カトリシズム荒廃の教訓 聖なるものの復権のために

カトリシズム荒廃の教訓
聖なるものの復権のために
澤田昭夫
「魂の救済」から「社会奉仕団体」へ
(一)横浜雙葉解体の危機
「カトリック学校はキリストの魂を伝え、受け継がせて行くことを基本とする。
このため、キリストの魂に生かされた教職員、……特に多くのカトリック校の設立母体である修道者の存在は貴重なものである。学校内に聖堂があり、そこで修道者が祈る姿は無言の教育である……
教育修道者は高齢になっても……いつでも生徒、父兄、同窓生に目を向け接し、精神的な慰めを与えてほしい。」
これは関東の名門ミッション・スクール横浜雙葉学園の同窓会有志が一九八八年十一月十三日の「カトリック新聞」に出した「カトリック校にとって修道者の姿は大きな力」と銘打った全三段意見広告の一部である。
一九九○年で創立九十周年を迎える雙葉八千余名の同窓生の心に焼き付いてきたのは、修院学校の独特な厳しくも温かい雰囲気である。清貧(無一物)、貞潔(独身)、(長上への)従順という三つの修道誓願を立て、修道院の祈りの共同体に属しながら、教壇と校庭で四六時中、生徒と生活を共にする修道女。修道院と学校という、この組み合わせが、他に見られない独特な人間教育の場を形成していた。床に片膝をつき、雑巾で便所掃除をするイタリア人修道女の姿に感動したのがきっかけで、自分も修道女になった日本人もいる。
高齢で教壇に立てなくなった修道女も一生を修道院で過していたから、父兄や同窓生は学校にいけばいつも昔の恩師に会えるし、実際彼らは高齢の修道女を訪ねては人生問題の万般について相談にのって貰ってきた。
要するに戦前からの、いわば修学共同体制には教育と生活、信仰と生活、礼拝(カトリックでは「典礼」)と生活、聖と俗とを触合した独特な教育環境があった。大多数がカトリック信徒ではない同窓生も、こういう環境の美点を本能的に感じとっていたのである。
ところが八八年六月五日、同窓会総会の席上で突然、修学共同体制は解消されることになった、という修道院長のメッセージが読み上げられたのだ。正に青天の霹靂である。
メッセージによると、この大変革の理由は、雙葉を経営するサン・モール(以下Mと略記)修道会の総本部で会憲が改定されたこと、その裏には現代社会の要求に応えてカトリック教会自体が第二バチカン公会議以来、「刷新され」「開かれた」教会になったことがある。そこでM会の日本管区のシスターたちも五月の全国集会で、考朽して修理不能という理由での修院の建物のとりこわしを機会に、大変革に踏み切ることを了承した。つまり、修院は六百二十坪の土地を学校側に譲渡し、学校で働くシスターたちは外に出て街中の家に住んで学校に通い、高齢のシスターは県外の別の修道院に移るというのである。初めはさして重要だと考えてはいなかった同窓会側は、時がたつとともに、修院がなくなったら、母校は何の特色もない普通の受験校になってしまうに違いないことに気付き、夏から秋にかけて情宣活動を展開しはじめた。しかし、修道院長のシスターTやM修道会の日本管区長シスターKなどとの話しあいは、平行線をたどるばかりで、なぜ修道女たちが外に出なければならないのか、その理由について納得できる解答は得られなかったという。
ただ、この間に次のような感触は得られた。今度の大変革はM修道会のローマ本部の方針が少し変ったためらしいこと、ただし、日本のM修道会全国集会では横浜雙葉の修学分離について明確な合意はなく、三ないし五名の分離推進論者の幹部シスターたちの本音は、高齢者の世話がしんどい、そしてとにかく修道院という聖域から俗界にとび出して「解放」と「自由」を体験してみたいというあたりらしいこと (彼女らは西之谷と山手の高級住宅で高価な「貧しい生活」をするようになった)。
修院移転、修院学校解体のまともな理由を聞き出せぬままに、よき昔の伝統を崩壊させないでという一心から同窓生たちが急遽募金して出したのが、十一月十一日の新聞広告だったのである。
一ミッション・スクールの修(道)院解体の話を長々と紹介したのは他でもない、これが決して一カトリック修道院内の小さなモメ事ではなく、現代世界そして特にまた今日の日本文化の精神的荒廃と深く関わっていると考えられるからである。
後で詳述するように、世俗的な「解放」とか「自由」のスローガンに踊らされた結果、八億の信徒を擁すると誇っていたカトリック教会は、全世界のほうぼうで荒廃、衰退のしるしを見せ始めた。
そもそも文化の魂は魂の文化である。魂の文化の根本は霊の神秘、聖なるものへの畏敬心に他ならない。それを見失うことは文化の自殺行為である。精神的荒廃は必然の結果である。今日本で進行している精神的荒廃は、「開かれた教会」の精神的荒廃と、見えないかたちで、しかし確実に密接に連動していると思われる。
(二)ニコラス神父の「外に出る神学」
