2012.10.16

マリア・ディバイン・マーシーの預言は偽預言である 4

預言サイト The Warning Second Coming Forumsキャッシュについて
少し、ほかの人の声を紹介します。
私は「最初に『黒』を探そう」の原則に従い、自分でそのメッセージの英文を四苦八苦して読むよりも、先ずこのメッセージを問題視している海外記事に当り、それを自分の検討の糸口としました。
次はその中の一つです。途中までしか訳していませんが、参考までに。
強調と〔 〕は管理人。
私的啓示の主張: 真か偽か
TheWarningSecondComing.com のメッセージの検討
この検討の第二部もご覧ください。
そして私のブログ improperium Christi におけるこの問題に関する記事も。特にこの記事を。あなたは次の教皇を拒絶すべきか?
ローマ・カトリックの神学者、教会教導権に忠実な者、そして聖書翻訳者として私は、謙遜に且つ神を畏れつつ、「ここに見る一人の匿名の女性が私的啓示であると主張し、自身のウェブサイトで公開しているメッセージは、神からの真正な私的啓示ではない」と申し上げます。それらのメッセージは、「その女性は聖書の部分となるだろう一冊の書物、福音書と同等のものを書くだろう」という異端的な主張 [1] のほか、相当数の教義的誤謬を含んでいます。彼女の主張する私的啓示は霊魂を危うくするものであり、多くの点でローマ・カトリック教会の明瞭で確実な教えに反するものです。従って、それらのメッセージは天国からのものではありません。以下に問題点を挙げます。
判断に関する偽の教え
2011年4月6日のメッセージはこう主張しています。
誰も、他者についてどのような道徳的評価をする力も神授の(divine)知識も持っていない[2]
信仰の真実の教えは、イエズスが私達に「人を裁くな」とお教えになったということです。「人を裁いてはならない。あなた方が裁かれないためである」(マタイ 7:1)。しかし彼は確かに行ないについては判断するようにとお教えになりました。「何が正しいかをなぜ自分で判断しないのか」(ルカ 12:57)。もし或る人が銀行強盗をしたとしても、私達はその人の霊魂を裁くべきではありません。「その人は悪い」とは。しかし私達は確かにその行ないについては判断することができるし、また判断しなければなりません。「その行ないは悪い」と。
私達には他者の行ないについて道徳的評価をくだすための神授の知識がありますか? あります。というのは、私達には聖伝と聖書、そして教会教導職からの教えがあるからです。神授の知識のこれら三つの源泉が、私達に道徳に関する真理を教えます。それにより私達は善悪を見分け得るのです。私達にはそのような知識がないとする主張は、本質的に、人々に聖伝、聖書、教会教導職の教えを無視せよと教えることです。
2011年4月6日のメッセージにはタイトルが付いています。
他者の宗教・宗教信条(creeds)・性的嗜好を決して裁いてはならない
このメッセージは繰り返し「性的嗜好(sexual preferences)」というフレーズを使いながらイエズスを演じます。このフレーズは「性的性向(exual orientation)〔異性愛,同性愛,両性愛など〕は単に個人的な嗜好に過ぎない」ということを仄めかしています。しかしイエズスはあらゆる種類の姦淫(性的罪)を非難なさいました。そしてまた同性愛をも、本質的に乱れたものであるとして、また重大な罪に向かわせるものとして非難なさいました。
マルコ 7:21-23
すなわち、悪い考えは、内から、人の心から出る。淫行、ぬすみ、殺人、姦淫、むさぼり、よこしま、さぎ、わいせつ、ねたみ、そしり、傲慢、ぐち。これらの悪いことはみな内から出て、人を汚すものである。[3]
2011年4月6日のメッセージは単に人々に「他者を裁くな」と言っているだけでなく「行ないをも裁くな」と言っています。たとえその他者が道徳法に直接的に違反していてもです。このメッセージは教会と聖書の教えに反しています。
あなたと違った宗教信条や違った性的嗜好を持った人々に「あなたは滅びの運命だ」などとは決して言ってはならない。信者でない人々に対して彼らの生き方が「悪」であると振り回しながら「あなたは破滅するだろう」とか「あなたは悲惨な運命に陥るだろう」とか言うようなやり方で私の教えを押し付けることは、彼らをますます弱らせるだけである。(2011年4月6日のメッセージ)
上のメッセージは誤謬と幾らかの真理の混合物です。私達は他者を裁くべきではありません。たとえその人が悔い改めるかも知れないと期待してであっても「あなたは滅びの運命だ(有罪だ)」などと言うべきではありません。しかし、ある人々は確かに道徳的に悪である生き方をしています。聖書はそのような生き方を永遠の滅びに至るものとして非難しています。
ガラツィア 5:19-21
肉のおこないは明白である。すなわち、淫行、不潔、猥褻、偶像崇拝、魔術、憎み、あらそい、嫉妬、憤り、徒党、分離、異端、そねみ、泥酔、遊蕩、そしてそれらに似たことなどである。私は、前にもいったように、またあらかじめ注意する。以上のようなことをおこなう人は、神の国を嗣がない。
2011年4月6日のメッセージは聖書の言葉に反しています。それは現代社会によって堕落させられ、「性的性向はそれ自体、単に嗜好の問題であって道徳的な乱れなどではない」と考えるようになった信者達にアピールするようにデザインされたメッセージです。カトリック教会はそれとは反対に、次のように教えています。
これを重大な堕落としている聖書に基づき、聖伝はつねに、『同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの』であると宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背くものです。(カトリック教会のカテキズム 2357)
同性愛者に特有な傾向それ自体は罪ではないが、それは多かれ少なかれ、それが内蔵している道徳的な悪へと人を牽引する強力な傾向である。それ故、その傾向それ自体をも、一つの客観的な障碍と看做さなければならない。(ラッツィンガー枢機卿「同性愛者についての司牧における配慮」)
記事はまだまだ続くけれども、ここでやめます。
この「イエズス」が偽イエズスであることはあまりにも明らかだからです。
しかし、それでも、上の翻訳した部分で、私達はこの「イエズス」が実のところ何であるかについて更に確信を深めたのではないでしょうか。
この「イエズス」にとっては「性的性向(sexual orientation)」の問題は「性的嗜好(sexual preferences)」の問題であり、人それぞれの「違い(differences)」の問題でしかなかったのでした。これにより、この「イエズス」が実のところ何であるか、分かる人には分かるのでした。
しかし、それはこの「イエズス」の「ミス」でしたか?
