2017.04.19

「LGBT カトリック・ジャパン」 のウェブサイトにそこはかとなく漂う
狂気(善意の部分はいい。しかし、狂気を孕んでいちゃ駄目だろ)4

LGBT問題とか何とか言う以前に
 彼らのカトリック信者としての感覚がおかしい(2)

イエズス様の明確な御指示に自分たちの願望を上塗り

LGBTCJ blogspot

2015年8月18日火曜日

虹の慈しみのイェス様

(…)

聖ファウスティーナは日記にこう記しています:

「ある晩,わたしは自分の小部屋のなかで,イェス様を見ました.イェス様は,白いチュニカを着て,一方の手を挙げて祝福し,他方の手は御自分の服の胸のところに触れていました.チュニカの前開きから二本の光線が出ていました.一方は赤色,他方は青白い色でした.(...) イェス様はおっしゃいました:『あなたの見たとおりの絵を描きなさい.そして,そこにこう書き込みなさい:イェス様,わたしはあなたにおすがりします.』」

イェス様を信頼し,イェス様にすがりたいと思う LGBT の人々のために,もとの絵の二本の光線(それは,十字架上でイェス様の胸が槍で刺し貫かれたときに傷口から流れ出た血と水を象徴しています)を LGBT の象徴である六色に修正してみました

どうしてこうなるのか ?

出ていたのは「二本の光線」であると確認しながら、そしてイエズ

ス様の「見たとおりに描きなさい」という御言葉を確認しながら..

ナニ ? 「六色に修正してみました」???

読者は目をこすって、もう一度その流れを見なければならない。

「二本の光線が出ていました」

← 彼らの言葉

「イェス様はおっしゃいました

『見たとおりの絵を描きなさい』」

← 彼らの言葉

「六色に修正してみました」

← これも彼らの言葉

私にとって、これは一つのホラーである。率直に言わせてもらえば、こういうのは、カトリック信者としてはどこか「神経異常」だと思う。「正気でない」と思う。「頭がおかしい」と思う。

彼らはひょっとしたらこんなふうに思っているのかも知れない。

“

もちろん私たちも、イェス様が御指定になった御絵をこのように改変することは普通でないことは知っています。しかし、要は、イェス様が御指定になった御絵を改変してでも世と教会に訴えかけなければならないほど、LGBT の人たちの状況は逼迫しているということなのです。中には あなたもご存知でしょう? 社会や教会の無理解のせいで自殺に追い込まれる人たちも居るのです。だから、この状況を変えるためにイェス様御指定の御絵を少々変えても、愛であるイェス様はお許し下さると思います。

”

念のために言えば、「イェス様」という表記をしたが、上は引用ではない。私が彼らの有り得る内心を想像して書いたことである。

確かに私も、善意からイエズス様御指定の御絵をそのように改変した人たちのことを、イエズス様がどのくらい目くじら立てられるか知らない。しかし「信仰」とは、「信者の姿勢」とは、そういうものか? イエズス様がハッキリと「見た通りに描きなさい」とおっしゃっているのだぞ? しかもそのことを、あなた方自身が書いている。一体どうなっているんだ?

この御絵の改変は彼らの特性を
私たちに分かりやすく教えている

私は読者に、彼らのこの御絵の改変を、彼らの「心と頭と神経の特異性」を分かりやすく私たちに警報してくれるものとして受け取ることを提案する。そして、その意味はこう↓である。

******************************

確かに「LGBT の人たちの中には社会や教会の無理解のせいで自殺に追い込まれる人たちも居る」ということは悲しいことである。しかし、それを理由にあれほどハッキリしたイエズス様の御指示を曲げることを良しとするならば、彼らは同じ理由で、今度は聖書の言葉を曲げて解釈することも良しとするだろう。

******************************

「神のいつくしみ(と云うか、御憐れみ)への礼拝」自体について見てみよう。参考としては Wikipedia などもあるが、ここでは古くからある感謝すべきカトリック・サイトの中に見てみよう。それによって、その御絵についてイエズス様がおっしゃった他の御言葉を確認してみよう。LGBT CJ がこの御絵を尊敬していると言うなら、当然この内容も知っているだろう。強調は私。

神のいつくしみへの礼拝

 指導司祭に頼まれて、ファウスティナは御絵の光の意味についてイエズスに尋ねました。イエズスは答えて、こう説明してくださいました。「この二つの光は水と血を意味する。青白い光は霊魂を義とする水赤い光は霊魂の生命である血を意味する。この二つの光は、十字架上で死にかかっていた私の心臓が槍で開かれた時に、私のいつくしみの中から流れ出た。この二つの光のもとに生きる人は幸い、神の正義の御手は、この人を捕らえることがないからである」(299)。

by Eugeniusz Kazimirowski

イエズス様はこのように、その「二本の光線」の意味合いを具体的に教えて下さっている。それはイエズス様の、私たちが感謝してもし切れない御受難と関係している。そして私たちへの救いの御業、神秘な御業そのものを表わしている。そして「この二つの光のもとに生きる人を、神の正義の御手は捕らえることがない」とおおせられている。と云うことは、これを「虹色」に変えてしまった LGBT CJ は、自分たちが神の正義の御手に「捕えられる」ことを望んでいるわけか?──これは笑えない笑い話ではないか。

彼らはまた、その改変した御絵をTシャツの上にプリントし、販売している参照参照。Tシャツとはかなりカジュアルなものである。その上に聖なる御絵をプリントして販売する。しかもその御絵は天主様の御指定を無視して改変されている。

「エロスの主キリスト」

また、これもついでに言うならば、彼ら
は「虹色のキリストへの祈り」なるもの
もアップしている。その祈りの中にはキ
リストを讃える(?)言葉として
「エロスの主キリスト」というのがある。

その祈りを翻訳したのは LGBT CJ であることを、
LGBT のための他のサイトが言っている下の方。*

* その祈りを翻訳したのが小笠原氏であるとすれば(たぶんそうだろう)、彼のことを「エロスの使徒・晋也」と呼んでも、彼としては本望であろう。或いは、その言葉は英語原文では「Erotic Christ」であるから、彼のことを「エロチック晋也」と呼んでも、彼としては本望であろう。

その祈りの作者は 或るレズビアン作家或るゲイ神学者 だということである。彼らの世界ではイエズス様を「クィア・キリスト(Queer Christ)」と呼んだりするようだ。「クィア神学」というのもあるようだ。あなたが「脱同性愛者たちの証言」を幾らか読んでくれていたならば、この「クィア」という言葉の意味合いを既に知っているだろう。Wikipedia で知ることができる。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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