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草加次郎事件

事件発生日 事件内容
1962年(昭和37年)
11月4日 品川にある歌手の島倉千代子(当時24歳)の後援会事務所に爆薬入り封筒が届き発火。
11月13日 六本木のクラブ・ホステス(当時41歳)の自宅に爆薬入り封筒が届いたが不発に終わる。
11月20日 有楽町の「ニュー東宝映画劇場」の廊下ロビーで火薬入り紙筒が発火。
11月26日 有楽町の「日比谷映画劇場」の男性トイレでボール紙の箱が爆発。
11月29日 世田谷の電話ボックスにあったケース入り『石川啄木詩集』が爆発。
12月12日 浅草の浅草寺境内でエラリー・クイーンの小説で作った爆弾を発見。
1963年(昭和38年)
5月9日〜
7月22日
(消印の日付)
渋谷区西原にある女優の吉永小百合(当時18歳)宅に計6回に渡って脅迫状が届く(1回目―5月9日消印 / 2回目―5月14日消印 / 3回目―5月23日消印 / 4回目―7月15日消印 / 5回目―7月17日消印 / 6回目―7月22日消印)。のちに女優の鰐淵晴子(当時18歳)や桑野みゆき(当時21歳)宅にも脅迫状が届けられていたことが判明するが、その日付は不明。
7月15日 上野公園でオデン屋店主が狙撃されて全治3ヶ月の重傷を負う。
7月25日 上野署にオデン屋店主を狙撃したときと同じ弾丸が入った封筒が届く。
10 9月5日 地下鉄銀座線の京橋駅構内で発車直前の電車最前部の車両座席下で爆弾破裂し乗客10人が重軽傷を負う。
11 9月6日 吉永小百合宅に映画『天国と地獄』を真似た現金受け取り方法で100万円を要求する7回目の脅迫状が届く。
[ 1 ] 1962年(昭和37年)11月4日午前11時ごろ、東京都品川区にある歌手の島倉千代子(当時24歳)の後援会事務所に差出人名のない二重になった封筒が届いた。男性事務職員(当時23歳)が封を開けると、中からボール紙を二つに折って作った、長さ13センチ、幅4センチの細長い筒が出てきた。筒の中には紙が入っており、その紙を引っぱると、シュッとマッチをすったような音がして、筒から炎と白煙があがった。驚いた職員は筒を放り投げたが、右手に2週間の火傷を負った。
島倉千代子・・・1938年(昭和13年)3月20日、東京都品川区生まれ。本名同じ。1955年(昭和30年)に『この世の花』で歌手デビュー。その後も『逢いたいなァあの人に』『からたち日記』など出す曲が次々と大ヒットとなり、1957年(昭和32年)からNHK紅白歌合戦に連続出場、1960年(昭和35年)には早くも紅組のトリを務めるなど、人気歌手の頂点に立っており、40年以上経つ現在でも人気を保ち活躍している。この事件があったときは阪神タイガース選手との婚約が発表されたあとで、島倉千代子がまだ24歳のときのことだった。
通報を受けた品川署が調べたところ、ボール紙の筒には花火から取り出した黒色火薬が詰め込んであり、筒から紙を取り出すと、中に仕込んであるマッチがこすれて火薬に引火するようになっていた。筒の表側には<祝>と<呪>という2文字が書かれ、裏には<草加次郎>と<K>と書かれていた。「草加」は「くさか」あるいは「そうか」とも読めるが、この「K」を「草加」は「くさか」と読む、という意味で「K」と書いたとも読み取れるが、不明のままだった。封筒の消印はかすれているため、< 谷>という文字しか判別できず、それが「渋谷」なのか「下谷」なのか判らなかったが、前日の3日に投函されたことは判った。
