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正木ひろし弁護士の「首なし事件」

1944年(昭和19年)1月20日、茨城県長倉村(現・常陸大宮市/以下同)の加最(かさい)炭鉱長倉採鉱所現場主任の大槻徹(46歳)が賭博容疑で大宮町(現・常陸大宮市)の大宮警察署に逮捕された。その取り調べにはO巡査部長(当時34歳)が当った。
1月23日、加最炭鉱社長の佐藤勝子(当時44歳)は、「前日の午前4時半ころ、大槻が脳溢血により死亡した」という知らせを受けた。佐藤は頑健な大槻が脳溢血で死ぬことが信じられなかった。警察の拷問で殺されたかもしれないと思い、知り合いの弁護士の正木ひろし(本名は「日」の下に「大」と書いて「ひろし」と読む/本人は「正木ひろし」「まさき・ひろし」を好んで用いた/当時47歳)に調査を依頼した。
正木は中学教師、雑誌記者などを経て、1927年(昭和2年)に弁護士になったが、民事が専門だった。だが、持ち前の正義感から佐藤の依頼を受けることにした。
1月24日、正木は佐藤とともに司法省刑事局に行き、大槻を解剖することとその現場に立ち会わせてくれるよう申し入れた。
翌25日、正木は担当に決まった井出簾三検事に会い、解剖の有無、あるとすればその日時と場所を訊いたが、井出検事は未定だと言った。そこで、正木は井出検事に対し、今回の大槻の死亡に関する疑問点をぶつけてみたが、井出検事はそれを聞こうとはせず、逆に、正木がいつ現地に行くのか気になってしきりにそのことを訊いた。正木は東京での解剖を望んでいたので、現地に行くことは考えていなかったが、不熱心なヤツと思われたくなかったため、咄嗟に「明日行きます」と答えてしまった。そこで、同日夕方、井出検事の命令によって、高橋禎一次席検事が警察医の青柳兼之助とともに墓地に行き、アセチレンのカンテラ光で、1時間もかけずに解剖全部を終えて、周囲に集まっていた遺族や炭鉱の人びとに向かって、「やはり死因は脳溢血に間違いなかった。解剖も終わったのだから、早く遺骨を郷里にもっていくように」と言った。
日本では昭和初期以降になると宗教上の理由というより、衛生面や墓地のスペースの確保が困難などの理由で火葬が増加、現在では火葬の割合は100%近くに達している。日本の法律の中に、墓地、埋葬等に関する法律があり、第2条に「埋葬」とは、死体を土中に葬ること、「火葬」とは、死体を葬るために、これを焼くこと、「墳墓」とは、死体を埋葬し、または焼骨を埋蔵する施設、と明記されている。これらの定義から判断すると、遺体を火葬した焼骨ではなく、遺体を火葬せずにそのまま埋葬できると解釈することができるので、土葬を行うことは可能となる。可能とはいえ、土葬は火葬と違って、特別な許可を受ける必要があり、条例などで土葬を禁止している地域もある。墓地、埋葬等に関する法律の第5条に、「埋葬、火葬または改葬を行おうとする者は、厚生労働省で定めるところにより、市町村長の許可を受けなければならない」と定められていて、火葬に限らず、土葬を行うときにも許可が必要になる。土葬を行う場合に必要な許可は「土葬許可証」で土葬許可証は死亡届を提出した市区町村の許可が必要になる。この土葬許可証を墓地管理者に提出して、墓地管理者の許可を得て、はじめて土葬を行うことが可能になる。東京都を含め大阪府、名古屋市などの都市部では、土葬自体を禁止していたり、土葬を禁止していない地域でも、土葬をするときは2m以上の深さを掘らなければならないと、決められている地域もある。日本で土葬ができる地域は、ごく限られた地域になり、今でも土葬ができる地域は、山梨県や岐阜県、茨城県、宮城県、栃木県、鳥取県、高知県、北海道などの一部の地域である。
翌26日、正木が長倉村に入り、佐藤社長や関係者から事情を聞き、O巡査部長が宴会の席上で大槻にヤキを入れていると言っているという情報を得た。
