7.教会の権威者たちの姿勢

 主任司祭の証言。フランシスコ・ロッシ神父は、1975年現在、引退されていますが、1949年までの22年間、モンティキアリの主任司祭でした。かれはもう、77才になっていて、住民や聖職者たちは、敬虔で聖なる司祭として、かれに敬意を抱いています。

 1973年12月8日の会談で、かれは次のように述べられました、「1947年12月8日、モンティキアリの教会で何千人という人々の前に、聖母が出現されたとき、わたしはまだそこにいませんでした。わたしはその時は、まだグラドーネ村の主任司祭でしたが、その出現については、知っていました。1949年の7月、わたしはモンティキアリの主任司祭になり、1974年までそこにいました。他の司祭や住民たちは、すぐわたしに、1947年12月8日の出現中に起こった3つの奇跡について、詳しく報告しました。すなわち、そのとき、小児マヒで不随になっていた5、6才の少年が、お聖堂で癒されたのです。また、20年間結核を患っていて、9年間一言も言葉を発することができなかった26才くらいの女性も、癒されました。後に、この女性は、修道院に入りました。3つ目の最もすばらしい奇跡は、出現中に、教会の中ではなく、外で起きました。この場合は、肉体的にも精神的にも病んでいた、36才くらいの女性が、とつぜん完全に癒されたのです。かの女の義理のお姉さんは、かの女といっしょにロザリオを祈っていたとき、思わず大きな声で、「おお、いとしい聖母よ、もしあなたが今本当にモンティキアリの教会の中にいらっしゃるのなら、どうかこのあわれな病人を癒してください!」といいました。後でわたしは、そのことについての詳しい報告を聞きました」。

 ロッシ神父はまた、次のようにおっしゃいました、「わたしは、その出現が事実であると確信しています。わたしは1947年12月8日に、聖母がご自身のおん足で触れられた教会のドームの下の中央の床に、長い台をいくつか置かせました。わたしは、その出現が事実であるということを疑って、そのようにしたのではありません。しかし、その台は、信仰熱心な人々、特に女性たちが絶えずその場所にキスをすることの妨げになってしまいました。これらの台はひざまずく人々には役立ったのですが、その場所に入りたい人々にとっては、邪魔になったのです。後で、これらの長台は、司教の命令によって取り除かれました。しかしわたしは、その代わりに、聖母が降りて来られた場所に、大きな花びんを置きました。

 わたしはまた、ピエリナの説明に従って、聖母のご像を作ってもらいました。ボルザーノ町の近くのオルティゼイ村に、ある彫刻師がいることがわかりました。かれは8人の子どもの父親で、真のキリスト者でした。かれの名前はカヨ・ペラトツネル〔Caio Perathoner〕で、音楽好きな家族でした。わたしはかれに、次のように頼みました、“ピエリナの説明に従って、できる限り美しい聖母のご像を作ってください。過去の才能ある芸術家がしたように、ひざまずいて作ってください。福者フラ・アンジェリコや他の人たちは、絵の一部をひざまずいて描いたと言われています。とにかく、その聖母は、最も美しく作られねばなりません”。

 その人がこの聖母像を、本当にひざまずいて作ったかどうかは、わたしにはわかりませんが、後に、この聖母ができあがったとき、かれは大変うれしそうに、“わたしは今まで、こんなに美しい聖母像を作ったことはありませんでした” といいました。このご像は、モンティキアリの教会の中にある、最初の右横のチャペルに、ルルドの聖母の代わりに置かれました。このご像は、人々に大きな影響を与えました。

 わたしは主任司祭として20年以上もこのご像を見てきたのです。この大変お美しい聖母のご像の前で、多くの人々が、ひざまずきました。かれらの中には、どうしようもなく心を動かされた人たちもいました。わたしは、涙ながらに祈るたくさんの人々を見ました。わたしは、大きな改心を目撃してきたのです。後でピエリナは、“そのご像は、とてもすばらしく、美しいけれど、実物の聖母のたとえようのないほどの美しさと、母としての愛には、到底及びません” といいました。

 かの女はまた、次のように報告しました、「そのご像はモンティキアリの教会の横の祭壇に荘厳に置かれる前に、モンティキアリの広い小教区を巡回されました。

 このとき、次のような奇跡が起きました。長い間、耳炎を患っていた、ある男の人がいました。かれはまず、脱脂綿で、そのご像に触れました。それから、それを自分の炎症をおこしている耳の中に入れて、ずっと信頼して祈っていました。後でその脱脂綿を取り出したとき、膿の中に、骨の小さいかけらがありました。そのときから、かれの耳炎は完全に癒されました」。

 ロッシ神父はまた、次のように続けました、「当時のブレシア市のジャチント・トレディチ司教は、その出現に関して、はっきりとした態度をとっていませんでした。しかし、長年かれとつき合い、たびたび話をしたわたしは、“司教はそのことを事実であると思っているだろう” という個人的な印象をもっています。