[ 2 ] 11月13日、東京都港区六本木に住むクラブ・ホステス(当時41歳)宛てにボール紙爆弾が送られていたが、不発に終わった。これには一字違いの<杉加次郎>というサインが残されていた。筆跡鑑定の結果、「草加」と同一人物と断定した。
[ 3 ] 11月20日午後5時過ぎ、東京都千代田区有楽町のニュー東宝映画劇場でアメリカ映画『渇いた太陽』(監督・リチャード・ブルックス/出演・ポール・ニューマン/1962)を見終わった女性(当時19歳)が廊下ロビーのソファーのすみにあった長さ10センチほどの紙筒を何だろうと何気なく手にすると、何かがこすれるような音がして、筒から火を噴いた。驚いた女性は筒を放り投げたが、左手に火傷を負った。筒は火薬をわら半紙で巻き、セロテープでとめただけの簡単な構造のものだった。これにも<草加次郎>のサインがあった。
[ 4 ] 11月26日午後4時半ごろ、ニュー東宝近くの日比谷映画劇場で2階の男性トイレを掃除していた女性従業員(当時47歳)が、掃除を終えて廊下に出ようとドアを開けたとたん、トイレの中で「バーン」という破裂音がした。
通報を受けた丸の内署の調べで、女性従業員が掃除していたとき、手洗い台の上に高さ15センチぐらいのボール紙の箱が置いてあり、同従業員がドアを開けたときに起きた風で筒が落下し、爆発したことが判った。さらに警視庁で鑑定した結果、ボール紙を折って作った箱には、しんちゅう製の弾丸1個と黒色火薬、乾電池が詰められ電気回路でつないであった。箱に衝撃を与えると電気が流れて発火する仕組みになっていた。これにも<草加次郎>のサインがあった。
[ 5 ] 11月29日午後5時半ごろ、東京都世田谷区玉川瀬田町の公衆電話ボックスに入った男性会社員(当時25歳)が棚の上にあったケース入りの『石川啄木詩集』を発見した。会社員は誰かの忘れ物と思い、本を手に取り、ケースと本の間に名前が書かれたしおりのような紙切れを引っぱった瞬間に爆発し、左手に5日間の火傷を負った。
本の真ん中には縦10センチ、横2センチ、深さ1センチの穴がくり抜いてあり、その穴にニクロム線を配線した電池と黒色火薬が詰められていた。しおりのような紙切れを引っぱると火薬が発火する仕組みになっていた。紙切れに書かれていた名前は<草加次郎>だった。
[ 6 ] 12月12日午後8時ごろ、東京都台東区にある観光名所として有名な浅草寺(せんそうじ)境内の観音堂前の大きな香炉台(参詣者たちが舞い上がる煙を頭や手足にふりかける光景がよく見られる)横の切り株の上にあった新書サイズのエラリー・クイーンの推理小説を夜警の同寺の警備員が発見。警備詰所に持ち帰って読もうとしたところ、本が開かない。表紙を破ると、中には火薬と乾電池2個が仕掛けられていた。爆発はしなかった。警備員は慌てて浅草署に届け出た。
[ 8 ] 翌1963年(昭和38年)7月15日、東京都台東区上野公園に隣接した不忍池(しのばずのいけ)に浮かぶ弁天堂で納涼演芸会が開かれ、大勢の客でにぎわっていたが、そこから300メートルほど離れた歩道上でオデンの屋台を開いていたT(当時27歳)は、雨が降っていて客足が途絶えていたため、午後7時45分ごろ、店閉まいをしようとノレンをおろしていたとき、後ろから何者かによって撃たれて病院に運ばれた。レントゲン撮影の結果、空気銃の弾丸のような金属片が左肩から深さ16センチの左肺まで達しており、全治3ヶ月の重傷を負った。その金属片は空気銃の弾ではなく、普通のピストルよりも小さいものだった。
