下るにつれて次第に遠ざかるも のの、それでも西暦800年時点でα星(1.79m)を含めた三星が2000年時点よりまだ6°以上も天極に近かったことになります。

[左] 天極付近の星の動き(A.D.2000年頃)/ [右] 北斗七星

 こうした星の見え方を基準としたアプローチは、それなりに根拠が認められますが、果たして古の人びとがどれだけの認識をもって 星空を見上げていたものか、それを確かめる術はありません。そこで視点を変え、信仰そのものに目を向けてみたいと思います。密教 における北辰と北斗の混同に関しては、清原貞雄氏によって「即ち密宗に北辰といへば無論北極星、妙見も亦同一なるも又北斗七星に 繋くる特別の場合あり。三井寺にては北斗の主星を北辰といふ時は七星の事にして尊星又は妙見といへば其七星を総称せる総括的の名 目なりといふ一種特別の解釈を下せり」という考え方が示されています〔『日本における北辰北斗の信仰』文0391〕。
 星宿に関する密教の教典には、北辰と北斗の関係についてさまざまな記述がありますので、信仰する人びとばかりでなく、僧侶のな かにも混乱が生じていた可能性があります。また、妙見菩薩図像の多様性もその一因であったかもしれません。小峰智行氏は、平安期 から鎌倉初期頃に撰述された図像集に所収されている像容を「二臂坐像」「四臂坐像」「四臂立像」に分類し、それぞれの特徴を整理 しています〔『妙見菩薩の図像について』文0404〕。このうち二臂坐像では、左手に持つ蓮華の上に北斗七星を描いたものがあり、 『図像抄(十巻抄)』や『別尊雜記』などの図像はよく知られているとおりです。野尻抱影氏も『星と東方美術』〔文0299〕のなかで 前者の妙見図像をとりあげ、「これが北極星を神化した妙見菩薩のだいじな指標である」とし、さらに奈良春日山の地獄谷石窟仏群に のこされた妙見菩薩磨崖像に言及しています。石田五郎氏による鮮明な写真と詳細なスケッチにより、妙見像周辺に刻まれた星辰の一 部が北斗七星と確認されたことは、北辰と北斗の密接な関係を如実に示すものといえるでしょう。
 その後、鎌倉時代以降の妙見菩薩は、その姿を大きく変容させていくことが知られています。千葉氏をはじめとする武家や豪族らに よる妙見への信仰が深まり、北辰よりもむしろ北斗七星を重視して祀るようになり、妙見=北斗という図式がより鮮明なものとなりま した。その千葉氏と深いつながりをもつ日蓮宗の法華寺三世日祐が、妙見の布教を導入したことは、民衆の間にも妙見と北斗は一体の ものであるという教えとして普及していったものと推察されます。因みに、現在各地でみられる妙見由来の石造物は、ほとんどが近世 以降に造立されており、そこに刻まれた星の意匠はほぼ北斗七星を表現したものばかりです。

[左] 妙見塔の北斗(神奈川県)/ [右] 剣を有する北斗(群馬県)

