2016.07.12

隠れた構文「御聖体をうやうやしく立ち食いする」

矛盾した、あり得ない、非現実的な「隠れた構文」の中に放り込まれた公会議後の教会

一見もっともらしいが
よく見ると非現実

もし誰かがあなたに「御聖体をうやうや

しく立ち食いしましょう」と教えたなら、

あなたは変な顔をするでしょう。しかし、

それが実際、私たちの教会の中で起こっ

ていることです。今や私たちが受けてい

る「教導」はそのようなものです。

「御聖体をうやうやしく立ち食いする」

などというのは「矛盾した構文」である

わけです。何故なら、普通、「立ち食い」

するのはあまりお行儀のよいことではあ

りませんから、それをさせながら同時に

「うやうやしさ」を要求するなら、それ

は「矛盾した要求」であるからです。

しかし、そのような物言いが、第二バチカン公会議以降、教会の中に流行って(?)います。“現実” からすれば「相反する」「矛盾した」ような二つのものを、“言葉” で以って、あたかも「相反しない」「矛盾しない」ものであるかのように見せかけること。或る種の「巧言」。これが今の教会の中にあります。

一つは、以前既に見ましたが、ブニーニ時代の典礼秘跡省が「手で受ける聖体拝領」を各国に許したところの『各司教協議会宛の書簡』の中の物言いです。それは一方で「物を手で受ける」という人間にとって極めて日常的な方法を御聖体拝領の中に導入しておきながら、他方で「聖体におけるキリストの現存に関する信仰が、教会の意識の中で弱まってきたような印象は、どのような小さなものであってもそれを避けるようにしてください」などと殊勝なことを言います。これは或る種の「矛盾した構文」、そして「非現実的な構文」です。そして「賢明」とは正反対の構文です。(そして「尊敬の心は動作に比例するはず」とも言っています。これは「空虚な構文」です)

彼また彼らは、そのようなことをすっとぼけて、のうのうと言ってのけたのです。そして、それを聞いた各国の司牧者たちは、言語感覚と現実感覚が鈍いために、そして実のところ御聖体に対する彼らの信仰が大したものではなかったために、呑んでしまったのです。

補足)「のうのうと言ってのけた」という言い方が強過ぎると思うなら、要するにあなたは鈍いのです。しかし、そんなあなたを私は更に案内しましょう。次の事実を知って、よく考えてみて下さい、物事を洗い直してみて下さい。参照

もう一つは、前回も言ったところの、これです。

聖体を手に受けたら、右手の親指と人差し指で聖体をうやうやしく取り上げ、

聖体を手に授けるための手引き(1970年

11(…)拝領者は次の拝領者のために脇に寄り、片方の手の指で聖体をうやうやしく取り上げ、

日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針(2014年

日本の司教協議会はこのように、2014年にもその言い方をしているのです。いわば「継承」しているのです。
私たちの教会は「継承の教会」と言われます。しかし、善意ではあっても言語感覚の鈍い、そして現実を見る目が甘い司牧者たち(大多数)にかかっては、「継承性」も考えものです。

と云うのは、上は笑うべき構文だからです。何故なら、「片方の掌の上に乗せられた御聖体をもう一方の手の指で取り上げる(そして、口に持ってゆく)」という客観的に言って「取るに足りない」と形容されていい動作の上に、一体どんな大層な「うやうやしさ」が乗るというのか ???  ということだからです。

これは「手で受ける拝領」のイラストではないけれども、しかし、本来これと大して変わるところのないごく単純な動作の上に、一体どれほどの「うやうやしさ」が乗るというのか?(○鹿も休み休みに)

どうか「現実」というものに敏感であって下さい。
実際にやってみて下さい。片方の掌の上にお菓子か何かを一つ置いて下さい。そして、先ずはごく普通に、それをもう片方の手の指で取り上げ、口に持っていって下さい。そして次に、今度はその動作を「うやうやしく」やってみて下さい。一体、その二つのやり方の間にどれほどの「違い」が出るというのでしょうか ???

もちろん「内面」に於いては違っていたかも知れません。私はそれを認めます。しかし、それでいいのではありません。何故なら、ここで問題になっているのは「内面を適切に導く動作」というものを見定めるということだからです。内面だけの話ではありません。

極端な話、人間は自分の内面に集中すれば、たとえ逆立ちしていたって、或る程度、自分の内面に「うやうやしさ」を実現することができるかも知れません。しかし、そんな話であっていい筈がありません。何故なら、そのような話でいいならば、結局、「外面的姿勢・動作なんてどうだっていい」という、極めて乱暴な、異常なことになるからです。

私たちはそうでなく、人間の「心身相関の自然な感受性」にとってどのような姿勢・動作が人間の内面を導くに於いて適切かを、或る程度「客観的」に見定めるということをしなければなりません。

そこでもう一度訊きます。
「片方の掌の上に乗せられた御聖体をもう一方の手の指で取り上げる(そして、口に持ってゆく)」という取るに足りない動作が、どれほど「うやうやしさ」の要求に答えますか?

ですから、「片方の手の指で聖体をうやうやしく取り上げる」などという言い方は、「平凡」と「敬虔」を、或いは「日常的」と「敬虔」を、不自然かつ強引に “接ぎ木” したような、やっぱり或る種の「非現実的な語法」なのです。

そして次に、前回見たところの、これです。

無音

典礼に関する何かの指針書に「聖体をうやうやしく立ち食いする」と書かれているわけではありません。しかしそれでも、神父様方は当然、拝領者たちに「うやうやしく拝領する」ことを求めているわけでしょうから、言外に、いわば「隠れた構文」として、「聖体をうやうやしく立ち食いする」と言っているも同然なのです。

そして、言うまでもなく、「聖体をうやうやしく立ち食いする」などというのは、これ以上ないほどの「矛盾した」「あり得ない」「非現実的な」語法です。

結論

神父様方は今、御自分たちのこのような「隠れた構文」を洗い直して、「物事を一から見直す」ということをすべきです。
そして、公会議後、「御聖体拝領のやり方」は要するに、何と言っても「easy(安直)」なものになったことを、率直に、素直に認めるべきです。
そして、下に並べた参考の幾つかのように、いつか聖体拝領台を回復すべきですが、日本の教会はそのために何年かかるでしょうか?

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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