[ 9 ] 7月25日、上野署に1通の封書が届いた。封筒の中には長さ1.2センチ、直径3ミリの弾丸が一発だけ入っているだけで、他に手紙らしいものはなかった。この弾丸は鑑識の結果、15日にオデンの屋台を開いていたTの体から摘出した弾丸と材質や大きさが同じであった。封筒の裏には<草加次郎>と書かれており、前年の連続爆破事件で残された「草加次郎」の筆跡と一致した。Tを狙撃したのは「草加次郎」に間違いなかった。
この頃、東横百貨店(現・東急百貨店東横店)に対して、3回に渡る「爆弾脅迫事件」が発生していた。
7月24日午後3時ごろ、東京都渋谷区の東横百貨店に、40歳ぐらいの男の声で、「デパートの制服を着た女の子に現金500万円をもたせ、3時半までに近くの映画館の渋谷東映の前に来させろ。警察へ届けたり、もって来ないと時限爆弾で店を爆破する」という脅迫電話がかかってきた。
東横百貨店ではすぐに渋谷署に連絡。渋谷署では婦警に店員の制服を着させ、500万円の札束に見せかけた包みをもたせ、周辺を張り込んだが、犯人は現れなかった。だが、午後3時55分ごろ、脅迫電話の予告通り、同店西館9階の男子トイレで爆発が起こり、天井に約30センチの穴が開いた。
8月11日午後4時45分ごろ、東横百貨店東館屋上の金魚売り場で突然爆発が起きた。ガラス製の金魚鉢2個が壊れた程度でけが人はなかった。紙くずに包んだ火薬に乾電池をつないだ爆発物が使用されていた。
8月14日、同店へ小包みが届いた。総務課の女性職員が包装紙を解き、中の桐箱のフタを開けると包みが爆発したが、女性職員は無事だった。小包みの差し出し局は静岡県の富士郵便局。11センチ四方で深さ4.5センチの桐箱には乾電池1本と導火線の付いた雷管が入っており、フタを開けると引火することになっていた。
さらに、小包みには便箋1枚にカタカナで書かれた、現金を要求する脅迫状が同封されていた。
「現金500万円を速達小包にして、静岡県沼津郵便局止めで送れ。警察に知らせると、今度は本格的に売り場を爆破する。命の保障はできない。金を送るときは『○月○日に送る。○月○日○時に到着する』という新聞広告を読売新聞に掲載しろ」という内容のものだった。
ちなみに、当時の大卒公務員の初任給は1万5700円で、500万円といえば宝くじの最高賞金額に相当した。
東横百貨店は渋谷署と相談した上で、17日付読売新聞に、<八月十九日に送る 八月二十日午前中着く予定>という広告を掲載し、現金100万円を入れた小包を送って、<とりあえずこれだけ送る。二度と爆弾を持ち込まないでほしい>という手紙を添えた。
8月19日夜から15人の捜査員が沼津郵便局を張り込んだが、結局、犯人は現れなかった。
これら一連の「東横百貨店爆弾脅迫事件」と「草加次郎」との関連について検討された。爆弾の構造には共通点がある一方で、「東横事件」では明らかに金目当ての脅迫であることや「草加次郎」と東横百貨店に送られた脅迫状の筆跡が一致しなかったことで、「東横事件」の犯人と「草加次郎」は別人物と見る向きが強かった。