 1951年、司教は、わたしの小教区を訪問した際に、人々で混み合ったお聖堂の中で、次のようなスピーチをしました、“わたしたちはまだ、その出現に超自然的特質があることを証明する絶対的な証拠を得ていません。しかし、多くの超自然的事実があります”。

 司教はまた、その出現のすべての状況を調べるための調査団を任命しました。しかし、わたしは、この調査団は、その任務を果たしていないと確信しています。すなわち、その調査団は最初から次のような偏見を持っているのです。

  1. 徹底的に調査された奇跡がないということ。

  2. 尋問を受けた目撃者がいないということ。

  3. 医者がピエリナ・ジリはモルヒネ中毒者であると、悪意の中傷をしたこと。

 最後の点に関して、ピエリナ・ジリは、次のように言いました、“わたしは、健康診断のとき、以前にかかった病気について尋ねられました。それでわたしは、一度腎臓の病気を患ったことがあり、そのとき、鎮静剤を使用したことを話しました。すると、その医者は、わたしがモルヒネ中毒者であると診断したのです。そして、調査団は、ただこの診断書だけを受け取ったのです。ブレシア市の精神病院の院長が書いてくださった診断書は、受け取ってもらえませんでした。かれは徹底的にわたしを調べて、‘全く健康で正常’ という結果を出したのです”」。

 ロッシ神父は、次のように続けました、「わたしは、ピエリナ・ジリが当時の教皇ピオ12世に、その出現に関する事実をすべて記した報告書を提出したことを知りました。しかし、教皇の回わりの聖職者たちは、それが教皇の手元に届けられることを妨げたのです。

 ピエリナ・ジリにはまた、反対者たちもいました。しかし、その調査団の委員会のメンバーは、一人を除いて全員、すでに亡くなってしまいました。しかしその反面、かの女には、すばらしい友人もいました。わたしは前にトレディチ司教が、個人的にその出現が事実であると思っていても反対者たちのことを恐れていたということを話しました。

 わたしは、現在のブレシア市のルイジ・モルスタビリーニ司教も、この出現について、かなり深く考えているという印象をもっていますが、かれも強い反対を恐れているようです。しばらくの間、お聖堂のドアに、司教の名において聖母の出現に反対するポスターが、イタリア語、フランス語とドイツ語で書かれて貼られていました。

 しかし、そのポスターには、司教のサインも判もありませんでした。こうした公式のばあい、サインも判もなければ、ねうちがないというしるしであるし、不法であることになります。

 そのポスターのドイツ語訳には、二度も聖母マリアをぶじょくすることばが書いてありました。大ていの人はドイツ語がわからないということを利用してそうしたのでしょうか?

 しかし、司教が村を訪問したとき、そのポスターは教会のドアから、はがれていて、司教に見えないようにしていたのです。そして、司教が去られるとすぐに、もとのように貼られたのです。これは、なぜでしょうか? このことは、ブレシア市司教がモンティキアリやフォンタネレへの巡礼について、正式な法的禁止令を出していないということを証明しています」。

 ロッシ神父は会談の終わりに、次のように発表しました、「その出現のことについて、憤慨している反対者たちが数多くいることでしょう。しかし、事実がかれらに語りかけています。何千人という巡礼者たちが、モンティキアリ、そして特にフォンタネレを訪れているのです。そしてそこで、しるしと奇跡が起こっています。空のしるし、悪魔つきの人の癒し管理人注1、そして特に多くの自発的な改心、これらのことは、その出現が事実であることを証しする最も確実なしるしだとわたしには思えます。人々はまた、そこで多くの祈り、つぐないをささげているのです」と。

 わたしたちが、1973年8月14日に、ロッシ神父を訪ねたとき、かれは次のようにいいました、「わたしにできることはただ、自分がその出現を事実であると信じ射ていることを強調するだけです。わたしは、この同じ場所で主任司祭をしていた22年間で、多くの経験をし、多くのことを見聞きしてきました。わたしはまず、聖母のご像を作るように頼み、後でそれをモンティキアリの教会の中に置きました。それからわたしは、聖母の偉大な影響力と、すばらしいおん恵みと改心を見てきました。後で聖母がフォンタネレに出現されたとき、わたしはそこに小さなチャペルを建て、その出現のところに大きな聖母のご像を置きました。わたしは、その上に、巡礼者や訪問者たちのための屋根を造ることと、井戸の所に、病人のためのため池を造ることも頼みました。これらの事実は、わたしが聖母の出現を信じていること、そして、ほとんど毎日のように、大変多くの奇跡、偉大な改心、豊富な内的おん恵みを知ることで、わたしの信仰が日増しに強くなっていったことを証明しています。

 わたしは、以前のブレシア市のジャチント・トレディチ司教が、個人的にその出現が事実であると確信していたことを、ここで強調しておかなければなりません。出現は、1947年に始まり、司教は、1964年に亡くなっていますが、この17年間という長い期間には、一つのことについて判断を下すのに十分な時間があったでしょう。しかし残念なことに、かれは激しい反対者たちをおそれて、自分が認めていることを主張する勇気がなかったのです」。