妙 見 の 祀 り

【妙見の社寺と信仰の広がり】
 妙見信仰は、全国各地に点在する妙見の社寺が主な舞台となります。過去の分布データを整理した小村純江氏によると、「分布状況 は、関東、近畿、中国地方の西側と瀬戸内海側そして九州の北側に多くみられ、四国の東側と南側、南東北地方のやや東側にも認めら れる。もう一つの特徴は、本州、四国、九州とも海岸線に沿った地域に多くみられることである」と分析しています〔文0395〕。南東 北、関東、近畿、中国地方といえば、相馬氏や千葉氏、能勢氏、大内氏などと深いかかわりをもつ地域であり、そうした信仰の拡大と 定着が分布特性に繋がっているといえるでしょう。星の民俗の立場からすると、いわゆる降星伝説なるものが各地にあり、そのほとん どが北斗七星(妙見)や明星(虚空蔵)などに由来しています。信仰の主体は宗教を背景とした歴史に示されたとおりですが、ここで は星の文化としての妙見の現状についてまとめてみたいと思います。
 まず、降星にまつわる伝承や説話では、大阪府交野市の星田妙見宮や山口県下松市の降松神社および妙見宮などがよく知られており、 大分県宇佐市の剣星寺星堂もそれらに連なる伝承地といえるでしょう。妙見の示現や託宣といった伝承も、星(神)となって降るとい う考え方に変わりはなく、見方を変えれば空だけではなく海からやってくる場合もありました。福島県いわき市四倉の妙見尊でみられ るウミガメとの深いかかわりは、その一事例です。
 真言宗や日蓮宗の寺院で妙見を祀るところは各地にありますが、境内に妙見堂や北辰殿が建立されている事例も少なくありません。 北斗七星を祀ったとされる茨城県つくば市の北斗寺(真言宗)、山上の霊場である能勢妙見(日蓮宗)などそれぞれに特徴的な一面が みられます。
 また、各地の妙見山にも、興味深い事例を散見すことができます。埼玉県秩父市の秩父神社(旧妙見宮)と武甲山の関係では、地域 の歴史に根差した周辺域との信仰的な繋がりが認められ、その一方では、妙見山を御神体とし同時に北辰(北極星)そのものを崇めた とみられる信仰形態の一端を山梨県山梨市牧丘町に見出すことができます。西日本には多くの妙見山が存在していますが、それらの中 には山梨市のような事例が含まれている可能性があります。山以外にも、自然物にかかわるものとして妙見川や妙見沼、妙見島、妙見 滝などがあり、人工物にも妙見橋や妙見街道などがみられるほか、妙見に関する地名は数多く知られています。
 民間信仰を代表するものとしては、その証となる石造物を取り上げておかなくてはなりません。代表的な妙見の石塔ばかりでなく、 地域によって北辰塔や鎮宅霊符塔など多様な形式がみられるものの、いずれの石造物でも、意匠化された北斗七星を刻んだものが東日 本を中心に多くあり、妙見=北斗七星という構図が広く定着しています。残念なのは、石造物の背景となる具体的な行事等の実態がほ とんど把握されていないことで、神奈川県の一部に伝わる妙見(星神信仰)と富士講が習合した事例などは貴重な習俗といえるでしょう。

【北日本の妙見】
《 北海道 》
函館市:市内の日蓮宗実行寺境内に妙見堂があります。祀られているのは妙見菩薩で、元は高田屋嘉兵衛の守護神として邸内に祀ら れていましたが、その後実行寺で預かったとされています。高田屋嘉兵衛(1769-1827)は兵庫県淡路島の出身で、船乗りからやがて 北前船の廻船業を営むようになり財を成したといわれます。また、蝦夷地北方の航路開拓によって幕府から取り立てられ、業績を残し ました。北前船の船頭にとって、北の目あてとなる北辰・北斗の星々は大切な存在です。石川県の能登地方に伝承されたキタノオオ カジはこの北斗七星のことで、やはり北前船の船頭らが頼りにしていました。その北辰・北斗を祀るのが妙見であれば、航海の守護神と して崇めたのは当然のことと考えられます。
 北前船と妙見の関係では、新潟県寺泊の妙見堂に船主が奉納した船絵馬があり、こうした事例は他にもあるものと推察されます。 また、妙見の社寺が海沿いに多く分布するという傾向も、廻船の歴史とかかわりがあるのかもしれません。ただ、一つだけ気になる のは、高田屋嘉兵衛の檀那寺は実行寺に隣接する浄土宗称名寺となっていることです。実行寺が日蓮宗の寺院だとしても、それだけの 理由で妙見菩薩を受け入れたのでしょうか。

〈左〉実行寺の妙見堂(七曜紋)/〈右〉高田屋嘉兵衛顕彰碑(称名寺)

《 秋田県 》
男鹿市:北浦地区にある星辻神社は、かつて亀尾山妙見社と称していたようです。現在の祭神は天之御中主神ほか三柱で、神紋は 七曜です。同市内には船川地区椿にも星辻神社があり、やはり七曜を神紋とし、いずれも4月18日が例祭日となっています。北浦の ほうは、掲示されていた案内によると通称を北辰神社あるいは妙見堂常楽院とあり、この常楽院は開基とされる山伏常楽院尊寿に由来 するようです。秋田県内には他にも同名の神社があり、これらは明治期の神仏分離まで虚空蔵菩薩を祀っていました〔『虚空蔵菩薩 信仰の研究』文0065〕。
にかほ市:象潟駅に近い象潟小学校の校庭にある象潟神社は、かつて妙見神社として信仰されてきました。社殿(明治4年再建) の扁額は現在も「妙見神社」のままで、すぐ傍らには「妙見島」と刻まれた石柱があります。これは、地名が示すように大きな潟が 広がっていた時代に小さな島の一つに神社があったものと推察されます。伝承では、相馬郡より妙見祠を勧請したのがはじまりと され、当時は北辰星と愛染明王を祀っていたようですが、現神社の祭神は天之御中主神です。