翌27日、正木は密かに墓を掘り起こし、遺体に多数の殴打の痕があるのを確認した。拷問による虐殺と確信した正木は、東大医学部法医学教室の古畑種基教授(当時52歳)に協力を依頼した。
2月1日正午前、正木は2人の炭鉱夫に手伝ってもらい、墓から寝棺を掘り出し、古畑教授の依頼でやってきた職員がメスとノコギリを使って、手早く遺体の首を切り取った。
翌2日、東大法医学教室で古畑教授により首が解剖された。その結果、死因は鈍器の強打による軟脳膜下出血で、撲殺とされた。当時、古畑教授は法医学の最高権威であり、その鑑定結果を得て、これでO巡査部長を有罪にできると確信した。
だが、そうはいかなかった。古畑の撲殺鑑定が公表されると、警察と検察は一体となって病死説を強調した。さらに、裁判所までが拷問の存在を否定しようと動いた。当時は、自白は証拠の王であり、その他の証拠はなくてもいいものとされていた。だから、自白を得るためには拷問もやむを得ないという法曹界の暗黙の了解があった。さらに、検察内部では逆に正木を墳墓発掘、死体損壊罪で起訴すべきだという意見が出てきた。
刑法189条(墳墓発掘)・・・墳墓を発掘した者は、2年以下の懲役に処する。
刑法190条(死体損壊等)・・・死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3年以下の懲役に処する。
刑法191条(墳墓発掘死体損壊等)・・・第189条の罪を犯して、死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3月以上5年以下の懲役に処する。
正木は1937年(昭和12年)から個人雑誌『近きより』を発刊していたが、雑誌主催の「失明軍人慰問素人美術展」も定期的に開催していた。雑誌購読者、美術展出品者のほとんどは法曹界の人たちだった。岩村司法大臣も常連として顔なじみだった。正木はこれらの人たちとも交友を通じて、法に仕える人間は社会正義を第一に行動するものだと信じていたが、その信頼が甘かったことを思い知らされた。
2月19日、正木は岩村司法大臣に直接面会し、「早くOを起訴してほしい」と申し出た。だが、岩村大臣は「古畑も医師なら青柳も医師。どちらも正しいと言えるものではない」と叱るように言った。正木はすかさず、「身体のほうにも棒で殴ったような傷があるんです」と言った。すると、岩村大臣は「古畑ともあろうものが、それを鑑定していないのはどういうことなんだ」と吐き捨てるように言った。正木は「胴体は長倉にあって鑑定の命令を受けていません」と答えた。
2月23日、岩村大臣の命令で、古畑教授と慶応大学法医学の中館久平主任教授が胴体鑑定のため墓地に行って棺を開いた。鑑定の結果、大槻の胸部に生前にこづかれたような擦過傷十数個が発見された。
2月25日、東京控訴院(現・東京高等裁判所/以下同)検事局の村上常太郎次席検事は大槻の頭部を東大から慶応医学部に移し、中館教授に古畑鑑定の再鑑定を命じたが、その結果も同じであった。
3月3日、鑑定の結果により、井出検事を退け、新たに市島成一検事が担当となった。
4月8日、O巡査部長が特別公務員暴行陵虐致死罪で起訴、収監される。
刑法195条(特別公務員暴行陵虐)・・・裁判、検察若しくは警察の職務を行う者又はこれらの職務を補助する者が、その職務を行うに当たり、被告人、被疑者その他の者に対して暴行又は陵辱若しくは加虐の行為をしたときは、7年以下の懲役又は禁錮に処する。
2 法令により拘禁された者を看守し又は護送する者がその拘禁された者に対して暴行又は陵辱若しくは加虐の行為をしたときも、前項と同様とする。
刑法196条(特別公務員職権濫用等致死傷)・・・前2条の罪を犯し、よって人を死傷させた者は、傷害の罪と比較して、重い刑により処断する。
刑法204条(傷害)・・・人の身体を傷害した者は、15年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
