2014.11.12

手による聖体拝領
各国は『メモリアーレ・ドミニ』の文言を踏み倒して進んだ Part 5

 次に、マリ-ジャック神父様の言葉を見てみましょう。

ヨゼフ・マリ-ジャック神父様

今度は、信者の手に御聖体を授けることに与えられた「許可」の合法性、適法性の問題に、移りたいと思います。まず、言わなければならないことは、「小さな補遺」によって「手」での拝領に開かれた門は、非常に明白に限定されていたものだということです。本文を引用してみますと、『しかし、すでに(伝統的な慣習と)異なる方式 ‐「手」に御聖体をおくこと‐ が、取り入れられている所では、聖座は、司教協議会を援助するために…』と、あります。

ところで、1969年5月29日の時点において、「手」による聖体拝領の方式が、フランス全土にまだ、取り入れられていなかったことは公然と知られ、争う余地のない事実です。故に、『異なる方式がすでに取り入れられている所…』という条項は、フランスにとって、有効ではありません。この方式は、取り入れられていたのではなく、単に押し付けられていたのです。そして、ここからして、「手」での聖体拝領の「許可」は、結局全フランスにとって、違法と言えます。更に、日本で得られた信者の「手」に御聖体を授ける「許可」について言えば、それは違法すなわち非合法な許可にほかなりません。なぜなら、この許可はパウロ六世からものと称されてはいても、この方式がすでに取り入れられている所のためにだけ、それも、躊躇しつつ与えられたものだからです。ところが、教書「メモリアーレ・ドミニ」その目的は、前述のように、多くの世紀を経た、伝統的な「口」での聖体拝領方式の保持に、もっぱら絞られていたが世に出た時に、「手」での聖体拝領方式は、日本のいかなる教会でも、行われていませんでした。とすれば、「手」での拝領の実施は、取り入れられたものではなく、日本でもやはり、非合法的に、すべての神の民に、押し付けられたものです。

舌の上に受ける御聖体拝領の弁護

 「押し付ける」という言い方は英語で言えば(マリ-ジャック神父様はラテン語で書かれたかも知れませんが)「impose」でしょうか。だとすれば、それは単に力学的にギューッと押し付けるということばかりではなく、「騙して良くないものを掴ませる」というニュアンスも持つでしょう。現にマリ-ジャック神父様は「フランスの民衆は、当時も今も、瞞着されたままでいる」と書いておられます。

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