2016.01.07

現在の教会はサタニストの影響下にある 8

ロッカの方向性は第二バチカン公会議の方向性にソックリ(2)

「第二バチカン公会議は素晴らしい “新展望” を開いた、それは “画期的” なものだった」 なんていうのは、ただ無知から来た錯覚である。

前回見たように、ポール・ロッカの “クレド” の中に、第二バチカン公会議の思想に特徴的な要素の幾つかが現われています。
言い直せば、第二バチカン公会議の思想の「大きな特徴」とポール・ロッカの思想の「大きな特徴」は “一致” するのです。

世の神父様方は、第二バチカン公会議の思想の中に「素晴らしい新展望」を見、それに盛んに「画期的」という形容詞を付したものでしたが、何のことはない、神父様方を感動させたところのその思想の「大きな特徴」の幾つかは、19世紀末、オカルティスト、エソテリシスト(秘教信奉者)、そしてサタニストたちから成るサークルの中に身を置いていた一人の背教の司祭の著作の中に既に現われていたのであります。「まったく十分に」と形容していい程度に。「文字通り、それそのものが」と言っていいほどに。

神父様方はあくまで「知らなかったから感動した」のです、もし神父様方がポール・ロッカの思想をあらかじめ知っていたなら、第二バチカン公会議の思想と初めて出会った時、そこに「新展望」を見ず、「画期的」なものも見なかったことでしょう。ただ、「あれ? これは昔ポール・ロッカという破門された司祭が言っていた事と同じだな」と思ったことでしょう !!!
(歴史の流れとは何と恐ろしいものでしょうか !!!)

確認してみましょう。

第一条 私は、使徒的な幹に対して9世紀以来連続的に為されて来た剪定(それ故それらは「セクト」或いは「セクション」と呼ばれる訳注3)によってキリスト教世界の中に生起した全ての諸教会は、散らされたメンバーから成る大カトリック教会(Grande Église catholique)を構成する部分であると信ずる:「体の全ての部分は多くあっても一つの体であるように」(聖パウロ)〔第一コリント12:12〕。私は、「ウルトラモンタニズム」と呼ばれるものも含め、それら全ての諸教会の間に、彼らを結び付ける血縁関係──むしろ、キリスト教としての共通の遺産と言った方がいいだろうが──があることを、そしてそれは会合を容易にするであろうことを、そしてそれらの間の交流が一般的なものになれば主の予言「かくて一つの群れ、一人の牧者となるべし」〔聖ヨハネ福音書 10:16〕を満たすことになるであろうと信ずる。

Article I. — Je crois que toutes les Églises qui se sont formées, dans la chrétienté, à partir du IXe siècle, par l'ébranchement successif du tronc apostolique (et que l'on appelle, pour cette raison, sectes ou sections), participent de la Grande Église catholique, dont elles forment le corps avec des membres épars : « multa quidem membra unum autem corpus » (saint Paul). Je crois qu'entre toutes ces Églises, y compris celle qu'on nomme ultramontaine, il se trouve un lien d'affinité qui les rattache, — mieux vaut dire, un fonds commun de Christianisme, où la rencontre est aisée et où se fera l'association générale, pour réaliser la prophétie du Maître : « Et erit unum ovile et unus Pastor. »

これは私たちが第二バチカン公会議後の教会世界に於いてよく知っている方向性です。

第一に特徴的なのは、聖句の或る種の解釈です。ロッカは、上にあるような聖パウロの言葉やイエズス様の聖言から、プロテスタントなどのキリスト教他派を含めた「大カトリック教会」を作ることを提案します。──否、「作る」と云うよりも「見なす」ことを。それらの “集合” を「大カトリック教会」と「見なす」ことを。

しかし、そのような「見方」は第二バチカン公会議の教会論にも通じるものではありませんか?  第二バチカン公会議文書はそれなりに「言葉巧み」(あくまで、騙されやすい人たちにとっては)だけれども。

『現代世界憲章』などは、ロッカと同じように主の聖言を拡大解釈して、「一つであるように」の聖言をキリスト教他派はおろか「すべての人々」にまで “適用” したのではありませんか? 参照

