4.奇跡と超自然的なしるし

 1947年12月8日、モンティキアリの教会での “くすしきバラの聖母” の出現中に、3つの奇跡がおこったことは、前にも書きました。それと同様に、第4の奇跡は、巡回の聖母像をモンティキアリの教会に運び入れる前に、小教区を通り過ぎたときに起きました。

 わたしたちは、教会の権威者たちの命令によって、この奇跡的な癒しについての正確な調査が、きっと行なわれると思っています。その間に、調査されねばならない多くの他の奇跡が報告されています。ここに、ほんの数例を上げてみます。

 1.フローレンス管理人注1出身のある女の人の癌が完全に癒されました。そののち、かの女は、自分が完全に癒されたことを示す診断書をピエリナのところにもって来ました。

 2.大事故にあったボーゼン市出身の男の人がいました。医者はかれに “少なくとも1年間は働けず、その後も、松葉杖を使わないと歩けないでしょう” と言いました。かれは、フォンタネレの泉につかった次の日、健康を取り戻したように感じました。そして5日後に、かれはふたたび働けるようになっていました。のちにかれは、フォンタネレに巡礼に行ったとき、あまりの喜びで聖母に感謝をお捧げすることばをいいあらわせないほどでした。

 3.重い肺炎を病んでフォンタネレに着いたドイツ出身のある男の人は、聖母がご自身のみ手でお触れになった井戸の水を飲んだ、まさに、その瞬間に癒されました。

 4.17才のある少女は、両親といっしょにピエリナ・ジリのところに来ました。かの女は胸の痛みを訴えていました。ピエリナは、おん助けとインスピレーションをいただくために、自分の小さなチャペルの “くすしきバラの聖母” の前で、その少女と両親といっしょに、めでたしの祈りを3回となえました。すると聖母は、その少女と両親に、フォンタネレの井戸の水を飲み、“くすしきバラの聖母” に完全な信頼をもって祈り、できるだけ早く医者に相談するように助言してくださいました。医者は、その少女に、レントゲン検査をしました。そして、恐ろしいことに、かの女の心臓からほんの数ミリ離れた肺に、4cmの長さの針を見つけました。その少女は、死の危険にされされていたのです。かの女は3才のころ、肺の手術を受けなければなりませんでした。その針は、そのときの失敗でかの女の肺の中に残ったに違いありません。そしてそれは、心臓の方へと進んでいったのです。その少女を救う方法は唯ひとつ、つまり、すぐに大変むずかしい手術を受けることでした。医者たちが、その針を抜くために、その位置まで手術を進めたとき、針は2つに折れてしまいました。しかし医者たちは、針の残り半分を取り除くことに成功しました。その手術は偉大な成功を遂げて、少女は、短期間で元気になりました。その医者たちは、「これは正に奇跡です」と言って、その成功を喜びました。かの女の両親はピエリナに、2つに折れた針(1つは2cm)をもって来ました。そして、1973年8月15日に、その奇跡的な癒しに対して、“くすしきバラの聖母” に感謝をささげるために、娘といっしょにピエリナのところに来ました。

 5.60才くらいの老婦人は、1972年10月15日に、巡礼のバスで、モンティキアリに着きました。その婦人は、ひどい関節炎を病んでいました。かの女の手と足は、何年間も自由がききませんでした。その巡礼者のグループ全員は、そのかわいそうな婦人の癒しのために、ピエリナの “くすしきバラの聖母” のチャペルで、長い間熱心に祈りました。すると、瞬間的にその婦人は、突然完全に癒されました。かの女は、喜びと感謝の涙を流しながら、何の痛みも感じず、他人の助けも借りずに、バスの所まで裸足で歩いて戻りました。この奇跡を見た人たちは、深い感動と喜びに満たされて、喜びの涙を流しながら、その突然で、はっきりした奇跡に対して、“くすしきバラの聖母” に、長いあいだ感謝を捧げました。