また、この「東横百貨店爆弾脅迫事件」があった頃、女優の吉永小百合(当時18歳)の東京都渋谷区西原にあった自宅で事件が起きる。当時、小百合は東京都新宿区の私立高校に在籍していたが、映画やテレビの仕事で忙しく、通学できず仕事の合間に自宅で高校卒業検定試験の受験勉強をしていた。
吉永小百合・・・1945年(昭和20年)3月13日、東京都渋谷区代々木西原町生まれ。3人姉妹の次女。14歳のとき、映画『朝を呼ぶ口笛』(VHS/監督・生駒千里/出演・田村高広ほか/松竹)で女子高生役で映画デビュー。その他、テレビドラマ『赤銅鈴之助』や『まぼろし探偵』に出演。15歳のとき都立駒場高校に入学。映画『ガラスの中の少女』(VHS/監督・若杉光夫/出演・浜田光夫ほか/日活)で初主演。16歳のとき、私立精華高校に転入学。17歳のとき、映画『赤い蕾と白い花』(VHS/監督・西河克己/出演・浜田光夫ほか/日活)で主演。その主題歌『寒い朝』で歌手としてデビュー。次に出した橋幸夫とのデュエット曲『いつでも夢を』が30万枚を超えるヒット曲になり、第4回レコード大賞受賞し、NHK紅白歌合戦にも出場。映画『キューポラのある街』(VHS/監督・浦山桐郎/出演・浜田光夫ほか/日活)で主演。20歳のとき、早稲田大学第2文学部史学科に入学。28歳のとき、フジテレビ・ディレクターの岡田太郎と結婚。43歳のとき、映画出演100本記念として映画 『つる 鶴』(DVD/監督・市川崑/出演・野田秀樹ほか/東宝)で主演。エッセイ集『夢一途』(集英社文庫/1993)を出版。文藝大賞エッセイ賞受賞。映画に関しては日本アカデミー賞をはじめとして数々の賞を受賞。
8月9日午後9時40分ごろ、小百合が自宅1階の居間から勉強をするつもりで2階に上がり、自分の部屋のドアを開いた。すると、なぜか消したはずの机の電気スタンドがついており、洋服ダンスの扉が半開きになっていた。おかしいと思いつつも部屋に入ると、突然洋服ダンスの中から1人の男が飛び出してきて、小百合の体を引き寄せるとナイフを振りかざした。「キャー!」隣りで勉強していた妹(当時16歳)がその悲鳴に駆け込んできて、小百合の体に飛びついて男から姉を引きはがしてドアの外に突き飛ばした。小百合はそのまま階段をころがり落ち、続いて妹も自ら階段をすべり落ちながら1階へと逃げた。
その後、両親が警察に通報。3分後に代々木署からパトカーが到着すると、4人の警官が階段を駆け上がった。と、そのとき「パーン」という音がした。その直後、階段をころげ落ちてきた警官のあごからは血が吹き出し、全治2ヶ月の重傷を負った。男は銃をもっていた。すぐに無線で応援を呼び、機動隊など約300人が防弾チョッキなどで身を固め吉永家を包囲した。やがて男は諦め、ピストルとナイフを窓から投げ捨てて、午後10時半、踏み込んだ警官隊に逮捕された。
犯人のW(当時25歳)は機械工場に勤めるプレス工員で、ピストルも弾丸もすべて手製だった。警察の取り調べに対し、犯行の動機を次のように供述した。
「俺は小百合ちゃんの大ファンだ。いつか結婚したいと思っていたが、それがどうしても無理だということが分かり、自分の名前を彼女の腕にイレズミにして残し、記念にしようと考えた。それで木綿針と墨汁を用意して押し入った。騒いだら自分で作ったピストルで脅そうと思った」
