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 事件の概要と経過

三鷹事件とは?

 1949年7月15日、国鉄中央線三鷹駅に隣接した三鷹電車区に入庫中の電車が突然暴走し、三鷹駅の車止めを突破、駅の乗降客6名を死亡、12名を負傷させた。
 7月17日に、三鷹電車区及び中野電車区の分会長が逮捕され、以後、竹内景助さんを含む計10名を実行犯として、2名を偽証罪で逮捕・起訴した。翌50年8月の判決では、共産党と組合の共同謀議に基づく共同犯行という検察側の主張を「空中楼閣」として退け、竹内被告の単独犯行と断定した。

竹内景助さんは再審開始目前に獄死した!

 1951年の東京高裁での第2審は、1回の事実調べもすることなく竹内被告に死刑判決を下し、その他被告を無罪とした。
 1955年、最高裁は8対7でその死刑を確定した。
 その後、竹内氏は無実を叫び1956年より再審請求を続けたが、裁判所が事実調べに入り始めた矢先の1967年1月に脳腫瘍のため無念の獄死をとげた。
 竹内景助氏は1審・2審と自らの単独犯行を認めてきたが、東京高裁での死刑判決以降、一貫して無実を主張した。竹内氏は「単独犯行を認めたのは弁護士に説得されたからだ」と明らかにし、亡くなるまでその主張を変えなかった。

竹内景助さんの死後44年、第二次再審請求

 2011年11月10日、竹内景助さんの死後44年を経て、遺族・弁護団が無念を晴らすべく再審を申し立てた。
 今回の請求は、第二次再審請求となるが、第一次請求に対して棄却決定がされていないため、当時の提出証拠もすべて有効な新証拠となる。
 弁護団の主張は「最終意見書」をご参照ください。

   意見書ダイジェスト版 クリック

 
 

 

竹内景助氏
竹内景助さん

事件当時は国鉄(現在のJR)を集団解雇され、5人の子どもを養うために納豆とキャンディーを売りながら就職活動中。逮捕された時には消防署への再就職が決まる直前でした。
詳細は再審請求書および左記「最終意見書」をご覧ください。