2018.10.24

「初期の教会では人々は聖体を手で受けていました」?
Part 7

真に誰によるものかはっきりしない 2

Part 2 で見たテイラー・マーシャル氏の言葉を振り返ろう。
大事なとこなので、今回は原文を併記する。

追加的に施された五つの教話については、現在、議論が高まっており、それは本物ではないかも知れません。別の言葉で言えば、それは聖キュリロスではない誰かによって追加された可能性があります。実際、それらの五つの教話を聖キュリロスに帰していない写本が存在します。ですから、それら最後の五つの教話を真に権威あるものとして引用することは、責任というものを完全に弁えた態度とは言えません。その五つの教話は疑問符が付くものなのです。

Now the five follow-up lectures are highly debated and may not be authentic. In other words, they may have may been added by someone other than Saint Cyril. In fact, there exist manuscripts that do not attribute these five lectures to Saint Cyril. Hence, it is not entirely responsible to quote these last five lectures as a valid authority. The five later lectures are questionable.

次はマイケル・デイヴィス氏。強調は私。

フマネ・ヴィテ』研究会

『典礼革命』シリーズ第三巻『パウロ六世の新しいミサ』

Liturgical Revolution, Vol. 3: Pope Paul's New Mass

1980年

手で受ける聖体拝領

Communion in the Hand

マイケル・デイヴィス

Michael Davies

(…)

聖キリロはエルサレムの司教で、主に彼の講義シリーズ(カテケシス)によって知られています。それは(おそらく三五〇年の)復活祭に受洗する求道者たちを対象とするものだったのでしょう。導入の講義とそれに続く十八の講義は古典的神学書であり、カトリック信仰主要点の際だって明白かつ説得力に富む提示を含みます。これらの講義集を私たちの時代にまで伝えた文書のいくつかには、そのほか五つの講義が含まれています。それは聖週間に同じ聴衆が聞いたと推定されるもので、洗礼、堅信、聖体、つまりあの偉大な秘跡の神秘への入門でした。ここから、これらの五講義は秘跡のカテケシスと呼ばれます。これらの文書自体は、秘跡のカテケシスを聖キリロ以外の著者に帰していますが、それ以降の著者たちはこれを単にそれに先行する講義の補遺として扱い、真正文書と見なしています。現代の学者の中にはその典拠について疑う者もいます。ともかく、この本物かどうか疑わしい文書 7 は、手で受ける聖体拝領を正当化するためにしばしば引用されます。

7

その講義が真に誰によるものなのかは不確かであることについては次を参照のこと: J. クアステン, Patrology(初期教会教父文献集), vol. III (Utrecht, 1963), pp. 364-366.

On the question of the dubious authorship of this lecture see: J. Quasten, Patrology, vol. III (Utrecht, 1963), pp. 364-366.

注の部分は私がちょっと訳させて頂いた。
クアステンの「Patrology」は全四巻のようだが、それらを一つにまとめたファイルが Internet Archive にアップされている。英訳版。

マイケル・デイヴィス氏の言葉。

それ以降の著者たちはこれ〔最後の五講義〕を単にそれに先行する講義の補遺として扱い、真正文書と見なしています。

そのような傾向が、Part 5 で見た New Advent の目次 にも表われていたというわけであろう。

マイケル・デイヴィス氏はちょっと奇妙なことを言っている。

これらの講義集を私たちの時代にまで伝えた文書のいくつかには、そのほか五つの講義が含まれています。それは聖週間に同じ聴衆が聞いたと推定されるもので、洗礼、堅信、聖体、つまりあの偉大な秘跡の神秘への入門でした。ここから、これらの五講義は秘跡のカテケシスと呼ばれます。これらの文書自体は、秘跡のカテケシスを聖キリロ以外の著者に帰していますが、(…)

「これらの講義集を私たちの時代にまで伝えた文書のいくつかには、そのほか五つの講義が含まれています」ということは、その「五つの講義」を “含んでいない” ものもあるということか?

そしてまた、テイラー・マーシャル氏は「それらの五つの教話を聖キュリロスに帰していない写本が存在します」と言っていたが、マイケル・デイヴィス氏は「これらの文書自体は、秘跡のカテケシスを聖キリロ以外の著者に帰しています」とまで言うのである。これはどういうことか?