〈左〉男鹿市船川の星辻神社 /〈右〉象潟小学校の妙見神社

《 福島県 》
いわき市:四倉町にあるのは、北辰妙見尊(妙見堂)です。千葉氏や相馬氏とかかわりの深い由緒が伝わっていますが、現在は曹洞宗 海嶽寺の管理となっています。妙見堂は、周囲に立派な彫刻が施されており、もとは別な場所にあった阿弥陀堂を移設したものと いわれ、その際傷んでいた屋根を銅板で葺いたようです。棟の中央には九曜紋があり、その左右に一対の月星紋が掲げられているのは 移設後の装飾と考えられます。堂内に祀られている妙見菩薩は、30aほどの木彫り像で、童子が亀に乗った姿であるといわれ、毎年 1月8日の例祭日には護摩が焚かれ御開帳が行われます。
 ところで、四倉町は地元の浜にウミガメが産卵に来ることで知られ、現在も町のシンボルとなっています。聞き取りによれば、 かつては海で死んだウミガメが見つかると妙見様へ運び、妙見堂裏の本堂下に埋葬したといわれています。また、もし生きたまま 捕獲された場合は、薪を枕にして酒を振る舞い、海へ帰してやるのだそうです。したがって、四倉の漁師は妙見尊を篤く信仰してい ました。亀に乗る妙見尊とウミガメが結び付いた信仰とみられますが、こうしたウミガメの埋葬事例は全国に75ヵ所ほど確認されて います〔『漁業の近代化と漁撈儀礼の変容』文0405〕。ただし、すべてが妙見信仰とかかわりを有するわけではなく、本来は海神の 使者としてのウミガメの供養を目的とした習俗となっています。全国事例のなかでは、同じいわき市中之作地区で埋葬が行われて いるほか、千葉県銚子市で妙見を祀る寺院での調査報告もあります。

〈左〉妙見尊入口 /〈右〉妙見尊を祀る堂

【東日本の妙見】
《 茨城県 》
つくば市:栗原地区にある真言宗の寺院で、本尊は金輪聖王です。沿革によると、821(弘仁12)年に皇国鎮護のため勅令により 妙見大士を安置し、北斗七星が祀られたとあります。妙見堂には「妙見大士」の扁額がありますが、何度か場所を変えているようです。 旧暦1月7日に妙見様の星祭が行われています。
《 群馬県 》
高崎市:鼻高町にある黄檗宗少林山達磨寺は、北辰鎮宅霊符尊の寺院としてもよく知られています。縁起によると、寺は1697(元禄10) 年に渡来僧である心越禅師を開山として招き、曹洞宗として開創したようです。その後、禅師が厩橋城(前橋城)の裏鬼門除けのため、 中国から北辰信仰の七十二符を承伝し、本殿に北辰鎮宅霊符尊を祀って方位除け等の祈祷道場となりました。
 霊符堂(本堂)は長い階段を二ヵ所上った高台にあり、達磨堂が隣接しています。ここで生まれた張子だるまは、後に縁起だるまや だるま市の発祥へと繋がりました。達磨寺で頒布される紙札のひとつに「お姿札」があり、霊符神御影の上に北斗七星と道教で最も重視 される三台が描かれています。本来は北辰のはずですが、妙見関連の札類も含めて確認できるのはほぼ北斗といってよいでしょう。

〈左〉つくば市の北斗寺 /〈右〉少林寺の霊符堂

《 埼玉県 》
秩父市:市内の秩父神社は、例年12月に行われる大祭が日本の三大曳山祭のひとつとして知られた所です。この社に妙見神が合祀 されたのは、13世紀末から14世紀初頭とみられています〔『秩父大祭』文0125〕。秩父における妙見祭祀は、平良文を祖とする千葉氏と 同じ系譜で語られており、この地を本拠地とした武士団のひとつである平秩父氏と深いかかわりがありました。現在の祭神は八意思金命、 知々夫彦命、天御中主神の三柱で、最後が妙見神つまり仏教の妙見菩薩となります。妙見宮は本殿内に祀られているとのことです。
 12月の例大祭においては、御輿が神社から御旅所に渡御したあとの神事が最も重要で、その斎場に置かれた亀石に大幣が奉安さ れます。亀は玄武の象徴であり、妙見菩薩もこの亀に乗ります。当地では、妙見さまが武甲の男神と亀の石上で逢うとの伝承がありま すが、これは神社と妙見山(武甲山)の関係をよく表しています。地理的にも、神社と亀石を結んだ線を延長した先に武甲山の山頂を 望むことができます。おそらく、秩父盆地特有の地形や歴史的な背景を基盤に、信仰の定着が図られてきたものと考えられます。なお、 周辺には別の亀石をはじめ、妙見塚や七つ井戸などの遺物が点在しています。