 ロッシ神父の話によると、キェティ市のボジオ司教、ペザロ市のデルシニョーレ司教、フィデンツァ市のボゼッティ司教、アレッサンドリア市のアルミチ司教も、モンティキアリとフォンタネレをおとずれて、いろいろ調べた結果、その出現の真実性を認めていたのです。

 それにまた、ファティマの司教ヨハネ・ペレイラも、1973年、ローマに行く途中、モンティキアリをおとずれて、自分としてはその出現はうたがえないものであることを確信していることを証言しました。

 教皇ピオ12世は、1951年8月9日、カステル・ガンドルフォで、ピエリナ・ジリとの個人的な会見の時間を与えてくださいました。そこには、かの女の友だちひとりと、その会見の手はずを整えたローマの男の人がひとりいただけでした。ピエリナは、モンティキアリで聖母を見た人として、教皇に紹介されました。教皇は、しばらくの間お考えになってから、朗らかに、「ああ、今、思い出しました。モンティキアリから来た巡礼者から話を聞きましたよ」とおおせられました。

 それから親しい笑みをお浮かべになり、ピエリナに、お尋ねになりました、「愛する娘よ、あなたは聖母にお会いしてから、よりすばらしい女性になりましたか?」

 ピエリナは、この予期せぬ質問に、かなりとまどいを覚えて、言葉が出ませんでした。そしてかの女は、「はい」とうなずきました。すると教皇は、両手をピエリナの頭にのせて、優しくおおせられました、「愛する娘よ、勇気を出しなさい。そしてこの偉大ですばらしいおん恵みに従って行動しなさい。そのために、わたしは今、あなたに特別の使徒としての祝福を与えます」。教皇は荘厳にかの女に、祝福を与えて、両手を再びかの女の頭に置いて、教皇の指輪にキスをさせました。

 その会見の終わりに、教皇は、ひざまずいているピエリナに向かって腰をおかがめになり、「どうか、わたしのために祈ってください」と、謙虚にお頼みになりました。それは、感動すべきことではないでしょうか? 偉大な教皇が、ピエリナに祈りをお求めになったのです。多くの経験によって、人の心をよく読めるようになっていた教皇ピオ12世が、ピエリナを信じていたのです!

 くすしきバラの聖母──教会の母──聖母は、1947年7月13日に、モンティキアリで、「わたしは毎年7月13日を “くすしきバラの聖母” をたたえる日として祝うことを望みます」とおおせられました。それは、「わたしは、キリストの神秘体の母であり、それで、教会の母です」ということと同じ意味をもっています。そのことは、聖母がピエリナにお見せになったメダルにもあります。すなわち、表面には、聖母のお姿と “くすしきバラの花” という銘刻、裏面には丸屋根の教会と “マリア、教会の母” という銘刻があります。

 聖母に対する崇敬は、初代教会の時代に逆のぼります。東方の教会にはアカティストス・ペラクリーシスという有名な聖マリアの賛美歌があります。それは、一種の歌うロザリオで、聖母の連顔の中には、“マリア、くすしきバラの花” という祈りがあります。つまり、聖母は、神秘的なバラの花であり、キリストは、そのバラの花から発するすばらしい香りとして、お生まれになったのです。

 聖母は、今までに存在したバラの中で、最も美しいバラの花なのです。聖母マリアのナザレトの家が保存されている中央イタリアの有名な聖母巡礼堂であるロレートの連願の中にも、“くすしきバラの聖母” という祈りが出ています。

 ドイツのロゼンベルクの巡礼堂──ドイツのスペイエル司教区〔Bistum Speyer〕にあるマリア・ロゼンベルク〔Maria Rosenberg〕の巡礼堂には、“くすしきバラの聖母” として貴ばれている神秘的な画像があります。その画像の下には、白、赤と黄金のバラが描かれています。そのことは、1738年から、文献によって証明されています。その美しい画像の左右両側には、13個の黄金のバラが描かれています。管理人注2

 これは、不思議なことに、7月13日を “くすしきバラの聖母” をたたえる日として祝うようにという、モンティキアリの聖母のお望みと一致しています。教会の古代の教父たちが書いた文書や、聖マリアの信心業の中にも、よく、“くすしきバラの聖母” という尊称が見られます。

[管理人注1]  第四章の [管理人注2] で書いたことを繰り返したい。「司祭」であるロッシ神父様が「悪魔つき」という言葉を使う時、私たち平信徒が「あの人はどうも様子が変だな。もしかしたら憑霊されているのかな」という “感想” を抱くというのとは、ちょっと違っているだろう。

[管理人注2]  この文章はそれのことを「画像」と言っているが、どうなのか。それはこれのことではないか。また、これは、それを絵に描いたものだろう。(どちらの画像もクリックすれば拡大される)

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