当時は現在のように所属事務所がタレントのプライバシーをガードするようなシステムがなく、芸能人の住所は映画雑誌などにファンレターの宛先として公開されており、Wも雑誌を通じて吉永小百合の自宅の住所を知った。この頃、吉永家には1日に1000通ものファンレターが配達されていたという。
[ 7 ] 8月30日、小百合の家族が山積みになっていたファンレターを整理していると、妙なふくらみのある白い封筒が出てきた。封を開けると弾丸1発と便箋に黒いマジックで大きく横書きされた次のような内容の脅迫状が入っていた。
<五月十八日、午後七時、上野駅正面横の喫茶店ひがし≠ノ現金百万円をあなたのおとうさんが持ってこい。七時二十分に電話であなたのおとうさんを田中と呼んで呼び出す。草加次郎>
脅迫状の消印は<5月14日 東京都台東区の下谷局>となっており、3ヶ月以上ファンレターの山に埋もれていた。さらに、<5月23日 下谷局>消印の<草加次郎>名の手紙も見つかった。内容は現金受渡しの日付けが5月27日に変わっただけの同じ文面で、やはり弾丸1発が同封されていた。筆跡鑑定の結果、一連の<草加次郎>の署名と一致した。前年の11月4日に「島倉千代子後援会事務所」に届いた手紙も消印がハッキリしなかったが、「下谷」である可能性が高くなった。
9月1日、警視庁捜査4課の捜査員が吉永家を訪れ、未整理のファンレターを調べたところ、家族が見つけた2通を含め合計6通の「草加次郎」からの脅迫状が見つかった。すべて下谷局で投函されたもので、一連の「草加次郎」の署名と一致した。
1回目―5月9日消印、2回目―5月14日消印、3回目―5月23日消印、4回目―7月15日消印、5回目―7月17日消印、6回目―7月22日消印。
1〜4回目までの脅迫状には長さ1センチの弾丸がそれぞれ1発ずつ入っており、これらは上野公園で屋台店主を狙撃したり、上野署へ送りつけられたりした手製弾丸と同じものだった。4回目の7月15日は屋台店主を狙撃した日でもあった。
[ 10 ] 9月5日午後8時14分ごろ、地下鉄銀座線の浅草発渋谷行き電車が京橋駅ホームに入ってきてドアが開いた瞬間に「バーン!」という耳をつんざく爆発音が構内に響き渡った。火薬の臭いと青白い煙が渦巻きながら先頭車両の後部ドアから吐き出され、白煙の中から血まみれの乗客たちがよろめきながらホームに倒れ込んできた。重傷2人に軽傷8人、いずれも会社帰りのサラリーマンやOLだった。
鑑識の結果、使用された爆発物はダイナマイトではなく爆発力の弱い黒色火薬をガラス瓶に詰めたもので、起爆装置は単4の乾電池2本と結びついた電気回路の中間に男ものの腕時計を利用したタイムスイッチとヒーターを仕込み、一定の時間がくるとヒーターが加熱して爆発する時限式だった。この時限爆弾は徳用マッチの大箱程度の大きさで夕刊紙『スポーツ内外』をかぶせてシートの下に隠していた。乾電池にはそれぞれ<次>と<郎>という文字がマジックで書かれていた。(「事件」のリストの日付は「草加次郎事件」の中で最も重大な事件としてこの「地下鉄銀座線電車爆破事件」を発生した日にしています)
当時このような事件は前例がなく社会に衝撃を与えた。
[ 11 ] 9月6日、7回目となる脅迫状が届いた。消印は下谷局で9月5日となっていた。文面は次の通り。(原文のまま/「完予」は「完了」の誤りと思われる。「懐中電灯」ではなく「懐中電燈」というように古い常用漢字を使用している)