 6.ある司祭の母親の奇跡的な癒し。それは、マントヴァ州のマラヴィチーナという小さな村で起こりました。ある司祭と医者の母親である80才のオリバ・スティロ・ザノットさんは、42年間大変重い皮膚病を患っていました。その皮膚病は、かの女の腕と足と顔にまで広がり、ハンセン氏病患者のように見えました。そして、医者である息子が愛を込めて看護し、たびたび入院させたにもかかわらず、すべての治療や手当ては、効目がないままに終わっていました。ところが、この2年前の1968年9月、かの女は、突然起きた奇跡によって癒されたのです。その夜寝床についた重病人は、翌朝起きたら、健康な人になっていたのです。その家族は、すぐにはこの事件を公表せずに、その病気が本当に癒されたことを確かめるために、レントゲン検査の結果などの、医学的な証明を待ちました。しかし今ではもはや、何の疑いもなくなりました。オリバさんを病気のあいだ、世話をしていた医師と看護婦たちは、オリバさんが奇跡によってふたたび健康をとり戻したことを証言しました。ここで、1971年1月、ゲラルド・ヘルメス神父が書いた言葉を引用してみましょう。

 「わたしたちは、その小教区で、病気が癒された人に会いました。かの女はマテヴィチーナ村の司祭である息子さんといっしょに住んでいました。“わたしのことをすべて話します” といい、かの女は、全くかざりけなしに、次のように話してくれました。“わたしは42年間病気にかかっていて、誰もわたしの病気を治してくれることができませんでした。ところが、聖母は、たった一晩でわたしを癒してくださったのです。わたしは今なお当惑していて、自分が本当の奇跡を経験したことが信じられないくらいです。わたしは1927年、次男(今は医者になっている)が生まれた数日後に、その病気にかかりました。わたしは、なぜその病気にかかったのかわかりません。おそらく、出産後、体が回復するまでに、あまりに働きすぎたか、もしくは伝染病にかかったのでしょうが、わたしにはよくわかりません。皮膚には、とびひのようなできものがたくさんできて赤くなり、耐えられないほどのかゆみを感じました。血は、ほとんど循環しなくなってしまいました。肌はできものと膿におおわれて、ずたずたに垂れ下がっていました。足は傷だらけでした。わたしは、常にその傷に包帯を巻いていなければなりませんでした。なぜなら、着るもの触れるものすべてが汚れてしまうからです。わたしたちは貧しかったので、医者に診てもらうお金は全くありませんでしたし、病院で寝ている時間さえありませんでした。わたしは働き続けました。そして、ある年とった農夫が勧めてくれた薬や、自家製のくすりをつけてみたりしました。そして、おそらく、それによってわたしの傷はより悪化したようでした。夏は最悪な時期でした。夏の暑さで、かゆみと痛みが増しました。わたしは眠れぬ夜を過ごし、うめき声を押えることができませんでした。その苦痛によって、朝は疲れ切っていました。わたしは、一睡もできませんでした。わたしは40年間、一晩中眠れたことも、数時間さえ眠れたこともありませんでした。日中は畑で一生懸命働かなければなりませんでした。わたしには、神学校に入った息子がいましたので、そのための費用を払わなければなりませんでした。そしてまた、次男は勉強を始めたところでした。かれは、医者を志望していたのです。実のところ、わたしたちには、それをまかなう余裕はありませんでしたが、わたしはかれの進む道に立ちはだかりたくありませんでした。それでわたしは、必要なお金を稼ぐために、一生懸命働かなければなりませんでした。畑で働くことによって、痛みが増し、病気は悪化してゆきました。なぜなら、わたしの傷は、ほこりと太陽の熱にさらされていたからです。わたしは夏の間に、手足のつめを失いました。傷と顔の腫れによってつぶされていたわたしの目は、たびたび、ほとんど見えなくなりました。ただ神に対する信仰だけが、これらすべてのことに耐えれるように、わたしを助けてくれました。今になって、いろいろなことを思い出してみると、わたしは気も狂わずに、どのようにして生きてきたか、不思議なくらいです。わたしの息子は、医者になってから、わたしを助けようと努力してくれました。かれは、わたしを専門家や病院に連れて行きました。しかし、わたしの痛みを取り除いてくれる医者はいませんでした。わたしはいつも、行く時と同じ状態で帰宅しました。わたしは、この数年間、糖尿病も患っていました。こうして、わたしの傷が治る見込みはなくなってしまいました。ある朝、看護婦さんは、わたしの足から肉の小さなかたまりが落ちたのを見つけました。それからすぐに、手からも同じように落ちて、指先には骨が見えていました。わたしは、ハンセン氏病患者のように見え、外出する勇気もなくなりました。