〈上〉御旅所から武甲山(妙見山)/〈左下〉秩父神社の妙見額 /〈右下〉御旅所の亀石

《 千葉県 》
千葉市:市内にある千葉神社は、千葉氏と妙見信仰の密接な関係を象徴する社寺のひとつとして知られています。家康の御朱印状には 「妙見堂」と記されており、主祭神である北辰妙見尊星王も社殿の扁額(妙見)も変わりはありません。神紋は三光紋(月星紋)で 社紋を九曜紋としていますが、千葉氏の本領が用いた月星紋とその一族が用いた九曜紋の関係を示しているようです。したがって、九曜 紋についてはさまざまな意匠がみられ、そうした多様化がそのまま妙見信仰の拡大に連なっているのではないかと思われます。
 毎年夏の七日間わたって開催されるのが妙見大祭で、かつて本霊が遷座された翌年の1127(大治2)年から継続されています。沿革に よれば、北斗七星の星々に毎日一星ずつ願掛けを行うといわれ、やはり北辰ではなく北斗を祭っていることが分かります。なお、境内社 のひとつに星神社があり、1182(寿永1)年に勧請された星神香々背男を祀っています。
銚子市:日蓮宗妙福寺の境内に、立派な北辰殿(妙見宮)があります。由緒によると、ここには本朝北辰像造立の濫觴と伝えられる 北辰妙見大士が奉祀されています。代々源家に伝わり、その後豊臣秀吉、加藤清正の手を経て大阪城に祀られ、さらに江戸城中に祀られ ていたものが松平家に伝わり、東海鎮護の妙見様として1715(正徳5)年にこの地へ奉祀されたとあります。参道入り口の反対側には 小さな用水が流れ、そこに架かる橋が妙見橋と呼ばれるなど、かつては篤く信仰されていたようです。また、福島県いわき市の妙見尊で 触れたウミガメの埋葬習俗が銚子でも数ヵ所確認されており、この北辰殿の周囲にも埋葬されたといわれています。
我孫子市:台田地区に北星神社があります。神仏分離以前は妙見宮で、妙見菩薩を祀っていました。現在の祭神は、天之御中主神です。 中世に相馬氏が所領していた時代の創建と伝えられていますが、少なくとも1833(天保4)年以前から存在した事実が、旧社殿の棟札 から明らかになっています。神紋は九曜紋で、境内には一隅に古い亀石が一対あるほか、参道にも新しい一対の亀石が奉納されていま した。

〈上〉千葉神社尊星殿 /〈左下〉妙福寺北辰殿 /〈右下〉北星神社の社殿と亀石

《 東京都 》
江戸川区:旧江戸川河口に近い中州は、現在妙見島として知られ、その名が示すように島内にある工場の一角に小さな妙見神社が あります。この地域には、かつて千葉氏ゆかりの妙見尊が祀られていたようですが、現在の神社との関係は分かりません。ここから 少し離れた江戸川区一之江に日蓮宗の寺院で妙覚寺があり、寺伝では妙見島に祀られた御神体はこの寺に安置されたとあるものの 現存していないようです。境内の妙見堂は1986(昭和61)年の建立で、木彫りの妙見菩薩を奉斎しています。

〈左〉妙見島の妙見神社 /〈右〉妙覚寺の妙見堂

《 神奈川県 》
二宮町:二宮地区の小高い場所に妙見神社があります。階段入口の鳥居に神額はなく、頂の境内には社殿が建っているものの扁額 等も見あたりません。近くにある曹洞宗の寺院が管理しているとのことですが、両者の関係は不明です。寺院の前を流れる川に架 かる朱色の橋は、地元で妙見橋と呼ばれているようです。
《 新潟県 》
長岡市:妙見町の高台にあるのが妙見神社です。縁起によると、天正年間初期の創祀で妙見大菩薩を祀るようですから、名称だけが 妙見神社と改まったのかもしれません。地元の聞き取りでは、現社殿が昭和45年の再建(遷座)であること、北斗七星を祀っている ので地元では「星神様」と呼ぶことなどが分かりました。6月15日が例祭日ですが、特別な行事はないようです。