[ 脅迫状 ]

9月9日 午後7時10分 上野発

青森行 急行 十和田に乗ること

進行方向に向かって左のデッキに乗り

外を見ること。

後の車両に乗ること

青(緑)の懐中電燈の点滅する所に

現金100万円 投下すること

8時までに完予

草加次郎

列車 予定通 発車しない時は

10日

< 『迷宮入り事件』(同朋舎出版/古瀬俊和/1996) >

実は5回目(7月17日消印)と6回目(7月22日消印)の脅迫状も指定日が違うだけで、同じ文面の脅迫状であった。7回目の脅迫状には時限爆弾を示す絵まで入っていた。
「草加次郎」が指定した急行列車のデッキから100万円を投下させるという現金の受渡し方法は、同年3月1日に公開した映画『天国と地獄』(監督・黒澤明/主演・三船敏郎/東宝)と同じ手法であった。映画『天国と地獄』の予告編を映画館で観て誘拐事件を思いついた小原保が3月31日、吉展ちゃん誘拐殺人事件を起こし、4月7日に身代金50万円の強奪に成功するが、2年後の1965年(昭和40年)7月3日、名物刑事の平塚八兵衛によって解決する。 
映画『天国と地獄』とこの作品からヒントを得て模倣した事件については戦後の主な誘拐殺人事件のページの一番下に記している。
『天国と地獄』(DVD/監督・黒澤明/主演・三船敏郎/東宝/2003)
急行「十和田」は上野−青森間を常磐線と東北本線で結ぶ夜行列車だったが、その後のダイヤル改正で「十和田」という車名は消えた。
9日の捜査をめぐって特捜本部の意見が分かれた。というのは吉永家に届いた1〜4回目までの脅迫状には小百合の父親に上野駅前の喫茶店にくるように指定し、「父親を田中≠ニして呼び出す」と書かれていたにもかかわらず、「田中」宛ての電話もなければ、それを監視する不審な人物が現れた形跡もなかったからだ。
9月9日午後7時11分、定刻より1分遅れで急行「十和田」が上野駅を出発した。
ニセ札束を持った捜査員を「十和田」に乗り込ませるとともに、「8時まで完了」ということから推測して、上野〜土浦間69キロの沿線に大捜査網を展開したが、「投下」の合図は確認されなかった。
午後8時10分、定刻通り「十和田」が土浦駅に到着。脅迫状には「列車が予定通り発車しないときは10日」と記されていたため、翌10日も同じような捜査態勢が敷かれたが、結局、何も起こらなかった。
その後、特捜本部は他の映画スターへも脅迫状を送りつけているのではないかと捜査の範囲を広げていたが、新たに松竹の清純派スター鰐淵(わにぶち)晴子(当時18歳)や桑野みゆき(当時21歳)の自宅から小百合脅迫とおなじように弾丸を同封して100万円を要求する脅迫状が発見された。
吉永小百合(計7通)、鰐淵晴子、桑野みゆきの自宅住所宛てに合わせて11通の脅迫状が届いている。
鰐淵晴子・・・1945年(昭和20年)4月22日、東京生まれ。名ヴァイオリニストの父、ドイツ人の母をもち、8歳にして天才ヴァイオリニストと騒がれ演奏旅行で全国を回る、1955年(昭和30年)、映画『ノンちゃん雲にのる』(監督・倉田文人/出演・原節子ほか/新東宝)のノンちゃん役で映画デビュー後は200本以上の映画に出演。主な出演作に1990年(平成2年)の『ZIPANG』(VHS/監督・林海象/出演・高嶋政宏ほか/東宝) 、1991年(平成3年)の『外科室』(VHS/監督・坂東玉三郎/出演・吉永小百合ほか/松竹)など。
桑野みゆき・・・1942年(昭和17年)7月生まれ。1962年(昭和37年)の『愛染かつら』(VHS/監督・中村登/東宝) や1965年(昭和40年)の『赤ひげ』(DVD/監督・黒澤明/主演・三船敏郎/東宝) などに出演。詳細不明。
9月14日、警視庁は伊豆諸島を除く管下87署に対して外勤警官を聞き込みなどに動員するよう異例の指示を出した。いわゆる“ローラー作戦”のはしりである。警視庁がこのような大がかりな捜査を敷くのは吉展ちゃん誘拐殺人事件に続くものだった。
「弾丸」を科学鑑定した結果、亜鉛2、鉛1、スズ1の割合で自分で融合した合金であることが判明した。また、上野署に送られてきた薬きょうは「スペーサー」というパイプ状のラジオの組み立て部品であることも判明した。このことから「草加次郎」はラジオマニアである線が強くなった。
