日本の信徒の心は、自らが唱える(唱えさせられる)「応唱」 によって、更に「万物」への思いを印象づけられる |
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「供え物の準備の祈り」の原文と現在の日本語訳の間にもう一つ違うところがある。 |
ラテン語原文
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英語公式訳(アメリカ)
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英語訳はラテン語原文に忠実である。確認
だから、もし日本語訳もラテン語原文に忠実にするとすれば、次のようになるだろう。
逐語訳
司祭 |
神よ、あなたは万物の造り主、 |
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会衆 |
神は代々に誉め称えられますように。 |
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司祭 |
神よ、あなたは万物の造り主、 |
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会衆 |
神は代々に誉め称えられますように。 |
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しかし、現在の私たちの日本語訳はこうである。
日本語公式訳
司祭 |
神よ、あなたは万物の造り主、 |
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会衆 |
神よ、あなたは万物の造り主。 |
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司祭 |
神よ、あなたは万物の造り主、 |
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会衆 |
神よ、あなたは万物の造り主。 |
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「言葉」というものにあまり神経質でない人も多いだろうが、しかし「言葉」は大事である。「言葉」は、人の心に物事を、概念を、世界観を「印象づける」ものであるから。あなたの心を特定の方向に引っ張る(誘導する*)ものであるから。
*「誘導」などと言うと悪い感じがするが、善い影響力についても然りである。私は昔の「香部屋での着衣の祈り」などは善い誘導力だと思う。
私たちは御ミサのたび、毎回、毎回、「あなたは○○」という一つ
の定義的な構文に於いて──つまり、「あなたは男」「あなたは教
師」「あなたは消防士」というような定義的な構文に於いて──
「神よ、あなたは “万物の造り主” 」と唱えさせられるのである。
いや、司祭が冒頭で唱える二度の「神よ、あなたは万物の造り主」はよしとしよう。しかし、私たち日本の信者は更に、自分でも二度、同じ言葉を繰り返させられるのである。
日本語公式訳
司祭 |
神よ、あなたは万物の造り主、 |
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会衆 |
神よ、あなたは万物の造り主。 |
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司祭 |
神よ、あなたは万物の造り主、 |
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会衆 |
神よ、あなたは万物の造り主。 |
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私は思う。「日本の信者は、こんなに、都合四度も、『神よ、あなたは万物の造り主』と畳み掛けられてはたまらない」と。
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ここに「言語効果」が生まれない筈がない。この四連続を考え出した神父様方の意図は一応別問題として、とにかく、「同じ言葉の反復」は、「催眠」やら「刷り込み」やらの世界では、おそらく最も基本的な手法である。
*
原文
① 万物、大地の恵み
② いのちのパン、霊的飲み物
③ 神は代々に誉め称えられますように。
原文に忠実な英語訳などに於いては、会衆は応唱 ③ に於いて ① と ② の <両方> を意識し、<両方> に感謝することになるだろう。
日本語訳
① 万物、大地の恵み
② いのちの糧
③ 神よ、あなたは万物の造り主。
然るに日本語訳に於いては、「いのちのパン」「霊的飲み物」という具体的な言葉が「いのちの糧」という漠然とした言葉に置き換えられているのみならず、応唱で「万物」に感謝させられる。*
*「万物」の中には「いのちのパン」も「霊的飲み物」も含まれるのだ! などと強弁するならば、どうかしている。通常の日本語感覚に於いては、「御聖体」は「万物」の中には含まれない。
*
以上このような日本語訳の構造によって、日本の信者は「供え物の準備の祈り」の時、「御聖体」を意識しづらくさせられている。「いや、信徒たちはカトリック信仰を知っているし、何と言ってもそれは奉献の直前だから、彼らはちゃんと主の御体と御血のことを想起するさ」と言うのか。しかし、それにしては──思い出そう──前回見たように、司祭ですら「供え物の準備の祈り」について書きながら「御聖体」について言わないのである。
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」