〈左〉二宮町の妙見神社 /〈右〉長岡市の妙見神社

《 山梨県 》
山梨市:牧丘町地区の鳥谷原に、妙見尊のお宮があります。堂内には祭壇があって小さな社が置かれているものの、他に見あたるものは ありません。祭壇の背後は窓になっており、二つの山の頂を望むことができます。左手の山が妙見山(1224b)で、右手の山は差山(1358b) です。つまり、この場所は直接ご神体を祀った社殿ではなく、遥拝所であることが分かります。地元の人の話では、妙見山の山頂付近に 妙見の祠(本宮)が祀られ、その南方に遥拝所(里宮)が位置していることになります。そこには、二基の常夜燈(一基は1896年の造立) と亀石がありました。
 ところで、妙見山と里宮の方位関係を確認すると、当地の磁北のずれ西偏約6°を補正した真北ラインは妙見山の方角ではなく、 むしろ差山の山頂に寄っていることが分かります。妙見尊から見た山頂の仰角は、妙見山が手前にあるためいずれも約19°で、おそらく 実際の夜空では差山のほぼ真上約17°辺りに北極星を仰ぐことができるはずです。仮に4月上旬の夜明け前であれば、約28°西側に北斗 七星も確認できるでしょう。本来の妙見山の三角点は、現在の差山山頂付近であることから、おそらくかつてはこの山域全体が妙見山で あったと推察されます。遥拝所は、山上にある本宮へ登ることなく里から参拝できるように建立されたものですが、こうした位置関係を 考慮すると北辰・北斗の星そのものが信仰の対象となっていた可能性を感じます。

〈左〉里宮(右下赤い屋根)と背後の妙見山 /〈右〉妙見尊内部と北向きの窓

【西日本の妙見】
《 大阪府 》
交野市:多くの星伝説が生まれた星田地区。その主体を成しているのが妙見宮です。現在は小松神社と称し、祭神は天之御中主神ほか 二柱を祀ります。境内には鎮宅霊符社が別に祀られており、太上神仙鎮宅霊符(七十二の護符を刷ったもの)を頒布する数少ない霊場の ひとつとなっています。妙見宮の由来は、弘法大師と七星降臨によるものですが、ここでは妙見宮以外にも二ヵ所(星の森と光林寺)に 降臨しており、いずれも妙見宮から遠望することができます。三ヵ所では天降った星が影向石となり、それぞれの御神体になっています。
 妙見宮を管理しているのは星田神社で、祭神は住吉三神(底筒男命、中筒男命、上筒男命)と神功皇后です。星田には、天野川や天田 神社など七夕説話にかかわる伝承もあり、古い歴史が息衝く地域といえるでしょう。

〈左〉星田の妙見宮 /〈右〉妙見宮のご神体

能勢町:能勢山(660b)は、大阪府と兵庫県の境界に位置し、山頂付近は日蓮宗の霊場として広く信仰を集めています。当地の妙見は 能勢氏と日蓮宗の強い結び付きによって定着化が図られてきましたが、周辺地域では多くの講が組織され、そうした講中によって造立さ れたとみられる石造物(常夜燈や丁石など)が散見されます。たとえば、豊能町では八朔である9月1日に妙見さんにお参りするといわれ ます。また、鉱山を舞台にして妙見山や妙見信仰との関わりも指摘されています。
 ところで、東京都墨田区には能勢妙見唯一の別院があり、縁起によると1774(安永3)年に当時の能勢家下屋敷内に妙見堂を建立して 祀ったのがはじまりとされています。別院に掲げられた扁額には、左右に対称の北斗(剣つき)が描かれていますが、本山にも講中によ って奉納された額に北斗七星の意匠が認められます。