私は、デイヴィス氏のその言葉、『典礼革命』第三巻のその言葉の原文を見てみたくなった。しかし、私は彼のその本を持ってないし、ネットにも落ちていない。しかしその代わり、彼が「手で受ける聖体拝領」について書いたもう一つの本『Communion in the Hand and Other Similiar Frauds(手で受ける聖体拝領及びそれと類似した他の諸々のペテン)』というのがあって、これはネットで読める。見ると、デイヴィス氏は両書の間で文章をかなり転用したらしく、その本の中には『フマネ・ヴィテ』研究会が訳してくれた『典礼革命』の文章とほとんど同じだろうと推測される英文がある。
試訳してみた。『フマネ・ヴィテ』研究会の翻訳を借りた部分もある。強調と〔 〕は私による付加。

HTML / HTML / PDF

手で受ける聖体拝領及びそれと類似した他の諸々のペテン

Communion in the Hand and Other Similiar Frauds

古代の実践はどうだったか

What Was the Ancient Practice?

マイケル・デイヴィス

Michael Davies

(…)

聖キュリロスは4世紀のエルサレムで司教であった人で、主として、[おそらく350年の]復活祭に受洗しようとしている洗礼志願者たちに彼が与えた偉大な講義[カテケージス]シリーズによって知られています。導入の講義とそれに続く十八のカテケージスは古典的神学書であり、カトリック信仰の主要点の際だって明白かつ説得力に富む提示を含んでいます。それらの講義集を私たちの時代にまで伝えた写本(manuscripts)の幾つかには、そのほか五つの講義が含まれています。それは復活祭後の週(Easter week)に上と同じ聴衆に施されたものと思われます。その人々はそれによって、洗礼、堅信、そして聖体と云った偉大な秘跡の秘義についての案内を受けたのでしょう[それで、それらの五つの講義は「秘跡のカテケージス(Mystagogical Catecheses)」と呼ばれます]。それらの写本(manuscripts)は様々に、その「秘跡のカテケージス」を聖キュリロス以外の人に帰しています。〔しかし〕のちの著述家たちはただ(simply)、それらの講義を初めの講義集の中に加え、それを真正なものとして扱っています。その真正性について現代の学者たちの意見は割れています[それらの諸意見の優れた要約が次の書の中にあります。Quasten, Patrology〔初期教会教父文献集〕III, 364/5.]。いずれにせよ、それは今日「手で受ける聖体拝領」を正当化するために非常にしばしば引用される疑わしい講義の一つです。

St. Cyril was a bishop of Jerusalem in the 4th century and is distinguished chiefly for the great series of lectures [catecheses] which he delivered to candidates who were to be Baptized at Easter [probably in the year 350]. The introductory lectures and the eighteen subsequent catecheses are classic theological documents, containing an outstandingly clear and well-argued presentation of the main points of the Catholic Faith. Some of the manuscripts in which these lectures have come down to us also contain five further lectures, supposedly delivered to the same audience during Easter week, in which the candidates were introduced to the great Sacramental mysteries of Baptism, Confirmation, and the Eucharist [hence these five lectures are called the Mystagogical Catecheses]. The manuscripts variously assign the Mystagogical Catecheses to authors other than St. Cyril; later writers simply append them to the earlier collection of lectures and regard them as authentic. Modern scholars are divided on their authenticity. [A good summary of the present state of opinion can be found In Quasten, Patrology III, 364/5.] In any case, it is one of the doubtful lectures which is so frequently cited today to justify Communion in the hand.

『フマネ・ヴィテ』研究会の訳では「これらの文書自体は、秘跡のカテケシスを聖キリロ以外の著者に帰しています」となっていたが、上の文章では「それらの〔複数ある〕写本(manuscripts)は様々に、その『秘跡のカテケージス』を聖キュリロス以外の人に帰しています」ということであった。私は『典礼革命』の原文を見ていないので、『フマネ・ヴィテ』研究会の翻訳がどうのとは言えない。しかしとにかく、これで納得できたように思う。

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