 1968年9月、以前わたしたちの村に住んでいたので顔見知りになっていた聖カミロ修道会のブラザーが、わたしを訪ねて来ました。かれは、わたしのこの悲惨な状態を見て驚き、ほとんど一言も言葉を発することができませんでした。数日後、かれはわたしに、水の入った小さなビンにメッセージを付けて、送ってきました。つまりそれは、モンティキアリの聖母からの奇跡の水だったのです。わたしはそのことについて、一度も聞いたことはありませんでした。しかし、今までのあらゆる治療と薬は効目がなく、わたしの苦痛は耐え難くなっていたので、わたしはそれを試してみることにしました。その晩、寝る前に、わたしは足、顔、手の傷に、その水をつけて、それから包帯を巻いて寝ました。わたしは、いつもと同じように、痛みとかゆみで、半分気が狂ったような夜を過ごしたと思っていました。わたしは、どのようにしてそうなったのかわかりませんでしたが、眠りについて、アンジェラスの鐘の音で一度目がさめただけでした。

 わたしは座りました。40年間で初めて、夜ぐっすりと眠れました。わたしは主人を起こして、起こったことをすべて話しました。「気分がいいわ」とわたしは言いました、「起きて、ミサに行ってきます」。「君は寝ていなさい」とかれは言いました。「君は自分の足で立てないことをよく知っているだろう」。それでもわたしは起き上がりたかったのです。隠れた力が、わたしにそうさせようとしたのです。わたしは足を床に置いて座りました。大丈夫のような気がしました。主人は、かなり驚いているようでした。わたしは、朝一番のミサにあずかるために、服を着て、教会に行きました。わたしは、何か不思議なことが自分に起ったのを感じました。わたしは家に帰ってから病気の足を見ることが、待ち切れないくらいでした。

 わたしは、ミサが終わって寝室に行き、包帯を取りました。なんという驚きでしょう! 傷は消えてしまい、確かに傷跡だけになっていたのです。できものも、血も、悪臭も、何もかもなくなっていました。わたしは、手や腕の包帯も取りました。そして同じ奇跡的な癒しに気づきました。わたしは、鏡をのぞき込みました。すると、顔も癒されて、全く正常になっていました。

 わたしは、主人と息子を呼びました。そしてかれらは、起こったことを見て驚きました。わたしは、“聖母がしてくださったのです。奇跡です!” と、何度も何度もくり返しました。しかし、このようなことが自分に起こったということが、わたしには理解できませんでした”。

 オリバさんは、話を終えました。かの女はわたしに、手と腕を見せてくれました。それらは正常で、健康に見えました。かの女の顔は、40年間悲惨に見せていた皮膚病も消えて、きれいになっていました」。

 7.悪魔につかれた何人かの人も、ピエリナ・ジリのところへ連れていかれて、聖母のおん取りつぎによって解放された例もわりあいにあります。そのあとで、ピエリナ・ジリは、なおった人を聖母のご像の前につれて行って、これから模範的な信仰生活をするようにすすめていました。聖母は悪魔にうち勝ち、あっぱれな勝利を得ておられるからです。管理人注2

[管理人注1]  フィレンツェのことだろう。

[管理人注2]  この本はさらっとこう書くのである。「悪魔につかれた何人かの人」と。しかし、誰かが真実「悪魔につかれて」いるかどうかの判断は司祭が行なうだろう。ピエリーナ・ジリは行なえないだろう。だから、私はここに司祭の影を見るのである。そして、そうである限り、まず当然、ここに「エクソシズム」が行なわれた可能性を見るのである。そして実際、「197◯年◯月◯日、フォンタネッレでエクソシズムが行なわれた」という記述がネットの中に散見される。このことはよく調べて、後で書くかも知れない。

ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