〈左〉能勢妙見の霊場 /〈右〉東京別院の扁額

《 山口県 》
下松市:当該地域の妙見信仰は、他の地域よりも複雑な変遷をたどっています。現在のこされている主な遺跡や社寺は下松駅前の金輪神社 と鼎の松、中市の妙見宮鷲頭寺、そして吉原の降松神社若宮、鷲頭山の中宮と上宮です。この地で大内氏一族の氏神として祀られていた 妙見菩薩(妙見神)は、その後祖先伝説が形成される過程で琳聖太子と関連付けられ、鷲頭山妙見宮から氷上山への分祀へと繋がっていき ます。なお、鼎の松は星(北辰)が降臨した樹で、それを鼎大明神として祀っているのが金輪神社です。信仰の中心となっているのは降松 神社で、ここから事実上の妙見山である鷲頭山の二つの宮を遥拝することができます。位置的にみると、若宮から鷲頭山を望むラインは 南東方向ですが、中宮と上宮ではほぼ南北方向の関係にあり、妙見本宮である中宮から北辰(上宮)を拝するかたちになっています。
 降松神社の祭神は、天之御中主神で妙見菩薩と同じです。こうした神仏混淆の祭祀は、明治時代の神仏分離政策によって断ち切られま したが、下松では降松神社の別当寺の一つが転出し妙見宮鷲頭寺として存続しています。しかも、寺院でありながら鳥居や狛犬を有すると いう神仏混淆の姿を留めているのです。なお、妙見宮の本堂には「北辰閣」の扁額が掲げられていて、地元民の信仰の息吹を実感しました。

〈左〉星が降臨した鼎の松 /〈右〉降松神社若宮の鳥居

《 徳島県 》
鳴門市:徳島県には多くの妙見神社が存在するようですが、これは鳴門市北殿町の妙見山公園山頂に祀られた一社です。かつて撫養城が あった場所で、沿革によれば1830(天保1)年に旧城主であった四宮加賀守の子孫と撫養町林崎郷の近藤利兵衛氏が妙見神社として再建したと されています。祭神は天之御中主神で、神紋は九曜紋です。境内には、奉納された石造物が多くみられ、このうち1865(慶應1)年造立の常夜 燈には「江戸廻舩中」の銘が刻まれていました。先の近藤利兵衛もその一人で、鳥居建立の発願主となるなど神社の再建に尽力したことがよく 分かります。函館市の高田屋嘉兵衛のように、西日本でも廻船業者と妙見信仰の深いかかわりを知る格好の事例といえるでしょう。
《 高知県 》
四万十市:不破地区の星神社社殿は、四万十川畔の小高い場所に建ち、樹林地に囲まれていました。これより一段下にも別な社殿がありま すが、こちらは神額に「星神社」とともに併記されている神社でしょうか。高知県内の星神社は、神社誌に記載されたものだけで111社に及ぶ といわれ、そのほとんどが妙見社であったようです〔文0065〕。したがって、祭神も多くは天之御中主神を祀っています。一部の地域では、 降星説話が伝承されている事例があり、さらに四万十市では七星剣が発見されているという事情も考慮すると、総体的に妙見信仰がさかんで あったことが分かります。

〈左〉鳴門妙見神社の奉納常夜灯 /〈右〉四万十市の星神社

《 熊本県 》
八代市:妙見町にある八代神社が、かつての妙見宮です。由緒によると、伝来は古く680(白鳳9)年に日深、手長、定早の三神に変化して 遣唐使の寄港地から八代郡八千把村竹原の津に来朝したと伝えられています。795(延暦14)年には三宝山横嶽に上宮が創建され、1160 (永暦1)年になると横嶽の麓に中宮寺が、そして1186(文治2)年に現八代神社である妙見宮下宮が創建されたとあります。鳥居の神額は、 今も「妙見宮」となっており、常夜灯や手水舎の屋根瓦などに往時の面影を認めることができます。毎年11月22〜23日に開催される秋季例大祭 (妙見祭)は、その神幸行事としてよく知られています。
 ところで、八代神社の東側の丘上には霊符神社が鎮座しています。由緒では、旧白木神宮寺の社僧による宮寺で、1650(慶安3)年一乗坊の 僧梵行院秀安が妙見山の赤土山の上に堂を建立し、霊符尊像を祀ったとされ、その後医王寺に移され安置されているそうです。参道には三つの 鳥居がありますが、第三の鳥居だけが朱色に塗られ、最後の登りとなる階段北側の小さな広場からは八代神社の境内と市内を遠望することが できます。社殿がほぼ南向きであることは、北辰を祀るという意識が反映されているのかもしれません。
 霊符神社は八代神社の末社という位置づけですが、実際の管理等は地元の町内会が行っており、人々にとっては独立した神社であるとの強い 自負心があるようです。なお、地元の関係者宅に再版された霊符がのこされていました。
苓北町:都呂々地区の海岸線に、大きな岩塊から流れ落ちる見事な滝があります。そこに祀られているのが妙見社で、小さな鳥居と社殿を 認めることができます。付近に民家はなく、まさに神降る霊地として古くから崇められていたことでしょう。地元では「妙見様は星の神様」 として漁師らに篤く信仰されています。

