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横須賀線電車爆破事件

【 事件発生 】

1968年(昭和43年)6月16日(日)午後3時28分ころ、国鉄(現・JR)横須賀線の北鎌倉〜大船間を走っていた上り電車の前から6両目の5号車で爆発が起きた。

この電車は、午後1時45分に東京駅13番ホームから出発し、終点の横須賀駅を折り返して、午後3時4分に出発した10両編成だった。

爆発が起こった5号車には約50人が乗っていた。電車は大船駅の手前100メートルの踏み切りに、さしかかっていたのだが、後部左側ドア付近の網棚でバーンという音がして爆発が起こり、白い煙があがった。

この爆発により、車両の天井に張られた鉄板や合金板、座席7個、窓ガラス4枚が破壊された。

乗客はこれらの破片や爆発物の鉄片を浴びて、バタバタと倒れた。爆発物のあった網棚の真下にいた32歳の会社員は、他の負傷者と共に大船中央病院に運ばれたが、午後10時40分ごろ、死亡した。死因は脳挫滅だった。負傷者は28人いたが、その多くは、鋳物のような破片が体に食い込んでいた。

また、この日は日曜日ということもあって被害にあった乗客は行楽帰りの人が多かった。

【 捜査 】

神奈川県警は早速、捜査を開始した。

東京鉄道管理局の説明では、列車や電車が終着駅で折り返す場合、原則として駅務係が車内を点検し、遺失物などを回収することになっているが、横須賀線の場合、電車が終着の横須賀駅に着くと、ホームに行列している乗客が、すぐに乗り込んでくるので、車内点検をしたという報告がなされているが、点検したかどうかはっきりしていない。

爆破のあった網棚の下の座席などから、紙箱の破片、赤いビニールテープ、単1の1.5ボルト乾電池4個、20センチほどのコード、タイムスイッチのゼンマイと歯車部分などを見つけた。

鎌倉駅から乗った19歳の予備校生は厚さ4センチほどの緑色の包装紙に包まれた弁当箱ぐらいの大きさの荷物に気づいていて被害にあっている。

55歳の会社社長は左胸の肉をそぎ取られ、53歳の妻は左手を切断しなければならないほどの重傷で、左股に2つの穴が生じた。この夫婦の頭髪には新聞紙片がこびりついていた。

これらの状況から、時限装置をつけていたことは確実で、使用された爆発物はダイナマイトか、塩素酸カリと硫黄を混合した粉末系火薬と推定された。

6月17日、警察庁は神奈川県警の要請により、関東管区警察局、警視庁、兵庫、静岡、千葉、埼玉県警の捜査担当官と、科学警察爆発物専門官を大船署に集め、緊急会議を開き、広域捜査体制をとることを決め、広域重要「107号事件」に指定した。警察庁広域重要指定事件