修学分離を唱えるシスターたちにみかけだけはかっこうよい建前論を提供してくれたのは、スペイン人イエズス会士のA.ニコラス神父だった。魂の永遠の救いよりも現世的解放を大切にする、いわゆる解放神学の日本での指導者のひとりである。ニコラスは十一月二十三日、横浜教区のカトリック修道女連盟の年次大会で、教区内さまざまの修道会代表約百五十名を前に、「現代の救会に望まれる修道女のあり方」という講演を行ない、五回以上にもわたり、雙葉同窓会有志の広告に触れて、それを批判した。
ニコラスはそこで、解放神学の常識を修道会に応用し、特にエルサルバドール人の解放神学者で『教会と貧者』の著者ソブリーノ J. Sobrinoやニュージーランドの反体制、反抗運動の人類学者アーバックル G. Arbuckleの『混沌の中から  修道会の建て直し』Out of Chaos. Refounding Religious Congregations(一九八八)という新左翼的行動主義的社会分析を引用しながら、次の数点を強調している。第一、既存の権威つまり同窓会はもちろんのこと、司教であれ修道会の総長であれ、それに依存してはならない。第二に、新しいことはよく、古いことは悪い、「将来しかない、過去は無意味」。聖堂で祈る、信心深い聖なるシスターは古いイメージだから、間違っている。第三、聖俗二元論は克服されねばならない、修道女は俗化されねはならない。修道女はとかく聖なるもの、聖職者だと誤解されているが、一般俗人信徒と同じく俗界に属している。第四、修道女の「あるべき姿」とは、修院を出て街中の貧しい人々の間で暮らすことである。「だいじなのは外に出ること」。現実を理解して、「刷新」のプロセスに参加するには、保護された聖域からとび出し、社会からはみ出した「貧しい人」の中に入ること、いわば「都市から出て砂漠に行く」ことが必要なのだ。その大前提となっているのは、「一番聖なるものは聖杯(聖餐式でキリストの御血となるブドウ酒を容れる)ではなく貧しい人」という主張である。
雙葉同窓会の意見広告に対するニコラスの攻撃は、八九年一月一日の『カトリック新聞』「順風逆風」コラムでも繰返された。あの広告は古い。修道女を聖職者なみにたてまつっている、貧しい人を軽んじている、社会全体でなく少数者子弟だけに奉仕する、予言者的生き方を無視している、という五つの点でだめだというのである。私はこれを見て、アメリカで修道女たちに説教して彼女たちを混乱させ、多くの修道会を消滅させたのは男性の神学者、特にイエズス会の政治的扇動家であったことを思い出した。
面白いのは、「修道女がどうあるべきかいうつもりはない」そして「自分以外に何も頼るな」と説くニコラスが、NICE(後述)だけを例外としていることである。彼は少なくとも十七回NICEに言及し、同窓会はNICEの行き方に反している、修道院にNICEを実現せよ、NICEに即して聖なるものを俗化せよ、NICEに忠実であれ、と説いた。ところが、あたかも聖書や教会の伝承に取って代って信仰の規範のようにまつりあげられたNICEを立案し、実行委員のひとりとして重要な役割を果したのは実はニコラスだから、「NICEに忠実であれ」という忠告は「われNに聴け」と言っているに等しい。
(三)一九八七年NICEの逸脱
では、今や日本のカトリック教会で魔術的権威をもち始めたNICEとは何か。
日本のNICEは「福音宣教推進全国会議」(奇妙な英訳でNational Initiative Convention for Evangelisation。やたらに略語の好きなフィリピン人の考えそうな名称)のこと。第二バチカン公会議(一九六二年)の目ざした、「開かれた教会」、そのための「刷新」という目標をわが国で実現するために、日本カトリック司教団が一九八四年に呼びかけて作った組織である。その第一回全国会議は一九八七年十一月二十日から四日間、京都において全国十六の教区からの聖職者、修道者、一般信徒代議員約三百人を集めて開かれた。日本の教会史上、これだけ多くの時間と金と労力を投じて多数の人間が共通問題を論じあった会議はない。パソコンをフルに駆使した実行委員会や司教協議会の事務局たる中央協議会の情報処理、組織力には目をみはらせるものがあった。大勢が一同に会して、共に走ったことを成功というならば、この会議はまちがいなく大成功だった。
が、どこに向かって走ったかというと、それは別問題である。「開かれた教会づくり」をメイン・テーマとして運営されたNICEは、「俗」を聖化するよりも、「聖」を俗化する方向に向けて教会を革命的に変革する役割を果した。新しい、手づくりの、日本的教会、日本の社会に適合した、教義や掟は気にしない、個人的社会体験中心の教会、権威構造を見直した小グループ、基礎共同体中心の民主的教会、企業の論理に抵抗して「貧しい人」、「小さい人」の側に立つ教会を目指してすべてを「刷新」する。要するに「開かれた教会」とは、民主化、世俗化、社会主義化された社会変革機関を意味するのではなかろうか、と首をかしげたくなるような傾向が顕著になった。