〈左上〉八代神社(妙見宮) /〈右上〉八代の霊符神社 /〈下〉苓北町の妙見社と滝

《 大分県 》
宇佐市:剣星寺は宇佐神宮の南方、旧安心院町にある曹洞宗の寺院で、その境内に「星堂」と呼ばれる小さな堂宇があります。昔、天より 一振りの剣とともに降った星を祀ったとされ、いわゆる降星伝説の地と考えられます。また、この寺院の南門付近には、やはり天降ったと される大きな岩が六つあり、さらに境内にも一つあって、これらを合わせて七つ石と呼んでいます。
 小野龍胆氏は『史説集其2』〔文0399〕の「剣星寺縁起成文」において、この降星にまつわる史料をいくつか紹介しています。そのひとつ 『大巌寺縁起』に、978(天元1)年天台の高僧である浄蔵が護法のため北斗七星を祈り落とし、その星と宝剣を袖に納めて剣ヶ岳から飛んだ とき、忽然と一童子が現れて伽藍の建立を訓えて宝剣を授けたとあります。これが『剣星寺縁起』では、浄蔵法師が修行を積んで天に向かい 専念祈誓を籠めたところ、十七日の夜に七個の隕石が落下、二十七日にして白米が降り、三十七日に一体の星辰と一振りの宝剣が降り来りと なっています。つまり、現在見られる七つ石は北斗七星であり、その後に落ちた星は宝剣を携えた妙見であったと考えられます。童子の姿で 示現する妙見の話は、千葉氏の祖とされる平良文の伝承でも語られていますので、一般的な起源譚として定着していたのかもしれません。
 ところで、剣星寺では毎年8月7日に「七夕踊り」と称する行事があり、境内に立てられた七夕飾りを中心に、三つの地区の人びとが口説 き手の唄(口説)に合わせて踊ります。本来は、盆に行われていた初盆を供養するための踊りが変化したものとされています。口説きにはいく つかの形式があり、このうち一口口説と呼ばれるものの中に、一つだけ降星伝説とのかかわりが認められる唄がありました。「七つ星さま  六つこそござれ 一つは深見の剣星寺」というのがそれです。『日本星名辞典』〔文0168〕には、類似の伝承として「七つ星さまは六つこそご ざれ、一つは深見の竜泉寺」というのがあり、こちらは剣星寺ではなく、竜泉寺となっています。現在、深見地区に竜泉寺は見当たりませんが、 かつては剣星寺からさらに南へ下った福貴野の滝付近に存在したらしいという情報を聞き取り調査で得たものの、詳しいことは不明です。
 再び、剣星寺にある七つの大きな石にもどると、天降った北斗の六星が境内の外にあり、残りの一星が山門を入ったすぐ左手にのこされて いることになります。おそらく、一口口説の歌詞はこうした関係を表現したものかもしれません。そして、星堂に祀られた星とは、妙見尊その ものであると推察されます。

