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新宿駅西口バス放火事件

1980年(昭和55年)8月19日午後9時過ぎ、勤め帰りのOLや、ナイターを見た親子ら30人が、新宿駅西口のバスターミナルの京王帝都バス(現・京王電鉄バス)、新宿発・中野行きバスに乗車して発車するのを待っている間の出来事だった。

中年の男が火のついた新聞紙と4リットルのガソリンが入ったバケツを後部座席に向かって投げ込んだ。火はまたたく間に車内に広がり、乗客が逃げ惑う惨状となった。後部座席に座っていたため、まともにガソリンをかぶった3人は全身火だるまになり座席に座ったまま焼死。

これによって、6人が死亡、14人が重軽傷を負うことになった。

犯人は現場から立ち去ろうとするところを通行人に取り押さえられた。住所不定の建設作業員の丸山博文(ひろふみ/当時38歳)であった。

1942年(昭和17年)、丸山博文は、北九州市で5人兄弟の末っ子として生まれた。父親は定職を持たない酒飲みで離婚していた。母親が懸命に家計を支えてきたが、1945年(昭和20年)9月17日の枕崎台風(死者・行方不明者3756人)で、倒壊家屋の下敷きになって死んだ。貧困であったが、なんとか義務教育を終え、とび職見習いや農家の手伝いなどをして働いてきた。

1972年(昭和47年)、山口県岩国市で建築作業員をしていたとき、知り合った女性と結婚、長男が生まれたが、酒好きの妻は男にだらしなく、翌年に離婚した。妻は精神疾患と診断され入院。丸山は生後、間もない長男を施設に預け仕事を求めて大阪、静岡を転々とした。

生来、小心で真面目な性格だから、上京後も建設作業員として作業員宿舎や簡易宿泊所に泊まりながら働き、施設の息子に毎月、4、5万の送金を欠かしたことはなかった。

1973年(昭和48年)10月3日、アルコールの力を借りてアパートに住む若い女性の部屋に侵入して逮捕された。だが、精神分裂病と診断されて不起訴となった。

「精神分裂病」という名称は “schizophrenia”(シゾフレニア)を訳したものだが、2002年(平成14年)の夏から「統合失調症」という名称に変更されている。

1980年(昭和55年)3月ごろから、宿泊費節約のため、新宿駅西口辺りでときどき、ごろ寝するようになった。春が過ぎて夏になり、お盆に入ると人々は、故郷へ帰るが、丸山には帰るべき故郷がない。気晴らしに多摩川競艇に行ったが、なけなしの1万円をスッてしまう。

犯行当日の8月19日、酒屋で日本酒の小瓶を買い、新宿駅の地下通路に通じる階段に腰掛け、コップ酒を飲み始めた。ちょっと、いい気分になってきたとき、通行人から罵声が飛んできた。

「邪魔だな。あっちへいけ!」

その声で、体じゅうの血が逆流した。思わず立ち上がったが、雑踏の中なので、誰が言ったのか分からなかった。

だが、帰宅途中のサラリーマンに違いない。奴らは高い給料をもらい、郊外のきれいな家に住んでいるが、俺にはそんなねぐらもなければ、家族もいない。これまで、ずっと毎日、真面目に働いてきたというのに・・・。

丸山は残りの酒を一気に飲み干すと、床に散らばっていた新聞紙を拾い上げ、手荒く丸めた・・・。

刑法108条では、「放火により、現に人が住居に使用しまたは人がいる建造物、汽車、電車、船舶、鉱坑を焼損すると現住建造物等放火罪になり、死刑または無期、あるいは5年以上の懲役」と規定しているが、ここに「バス」は含まれていない。

だが、バスも汽車や電車に準ずるものとして、刑法108条を適用すべきだったが、判例がなく学説も分かれている関係から刑法110条の建造物等以外放火罪と殺人で裁判が行なわれている。

刑法110条・・・放火により、108条と109条に規定する物以外の物を焼損し、公共の危険を生じさせると建造物等以外放火罪となり、1年以上10年以下の懲役。

刑法109条・・・放火して、現に人が住居に使用せず、かつ、現に人がいない建造物、艦船又は鉱坑を焼損した者は、2年以上の有期懲役に処する。

刑法199条・・・人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上(当時は「3年以上」/2005年1月1日施行の改正刑法で「5年以上」になった)の懲役に処する。

