私はその事を窺わせる箇所を十分には探していませんが、しかし例えば2011年3月18日のメッセージ(キャッシュ)を見れば、この「イエズス」にとっては「これらのメッセージ = the most Holy Scripture」であることが分かります。下では「至聖なるみことば」としておきましたが、英語で「the Holy Scripture」と言えば「聖書」のことです。
2011年3月18日のメッセージから
これらのメッセージを護りなさい
この至聖なるみことばを尊敬しなさい。それを護りなさい。それは特に、メッセージの中に私の教えに矛盾していると称する箇所を探し出す専門家であるふりをする人々によって攻撃され、バラバラに引き裂かれるだろうが、それを受け入れなさい。唯一の矛盾は私の教えに対する彼ら自身の欠陥のある解釈である。そこが彼らがわが聖言(My Holy Word)を曲解し誤解しているところである。何故なら、そうすることが自分達にとって都合がいいからだ。
Defend these messages
Respect this most Holy Scripture. Defend it. Accept it will be attacked and torn |
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あなたと違った宗教信条や違った性的嗜好を持った人々に「あなたは滅びの運命だ」などとは決して言ってはならない
信者(followers)でない人々に対して彼らの生き方が「悪」であると振り回しながら「あなたは破滅するだろう」とか「あなたは悲惨な運命に陥るだろう」とか言うようなやり方で私の教えを押し付けることは、彼らをますます弱らせるだけである。それでは多くの者があなたに背を向けるだけだろう。そのようにしてあなた方は失敗してきたのである。教えを垂れるのではなく同情を見せなさい。模範を通して教えなさい。それらの人々に「あなたは主の御目に滅びの運命だ」などとは決して言ってはならない。何故なら、彼らはそうではないからである。
私は全ての宗教の全ての個々の霊魂(every single soul)を愛している。全ての宗派の、全ての宗教信条の、全ての性的嗜好の、である。そのそれぞれが大切な子供である。ある子供が別の子供よりも大切、などということはない。罪が常にそこにある間は──これを覚えておきなさい──あなた方皆が罪人である*。私の教えに従うこと、そして私の言葉を広めることは、あなた方各自にかかっている。(…)
あなた方の誰も、他者を裁く資格がない
このレッスンを覚えておきなさい。あなた方の内、誰も、他者を裁いたり責めたりする資格がない。誰も、他者についてどのような道徳的評価をする力も神授の知識も持っていない。常に開かれた心を持っていなさい。そして覚えておきなさい、あなたが自分のことを、あなたが罪人とみなす誰かよりも、神の目に重要だと考える日は、あなたが私から失われる日になるだろうということを。
*「罪」についてのこのような一種「社会学的」な描き方を、真のイエズス様は決してなさらないでしょう。何故なら、たとえ社会に罪が絶えなくても、一人のカトリック信者が正しく良心を糺明し、正しく告解の秘跡に与るならば、その時点でその人において罪はなくなるからです。つまり、この「イエズス」はこの時、天主の「赦しの秘跡」と隔たった所で「罪」を語っています。イエズス様ではなく、モダニスティックな社会学派の司祭の言いそうなことです。
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この記事では、聖句の翻訳はバルバロ訳を採用しました。しかしこの筆者は(彼は冒頭の自己紹介で「神学者」「聖書翻訳者」という言葉を出していますが)この聖句の罪の列挙の中に「homosexuality」という訳語を含ませています。私にはそれが適切かどうかは分かりませんが。
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