この数年、交通機関などを狙った爆発事件が、あちこちで続発していた。

[ 草加次郎事件 ] 1962年(昭和37年)11月4日、東京品川区の島倉千代子後援会事務所に爆薬入り封筒が届き発火。11月13日、六本木ホステスの自宅に爆薬入り封筒が届き発火。11月20日、有楽町の「ニュー東宝映画劇場」で火薬入り紙筒が発火。11月26日、有楽町の「日比谷映画劇場」のトイレでボール紙の箱が爆発。11月29日、世田谷の電話ボックスにあったケース入り『石川啄木詩集』が爆発。12月12日、浅草の浅草寺境内で、エラリー・クイーンの小説で作った爆弾発見。翌1963年(昭和38年)春頃から、吉永小百合や鰐淵(わにぶち)晴子宅にピストルの弾丸入りの脅迫状が何度も届く。7月15日、上野公園でおでん屋店主が狙撃されて全治3ヶ月の重傷を負う(郵送された弾丸と同一)。9月5日午後8時15分ごろ、地下鉄銀座線の京橋駅構内で発車直前の電車最前部の車両座席下で爆弾破裂、乗客10人が重軽傷を負う。翌6日、「9月9日午後7時10分、上野発青森行きの急行十和田に乗ること。進行方向に向かって左のデッキに乗り、外を見ること。後の車両に乗ること。青(緑)の懐中電燈の点滅する所に現金100万円投下すること。8時まで完了。 草加次郎 列車が予定通り、発車しない時は10日」といった内容の時限爆弾の絵付きの脅迫状が吉永宅に届く。受渡し方法は、映画『天国と地獄』(監督・黒澤明/主演・三船敏郎/東宝/1963年3月1日公開)そのものだった。9日夜、ニセ札束を持った捜査員を「十和田」に乗り込ませるとともに、「8時まで完了」ということから推測して、上野〜土浦間69キロの沿線に大捜査網を展開したが、「投下」の合図は確認されなかった。不思議なことに、この日を最後にぷっつりと消えた。これらの郵便物や爆発物には「草加次郎」の署名、または、その一部があったことから「草加次郎事件」と呼ばれているが、「くさか」なのか「そうか」なのか不明。「草加次郎」は鮮明な指紋を残しており、約9600人リストアップしたが、全てシロという結果に終わった。1978年(昭和53年)9月5日、時効成立。

[ 急行 「霧島」 事件 ] 1965年(昭和40年)2月15日午後6時半ごろ、東京駅着の急行列車 「霧島」 の12・13号車の網棚に、1個ずつダンボール箱が置かれて、無煙火薬と黒煙火薬、それに、火のついたカイロ灰が入っていた。また、同じ日の午後6時ごろ、近鉄宇治山田駅で忘れ物として保管中のダンボール箱から白い煙が出て、中に無煙火薬、散弾、カイロ灰が入っていた。これは、いずれも、名古屋市北区の映画フィルム運搬人の西村貞助(当時34歳)と分かり、岐阜市内で逮捕された。西村は精神分裂病で名古屋市内で猟銃を乱射して3人を死傷させ逃走中だった。(爆破未遂事件)

「精神分裂病」という名称は “schizophrenia”(シゾフレニア)を訳したものですが、2002年(平成14年)の夏から「統合失調症」という名称に変更されている。

[ 羽田空港事件 ] 1967年(昭和42年)2月15日午後7時5分ごろ、羽田空港の国内線出発ロビー1階の男子トイレでダイナマイトが爆発し、2人が重傷を負った。10日後にボーイの青野淳(当時23歳)と愛人が逮捕された。

[ 「みどりの窓口」 事件 ] 1967年(昭和42年)3月31日午後、東京駅八重洲口「みどりの窓口」付近でスチール製ゴミ入れが爆発し、15人が重軽傷を負った。これは、2インチ管と呼ばれるパイプに、黒色火薬らしいものが詰めてあった。未解決になっている。

[ 「ひかり21号」 事件 ] 1967年(昭和42年)4月25日午後、新幹線下り「ひかり21号」の一等車座席下に、『源氏物語』の本をくり抜いてダイナマイトと雷管3本を仕掛けた装置があるのを車掌が発見した。翌年2月19日に、福島県須賀川署に窃盗容疑で留置中の18歳の少年が犯行を自供した。修学旅行中に仕掛けたものと分かった。(爆破未遂事件)

[ 山陽電鉄事件 ] 1967年(昭和42年)6月18日午後、山陽電鉄の下り普通電車が神戸市の塩屋駅に停車直前に、網棚に置かれていた時限爆弾が爆発し、死者2人、重軽傷者29人を出した。この種の事件で死者が出たのは初めて。同年1月の神戸大丸デパート爆破事件と同一犯人と見られたが、未解決になっている。この日は日曜日だったが、「横須賀線電車爆破事件」(翌年の6月16日)も日曜日で、共に「父の日」だった。

[ 房総西線事件 ] 1967年(昭和42年)7月13日深夜、千葉県の姉ヶ崎〜長浦間の線路で、最終列車通過後に爆発が起こった。5日後に17歳の少年2人が逮捕された。

