2016.07.12

供え物の準備の祈り Part 3

実例(症状)

現在の日本語訳が日本人の耳にどれほど「万物賛歌」的なものとして響いているかを実例を以って見てみよう。

先ずはイエズス会の鈴木宣明[のぶあき, Wiki神父の文章から。
(文字色による強調は管理人)

騎士誌13

大地の恵み・労働の実り

(…)

神よ、あなたは万物の造り主、
ここに供えるパン・ぶどう酒はあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。
(感謝の典礼-パン・ぶどう酒を供える祈り)

 文月に実を結んでいく、大地の一つ一つの恵み、神の創造と人の労働の実りを観想するとき、神秘の美しさにしみじみ感動します。

「それはなんと美しいことか
なんと輝かしいことか。
穀物は若者を
新しいぶどう酒は
おとめを栄えさせる。」
(ゼカリア九・十七)

 東北の山々に抱かれた盆地の田んぼに栄えていくイネの一生を眺めながら、御飯をいただいて育ちました。また、ぶどう畑の豊かに実った棚の下を遊び走りながら、香りに酔って大きくなったことをなつかしく思い起こします。

注)文章の全部を引用したわけではないから、文章の全体また前後関係については各自、参照元で読んで頂きたい。

彼は途中に旧約聖書の言葉を挟んでいるから、これを読む人の目に、この文章は宗教色が濃いものとして映る。いや、実際、宗教的ではあるだろう。けれども、その旧約聖書の言葉とて、結局は「大地の恵み」についての感謝と賛美なのである。

その感謝と賛美は、「それ自体」として見た場合、よいものである。その思いに悪意はなく、純粋である。それは認める。

しかしながら、「供え物の準備の祈り」の本来の意味は今まで見て来たところのものであるから、もしカトリック司祭である人がその祈りを引きながら「大地の恵み」について語ること多く、主の「御体」と「御血」について語ること少ないなら、寂しいことである。

次も司祭の例である。以前も取り上げさせてもらったイエズス会の具正謨[クー・チョンモ]神父の『典礼と秘跡のハンドブック 1』(2009年)から。

pp. 31-32

供えものの祈り

「供えものの祈り」の始まりの部分のラテン語は、
"Benedictus es, Domine, Deus universi"(万物の造り主である神が祝福されますように)であり、会衆は、"Benedictus Deus in saecula"(神が世々に祝福されますように)と応答する。日本語訳は、どちらも「神よ、あなたは万物の造り主」になっている。

 問題は、"Beneditus"(祝福されよ)ということばをどう訳すかにある。人間が神を祝福するというのは、日本語としてはどこか奇妙だ。祝福を与える行為は、誰か身分の高い人が低い人に(たとえば、王が国民に、教皇が信者たちに、父親が子どもたちに、など)するものであるという印象があるからである。しかし、ユダヤ・キリスト教の伝統では、祝福とは、誰か偉い人から低い人に一方的に与えられるものではなく、誰でも、甚だしくは、人間が神にさえも与えることができるものとして理解されてきた。詩編134編は、「主の僕らよ、こぞって主を祝福せよ。……天地を造られた主が、シオンからあなたを祝福してくださるように」とあり、祝福という行為の中で人間と神とが互いに関わっている様子が描かれている。

 人間から神への祝福と、神から人間への祝福とは、同じ行為であっても、内容は違う。神からの祝福は、神が与えてくださる恵みのことを示すものであり、人間側からの祝福は、神からいただく恵みに対する感謝と賛美を表すものである。日本語の聖書は、この違いをよくわきまえて、人間が神に向ける祝福には、「賛美」や「感謝」という言葉をあてている。

 今は亡き筆者の父親は農夫であったが、日曜日を除く毎日、畑や田んぼの仕事に従事していた。四人の子どもを都会に進学させた彼は、一生涯、農事の重労働から逃れることがなかった。一日の生活は、朝四時半の早課の祈りで始まり、夜十時頃の終課の祈りで終わる。いくら疲れても祈りをやめることはなかった。

 初ミサのときに、特別にお願いして、父親が収穫した小麦でホスチアを作っていただいた。ホスチアとぶどう酒を両親の手から受け取り、家族や友人たちの前で「供えものの祈り」を唱えた。神と人間が互いに祝し合い、大地の恵み、労働の実りがわたしたちの命の糧となる、という神秘をあの瞬間ほど深く感じたことはない。

上は「供えものの祈り」と小題を振られたセクションの全部である。つまり、彼が「供えものの祈り」について書いたものは、これで全部である。気づくことは──

彼はその翻訳の問題について触れない
彼は、その祈りの日本語訳で「いのちの糧」とされている言葉はその祈りの原文では「いのちのパン」「霊的飲み物」という主の「御体」と「御血」を意味する言葉であった(である)、ということを書いていない。(まあ、書けるわけがない。書いたら保守的な信者たちから問題にされる)

人間的感慨
この「供えものの祈り」からの着地点は、鈴木宣明神父と具神父の両者に於いて、驚くほど似ている(それぞれ赤文字にした部分)。それは彼らの人間的な感慨である。彼らは「供え物の準備の祈り」からそのような人間的感慨に導かれ、「主の御体と御血」のことは思わない。(思ってはいる? しかし、とにかく言っていない)

次は信徒の例である。参照

この人の思いも、純粋であって、まあ、それ自体、罪のないものである。
そして、この人は「司祭」よりは比較的責任の軽い「信徒」である。だから、文章の引用は控える。しかし、その世界観をよく表わしているので、御免、写真は小さく頂く(右)。この信徒さんが「供え物の準備の祈り」によって手を引かれ導かれている世界は、この写真によってよく象徴されている。

彼女(女性である)は供え物に関して「聖化」という言葉も出している。これはこの人に関して心に留められるべきことかも知れない(つまり、この人はひょっとしたら、この祈りに若干疑問を感じているのかも知れない)。しかしそれでも、その祈り文自体からは、この人の心の内に、やはり圧倒的に「大地の恵みへの感謝」が立ち上がっているようである。無理もないかも知れない。言語的に、あの訳文ではどうしてもそうなりやすい。

このような人たちの人間的感慨のためには、別にカトリックでなくても、下のようなものだっていいかも知れない。

神道の神主さんの手を通して神に稲穂を捧げる農家の人。

注)私は農家の人は国の宝だと思っているし、左の情景にケチを付けるつもりはない。ただ、今は宗教のことを話している。

この神主さんと農家の人に「供え物の準備の祈り」の日本語訳を聞かせなさい。彼らは何の苦もなく受け入れるだろう。

神よ、あなたは万物の造り主、
ここに供えるパン・ぶどう酒はあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。

この日本語訳を考案した神父様方は、これによって一つの「インカルチュレーション」をしたのかも知れない。また、出来上がったこの祈り文を見て、「普遍的」と思って喜んだのかも知れない。*

現代の司祭の幾らかの頭の中には

catholic(普遍的)= universal(普遍的)

= general(一般的)= common(共通的)

と云ったお馬鹿な等式さえあるかも知れない。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