言葉の姿をもう少し見ておく。
パンとぶどう酒の祈りを一つに書く。
現在の日本語訳 神よ、あなたは万物の造り主、 ここに供えるパン・ぶどう酒はあなたからいただいたもの、 大地の恵み、労働の実り、 わたしたちのいのちの糧となるものです。 |
逐語訳 神よ、あなたは万物の造り主、 ここに供えるパン・ぶどう酒はあなたからいただいたもの、 大地の恵み、労働の実り、 わたしたちのいのちのパン・霊的飲み物となるものです。 |
現在の日本語訳では、「万物」「大地の恵み」「労働の実り」「いのちの糧」という語の流れが「スムーズ」である。別の言い方をすれば──それらの語は互いに「親和性」がある。それらの語の間に「高低差」がない。互いの語の間に「異質性」を感じさせない。「いのちの糧」という言葉が「万物」という或る意味圧倒的な言葉の中に、そして「大地の恵み」という人間にとって親しみ易い言葉の中に “融け込んで” いる。それ故に、これはほとんど自然的な「万物賛歌」になっている。本来そこにある筈の「いのちのパン」と「霊的飲み物」を全く(或いは、ほとんど)感じさせない。
しかし逐語訳、つまり原文の中には、曲がりなりにも「高低差」がある。人間はもちろん「万物」と「大地の恵み」に感謝すべきである。しかし、この祈りの原文の中には、それらの恵みより更に尊い特別の恵みが記されている。「いのちのパン」「霊的飲み物」、すなわち主の「御体」と「御血」である。このような「超自然的」要素が含まれているので、この祈りは単なる「万物賛歌」のようになるのを免れている。
では次に、現在の日本語訳が日本人の耳にどれほど「万物賛歌」的なものとして響いているかを実例を以って見てみよう。次へ
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」