2016.06.20

どうかした頭

カトリック二俣川教会

主任司祭のことば
「ミサ典礼の変更箇所の意味と大切さを勉強しましょう」
-李神父からのメッセージ11月号-
2015/11/19

(…)

新総則の中で、新たに付け加えられたのが、内陣にある聖櫃に安置されている聖体への表敬です。ミサのはじめと終わりにだけは、聖体に表敬するため、深く礼をする動作が加わります。聖体に現存される主と、集会のうちに現存される主は同じ主だからです。しかし、その後、ミサ中にはこれまで通り、典礼集会に現存される主に意識を向けさせるために、聖櫃の前を通過するときでも、表敬はしないことになっています。

(…)

李廷胤(イ チョンユン)神父(プラド司祭会

プロフィールに見るように、日本の司祭不足のため、2004年に韓国から横浜司教区に派遣された神父様である。そして、今、二俣川教会の主任司祭であられる。

日本語にハンデがおありかも知れない。しかしそれでも、この文章は二俣川教会の「教会だより」に巻頭言として載ったものだという。つまり、隙が生まれやすい「話し言葉」でなく、発表する前に推敲することも日本人にチェックしてもらうこともできる「書き言葉」であろう。だから私は、一応これを、日本人司祭が書いたものと同様に扱わせて頂こうと思う。

そしてまた、大塚司教様のところで言ったのと同じように言うこともできる。すなわち──たとえ言葉にハンデがあったのであれ、何であれ、兎に角このようなものが「主任司祭の言葉」として掲げられていることがおかしい。つまり、信徒はどうした。これまで信徒の間から「神父様のこの御文章はちょっとおかしいのではありませんか」という声が挙がらなかったのか。

彼の言葉のどこが「おかしい」のか。
言わずもがな、上で赤下線を引いた部分である。

私はそこに、
「頭だけ」になった、「上っ面の理屈だけ」になった、
「感覚」に於いてどうかした、地に足を着けていない、
つまり、「現実」から離れて中空を漂う幽霊のようになった
人間を見る思いがする。
(失礼な言い方である。しかし、私は真にそういう気がする)

福者カタリナ・エンメリックが見たという「頭に濃い霧がかかった聖職者たち」というのを思い出さずにはおられない。

もう一度読んでみよう。

新総則の中で、新たに付け加えられたのが、内陣にある聖櫃に安置されている聖体への表敬です。ミサのはじめと終わりにだけは、聖体に表敬するため、深く礼をする動作が加わります。聖体に現存される主と、集会のうちに現存される主は同じ主だからです。しかし、その後、ミサ中にはこれまで通り、典礼集会に現存される主に意識を向けさせるために、聖櫃の前を通過するときでも、表敬はしないことになっています。

「典礼集会に現存される主に意識を向けさせるため」というのがその「理由」になっている。しかし、考えてみるがよい、そのような理由によってであれ、どのような理由によってであれ、あなたがその前を実際「素通り」できるならば、あなたはそれを「崇敬」はしていないだろう。本当の意味では。
(これは子供でも分かりそうなことではないか)

「よっぽどの場合」は別である。例えば──或る時、あなたは御聖堂に足を踏み入れた。すると、事もあろうに、御聖堂の向こう側で一つの事件が発生していた。一人の人が暴漢に襲われており、その生命が今まさに危機の中にあった。
そんな時には、あなたは御聖櫃に表敬するのも忘れて、御聖堂の向こう側に飛んで行くがよい。私はそれでよいと思う。

しかし、ナニ? 「会衆をして典礼集会に現存される主に意識を向けさせる」ために司祭は御聖櫃の前を「素通り」するのだ ???
──なに、それ!

表現の省略が別のことの表現になるかのようなレトリックである。

あなた方は人間の現実が分かっていない。人間という一つの有機体に於いては、「崇敬の表現の省略」≒「崇敬の省略」なのである。
表現」は削減するが「心」は削減するつもりはない、などと云うことが通ると思うのか。それは一つの「非現実」である。

ああ、違った。あなた方はつまり、日本語の感覚で云うところの「表敬」程度のものには賛成だが「崇敬」には反対なのだった。

ただ、そのような考え方をするのはこの神父様ばかりではない。
こんなことは言い飽きたが、おおもとは「典礼憲章」だろう。

7(典礼におけるキリストの現存) このような偉大なわざを成就するためにキリストは、常に自分の教会とともに、特に典礼行為に現存している。キリストはミサの犠牲のうちに現存している。「かつて十字架上で自身をささげた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として」司祭のうちに現存するとともに、また特に、聖体の両形態のもとに現存している。キリストは、自身の力をもって諸秘跡のうちに現存している。すなわち、だれかが洗礼を授けるとき、キリスト自身が洗礼を授けるのである。キリストは自身のことばのうちに現存している。聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語るのである。なお、「わたしの名によって、2・3人が集まるところに、わたしもその中にいる」(マタイ 18・20)と約束したキリストは、教会が懇願し、賛美を歌うときにも現存している。

典礼憲章 (Shift_JIS)

この一様に「現存」という言葉で済ましてしまっているガサツさである。これは致命的なガサツさである。

確かに、それらのそれぞれに主は「現存」しておられるかも知れない。しかし、そうだとしても、それらの「現存」の間には「濃淡の差」があるのである。

最も色濃く「現存」しておられるのは「聖体の両形態のもとに」である。それはそうに決まっている。何故なら、それらは主の「御体」と「御血」だからである。「色濃く」などと言うのがおかしいくらい、それは「主御自身」である。

だから、「典礼全体に主が現存しておられること」に会衆の意識を向けさせるために「御聖櫃への表敬の回数を削減し、時にはその前を “素通り” する」などと云うのは、どう表現していいか分からないほど常軌を逸したことである。

そして教会は次のように進む。

主は御聖体の内にだけ居られるわけではないことに意識を向けさせるために、聖体賛美式などは “たまに” だけやることにし、御聖体訪問も熱心には勧めないことにしよう。

神様はどこにでも居られることを意識させるために、あまり「教会、教会」とは言わないようにしよう。従って「宣教」も、今や、教会に人を呼んで来ることではない。参照

「学びましょう」「勉強しましょう」

李神父の文章の表題は「ミサ典礼の変更箇所の意味と大切さを勉強しましょう」であった。そして他方、典礼学者たちは人々に「現代世界憲章から何を学ぶか参照などと呼びかける。そしてカトリック信者の中には、そのように呼びかけられれば素直に “学んじゃう” 人が多い。しかし、学んではならないものもあることを知るべきだ。“自分の頭” を持つべきだ。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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