以上、交通機間を狙った事件だけでも2件の未遂事件を含め7件の事件が起きていた。

「横須賀線電車爆破事件」のあった翌日の1968年(昭和43年)6月17日、現場検証で、時限装置を包んでいた新聞紙が、4月17日付朝刊『毎日新聞』多摩版と分かった。この新聞は西多摩、南多摩郡、八王子、府中、立川、町田、日野市など十数万世帯に配達されていた。新聞の印刷は、輪転機のクセで活字にズレが生じる。この「印刷ズレ」の特徴から、多摩版でも、八王子、立川、日野方面に配られているものと分かった。

遺留品の乾電池はナショナル・ハイトップで、タイムスイッチは松下電工製でET63型と判った。これらは最近、市販されたものということで、製造元の松下電器、松下電工から販売先の商店名簿を取り寄せ、東京都と神奈川県の電気店をひとつずつ調べることになった。

科学警察研究所の鑑定によれば、爆発に使用した火薬は、ニトロセルロースとニトログリセリンを主成分とするもので、日本では猟用散弾の発射薬として市販されていることが分かった。この無煙火薬は、都道府県公安委員会から猟銃の所持許可を得た者なら、鉄砲火薬店で買える。

さらに、火薬を詰めていた鋳物の復元に成功した。これはガス、水道工事に用いる特殊な継ぎ手で、大阪府岸和田市の日本鋼管継手株式会社製と分かった。大阪府警に販売ルートの捜査を依頼した。

6月19日、爆発装置を詰めていた箱の出所が分かる。電車内に散っていたボール紙をつなぎ合わせてみると、裏側に<門前町二 みすゞ総本店>と木版のような印刷がされていた。この店は、名古屋市中区門前町の菓子製造販売「みすゞ総本店」で、箱は鯱最中(しゃちもなか)、愛知県内のみで販売していることが分かった。愛知県警に販売ルートの捜査を依頼した。

前年に起きた「山陽電鉄事件」と同じ「父の日」に犯行があったことから、同一人物の可能性もあると見ていたが、爆発物を比較した結果、その構造において異なる点が多いことから別人であると断定していた。

目撃者探しも進めていたが、有力な情報はなかった。

6月23日、起爆用の乾電池ホルダーが、クラウン社製であることが分かった。このホルダーは、テープレコーダーに使用されており、7500台販売された。さらに、「OKMI」という検査マークが付いていたが、これは500台〜1000台しかないことが分かった。さらに、これには「愛用者カード」が入っていて、郵送した場合、ボールペンが贈呈された。クラウン社には、その住所と名前が登録してあった。

三多摩地区の鉄砲所持者は警視庁の調べでは6572人、このうち『毎日新聞』の購読者は460人だった。

8月〜10月まで、延べ1万6000人の捜査員が動き、11月に入ると、有力容疑者が浮かび上がってきた。それが、大工の若松善紀(よしき/当時25歳/事件時24歳)だった。

(1)1966年11月2日付で、猟銃所持許可を受け、水平二連散弾銃を持っている。
(2)1966年11月23日に、新宿区のサトミ銃砲店でSS火薬250グラム、1968年3月に、立川市の三進小銃器営業所で、SS火薬250グラムを買っている。
(3)1968年1月〜6月まで『毎日新聞』を定期購読している。
(4)1968年6月16日(事件のあった日)のアリバイが曖昧である。
(5)前に住んでいた新宿区西落合2丁目のアパートで、タイムスイッチを使用していた。
(6)4月に働いていた藤沢市鵠沼のマンション工事現場で、三方継手が大量に使用され、保管がルーズだった。
(7)鵠沼海岸で水道管に火薬を詰め、2回爆発させたことがある。
(8)隣家の夫婦は1967年10月24日に、新幹線名古屋駅売店で「鯱最中」を4箱買い、そのうち10個入りを新婚旅行みやげとして渡した。