前年の11月29日の玉川の公衆電話ボックスでの事件を除き、すべて下町に近いところが事件の舞台となっている。また、犯人が捕まっていないので分からないが、草加(そうか)せんべいで有名な埼玉県草加市は浅草から出ている東武伊勢崎線の沿線にある。
世間を騒がす事件が起きるとその手口を真似た「便乗犯」や「模倣犯」が連鎖反応的に続発するが、この「草加次郎事件」を真似た文書や電話によるニセ脅迫が地下鉄爆破事件から3週間で180件に達した。
実質的な捜査が行なわれた1年あまりで投入された捜査員は延べ1万9000人、容疑者は火薬マニアなど9600人で、「草加次郎」は鮮明な指紋を残しており、その指紋照会は約700万件に及んだが、結局、犯人を特定することはできなかった。
さらに、交通機関を狙った事件が1965年(昭和40年)から起きるようになった。
[ 急行 「霧島」 事件 ] 1965年(昭和40年)2月15日午後6時半ごろ、東京駅着の急行列車 「霧島」 の12・13号車の網棚に、1個ずつダンボール箱が置かれて、無煙火薬と黒煙火薬、それに、火のついたカイロ灰が入っていた。また、同じ日の午後6時ごろ、近鉄宇治山田駅で忘れ物として保管中のダンボール箱から白い煙が出て、中に無煙火薬、散弾、カイロ灰が入っていた。これは、いずれも、名古屋市北区の映画フィルム運搬人の西村貞助(当時34歳)と分かり岐阜市内で逮捕した。西村は精神分裂症で名古屋市内で猟銃を乱射して3人を死傷させ逃走中だった。(爆破未遂事件)
「精神分裂病」という名称は “schizophrenia”(シゾフレニア)を訳したものですが、2002年(平成14年)の夏から「統合失調症」という名称に変更されている。
[ 羽田空港事件 ] 1967年(昭和42年)2月15日午後7時5分ごろ、羽田空港の国内線出発ロビー1階の男子トイレでダイナマイトが爆発し、2人が重傷を負った。10日後に、犯人のボーイの青野淳(当時23歳)と愛人を逮捕した。
[ 「みどりの窓口」 事件 ] 1967年(昭和42年)3月31日午後、東京駅八重洲口「みどりの窓口」付近でスチール製ゴミ入れが爆発し、15人が重軽傷を負った。これは、2インチ管と呼ばれるパイプに、黒色火薬らしいものが詰めてあった。未解決になっている。
[ 「ひかり21号」 事件 ] 1967年(昭和42年)4月25日午後、新幹線下り「ひかり21号」の一等車座席下に、『源氏物語』の本をくり抜いてダイナマイトと雷管3本を仕掛けた装置があるのを車掌が発見した。翌年2月19日に、福島県須賀川署に窃盗容疑で留置中の18歳の少年が犯行を自供した。修学旅行中に仕掛けたものと分かった。(爆破未遂事件)
[ 山陽電鉄事件 ] 1967年(昭和42年)6月18日午後、山陽電鉄の下り普通電車が神戸市の塩屋駅に停車直前に、網棚に置かれていた時限爆弾が爆発し、死者2人、重軽傷者29人を出した。この種の事件で死者が出たのは初めて。同年1月の神戸大丸デパート爆破事件と同一犯人と見られたが、未解決になっている。
[ 房総西線事件 ] 1967年(昭和42年)7月13日深夜、千葉県の姉ヶ崎〜長浦間の線路で、最終列車通過後に爆発が起こった。5日後に、17歳の少年2人を逮捕した。
[ 横須賀線電車爆破事件 ] 1968年(昭和43年)6月16日、若松善紀(当時24歳)による横須賀線電車爆破事件が起きる。この事件では死亡者1人が出ている。
若松は逮捕後の警察の取り調べで次のように供述している。
「草加次郎を尊敬している。草加次郎は何度も爆発物をしかけて成功したが、捕まらなかった。自分は草加次郎を真似てやったが、捕まってしまった。捕まらなかった草加次郎は私よりもえらい。しかし、草加次郎の事件がなかったら、こんなことは考えつかなかったから、彼を憎いとも思っている」
1971年(昭和46歳)4月22日、最高裁で若松に死刑が確定。1975年(昭和50年)12月5日、死刑が執行された。32歳だった。
1978年(昭和53年)9月5日、「草加次郎」による地下鉄銀座線電車爆破事件から15年が経過し公訴時効が成立した。
参考文献・・・
『迷宮入り事件』(同朋舎出版/古瀬俊和/1996)

『殺人百科 3』(文春文庫/佐木隆三/1987)

『夢一途』(集英社文庫/吉永小百合/1993)

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