「ミス」を犯して「バレちゃった」のでしょうか?
私は、「バレちゃった」には違いないが、これは彼の「ミス」ではなかったような気がします。彼は全て分かった上でその語( ‘preferences’ )を使ったのだと思います。何故なら、彼はこう説いたものだからです、「時が始まって以来、預言者達の多くは、神からの教えを、彼らなりの受け取り方に従って解釈した」(前々回参照)。
つまり、この「イエズス」には、姦淫(性的罪)に対するキリスト教の従来の厳しい態度を変える用意が、いや、変えさせる用意があります。「いやいや、そのような厳しさは行き過ぎである。神の本当の心においてはそうではなかったのだ。ただ時が始まって以来の預言者達の多くが間違ってそのように受け取ってしまったのだ」と言う用意があるのです。
そして、そのためにこそ、Maria Divine Mercy を通してまとめられた(つつある?)本を、「聖書の一部」となるだろうもの、「福音書と同等」であるものと位置づけようとするのです。
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管理人注
私はその事を窺わせる箇所を十分には探していませんが、しかし例えば2011年3月18日のメッセージキャッシュを見れば、この「イエズス」にとっては「これらのメッセージ = the most Holy Scripture」であることが分かります。下では「至聖なるみことば」としておきましたが、英語で「the Holy Scripture」と言えば「聖書」のことです。
2011年3月18日のメッセージから
これらのメッセージを護りなさい
この至聖なるみことばを尊敬しなさい。それを護りなさい。それは特に、メッセージの中に私の教えに矛盾していると称する箇所を探し出す専門家であるふりをする人々によって攻撃され、バラバラに引き裂かれるだろうが、それを受け入れなさい。唯一の矛盾は私の教えに対する彼ら自身の欠陥のある解釈である。そこが彼らがわが聖言(My Holy Word)を曲解し誤解しているところである。何故なら、そうすることが自分達にとって都合がいいからだ。
Defend these messages
Respect this most Holy Scripture. Defend it. Accept it will be attacked and torn assunder asunder especially by those who profess to be experts who will seek out sections which they say contradict My teachings. The only contradiction will be their own flawed interpretation of My teachings. This is where they have twisted and misinterpreted My Holy Word because it suits them to do this.
番号をクリックすると元の場所に戻ります。
2011年4月6日のメッセージ「他者の宗教・宗教
信条・性的嗜好を決して裁いてはならない
」から
あなたと違った宗教信条や違った性的嗜好を持った人々に「あなたは滅びの運命だ」などとは決して言ってはならない
信者(followers)でない人々に対して彼らの生き方が「悪」であると振り回しながら「あなたは破滅するだろう」とか「あなたは悲惨な運命に陥るだろう」とか言うようなやり方で私の教えを押し付けることは、彼らをますます弱らせるだけである。それでは多くの者があなたに背を向けるだけだろう。そのようにしてあなた方は失敗してきたのである。教えを垂れるのではなく同情を見せなさい。模範を通して教えなさい。それらの人々に「あなたは主の御目に滅びの運命だ」などとは決して言ってはならない。何故なら、彼らはそうではないからである。
私は全ての宗教の全ての個々の霊魂(every single soul)を愛している。全ての宗派の、全ての宗教信条の、全ての性的嗜好の、である。そのそれぞれが大切な子供である。ある子供が別の子供よりも大切、などということはない。罪が常にそこにある間は──これを覚えておきなさい──あなた方皆が罪人である*。私の教えに従うこと、そして私の言葉を広めることは、あなた方各自にかかっている。(…)
あなた方の誰も、他者を裁く資格がない
このレッスンを覚えておきなさい。あなた方の内、誰も、他者を裁いたり責めたりする資格がない。誰も、他者についてどのような道徳的評価をする力も神授の知識も持っていない。常に開かれた心を持っていなさい。そして覚えておきなさい、あなたが自分のことを、あなたが罪人とみなす誰かよりも、神の目に重要だと考える日は、あなたが私から失われる日になるだろうということを。
*「罪」についてのこのような一種「社会学的」な描き方を、真のイエズス様は決してなさらないでしょう。何故なら、たとえ社会に罪が絶えなくても、一人のカトリック信者が正しく良心を糺明し、正しく告解の秘跡に与るならば、その時点でその人において罪はなくなるからです。つまり、この「イエズス」はこの時、天主の「赦しの秘跡」と隔たった所で「罪」を語っています。イエズス様ではなく、モダニスティックな社会学派の司祭の言いそうなことです。
この記事では、聖句の翻訳はバルバロ訳を採用しました。しかしこの筆者は(彼は冒頭の自己紹介で「神学者」「聖書翻訳者」という言葉を出していますが)この聖句の罪の列挙の中に「homosexuality」という訳語を含ませています。私にはそれが適切かどうかは分かりませんが。
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