11月9日午前7時、捜査本部は若松善紀に任意出頭を求めた。善紀は千代田区九段北のマンション工事現場の宿舎に寝ているところを起こされ、横浜の県警捜査本部に連行された。初めのうちは否認していたが、午後1時半ごろから、ポツリポツリ自供を始めて、午後6時に、殺人、同未遂、船車覆没致死、電汽車顛覆、傷害、爆発物取締罰則違反で逮捕された。

刑法 / 爆発物取締罰則

取り調べに対して、善紀は「草加次郎を尊敬している。草加次郎は何度も爆発物をしかけて成功したが、捕まらなかった。自分は草加次郎を真似てやったが、捕まってしまった。捕まらなかった草加次郎は私よりもえらい。しかし、草加次郎の事件がなかったら、こんなことは考えつかなかったから、彼を憎いとも思っている」と供述した。

【 本人歴 】

1943年(昭和18年)8月10日、若松善紀は、山形県尾花沢市大字野黒沢で、3男2女の末っ子として生まれた。長男は生後5日で死亡した。

父親はトラックの運転手をしていたが、1944年(昭和19年)11月に、2度目の召集を受け、東京の中野自動車部隊に配属され、フィリピンに渡った。1945年(昭和20年)3月17日に、レイテ島カンギマット山で戦死した。35歳、陸軍軍曹だった。

母親は2つ上の姉さん女房として嫁いだ。36歳で戦争未亡人になってからは田畑を耕す、評判の働き者だった。

1947年(昭和22年)3月、東京から来た母娘が若松家の物置小屋を借りて暮らし始め、その娘が同い年だったから恰好の遊び相手になった。この母親の大工である夫がたまたま、東京で窃盗事件を起こして刑務所に送られた。夫の実家は同じ尾花沢市野黒沢であったが、実家では面倒を見てくれず、若松家の物置小屋に転がり込んだのだ。

やがて、この夫は獄中で病死するが、娘には夫が服役したことも、死んだことも聞かされなかった。

1950年(昭和25年)3月、母娘は尾花沢を離れ横浜市へ移住し、亡き夫の知り合いの大工と再婚する。

4月、善紀は尾花沢市立福原中部小学校に入学する。温和しい性格だったが、友達が多く、成績は中の上。図画や工作が得意で、切手集めが趣味だった。

1956年(昭和31年)4月、市立福原中学校に入学する。成績は社会・図画・工作・英語が「4」で、他はすべて「3」だった。卒業のときは160人中30番くらいだったから進学しようと思えば、入れるところはいくらでもあった。本人は船舶の無線通信士か、汽車電車の運転士を希望していたから高校に行くはずだったが、直前になって断念した。

1959年(昭和34年)4月、山形市錦町の指物大工に弟子入りした。憲兵あがりの指物大工は、特に弟子を必要としたわけではなかったが、若松家の親類から頼まれて仕方なく雇ったのである。

だが、使ってみると、手先が器用で物覚えが早い。寝泊まりは2階の息子と同じ部屋で、週1回の休みは本を読んで過ごし、月に1回は尾花沢の自宅に帰っても、その日のうちに戻って来る。これはモノになると思っていたら翌年の7月にやめてしまった。

実は春先に、定時制高校へ行きたいと親方に相談したが、職人なんだから学校へ行く必要がないと抑えつけられて進学を諦めた。だが、それ以来、親方とはまともに口をきかなくなり、7月の休みの日に自宅に帰って、それっきり戻らなかった。

善紀は学校に行くことを母親や兄に相談した。中学を出て山形交通に就職して4年目になる兄は同情的だったが、母親は、そんな中途半端なことはするな、と反対した。福島市にいる次姉は、学費を援助するからと全日制にすることを勧めたが、母親はできもしないことを言うなと、息巻いた。結局、母親に押し切られて、高校進学を諦めた。