9月14日、水戸地裁(牛山毅裁判長/高橋禎一検事)で初公判が開かれた。出廷したO巡査部長は手錠をかけられていなかった。公判では検察側は古畑教授の証人申請を行わず、論告で被告人は無罪であると主張した。明らかに不公平な裁判だった。
10月22日、裁判が異常であると批判した記事を掲載した『近きより』第8巻第8号が発送されたが、翌日、発禁処分を受ける。だが、これを読んだ石原莞爾陸軍中将、右翼の大川周明らから正木へ励ましの手紙がきた。検察内部にも密かに正木を応援する者が現れた。
11月18日、水戸地裁はO巡査部長に対し無罪を言い渡した。
11月24日、東京控訴院検事長より上告命令。水戸地裁は上告しないつもりだった。
1945年(昭和20年)5月25日、大審院(現・最高裁)第2刑事部 空襲により記録消失。正木が所持していた写しを貸す。水戸地裁へ訴訟継続を命ずる。
1946年(昭和21年)2月21日、水戸地裁(早野儀三裁判長/大久保重太郎検事のちに加藤成正検事)再開。
11月12日、水戸地裁で無罪判決。検事側が控訴。
1947年(昭和22年)2月10日、控訴院第5刑事部(谷中薫裁判長/寺田輝雄検事)控訴審初公判開始。
5月、日本国憲法施行によって大審院から最高裁判所、東京控訴院から東京高等裁判所に名称変更。
1948年(昭和23年)8月12日、東京高裁は懲役3年を言い渡した。
8月16日、被告側が上告。
1949年(昭和24年)1月13日、最高裁、上告審初公判。
1952年(昭和27年)12月25日、最高裁(沢田竹次郎裁判長)は有罪の証拠が乏しいことを理由に破棄差し戻し。
1953年(昭和28年)2月21日、東京高裁第12刑事部 差し戻し審開始。
1954年(昭和29年)5月29日、東京高裁(坂間隆司裁判長)で懲役3年の判決。被告側が上告。

1955年(昭和30年)12月16日、最高裁(栗山裁判長)は上告を棄却し、懲役3年が確定した。

この「首なし事件」は戦中、戦後の12年間を裁判所を転々としながら続いた。その間、民事専門だった正木は刑事事件の敏腕弁護士へと変わっていった。そして、戦後の多くの有名冤罪事件の八海(やかい)事件(1951年)、白鳥(しらとり)事件(1952年)、菅生(すごう)事件(1952年)、丸正(まるしょう)事件(1955年)などを手掛けることになる。

白鳥事件・・・1952年(昭和27年)1月21日夜、札幌市内の路上で市警警備課長の白鳥一雄(36歳)が拳銃で射殺された。その後、20人近い日本共産党員が芋づる式に検挙され、集中的な弾圧捜査が行なわれた。10月、共産党札幌委員会委員長の村上国治が逮捕され、2年10ヵ月の勾留後、殺人の共謀共同正犯で起訴された。このとき、他に2人、起訴されている。法廷では謀議の有無、伝聞証拠の違法性などが争われたが、最大の焦点は唯一の物証である遺体から摘出された弾丸と試射現場土中から発見された2発の弾丸が同一か、また、同一の拳銃から発射されたものであったかどうかということであった。土中に長時間埋没していたにもかかわらず試射弾には腐食割れがなく、また、3個の弾丸は線条痕(銃から発射された弾丸に付く線条の模様のことで、それぞれの銃にはそれ特有の線の模様が付く)が違うので1丁の拳銃から発射されたものなどではなく、物証の捏造が科学的に明らかになった。また、事件発生5ヶ月後、札幌信用組合元従業員の原田政雄が、首謀者は札幌信用組合理事長の佐藤英明、実行者は拳銃殺人の前科がある東出四郎と公表したが、別件で逮捕された佐藤は保釈中の1952年(昭和27年)12月23日、黒い疑惑の中で自殺してしまった。1957年(昭和32年)5月、札幌地裁は村上に無期懲役の判決を下した。1960年(昭和35年)6月、札幌高裁で懲役20年の判決。1963年(昭和38年)10月、最高裁で上告を棄却し、懲役20年の刑が確定した。その後、村上は無実を訴えて、1965年(昭和40年)10月に再審請求を起こした。