2019.06.27

モンティキアーリとフォンタネッレ 2

フォンタネッレとルルドの
この二つの逸話はとても似ていると思わないか?

私は、とても似ていると思う。

この二つの逸話はどちらも、
人間に「身を屈めさせて」いる。
「石段に接吻」「地面に接吻」と。
「償い」のしるしとして。

そして、「泥」。
「罪」の隠喩。

そして、
恵みの「泉」がもたらされたこと。

これらの逸話は、私たちに、
人間が「身を屈めて」初めて真の「恵み」が与えられる
ということを教えているようだ。

フォンタネッレ

PDF

pp. 17-18

2 フォンタネレでの出現

最初の出現は、1966年4月17日、復活祭の次の日曜日でした。聖母は、「わたしのおん子は愛に満ちておられる方で、この井戸にいやしの力を与えるために、わたしをここに送りました。苦行と清めのしるしとして、この一番上の段にキスをしなさい」とおおせられました。この石の階段は、小道から井戸の方へ通じていました。「もっと下の方へ降りて、その石にもう一度キスをしなさい」。聖母はこうおおせられて、ピエリナについて来られました。

 「さあ、3度目に一番下の段にキスをしてから、そこに十字架を置きなさい」とおおせられて、聖母はご自身の左手でその場所を示しました。

 「病人やすべての子どもたちは、この十字架にキスをして、それからわたしのおん子に自分たちのことを許してくださるようにお頼みした後で、水を汲んだり飲んだりしなければなりません」とおおせられて、聖母はその井戸の近くまで行って、「あなたの手でどろをつかみなさい。このことは、どろのような罪でわたしの子どもたちの心の中はよごれていても、おん恵みの水によって再び霊魂が清められ、おん恵みを授かることができるようになることを示すためです」とおっしゃいました。このことは、神の秘跡のおん恵みの、なんとはっきりとしたしるしでしょう!

ルルド

http://salveregina.virtualave.net/appritions.html#アンカー1000

ルルドにおける聖母マリアの御出現
1858年2月11日ー7月16日

(…)

(8)2月24日(水曜日)
 朝早く起きて、ベルナデッタはご出現の場所へ行き、いつもと同じように跪いてロザリオの祈りを唱えはじめました。そこにはもうルルドの町以外の人たちも、たくさん見物に来ておりました。まもなく彼女の顔がさっと変わり、輝きはじめると、洞穴を見つめて、何ごとかを聞いているように見えました。それからたちまち悲しみに打ちひしがれ、合掌した手を力なくたれて、眼には涙さえ浮かべています。それから彼女はうやうやしく地面に接吻しましたが、それがすむと跪いたままで洞穴の岩にすすみより、二度でいねいにお辞儀をして顔をあげ、また何かに聞き入っているように見えました。そして彼女は、涙にむせびながら「償いを、償いを」と三度叫んだのです。
 彼女はその後、自分の心の醜さと、人びとの罪について深く考えるようにたりました。姫ぎみの言われた償いこそ、これからの自分の歩むべき道であると、深く悟ったのであります。罪の償いというものは、背かれた神に向かってささげる愛の行ないであります。このわざを通してこそ、人は清められ、神との愛の一致に進むことができるでありましょう。

(9)2月25日(木曜日)
 この日の明けがた、もはや四、五百名の人びとがマッサピエルの洞穴近くに集まっていました。彼女はいつものようにその場所にくると、跪いてロザリオの祈りを唱えました。そして三連ばかり唱え終わったとき、急に立ちあがり、野ばらの間をかき分けるようにして洞穴の方に進みより、なにか出現者の指図をうけるかのようにして、地面を掘りました。するとたちまち水が湧き出したのです。ベルナデッタはその泥水をすこし飲み、また顔を洗いました。それから岩の下に生えていた草を取って食べました。このしぐさを見た人びとは、彼女が気狂いになったと思い、それぞれ帰って行ったのであります。
 しかしこの湧き水がやがて泉となり、今日にいたるまで無数の奇跡を生ずるもととなったのです。後日ベルナデッタは、そのできごとについて、つぎのように語っております。
 「あの姫ぎみが、泉へ行って水を飲み、顔を洗いなさいと言い、また草を食べなさいとお命じになったのですが、なんのためだったのか、わたしにはわかりません。姫ぎみが申されたからそうしたまでのことです」

次の本は今も改訂新装版が出されているので引用は控えめにする。内容は上と同じ二日間の事である。

ルネ・ローランタン著「ベルナデッタ」ドン・ボスコ社

ルネ・ローランタン著
ドン・ボスコ社刊

pp. 93-98

二月二十四日 水曜日
八回目の出現

(…)

 今日は、この出現されたお方は新しい言葉を口にされた。何回か繰り返して「償いを!」そしてまた「罪びとの回心のために神様に祈りなさい」とも言われた。さらに続いてベルナデッタに、ひとつのことをたのまれた。「罪びとのために償いの心をもって地面に接吻しなさい」と。彼女がそうしたのは、この言葉に従うためであって、ルシル伯母が気が遠くなるほど心を打たれたのも、そのためであった。

二月二十五日 木曜日
まだ濁っていた水

(…)

 「 “あれ” が言ったのです。泉に行って水を飲んで顔を洗いなさいと。しかし私には水が見えないのでガブ川のほうへ行ったのです。しかし “あれ” は指差して洞窟の岩の下へ行くようにと合図しました。そこへ行ったら、泥みたいな水がありましたけれども、ほんの少ししかなくて、やっと手の平にちょっとだけしか取れませんでした。あんまり汚いので三回は捨ててしまいましたが、四回目には飲めました。」「しかし、あの方はどうしてそういうことを頼んだの?」と聞くと、ベルナデッタは「教えてくれないんです」と言う。「それに、お前が食べたあの草は?」と尋ねると、彼女は返事をしない。「あんなことをするから、人がお前のことをどうかしていると言うんだよ。」するとベルナデッタはただ「罪びとのためです」と言う。脱魂状態の時に告げられた言葉を繰り返すだけである。罪びと、罪、いったいそんなに重大な問題なのか? ベルナデッタの目、ベルナデッタの声はそれを考えさせるものだ。

(冒頭に書いたことの続き)

しかし、
現代の司牧者たちはこのような世界は好きでない。
「このような世界は人間を『萎縮』させるものです。
私たちは人間を、もっと『生き生き』『のびのび』と
生きさせたいのです」

しかし、
そのように言う彼らの真のポイントはどこにあるか。
それは、私が上で太字強調したところである。
罪びと、罪、いったいそんなに重大な問題なのか?
彼らの心の裏にはこれがある。

「彼らは罪というものを信じないゆえに、
贖いというものも信ずる必要はないように考えている」
アルバート・ドレクセル神父への主の啓示

私的啓示に「見向きもしない」という態度は間違っている。「『霊』を消してはなりません。預言を侮らないようにしなさい。しかし、そのすべてをよく吟味しなさい」(第一テサロニケ 5:19-21)であるから。
教会が、聖職者たちが、吟味することに乗り気でなかったり、吟味(識別)することがあまり得意でなかったりするならば、あなた自身が(あなたもキリスト者である)吟味するしかないだろう。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