1ヶ月ほど、尾花沢で建設作業の仕事をしていたが、1960年(昭和35年)8月末に、善紀は東京に就職口を見つける。上京し、東京都保谷(ほうや)市(現・西東京市)泉町の工務店で働くことになった。親方は同郷の尾花沢市の人だった。そこは、ノミとカンナの大工ではなく鉄骨が林立する現場で、コンクリートを流し込む仕事が主だったが、善紀は新時代にふさわしい大工になろうと決意する。善紀、17歳のときだった。

西東京市・・・2001年(平成13年)1月21日、田無(たなし)市と保谷市が合併して西東京市が誕生した。

善紀は3年契約の見習いだった。3食つきで住居・被服費も親方持ちで、月5000円から1万円の小遣いという生活だった。

上京したばかりで、電車の乗り換えにてこずり遅刻してしまうので、親方の勧めもあって、飯場に泊まることが多くなった。飯場暮らしの職人は酒と博打が大好きで、挙句はケンカになる。善紀は飯場の屋根に登り、ケンカを見物した。この時期、いっぺんに酒を飲むことを覚えていった。だが、ひとりでは飲もうとしなかった。

善紀は機会さえあれば、設計図を見た。小中学生の頃から図画と工作は得意であった。機械いじりも好きだったし、定規やコンパスを当てると、ゾクゾクする興奮を覚えた。

1963年(昭和38年)8月、3年間の見習い期間が終わり、20歳になったこともあって、お礼奉公を免除された。月給4万円で、一人前の大工として採用された。

1964年(昭和39年)1月に、工務店を出て、アパート暮らしを始めた。西武沿線の新宿区西落合だった。4畳半ひと間で部屋代は6000円だった。2級建築士の資格を取るために勉強する部屋が欲しかったのだ。設計関係の他に、数学と英語の勉強をした。「若松設計事務所」この看板をかける日は遠くない。そして、仕事は海外へ・・・。

東京オリンピック(同年10月10日開催)を控え、空前の建築ブームだったから手に職を持った者が潤った。

オリンピックが閉会し、間もなくして、同居人ができた。保谷市の工務店の先輩の弟で、善紀よりひとつだけ年齢が上の男だった。一緒に暮らして孤独感から解放されたが、1ヶ月くらい経つと、その相棒は歩いて10分ぐらいのところにアパートを借りて住み始めた。それからは、お互いのアパートを行き来した。

1965年(昭和40年)に入って、善紀は吃音(きつおん)矯正所に通い始めた。小学校2、3年の頃からドモリ始めていた。これは親類の子がドモるのを真似ているうちに、いつの間にか自分もそうなり、中学に入った頃から本格的になったのだ。矯正所へ通っているうちに効果があらわれたが、仕事が忙しく3ヶ月でやめてしまった。

1966年(昭和41年)11月に、善紀は、東京都公安委員会の許可をもらい、猟銃を購入した。それからは、銃に夢中になり、工務店を無断欠勤して親方から叱られるほどだった。銃砲火薬店の記録によると、火薬入手は5回あった。

1967年(昭和42年)2月、善紀は17年ぶりに幼馴染と再会した。東京から来て若松家の物置小屋を借りて住んでいた同い年の女性である。彼女は横浜市戸塚区に母親と一緒に住んでいるという。

きっかけは年賀状だった。善紀は小学生から筆マメで学校の先生や友人や親類に暑中見舞いや年賀状は欠かさず出していた。4年前に、横浜の彼女の母親から善紀の母親宛てに年賀状が届いていて、自分からも彼女の母親宛てに書いて送った。向こうの母親からも返信があり、それからは、毎年、送っていた。この年には「娘が会いたがっているから是非いらっしゃい」と書いてあった。

そして、2月16日に、彼女と会った。豊島園に遊びに行ったあと、彼女が部屋を見たいと言うので、連れて行った。夕方になり、東京駅の13番ホームで横須賀線の電車を見送って別れた。手ひとつ握らなかったが、善紀は充分、満足だった。

