2012.10.16

マリア・ディバイン・マーシーの預言は偽預言である 3

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本論は前回までで終わりました。
つまり、「結論」のためには前回までで十二分であると考えます。
以下は、如何に長くともw、補足です。
4.
イエズス・キリストの言葉?
「全ての宗教、全ての宗派が、
 
わが永遠の御父にとって極めて貴重である」
2011年8月31日のメッセージから
全ての宗教、全ての宗派、全ての民族、全ての国が、今や真理の光に応えようとしている。それら全てはわが永遠の御父にとって極めて貴重である
All religions, all creeds, all races and all nations will respond to the light of the truth now. They are all so precious to My Eternal Father.
私は正直、「will」と「now」が一緒にある時の翻訳に悩みます。しかし、そんなことは大きなことではないに違いありません。
「それら全ては(…)極めて貴重である」の「それら(they)」には、「all religions, all creeds」も含まれます。彼は要するに「全ての宗教、全ての宗派が、わが永遠の御父にとって極めて貴重である」と言ったのです。
「他宗教、他宗派を信じている人達と云えども、その個々の霊魂は、わが永遠の御父にとって極めて貴重である」と言うのなら、まだ分かります*。天主様にとって「全ての霊魂」が貴重であるというのは真実ですから。しかし、ここに見られるのはそのような言葉の運びではありません。
* 別の箇所では、そういう意味に取ることもできるかも知れない言い方もしています。
「私は全ての宗教の全ての個々の霊魂(every single soul)を愛している」2011年4月6日 キャッシュ
しかし、彼の場合、到底、これ一つで擁護し切れるものではありません。
私は別に「言葉尻を捉えて」いるのではありません。次をご覧下さい。
5.
イエズス・キリストの言葉?
「どの道の神に従うかに関わりなく、
 
私を信じるかどうかに関わりなく」
2010年12月20日のメッセージから
全ての宗教へ、団結の呼びかけ
今や、わが御父の子供達と支持者達、並びに、神である至高の存在、創造主、全てのものの造り主を信じる人々が、一つに団結すべき時である。あなたがどの道の神に従うかに関わりなく、あるいは、あなたが私を、彼の唯一の最愛の息子である私を信じるかどうかに関わりなく、一つに団結して立ち上がりなさい。
Calling all religions to join together
It is time now for my Father’s children and followers, as well as those who believe in the superior being that is God, the creator and maker of all things, to join forces as one. Irrespective of which path you follow God, or whether you believe in Me, his only beloved son, stand together as one.
本当のイエズス様がそんなことを言うと思いますか?
聖書中のイエズス様の御言葉を確認しておきましょう。
私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない(ヨハネ 14:6)
罪についてとは、かれらが私を信じないからであり(ヨハネ 16:9)
Maria Divine Mercy の「イエズス」の主張の仕方を図式的に表わせば..
「大きな危機がある」

