2012.05.24

不確実な記事 1

どうしても気になるので書いておきます。
大阪梅田教会のことを書いた後に、私はこんな記事を書かない方がいいのかも知れない。不確実性を含むこのような記事を書けば、人は、また、「この人は何でもかんでも陰謀と結び付ける」と思うかも知れないから。
しかし、私としては、こう言う。
大阪梅田教会がフリーメイソンのモニュメントであることは100%確かである。
しかし、この教会に関してはそうではない。
大阪梅田教会に関するあれらの記事は確実である。
しかし、この記事はそうではない。
人はまた、こう言うかも知れない。「事はカトリック教会の信頼性に関わること。だから、ただ “疑わしい” というだけでは書くべきではない」。
分かる。分かるが、私はこれにこう答えたい。「いや、すまないが、私は “疑わしい” というだけで書きたい。“疑わしい” ものは教会の中にあるべきではないからだ」。
画像検索のサムネール群の中にこれらの写真を見た時、私は一瞬「とうとう?」と思った。「とうとう、表向きキリスト教宗派ではあっても異端の偶像をかなりあからさまな形で拝む教団が現われたか?」と。
しかし、蓋を開けてみれば、それは我らがカトリック教会の一つだった。
カトリック目黒教会
(聖アンセルモ教会)
落成1954年
カトリック信者は、この金色の大きなオブジェは「カリス」を、後ろの壁に描かれた五つの円は「ホスチア」を、それぞれ表わしていると思うかも知れない。
それは「巨大」である
しかし、カリスやホスチア(の表象)をこんなにバカでかく飾っている例が、ほかの教会にあるだろうか?(海外も含めて。)
祭壇と比べてみれば、十字架もそれなりの大きさを持っていることが分かる。
しかし、背後の金色のものはそれよりも遙かに大きい。高さは5m、あるいは5m半ほどだろうか。
確かに、カトリック信仰にとって「御血」を象徴するカリスは大事なものである。しかし、それにしても、これほど巨大に作る必要がどこにあるのか。
私の知る限り、ネット上でこれが何を表現したものであるかに触れている記事は一つもない。目黒教会の公式サイトも、また例えば Laudate の「教会をたずねて」も、それについて何も言っていない。
しかし、それは祭壇の後ろにまさに「そびえ立つ」ものである。「私達にとっては見慣れたもので、特にどうということのないものです。だから、それが何なのかと問われるまで、疑問に思うことも、説明する必要を感ずることもありませんでした」というような問題ではない。人はこの教会を「紹介」する時、さらりとでも、これについて説明「したくなる」のが自然というものだろう。しかるに、そのような記述が見当たらない。誰も、これが何を意味するのか知らないのか?
十字架が吊り下げられている。
関西弁で言えば、目黒教会の人達には悪いが、「けったいな」ものである。けったいな「作り」である。何故、こんな作りにしたのか? デザインの意図が分からない。
三味線のバチのようでもある。日本の教会ということで、その形を取り入れたのか? しかし、ひん曲げた形で?
この金色のものこそが存在を誇っているように見える。
ヘタをすると「ツノ」を出しているようにさえ見える。
目黒教会は国際的な教会らしく、日本語サイトとは別に英語サイトを持っている。そのタイトル部には次のような画像がある。
そして history のページによれば、聖アンセルムのシンボルは「赤い薔薇」なのだという。なるほど、上の画像には赤い薔薇がある。しかし、それはそれを取り囲む金色のものの説明にはならない。
この金色のものは、それ自身、何かの花、あるいは植物のどこかの部分であるようにも見える。それは赤い薔薇ではないけれども、何らかの意味において、聖アンセルムと結び付いているのかも知れない。
あるいは、それはそのようなものとカリスとの複合イメージなのかも知れない。
しかし、仮にそのようなことだったとしても、同じである。
質問は同じ場所に返って来る。
「何故、こんなにバカでかく作ったのか?」
作 者
この教会は、私もその名前ぐらいは知っている有名な建築家フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)の門下だった人、アントニン・レーモンドという人によって設計されたそうだ。
Antonin Raymond (1888 - 1976)
私は今回初めて知ったが、彼は彼自身、かなり名のある建築家である。(南山大学なども手掛けている。)
さて、しかし私は、彼が目黒教会を設計したと知っても、あの金色のオブジェまでが彼の手になるものとは考えなかった。何故なら、建物の設計と建物に収められるアートの制作は別の人によってされるのが普通だと思っていたから。