数日後、約束していなかったが、彼女は善紀の部屋の前で帰りを待っていた。部屋で夕食を作り、一緒に食べて、東京駅の13番ホームで見送る。そんなことが何回か続いた。

3月10日、彼女は最終電車に間に合わなくなり、アパートに泊まることになり、その夜、とうとう肉体的に結ばれた。そして、結婚することを誓い合った。そのための誓約書を作り、2人は署名し、指に刃物を当てて血判を押した。そして、それから一緒に暮らすことになった。

結婚誓約書

   記

一、甲乙双方は絶対離婚を認めない。
一、甲乙双方は家庭平和を維持するために最善の協力を惜しまない。
一、甲はいかなる理由を問わず、乙の前歴に、触れて、乙を苦境に晒すことをしない。
一、乙に全家計を預けるため、甲は全給料を乙に渡す。
一、外出の際は甲乙双方互いに連絡し会わなければならない。
一、甲乙双方はマイホーム建設の希望を持って努力し合う。
一、右建設遂行のため、甲乙同伴の外出を、最高月一回に制限する。
一、甲は乙の両親の扶養の義務を負う。
一、甲も乙も浮気は、これを認めない。飲酒喫煙は甲のみ認むる。
 以上を以って、甲を夫、乙を妻とし同一のものを二通作成し、甲乙双方署名捺印し、
 各々一通ずつ所持するものとする。

 私たちは右事項を固く守ることを誓います。

  昭和四十二年三月十日 

< 『殺人百科 3』(文春文庫/佐木隆三/1987) >

だが、彼女は4月16日に、アパートを出て行った。

わずか1ヶ月あまりの間にいろいろなことが重なり、くたくたになってしまったのである。

善紀の母親が彼女と結婚することに猛烈に反対した。その理由は、彼女の父親が刑務所で死んだことである。

「犯罪者の血を引いてロクな娘ではない」という善紀の母親からの手紙を彼女が読んでしまい、初めて自分の父親のことを知ったのだ。

さらに、彼女は5年前の18歳のときに結婚していたのだ。それは、善紀の母親の手紙にも書いてあったが、そのあとに届いた彼女からの手紙にも書いてあった。

彼女は18歳のとき、結婚の申し込みを受けているが、その頃、彼女の家族3人は借家住まいで、「もし、結婚すれば一緒に住まわしてやる」とその相手の男に言われ、両親は、「お前さえ一緒になってくれれば、私たちも住む家の心配はなくなるのだから、親のことも考えて助けておくれ」と母親に言われて、彼女は好きでもない相手と結婚したのだった。

彼女は善紀の部屋を出ていったあとも、何度か彼に会いに行った。だが、彼女の両親は2人を引き離そうとしていた。

彼女は善紀と一緒になりたいとは思っていたが、両親を裏切ってまで、そうするつもりはなく、別れた方がいいと考えていた。だが、善紀は本人同士が幸せになればそれでいいと思っていて、彼女と一緒になるつもりでいた。

夏が終わろうとしていた頃、彼女は善紀の友人に会う。同じ工務店で働いている青年で、以前、善紀の部屋に1ヶ月ほど居候していた男だった。彼女は善紀のことで、この友人に相談をしているうちに、仲良くなっていった。

もう、その頃には善紀は、別れるくらいなら殺す、と彼女に言うようになった。

善紀は憤然として、転居を決意する。新宿辺りに住んでいるから、彼女が友人のアパートに出入りするんだ。

やがて、善紀は、都下の日野市の一戸建て貸家に引越しする。そこへは彼女も住まわせるつもりで、冷蔵庫、洗濯機、洋服ダンス、ダブルベッド、食卓セットを購入した。

彼女の方は気乗りしなかったが、それでも引越し前日には荷造りを手伝だった。

「周りはみんな新婚ばかりだよ」
「ふーん」
「嬉しくないのかい?」
「だって・・・」

彼女はむすっとしているので、深夜になって善紀は怒りを爆発させた。

「お前まさか、あいつと出来てるんじゃないだろうな」
「誰のこと?」
「とぼけやがって。俺が何も知らないと思っているのか」
「・・・・・・」
「お前の顔なんか見たくない。帰れ、帰れ」