だが、1969年(昭和44年)、棄却。1971年(昭和46年)7月、異議申し立て棄却。1975年(昭和50年)5月、最高裁で特別抗告棄却となった。しかし、この間、ひとつの成果を残した。従来、再審の開始は“開かずの門”とされてきたが、この条件を「疑わしいときは被告人の利益に」の刑事裁判の原則を適用し、確定判決の事実認定の中に合理的な疑問があれば開始してよいというレベルに緩和する判例を引き出したことである。以降、弘前事件、米谷事件、財田川事件、島田事件、松山事件などの再審への道を開くこととなった。
関連書籍・・・『白鳥事件』(新風舎文庫/山田清三郎/2005) / 『網走獄中記 白鳥事件 村上国治たたかいの記録』(日本青年出版社/村上国治/1970) / 『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』(筑摩書房/後藤篤志/2013) / 『白鳥事件 偽りの冤罪』(同時代社/渡部富哉/2012)
菅生事件・・・1952年(昭和27年)6月2日、大分県直入郡菅生村(現・竹田市菅生)の巡査駐在所でダイナマイト入りのビール瓶が爆発し、建物の一部が破壊された。警察は事前に情報を得たとしてあらかじめ100人近い警察官を張り込ませ、現場付近にいた日本共産党員2人を、続けて他の仲間3人を逮捕する。新聞記者も待機しており、各紙では日共武装組織を一斉検挙したと報じられた。破壊活動防止法は7月4日可決成立したが、この報道は法案成立の追い風にもなった。1955年(昭和30年)7月の大分地裁での1審判決では5人全員が有罪となったが、後に警察の「おとり捜査」であることが発覚し、無罪となった。
関連書籍・・・ 『消えた警官 ドキュメント菅生事件』(講談社/坂上遼/2009) / 『消えた警察官 菅生事件の真相』(現代社/清原敏孝/1957)
免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件の概要は死刑確定後再審無罪事件
正木ひろしの著書・・・
『近きより(1) 日中戦争勃発 1937〜1938』(現代教養文庫/1991)
『近きより(2) 大陸戦線拡大 1939〜1940』(現代教養文庫/1991)
『近きより(3) 日米開戦前夜 1940〜1941』(現代教養文庫/1991)
『近きより(4) 空襲警戒警報 1941〜1943』(現代教養文庫/1991)
『近きより(5) 帝国日本崩壊 1943〜1949』(現代教養文庫/1991)
『正木ひろし著作集(1) 首なし事件・プラカード事件・チャタレイ事件』(三省堂/1983)
『正木ひろし著作集(2) 八海事件』(三省堂/1983)
『正木ひろし著作集(3) 三里塚事件、菅生事件。丸正事件』(三省堂/1983)
『正木ひろし著作集(4) 社会・法律時評』(三省堂/1983)
『正木ひろし著作集(5) 弁護士さん・評論・随想』(三省堂/1983)
『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』(光文社/カッパブックス/1955)
『犯人は別にいる』(実業之日本社/鈴木忠五との共著/1960)
『首なし事件の記録 挑戦する弁護士』(講談社現代新書/1973)
『検察官 神の名において司法殺人は許されるのか』(光文社/カッパブックス/1956)
『弁護士 私の人生を変えた首なし事件』(講談社現代新書/1964)
参考文献・・・
『犯罪の昭和史 1』(作品社/1984)
『正木ひろし 事件・信念・自伝 人間の記録』(日本図書センター/正木ひろし/1999)
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)

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