1984年(昭和59年)4月24日、東京地裁は、丸山に軽度の精神遅滞の入院歴があることや、犯行当時、是非善悪を弁識し、それに従って行動する能力が甚だしく低下した心神耗弱状態にあったとして、無期懲役の判決を下したが、検察は控訴した。

1986年(昭和61年)8月26日、東京高裁も1審を支持し、無期懲役の判決だった。

判決文を聞いた丸山は誤解したらしく、「罪にならないんですね」と言って、傍聴席に向かって、「ごめんなさい」と言いながら土下座した。

1997年(平成9年)10月7日、千葉刑務所で丸山は昼食後に「メガネを仕事場に置き忘れた」と言って、作業場に向かったが、戻らず、職員が捜したところ、作業場の配管にビニールひもをかけ首吊り自殺していた。遺書はなかった。その後、病院に運ばれたが、同日、死亡した。55歳だった。

翌1998年(平成10年)4月16日、マスコミが丸山が自殺によって死亡したことを報じた。

この事件で全身80%の大火傷を負ったが、奇跡的に回復した杉原美津子(1944年、生まれ)が、1983年(昭和58年)1月、 『生きてみたいもう一度』と題した手記を文藝春秋から出版した。杉原は編集プロダクションに勤めており、そこの社長と不倫関係にあった。常日頃、そのことで悩んでいたときにこの事件に遭遇した。罪の意識に苛まれ、一瞬、死のうと思い、逃げることを躊躇してしまったため大火傷を負ってしまう。退院後、不倫相手の社長と一緒に生活をするが、心中しようとして失敗する。

手記『生きてみたいもう一度』を元に製作された映画に同名タイトルの『生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件』(DVD/監督・恩地日出夫/主演・桃井かおり/2014)がある。

杉原美津子はその後も次のような本を出版しているが、高齢者福祉問題に取り組んだ著書もある。

『老いたる父と』(文藝春秋/1989) / 『炎のなかの絆』(文藝春秋/1992) / 『命、響きあうときへ』(文藝春秋/1995) / 『他人同士で暮らす老後 高齢者専用マンションの四季』(文藝春秋/1999) / 『ふたたび、生きて、愛して、考えたこと』(トランスビュー/2010) / 『炎を越えて 新宿西口バス放火事件後三十四年の軌跡』
(文藝春秋/2014)

また、杉原は拘置所にいる丸山と一度面会しており、裁判で丸山が死刑を免れたのは、杉原が「寛大な刑を」と上申したことがあったからと言われているが、弁護人として安田好弘が弁護を担当したことで死刑判決を回避させたとも言われている。

安田好弘・・・1947年、兵庫県生まれの弁護士。第2東京弁護士会所属。1975年、一橋大学法学部卒業。1977年、司法試験合格。1980年、司法修習終了。同年8月19日の新宿駅西口バス放火事件などの有名な死刑求刑事件で弁護を担当し、無期懲役判決で確定。その後、オウム真理教(現・アレフ)の麻原彰晃(死刑確定)の主任弁護人や1998年(平成10年)7月の和歌山毒カレー殺人事件(被告人・林真須美/死刑確定)、1999年(平成11年)4月の山口母子殺人事件(被告人・福田孝行/死刑確定)や耐震偽装マンション事件(被告人・ヒューザーの小嶋進社長/東京高裁で懲役3年・執行猶予5年が確定)など世間を騒がせた重大事件の被告人の弁護に当っている。安田はマスコミから極悪人のレッテルを貼られた人間を、正当な裁判もないまま葬ってしまおうとする昨今の風潮を民主主義の危機として強く危惧している。また、そうした風潮が、近代法の前提たる推定無罪原則からの司法の逸脱を許しているとして、世論に迎合する司法の堕落ぶりも批判している。主な著書・・・『「生きる」という権利 麻原彰晃主任弁護人の手記』(講談社/2005) / 『死刑弁護人 生きるという権利』

実は杉原の兄の石井義治(当時39歳)が報道カメラマンをしており、偶然にも、たまたまこの事件に遭遇し燃え盛るバスを写真に撮っている。兄はあとになって、妹が現場の被害者になっていたことが分かり、愕然とする。翌日の『読売新聞』にこのときの写真が載ったが、この日以来、兄は報道写真の世界から身を引くことになる。

参考文献・・・
『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)

『犯罪地獄変』(水声社/犯罪地獄変編集部/1999)
『刑法の基礎と盲点』(講談社/河上和雄/1999)
『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)
『新潮45』(2003年3月号)
『毎日新聞』(1998年4月16日付)

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