それで、本当に、彼女はアパートを出た。電車はないし、横浜へタクシーを飛ばす金もない。10分ほど歩いて、友人のアパートに行き、泊まってしまったのだ。

翌日、善紀はひとりで引越しをした。そして工務店に出勤して、彼女が前日に友人のアパートに泊まったことを知る。それから、彼女はその友人と付き合うようになった。

「くそったれ!」

10月16日、善紀は7年あまり勤めた工務店に辞表を叩きつけ、そのあと、川崎市の工務店に転職した。

日野市の借家の隣家に住んでいたのは大学の事務職員だったが、結婚して新婚旅行は名古屋へ出かけた。

10月26日、みやげを持参してきた。それは「鯱最中(しゃちもなか)」だった。受け取って10個入っていた最中はすぐ食べたが、箱は捨てずに取っておいた。

11月ごろ、新宿区の友人のアパートを訪ねると、彼女がいて、近くの喫茶店へ誘って、一緒に暮らすことを説得したが、断られる。その後も何度か、アパートに行ったが、必ず、彼女がいた。

この頃から、善紀は火薬の破壊力実験を行うようになる。

12月ごろ、移ってまもない工務店の作業現場で焚き火をしていたとき、同僚たちの前で、ドライ・ピットをその火の中に放り込んだらどうなるのか試してみた。その結果、それは、鉛の弾丸のように飛び出し、工事現場事務所の壁をぶち抜いた。

ドライ・ピット・・・建築の原形が出来たところでコンクリート壁に、電気の配線や水道、ガスの配管用の穴を開けるときに用いる火薬を詰めた釘のこと。

1968年(昭和43年)2月、善紀は彼女のことを諦めようと、この頃を最後に、彼女に会いに行っていない。

3月、藤沢市の鵠沼海岸が工事現場になった。4個の三方継手に火薬を詰めた。

1個目はわずかの火薬しか入れず、海岸の泥の中に埋めて、約10メートル離れた場所から乾電池を持って、アース線で電流を通じたら泥を吹き上げて破裂した。

2個目は15グラム入りで、4月中旬に、工事現場の空き地に置き、小石やブロック片を乗せて、15、6メートル離れたところから操作したら、約2メートルの土柱を吹き上げた。

3個目は、1週間後に、同じ15グラム入りを、建築中のマンション4階で爆発させた。床と天井のコンクリートがえぐられ、工務店主に叱られた。

4個目は火薬35グラムが詰めてあったが、これを自宅に持って帰り保管しておいた。

6月16日(犯行当日)、この当時は港区三田のマンション工事現場へ、日野の自宅から通っていた。この日は、朝から大雨で、天気予報を見て、すぐにやみそうになく、現場の作業が休みになるのは確かなので、また、ベッドにもぐった。

テレビで、今日は「父の日」と言っていたのが、気にさわった。なにが「父の日」だ。自分には父親がいないため、高校へ進むことも出来ず、志望の無線通信士にも機関士にもなれなかった。くそ面白くないと思いながら寝て、再び起きたのが午前10時だった。

朝食の支度をしていて、16日の日曜日というのが、引っかかった。前年の2月16日は、初めて彼女とデートした日だったし、4月16日は、彼女がアパートを出て行った日で、保谷市の工務店をやめたのは10月16日だった。どうも16日が、自分について回る。

彼女は横浜市戸塚区の自宅を日曜日しか空けられなくなっている。新宿区のアパートへは日曜日に来ることが多かった。おそらく友人の部屋にも、日曜日に通っているに違いない。今日は友人も雨で仕事が休みだから、彼女は友人に会いに行くだろう。そう思ったら、ムシャクシャして食事を作るどころではなくなった。外へ出て食堂で食べているうちに、ふと思い付いた。

横須賀線がなければいいんだろう!?

