2018.08.14

『各司教協議会宛の書簡』は当初、御聖体拝領のもう一つの方法として「拝領者自身に聖器から直接ホスチアを取らせること」を提案していた  Part 6

Part 5

既に見た人も多いだろうが、「聖母奉献のアーカイブ」さんが『カトリック新聞』の昔の或る重大記事を発掘してくれている。
カトリック新聞】「手による聖体拝領」導入報道記事(1970年10月11日付) ① | 聖母奉献のアーカイブ

上の画像が、「聖母奉献のアーカイブ」さんがアップしてくれているその新聞記事の画像である。(クリックで拡大)

その新聞記事を「聖母奉献のアーカイブ」さんが既に文字に書き起こしてくれているけれども、私も書き起こすとする。(ほとんどは「聖母奉献のアーカイブ」さんからのコピペだけれども)

『カトリック新聞』1970年10月11日号より

第一面だそうである。強調は私による付加。注目はココココ

聖体拝領に新方式


聖体を手に授ける

 日本司教協議会は五月の定例総会で、聖体拝領に際して “聖体を手に授ける” ことを決定してローマに申請していたところ、このほど典礼聖省長官ベンノ・グート枢機卿から、将来、信者に聖体を手に授けるための指針が届いた。その全文は次のとおり。したがって信者は聖体拝領のさい聖体を “手に受けて” 拝領することになる。これに基づいて同司教協議会では、このための具体的な “手引き” を作成するよう典礼司教委員会に依頼していたが、種々研究のすえ出来上がり別掲のように発表した。


典礼聖省からの指針

 日本司教協議会は、聖体拝領に際して、信者が聖体を手に受けて拝領できる許可を要請しました。これに対して、わたしは次のようにお答えします。
 教皇は、一九六九年五月二十九日付の同封指針が伝統的な慣習を保持していることを想記しながらも、日本司教協議会がこのような要請を行なうにあたって、その根拠とされた種々の動機と、さらにこの問題に関して行なわれた投票の結果を考慮されました。そして以下のように実施されることに同意しておられます。
 すなわち、日本司教協議会の管轄地域ではそれぞれの司教は、自らの判断と責任において、管轄司教区内で聖体拝領の新しい儀式の導入を許可することができます。ただし、その際に、信者を驚かせるようないっさいのこと、および聖体への尊崇の念を失わせるおそれのあるいっさいのことを避けるようにしてください。
 このために、次のような基準を考慮してください。
  聖体拝領の新しい方法は従来の慣習を排除してしまうようなしかたで、おしつけられてはなりません。特に、たいせつなことですが、聖体拝領の新しい方式が適法として認められている所で、聖体を手に受ける人びとが、同時に拝領する場合にも、それぞれの信者は聖体を舌で受けて拝領できるように配慮する必要があります。事実、これら二つの聖体拝領の方法は、同一の典礼行為の中で、なんらの困難もなく共存できます。
 このことを指摘しておくのは、一つには、ある人々にとって、この聖体拝領の新しい儀式が、聖体に対するその人固有の信仰心を乱す原因とならないようにするためであり、また一つには、本来一致の源泉であり根拠であるこの秘跡が、信者の間に対立を引き起こす機会とならないようにするためです。
  信者が、聖体を手で受けて拝領する儀式の導入には、慎重な配慮が必要です。実際それは人間の態度に、かかわることがらなのですから、それを採用する信者らの感受性と心の用意に密接な関係があります。したがって、新しい方法の導入にあたっては段階を追って、まず、よく準備のできたグループから始めるのがよいでしょう。
 ことに、この新しい儀式の導入に先だって、じゅうぶんな準備教育を行ない、信者がその動作の意味を正確に理解し、秘跡に対するふさわしい尊敬を保ってそれを行なうように配慮しなければなりません。
 このような準備教育によって、聖体におけるキリストの現存に関する信仰が、教会の意識の中で弱まってきたような印象はどのように小さなものでもそれを避けるようにし、さらに涜聖に陥る危険、あるいはそのように見えることはすべて排除するようにしてください。
  聖体を、信者が手で受けて、口に持っていくことができるということが、このパンを普通のパン、あるいは単に祝別されたものと同様にみなす機会とならないようにしなければなりません。
 かえって、聖体を手にうけて、拝領できるということは、洗礼と聖体の秘跡の恵みによって、キリストの神秘体の一員となった信者にも尊厳をいっそう深く感じとらせ、さらに自分の手で触れる主のからだと血の偉大な現実に対する信仰をますます強めるものとならなければなりません。尊敬の心は動作に比例するはずです。
  拝領の具体的な方法については、古代教会の伝統が伝えている方針に従うのがよいでしょう。司祭または助祭が拝領者の手に聖体をおくという伝統的な方法は、司祭と助祭の奉仕の役割をはっきりあらわしているからです。
 しかし、もっと簡単な方法を用いることもでき、信者が直接、聖体の器の中から取るようにしてもよいのです管理人注1どの方法を用いるにせよ、信者は自席にもどる前に聖体を拝領しおわるようにしなければなりません。また奉仕者の役割りは「キリストのからだ」という定句によって強調され、信者はこれに「アーメン」と答えます。
  聖体拝領にあたって、どの形式が用いられるにせよ、聖体の小片が落ちたり、飛び散ったりしないように気をつけてください。また手を清潔にしておくとか、それぞれの民族の習慣に従った適当な動作などについても配慮されなければなりません。
  ホスチアをおん血にひたす形での両形態による拝領の場合には、主のおん血にひたされたホスチアを信者の手に置くことはけっして許されません。
  聖体拝領の新しい方法を導入する許可を受けた司教は、むこう6カ月間の結果を報告書にまとめ、当聖省あて送ってくださるようにお願いします。