第二に特徴的なのは、「キリスト教としての共通の遺産」という言葉、そしてそこから実際的にも親しい「会合」や「交流」を持つことを奨励していくやり方です。これもまた第二バチカン公会議に特徴的な方向性の一つです。何故ならば、第二バチカン公会議はやがてその『ノストラ・エターテ』で、ユダヤ教との関係について次のように言うことになるからです。

このように、キリスト者とユダヤ人に共通の霊的遺産は非常に大きいものであるから、この聖なる教会会議は、特に聖書研究や神学研究や親密な話し合いによって … 

参照

第二条 私は、ローマ・カトリックの今あるような、典礼、祭式、儀式、諸規定によって導かれた神礼拝は、近い将来、一つの公会議によって、それ自身を使徒たちの黄金時代の尊敬すべき単純さへ回帰させるところの、また、それ自身を良心とキリスト教文明の新しい状態に調和させるところの、一つの変容を被るだろうと信ずる。そして、そうなった時には、その教会、その神の寺院に於いては、現代の人々をその外に放り出すところの普遍的な背教〔の判断〕というものは終わりを告げるであろう。

Art. II. — Je crois que le culte divin, tel que le règlent la liturgie, le cérémonial, le rituel et les préceptes de l'Église romaine, subira prochainement, dans un concile œcuménique, une transformation qui, tout en lui rendant la vénérable simplicité de l'âge d'or apostolique, le mettra en harmonie avec l'état nouveau de la conscience et de la civilisation chrétiennes. C'est ainsi que cessera l'apostasie universelle qui a jeté les peuples modernes hors de cette Église et de son Temple.

ボンテール神父様の御著書『典礼運動』で引用されていた箇所参照に該当する箇所です(最後の一文を除いて)。
今、何故「該当する」と書いたかと云うと、文章がほんの少し違うからです。以下はその説明。読む必要のない、非本質的な事。

上の第二条でハイライトした部分に「キリスト教文明」という言葉があります。しかし、ボンテール神父様の御著書の英訳版では「現代文明」となっています。そしてまた、ネットにはその御著書のフランス語版(原著)も落ちているのですがPDF、そこでもやはり「キリスト教文明」ではなく「現代文明」となっています。しかし、上の第二条では確かに「キリスト教文明」となっています。
では、ボンテール神父様は誤引用したのでしょうか?

私はそうではないような気がします。と云うのは、もう一つ気になることがあって、それは、ボンテール神父様がその言葉の典拠を『アベ・ガブリエル』としていることです。もし神父様がその言葉を上の「アベ・ガブリエルのクレド」から引いていたなら、典拠は『キリスト、教皇、そして民主主義』としていたことでしょう。

答えは、おそらくこうでしょう。ボンテール神父様はその言葉を『キリスト、教皇、そして民主主義』から引いたのではなく、『アベ・ガブリエルとその婚約者ヘンリエッタ』から引いた。

L'ABBÉ GABRIEL

ET

HENRIETTE, SA FIANCÉE

で、これはフランスの書物に於ける表題の書き方を幾つか見て思うことなのですが──その恋愛小説の表題は印刷物の中で右のように印刷され得ます。「L'ABBÉ GABRIEL」は大きな文字で、あとは小さな文字で。そんな感じの書き方が、実際、フランスの本に多いようだからです。そして、そうだった場合、フランス人は往々、この著作の題名を言うのに『アベ・ガブリエル』としか言わなかったりするのではないでしょうか(小さな文字を一種 “付け足し” 的に扱うというか)。日本人ならちゃんと最後まで『アベ・ガブリエルとその婚約者ヘンリエッタ』と言うところを。──フランス人の悪口?
いや、悪口じゃないけれど、しかし、できれば書名をちゃんと書いて欲しかった。既に何度か言及していて、省略しても読者に分かる場合は別ですよ。その場合は私も省略(或いは、短縮)します。でも、初めて挙げる典拠に関しては、ちゃんと書いて欲しかった。──ま、小さな事だけど。

外部サイト

閲覧可能なロッカの原著

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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