自宅の茶ダンスの中には「鯱最中」の箱がある。その中には鵠沼で現場で作った火薬35グラム入りの三方継手が入れてある。

善紀は自宅に戻り、この箱の中に入れる時限装置を作り、3時間30分後に爆発するようにタイムスイッチをセットした。自宅を出て1時間半後の午後1時40分ごろ、東京駅に着き、その爆発物を5分後に発車する予定の横須賀線の電車の網棚に置いてすぐ引き返した。そして、その電車は発車したあと、終点の横須賀駅を午後3時4分に折り返し、午後3時28分ごろ、爆発は起こった。

その日の午後7時のニュースで、爆発で負傷者が出たことを知る。翌17日、朝刊で死者が出たことを知り、大変なことになったと思ったという。

【 その後 】

1968年(昭和43年)12月25日、横浜地裁で第1回公判が開かれた。

若松は、爆発物により電車を壊すことは考えたが、死傷者が出ることは考えなかったと殺意を否認した。

1969年(昭和44年)3月3日、横浜地裁で論告求刑が行われ検察官は死刑を求刑した。

3月20日、横浜地裁で判決公判が開かれ、死刑を言い渡した。

弁護人は広域重要「107号事件」に指定した警察庁は費用3億円を投じて犯人を逮捕し、捜査本部に総理大臣賞を贈っている。国家の威信をかけての犯人検挙であり、あとは見せしめのためにスピード審理して極刑を科したとして即日控訴した。

この頃、若松はキリスト教に関心をいだき始め、聖書を読み、プロテスタントの牧師の教誨を受け、聖書通信講座で勉強した。次第に一朝一夕の祈りを被害者に捧げるようになり、そのときの気持ちを短歌に詠むようになった。

死を望む心なけれど独房に虚しきときは詩篇繙(ひもと)く

クリスチャンわれ獄中に母兄の案ずるよりは安らけくゐる

1970年(昭和45年)8月11日、東京高裁で判決公判が開かれた。

精神鑑定の内容を見ても、心神耗弱の状態にあったとは言えず、完全責任能力があると認められ、冷たくされた女性への憎しみなど被告への同情の念は禁じ得ないが、犯行は計画的であり、社会に与えた恐怖・不安感は大きく、死刑は免れない、と控訴棄却を言い渡した。

若松は、殺意を認定されたこと、犯行を意図しての予備実験と認定されたことに強く反撥したが、上告はしないと述べた。これは、この裁判が国家によるみせしめであるとして、不信感を抱いたからだ。

だが、理解者の説得により、期限ギリギリに上告した。

判決に不服があれば弁護側、検察側ともに上訴(控訴や上告)ができるが、その猶予期間は判決の翌日から2週間以内と決められている。ともに上訴がなければ自然と刑が確定する。

1971年(昭和46年)4月22日、最高裁は上告棄却し、これで死刑が確定した。

1975年(昭和50年)12月5日、東京拘置所で死刑が執行された。32歳だった。

親しく文通をしていた作家の加賀乙彦に宛てた遺言の手紙の中に、辞世の歌と見られる歌数首があった。その中の一首。

教会の鐘きこえてくる方角に殺(あや)めし街がありて昏れゆく

若松善樹の著書に『死に至る罪 純多摩良樹歌集』(短歌新聞社/1995)がある。「純多摩良樹(すみたまよしき)」は若松善樹のペンネームである。

参考文献など・・・
『殺人百科(3)』(文春文庫/佐木隆三/1987)
『迷宮入り事件』(同朋舎出版/古瀬俊和/1996)
『死刑囚の記録』(中公新書/加賀乙彦/1980)
『死刑廃止論 第六版』(有斐閣/団藤重光/2000)
『ある若き死刑囚の生涯』(ちくまプリマー新書/加賀乙彦/2019)

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