実際的な「比較」で考えるべきである
「際限のないこと」にはなりはしない
神父様方の中には次のように考える人もあるかも知れません。
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確かに、そのような現実があるだろう。肉眼で見えるほどのホスチアの欠片が拝領者の手に残っているだろう。しかしそれは、「肉眼で見える」とは言っても、あえて見ようとして初めて気づくようなものだ。ごくごく小さなものだ。そのような細かい目を以ってすれば、私達はどこまでのことを気にしなければならないのか。際限のないことになってしまうのではないか。 |
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しかし私は「いや、際限はあるのです。際限と云うか、一つの実際的な区切りが」と申し上げます。
と云うのは、これがあるからです。
結論: 全25回の「聖体拝領」に於いて、「拝領者」の掌と指先に残った肉眼で見えるホスチアの欠片の数は、「手で受ける聖体拝領」に於いては計65個、「舌で受ける御聖体拝領」においては計0個であった。
これは、チャールズ・セント・ジョージ氏の実験のところで言った事(参照)を図表にしたものです。つまり、もし彼が「手による拝領者」の手ばかりでなく「舌による拝領者」の手をも調べ、それぞれの拝領者の手に付着していたホスチアの欠片の数を比較していたなら、このようになっていただろうという事です。
「舌で受けた場合だって、風に吹かれてホスチアから飛び立ち、拝領者の手の上に着地し、そして失われる欠片があるかも知れない」などと言わないで下さい。舌で受けた場合、その数字は基本的に「0」であると考えられるべきです。
また、「舌で受けた場合、0個であるのは当り前だろう」と笑わないで下さい。それは「当り前」ではあっても、「手で受けた場合」と「比較」した場合、そこにある「0」という数字は、私達が生きる「現実」に於いて、決して無意味ではありません。
この「0」は、「舌で受ける御聖体拝領」は御聖体の保護のために「手による聖体拝領」など比較にならないほど良いことであるということを示しています。(と云うか、「手による聖体拝領」が “悪過ぎる” のです、御聖体の保護のために。)
この見紛う方なき、全く現実的な「比較」(コントラスト)を前にして、この事だけによっても、私達は断然「舌による御聖体拝領」に帰るべきなのです。
違いますか? ならば、どうだと云うのでしょう。
下の文章を完成してみて下さい。
私達が「舌で受ける御聖体拝領」に帰るために、「『舌で受ける御聖体拝領』に於いてよりも『手で受ける聖体拝領』に於いての方が無駄に失われる御聖体の欠片の数が比較にならないほど多い」という理由だけでは足りない。
何故ならば、 |
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上の空欄を埋めてみて下さい。できますか?
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あなた方はどのような理屈を言って
これに反対するのでしょうか。
こう言うのでしょうか。
「一つの事に囚われないで下さい」
しかし、私達が言うべきはこうではないでしょうか。
「一つ一つの事を丁寧に考えて行きましょう」
「それより大事なのは」(参照)でもなく。