聖体を手に授けるための手引

典礼委員会 編

できる所から実施

 典礼聖省から、信者が手で聖体を受ける許可が出ましたが、急いで一律に実施するのではなく、その意味をよく説明したうえで、よく準備された小さい共同体から始め、徐々にこの方法を取り入れるようにしてください。ただし、同聖省からの注意にもあるように、だれも、強制されることがないよう、今までのとおり直接に口に受けるほうを望む人は、拝領のとき手を出さずに、口を明けてその意志を表わすことをすすめてください。
 聖体を信者が手で受ける方法としては、場合によって次のようなものがあります。
  一般には、典礼聖省の指針に従って、古代教会の伝統的な方法がすすめられます。この場合、聖体を授ける奉仕者は、信者の “手のひら” に聖体を置きますから、手で受けることを望む人は、左手の手のひらを上にし、その下に右手を軽くそえて両手を差し出します。聖体を手に受けたら、右手の親指と人差指で聖体をうやうやしく取り上げ、左手は右手を受けるようにそなえながら、自分で口に入れて拝領します。片手で、指から指へ渡すようなやり方は避けてください。
  少人数で、行なわれるミサで、信者が祭壇を取り囲んでいる場合、信者が直接、聖体の器から右の手で聖体をうやうやしく取り上げることもできますその場合も、必ず左手を右手にそえ、両手で口のほうに持って行きます。片手で、つまみ食いのようにならないよう、気をつけてください。
  管理人注2 家庭ミサのような場合で、少人数が祭壇を囲んですわっている時などには、聖体の器を回わし、各自が右手で、左の手のひらの上に聖体を受け、一同そろうのを待ってから、いっしょに信仰を告白して、皆が同時に拝領することもできます。
 1の方法で一同が縦に並んで前に進み出て拝領する場合、手に受ける位置のひとり手前のところで、手を合わせたまま頭を下げ、聖体を手に受けたあとは、右か左に一歩横に寄り、次の人がすぐ前に出られるようにしてから、自分で拝領し、ただちに席にもどるようにすれば、行列は混雑することなく流れるようになります。
 信者の手に聖体を授けることを実施するにあたって、聖堂入り口付近に、手を清める所を設けることもできます。

[管理人注1]  このように、カトリック新聞は、やがて「中略」されることになる典礼聖省のこの文言を堂々と掲載していたのである。これは「聖座に忠実」の一種だろうか。しかし、一体どんな感覚で、どんな気持ちで、この文言を掲載したものだろう。「聖座に於ける異常」を少しも感知しなかったのか。

なお、「中略」という語の選択(典礼聖省自身による選択だろうが)は、ちょっとした “糊塗” である。あとから「やっぱりそれは良くないだろう、拝領者自身に聖体を直接取らせるなんてことは」ということになってのことだから、その言葉は「中略された」のではなく「取り消された」のである。典礼聖省としてはちょっと “ミットモナイ話” なのである。

そして、これは以前も書いたことだが──典礼聖省は「拝領の具体的な方法については、古代教会の伝統が伝えている方針〔手に聖体をおくという方法〕に従うのがよいでしょう。司祭または助祭が拝領者の手に聖体をおくという伝統的な方法は、司祭と助祭の奉仕の役割をはっきりあらわしているからです」と書きながら、その直後に「信者が直接、聖体の器の中から取るようにしてもよい」と書くのである。しかし、そんなことでは、「司祭と助祭の奉仕の役割をはっきりあらわす」ことが大事なのか、そうでもないのか、分からなくなる。典礼聖省のこの筆者は一言で言って「いい加減精神」の持ち主であることを、神父様方は感知しなかったのか。そして、今も感知しないのか。戻る

[管理人注2]  この箇所は佐久間神父の「和室でのミサ」を思い出させる。戻る

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌

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