あなたはご存知だろうか、御ミサで唱えられる「神よ、あなたは万物の造り主…」の祈りの日本語訳は原文の「いのちのパン」「霊的飲み物」という二つの言葉を「いのちの糧」という一つの言葉に置き換えていることを。
注)その祈りは赤い本『キリストと我等のミサ』では「パンを供える祈り」「カリスを供える祈り」と名付けられている。しかし典礼書(参照元に感謝)では二つまとめて「Praeparatio donorum(= Presentation of the gifts、供え物の準備)」(の祈り)となっているようだ。
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神よ、あなたは万物の造り主、 ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、 労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。 神よ、あなたは万物の造り主、 ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、 労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。 |
この日本語訳はよろしくない。何故ならば、この日本語訳では、日本人の耳に、まず圧倒的に「大地の恵み」について神に感謝する祈りとして響くからだ。
注)いちいち「大地の恵み、労働の実り」と書くのは面倒なので、以下に於いても多くの場合「大地の恵み」とのみ言う。
もちろんこの祈りは、その原文から云っても「大地の恵みへの感謝」と無縁ではない。その要素は確実に持っている。しかし、ほかに、それよりも重要な要素を持つのである。この日本語訳はそれを反映しているとは言えない。
何故なら、その祈りはもともとこのようなものであるから。
ラテン語原文 Benedictus es, Domine, Deus universi, quia de tua largitate accepimus panem, quem tibi offerimus, fructum terrae et operis manuum hominum: ex quo nobis fiet panis vitae. Benedictus es, Domine, Deus universi, quia de tua largitate accepimus vinum, quod tibi offerimus, fructum vitis et operis manuum hominum: ex quo nobis fiet potus spiritalis. |
英語公式訳(アメリカ)
Blessed are you, Lord God of all creation,
Blessed are you, Lord God of all creation, |
英語訳はラテン語原文に忠実である。確認
だから、もし日本語訳もラテン語原文に忠実にするとすれば、次のようになるだろう。
逐語訳
神よ、あなたは万物の造り主、
ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、
労働の実り、わたしたちのいのちのパンとなるものです。
神よ、あなたは万物の造り主、
ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、
労働の実り、わたしたちの霊的飲み物となるものです。
で、上の「いのちのパン」「霊的飲み物」という言葉が何を意味するか分からないカトリック信者は居るだろうか。居ないだろう。そう、「いのちのパン」とは「御聖体」* を意味し、「霊的飲み物」とは主の「御血」を意味する。
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すなわち、主の「御体」。 |
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従って、日本語訳の言う「わたしたちのいのちの糧となるものです」の、この「なる」も、普通の食物であるパンが天主様の神秘な御力によってイエズス様の御体に「なる」、普通の食物であるぶどう酒が同じく天主様の神秘な御力によってイエズス様の御血に「なる」、つまり「聖変化」のことを意味しているのである。(it will become for us the bread of life. it will become our spiritual drink. 英語訳)
私たちはカトリック信仰を知っているから、現在の日本語訳からでも「聖変化」のことを思う人はあるかも知れない。いや、「なんとなく」ということでは、全ての信者がそれを思うだろう。しかしそれでも、「なんとなく」と「はっきり」は違う。
「言葉」というものは「言葉それ自体としての喚起力」を持つものであるから、如何に私たちが「カトリック信仰について知っている」と云っても、この「いのちの糧」という漠たる言葉から一定の悪しき影響を受けずには済まないだろう。
つまり、この「いのちの糧」という言葉は、半ば「主の御体と御血」のことを言っているようでもあり、また半ば「大地の恵み、労働の実り」のことを言っているようでもある、と云ったような曖昧な世界に、私たちを導かずにはいないだろう。
つまり、その「なる」を、「ああ、大地の恵み、労働の実りである食物が、私たちの体内機構の中で栄養となり、私たちのいのちを支え育んでくれるなぁ」と云うようなイメージで受け取ってしまう人も、たぶん少なくないだろう。
ブラジルのケラー司教様は「私たちの霊魂の食物、主の御体・御血・御霊魂・御神性である御聖体と、私たちの肉体のための食物である通常のパンとを、区別できていること」の必要を呼びかけられたものだったが。参照
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オッタヴィアーニ枢機卿様は「霊的飲み物」という言葉も駄目だと言っている。「霊的に変化する」ことと「実体的に変化する」ことは別であるからと(参照)。私もそう思う。「霊的飲み物」では単に「聖化されたぶどう酒」みたいなものを連想させかねない。
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補足: bread of life という言葉
聖ヨハネ福音書 6:35, 48
「わたしが命のパンである。 」 |
フランシスコ会訳 |
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「I am the bread of life: 」 「Ego sum panis vitae: 」 |
第一奉献文
わたしたち ─ 奉仕者と聖なる民 ─ も、いま(…)永遠の生命のパン(bread of life)と救いの杯を栄光の神、あなたにささげます。
第二奉献文
わたしたちはいま、(…)いのちのパン(life-giving bread)と救いの杯をささげます。
※ 第三奉献文では「いのちに満ちたこのとうといいけにえを」。
言葉というものは「幅」を持つので、「bread」という言葉も、どんな時も文字通りの「パン」を意味するとは限らず、「糧(日々の食糧)」という程度の意味合いである場合もあるだろう。しかし、今回の場合はそれに該当しない。それは是非とも(或いは、本来なら)「糧」ではなく「パン」と訳されねばならない。
何故なら、その祈り文の中でその言葉「bread of life」は「spiritual drink」という言葉と “対[つい]” のものとして置かれているからだ。それらは “couple” なのである。“ワンセット” なのである。「霊的飲み物」と “対” のものは「いのちのパン」であって「いのちの糧」ではない。
日本の聖職者方も勿論、その辺の事を知っているので、片方だけ「いのちの糧」とするわけにもいかず、両方とも「いのちの糧」としたのだろう。(そして... 聖座もそれを承認したのだろう)
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日本の聖職者方は奉献文などでは「いのちのパン」としているに拘わらず、何故「供え物の準備の祈り」では「いのちの糧」としたのか。まあ、色々あるだろうが、たぶん先ず「霊的飲み物」という言葉に抵抗があっただろう。日本語の祈り文としては生硬過ぎるように思われただろうし、また「未信者が聞いたらどう思うだろう」とも思っただろうし、またもちろん、彼らの言う「<あまりにも聖体中心> のこれまでの信仰」に対する曰く「反省」もあったのだろう。(私はこれら全てに共感しないが)
参考動画
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」