しかし、前述の history のページに次のような記述があった。
The circular graphic motif behind the altar and the gilt canopy were designed by the architect. The Stations of the Cross, the lecterns, candlesticks and baptismal font were designed by Antonin Raymond’s wife, Noemi Raymond.
祭壇の後ろの円形のグラフィック・モチーフと金メッキの天蓋〔ひさし〕は建築家によってデザインされました。十字架の道行きのプレート、朗読台、燭台、そして洗礼盤は、アントニン・レーモンドの妻、ノエミ・レーモンドによってデザインされました。
彼が作ったのだ。
少なくとも「無神経」
しかし、誰が作ったかは問題ではない。私が初めから感じていたことは不動である。すなわち──
天主の祭壇にこのようなものを置くとは、作者は「出エジプト記」を読んだことのない人だったのか?
というのは、私の目には、最初、咄嗟に、その金色のオブジェはこれに見えたからである。
Golden Calf
冒頭で「とうとう」と書いたのはこの事である。
また、「ツノ」のいう言葉を出したのも、これ故である。
この感じ方は今も変わっていない。
ただし、私が言いたいのは、
「それはまさにそれである。確実にそれを表わしている」ということではない。
そういうのとは少しニュアンスが違う。
そういうことよりも、
「それはまったく、それに見えかねない。だから、少なくとも非常に『無神経』である」ということである。
その「無神経さ」が〈不可思議〉〈不可解〉なのである。
つまり、それはこの金色のオブジェそれ自体のことというより、これを作り、天主の祭壇の後ろに置いた作者の〈心理〉のことである。
もちろん、そこから派生して、このオブジェそれ自体のことも疑わざるを得ないということになる、というのも本当だが。
私の目には、信者はここでも「変なものを拝ませられている」というように見えなくもない
敵の思考の中には、私達が Bent Cross大阪梅田教会 に見たと同じ発想が、1950年代にも既にあっただろうか?
だが、アントニン・レーモンドがフリーメイソンだったという記述は見当たらない。
一時期彼の師匠のような人だったフランク・ロイド・ライトについては、フリーメイソンとのつながりを窺わせる幾つかの記事がある。だが、それも決定的なものではないのではないか。
しかし、いずれにせよ、これはあまり良いものではないと思う。既に「見慣れた」人、また「信じて疑わない」人の目にはそうは映らないだろうが、奇異に思う人も居る筈だ。冒頭でも言ったが、天主の祭壇には人を惑わせるものがあるべきではないと思う。
そして、私はここでもまた、教会は創作家たちの「趣向」には気をつけなければならない、と言いたい。教会は「普通」が一番。信仰に必要な基本要素──祭壇、磔刑像、御聖櫃、御聖体ランプ、聖母像、聖ヨゼフ像、大天使聖ミカエル像、十字架の道行きのプレート、聖水盤など──が、標準的な美しさ(?)をもって収まるべきところに収まっていれば、それが「最高」である。何か変わった趣向でもって人々の心を惹き付けようとすることは「世のわずらい」に近いもので、魔につけ入る隙を与えることになるだけだ。
私は、目黒教会の人達は今からでもこの金色のものを取り払い、イエズス様の普通の磔刑像に変えた方がいいのではないかと思う。「この教会からだって今まで多くの受洗者が出ているんです。ちゃんと恵みがあるんです。だから、部外者が余計なことを言わないで下さい」という反発を受けそうではあるが。
実は、ここまで書いて、私は一度この記事を没にした。初めに書いた通り、この記事は不確実性を含んだものだから。
しかし、「画像黙示録 2」でも掲げた次の二枚の写真を目にして、私はその記事をゴミ箱から拾い出した。不思議にもその「金色のもの」が良くないものを引き付けている、と見えたからである。
 
“国連的な宗教観が、金の子牛に見えるものの前で、歌い、踊り、拝んでいる”.. と、私は思った。
上の左の写真に写っているイベントに関係する「CTIC目黒司牧センター」の初代センター長は、あのニコラス師である。
目黒教会の人達にもう一つ嫌なものをお見せする。
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