「個別の信仰を問うている場合ではない」

「善よ、結束せよ」
..です。
これは一つの「まやかしの展望」です。
イエズス様は、2000年前から、終りの時代には世が大いに混乱することぐらい、よくご存知でした。そんなこと、ハナから存知だったのです。ですから、2000年前に「私*を信じないこと」を「罪」とお呼びになったイエズス様が、「時代」に応じ、「状況」に応じて、「私を信じるかどうかに関わりなく」などということをお口にされるなどということは、100%あり得ないことであります。
*「私」を指してこのように言うことはエゴや傲慢を意味しません。イエズス様は、事実、御父の御独り子であられ、天主であられるからです。そして、それを信じないことは、人の霊魂の死活に関わるからです。
ついでに言えば、「すべての民の御母」にも上と似た言い回しが出てきます。
さらに、わたしは東方とアジアのすべての国民に言いたいのです。彼らが御子を知っているかどうかにかかわらず、わたしたちが彼らの世話をします。
Further, I would like to say to all Eastern and Asian peoples, whether they know the Son or not: We are taking care of them.
私に言わせれば、これも、寛き愛、頼もしき愛に見せかけながらの「まやかしの展望」です。御子を知る機会が本当にない人々のことは天主様がご配慮下さるのですから、婦人がわざわざこのようなことを打ち出さなくてもよいのです。
要するに、これらの言葉は、「善」を装いながら、本当は「御子への信仰」(の必要性)を抑制しようとするものです。
6.
イエズス・キリストの言葉?
「わが息子ムアンマル・カダフィ」
あなたは笑うかも知れません。しかしこれを「変だ」と思わない「クリスチャン」も居るのです。
そのような「まやかしの展望」のもとに、その「イエズス」は、先般殺害されたリビアの指導者カダフィのことを「わが息子」と呼んでみたりします。
それは彼が殺害された2011年10月20日当日のメッセージにおいてでした。
参照:Death of My son Muammar Gaddafi
素朴な人達の目にも、彼のあのような殺され方は、かなり気の毒なものでした。あのようなことは、残酷なことであり、野蛮なことでした。それは確かです。
そしてまた、彼の死は、テレビで言われているようなことではなく、実質的に「暗殺」だったでしょう。「中東の民主化の波の中で、恨みをつのらせた民衆の、多かれ少なかれ『正義』であるものによって殺された」などというものではなく、「NWO陣営」によって、「ユダ金」によって、「イルミナティ」によって、そう、その「イエズス」が言うところの「Evil One によって率いられた evil force」によって・・・まあ、何でもいいですが、とにかくその辺の奴らの陰謀によって計画的に追い込まれ、殺されたのでしょう。これも確かでしょう。
また、それら陰謀家達は「自己正当化」と「世論操作」においても抜け目のないものです。私はカダフィのことを「善人」と呼ぶつもりはありませんが、しかしそれでも、陰謀家達はカダフィについて、おそらく必要以上の、実際以上の、悪評を立てたでしょう。これも確かでしょう。
そして、Maria Divine Mercy の「イエズス」は、どうやら、カダフィが殺される前に、それを予言していたらしいのです。私は確認していませんが、あるいは、これも確かかも知れません。
しかし、これら複数の「確かさ」を前に、「だからどうしたというのですか」と言うことを、私達は覚えなければなりません。「これら複数の『確かさ』が、カダフィという人が主イエズスから『わが息子』と呼ばれることを自然なこと・もっともなことにするのですか?」と。
悪魔は実際、多くの「確かなこと」を、言い換えれば多くの「真実」を、口にします。時には「常識的」な人達がよく知らない「世界の裏」に関する真実を明かしたりもします。
(私達の世界が「Evil」の脅威にさらされているということそれ自体は、確かに「真実」です。しかし悪魔も、その「目的」と「ターゲット」に応じた範囲で、実際、多くの「真実」を開示します。しかし、それは「餌」なのです。)
それに踊らされないで下さい。
「だからどうしたというのですか」と言わねばなりません。
彼らは多くの「真実」の裏に「偽り」を隠すからです。
(だから、「『白』に惹き付けられるのではなく、先ず『黒』を探せ」という意地悪な原則が必要です。そして、この「イエズス」には「黒」があるのです。)
「確かさ」と云えば、別の「確かな」ことを、あるいは十歩譲って「確かそうな」ことを、見てみましょう。すなわち、カダフィはクリスチャンでしたか? どうも、そうではないことが確かそうです。Wikipedia のリビアの「宗教」の項目を見て下さい。この国の「指導者」であった彼がクリスチャンであった可能性はありますか?(「隠れクリスチャン」だったのですか?)そして、もし彼がクリスチャンでなければ、その時、イエズス様が彼のことを「わが息子」と呼ぶ可能性はありますか?
もし彼がイスラム教国に生まれ、キリスト教を知るチャンスが本当になかったのならば、その点については天主様は彼の責任を追及なさらないでしょう。これも確かでしょう。「確かさ」が一つ増えたかも知れません。しかし、それで本当に十分でしょうか? 彼がイエズス様から「わが息子」と呼ばれるために。
イエズス様にとって、例えば幼きイエズスの聖テレジアは「わが娘」です。その通りです。しかし、そしてカダフィが「わが息子」なのですか?
その「イエズス」がカダフィのことを「わが息子」と呼ぶ時、「聖性」のことも「信仰」のことも度外視しているのです。無関係なことにしているのです。何故なら、カダフィがクリスチャンでなかった場合、確実に、その両方とも持っていませんから。
それは本当に「イエズス・キリスト」ですか?
これ以上ないほどの愚問です。
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