〈左〉剣星寺の星堂 /〈右〉天降った七つ石

【妙見の伝承と習俗】
 妙見をめぐる民間信仰としての伝承や習俗から、星の民俗にかかわるものをまとめてみました。妙見そのものだけでなく、北辰や北斗 なども含めた範囲で整理したいと思います。
《 星名伝承 》
 妙見の語を星名に取り入れた事例は、それほど多くはありません。従来の資料では、青森県や東京都、新潟県、長野県、静岡県、広島県、 大分県などでミョウケンボシが記録されています〔文0167、0168〕。調査では、かつて埼玉県南西部の山口貯水池(狭山湖)湖底にあった 旧縄竹村で北極星をミョウケンサマと呼んでいたほか、ミョウケン(神奈川県津久井町/現相模原市)、キタノミョウケン(東京都 奥多摩町)の記録があります。また、福島県白河市ではホクシンという星名が伝承されていたほか、青森県八戸市と新潟県両津市(現佐渡 市)でイカ釣り漁師らがホクセイと呼ぶ星がありました。ホクシンは、言うまでもなく北辰、つまり北極星のことです。ホクセイも北星の 意味で、やはり北の中心となる星を指しています。
 妙見信仰では、もともと北辰を祀ることが本義でした。やがて北辰と北斗が一体となった信仰へと変化し、近世以降はほぼ妙見=北斗と いう見方が定着しています。しかし、これまでに紹介した星名伝承をみると、ほぼこぐま座の北極星を対象としたものとなっており、北斗 七星に対する事例はみられません。これは、星名の発生が信仰そのものにあるのではなく、民間伝承としての知識から発想されたことを 示しているような気がします。
《 有形文化財 》
 一般的にはかなり広い範囲に及びますが、妙見信仰に関して日常的に確認されるものといえば、社寺の境内や路傍、墓地などにのこされた 石造物が主体となります。いわゆる妙見塔ですが、造立はほぼ近世以降に絞られ、いくつかの形態に分けることができます。
A 文字だけで構成された石塔
B 文字+像容(多くは妙見菩薩)で構成された石塔
C AあるいはBに星辰像が付加された石塔
D その他の構成となる石塔
 Aで最も多いのは「妙見大菩薩」「北辰妙見大菩薩」などで、各地にあります。このうち神奈川県を中心とした一部の地域では、特徴的 な字体で「北辰妙(明)見星」と刻む数多くの石塔が確認されています。これらは、富士講の信仰集団によって造立されたものですが、 山北町では47基を数え、このうち湯坂地区に27基が集中しています〔『足柄の冨士講』文0406〕。これらの石塔には「名山寿行」という 銘が多くみられ、冨士講の先達加藤平左エ門の行名とされています。湯坂に基数が多いのは、この地区に妙見社が祀られていること、そして 地区を統括する講が加藤平左エ門によって起こされたことと深くかかわっているようです。ただし、小林謙光氏によると、湯坂でいう妙見 は「一般に信仰されている妙見菩薩とは異なり、名山寿行による富士信仰と星辰信仰を結び習合させた厄除けのための個人祭祀碑である」 ということです。因みに石塔は明治24年から造られますが、妙見講の創立は明治39年となっており、星辰信仰を代表する祈願の対象として 後から妙見社を祀ったのではないかとの推測も可能です。したがって、これら特殊な石塔類については純粋な妙見塔とはいえないものの、 富士信仰との習合を示唆する貴重な文化財であることに変わりはないものと考えられます。名山寿行の石塔は、隣接する開成町でも冨士講 碑の一部として複数基造立されているほか、山梨県塩山市の山中に分け入った集落には、妙見大菩薩の石塔と富士講碑の二基が道路を挟んで 祀られていますので、富士講と星辰信仰としての妙見のかかわりは意外に身近な存在といえるかもしれません。
 Bの像容に関しては、調査の事例数が少なく特性を見出すことはできませんが、時代背景との関連で剣を持つ姿がひとつのポイントと なるでしょう。また、Cのタイプでは星辰像を有する石塔が妙見塔以外にもあるという状況を十分に理解しておく必要があります。星辰像は ほとんどが北斗七星を意匠化したもので、星の配置を正しく表現した事例は少ないようです。各地の詳しい情報については、別項で 星の意匠 としてまとめましたので、そちらを 参照してください。

〈左〉名山の銘をもつ石塔 /〈中〉妙見菩薩像 /〈右〉霊符神を祀る石塔

《 そ の 他 》
 妙見信仰では、北斗七星との関係から「七」にかかわる伝承や遺物がのこされています。埼玉県秩父市の「七つ井戸」もそのひとつで、 これらは秩父神社(妙見宮)の北側で国道140号線に沿う約1.3`の区域に点在しています。このうち第四、第五、第六の井戸では、1983年 の調査時に水が湧き出ていましたが、他の3ヵ所(第一・第二・第七)はすでに埋め立てられ、残る1ヵ所(第三)も水がたまる程度の状況 となっていました。このような井戸は、荒川右岸の中位段丘の麓から湧出している清水を利用して造られたものといわれ、七つ井戸に限らず 他にもたくさん存在していたようです。
 かつて、この地域に祀られた妙見宮は、これら七つの井戸を渡って秩父神社に合祀されたという伝承があります〔文0125〕。おそらく、 井戸そのものが遷座の道ではなく、各遷座地で利用されていた7ヵ所を妙見にゆかりの井戸として選定したものと思われます。水との縁が 深いといわれる妙見信仰の一端を示す事例といえるでしょう。

〈左〉第四の井戸 /〈中〉第五の井戸 /〈右〉第六の井戸