すべてはあまりにも巧みに管理されたために、結論は神ならぬ会議テクノクラートの手で予め決められていたのではないか、という声も聞かれたほどだ。地方からの提案でも中央官僚機構の考えにあわぬものは採択されなかったのではないかという声もあった。最後の全体会議で主催者側から、大会は大成功だったとの自画自賛的しめくくりが紹介されたとき、一人の勇気ある神父が、そうは思わない、なぜならこの会議は語ることは多くして祈ることが少なかったからだ、と発言した。会議後も、NICEの根本原則についての批判はタブーという風潮が広がっていることを考えると、会議のさなかに、あのような批判を行うことは至難の業だった。だから彼の発言は、列席者に強い印象を残した。
聖なるものの否定としての「開かれた教会」を最もドラマチックに示したのは、十一月二十三日、河原町大聖堂の地下聖堂であげられた若者たちのフォーク・ミサである。ミサというのは、本来、キリストの十字架上の死のいけにえを先取りした最後の晩餐の現在化といわれる。最後の晩餐のキリストの言葉を司祭が唱えることによってバンとブドウ酒は、形はバンとブドウ酒だが実体はキリストの肉と血に変化するという。司祭はキリストから与えられた権能によって聖変化した聖体を信徒に授ける。この聖体がキリスト者にとって最高の霊的糧となる。ユダヤ教の過越の祭りとも連続するこのミサ聖祭は、したがって最も神聖にして荘厳なる儀式であるはずだが、NICEの若者たちは、当日の司式者、名古屋の相馬司教、東京の森補佐司教、札幌の地主司教らとともにこれを手づくりのイベントにすりかえてしまった。
聖堂は「デパートのバーゲンなみの混雑」になったとある若者は誇らしげに記している。司祭が少なく、聖体拝領者が多いときには、俗人信徒でも許可を得て、臨時に聖体奉仕者として聖体を授けることができるとされているが、当日そこには十数名の司祭がいたにもかかわらず、十二人の使徒をよそおった十二人の青年男女が、司祭たちに聖体を授けた。「神のわざ」(opus Dei)であるいけにえの祭儀は、人間が勝手に演出する宴会、「人のわざ」(opus hominum)に転換されてしまった。このことを聞いたオランダのある神父は「それはオランダ以上にひどい」と慨嘆した。それは違法であるだけでなく信仰教義の否定を意味していたからである。
祈りや信心、礼拝よりも世俗界とのかかわりに忙しくて自分の独房にいることが少なくなった修道女たちの生活を描いたのは曾野綾子の小説『不在の部屋』である。文庫本(文春文庫)のカバーにはこう書かれている。「一九六二年の第二バティカン公会議以来、修道会は改革された。戒律が民主化されれば規律も秩序も乱れる。修道院はいつの間にか、生活と身分を保証された優雅で怠惰な女ばかりの下宿屋のようになってしまった」。だが、修道院が神不在となった、あるいはなりかけたのは、バティカン会議のためとはいえない。バティカン会議が「刷新」「開かれた教会」のスローガンを掲げると、早速それを利用して「バティカン会議の精神」の名をかたり、改革ではなく革命的変革を試みる勢力が全世界に広がったことが、今日の諸悪の根元なのである。
聖書中心のプロテスタントに対して、カトリックは本来典礼中心といわれる。だからカトリック教会を崩壊させるための最も有効な方法は、その典礼、礼拝、ミサ聖祭を非神聖化し、俗化し、それらへの畏敬の念を失わせることである。ミサ中、聖変化の際もひざまずかず、コーヒー・カップを片手に座って眺めていても注意されない教会、子供たちを楽しませるためにミサの最中に道化師を繰り込ませて祭壇の周りで踊りこけさせたり、カレー・ライスとワインのどんちゃん騒ぎにすりかえたり、マクドナルドの制服を着用した女の子に聖体を授与させる教会など、聖祭非神聖化の例は枚挙にいとまがない。
NICEは、正しい意味での改革の流れと、教会の根本的崩壊につらなる革命的変革の流れとの交錯点で、もみくちゃにされているのである。因みにNICEは、著名な英文学者 C. S. ルイス(Lewis)の小説『あのいやらしい力』(That Hideous Strength)のなかでは、地上の楽園づくりを日ざす全体主義的社会統制センターの名称「国立実験連繋研究機構」(National Institute of Coordinated Experiments)のことである。
(四)NICEの原型・十九七六年のデトロイト
NICEに先立つこと十数年、一九七六年の十月二十一日から三日間、デトロイト市の大会議センター、コボ・ホール Cobo Holl では、NICEのオリジナル版ともいうべき「行動への招き」(Call to Action)と称するアメリカ・カトリック教会の全団大会が開かれていた。大ドームには、全米から選ばれた千三百四十人の代議員と千百人のオブザーバーとが一堂に会し、アメリカ建国二百年祝典にあわせて、アメリカの教会の「刷新」と「変革的改革」(Transformation Reform)を、論じた。
この巨大な大会の運営にあたったのは、日本のNICEの実行委員会にあたる、いわば教会のミドル・マネジメント層、つまり新人類的進歩的神父たちと、「解放」されてパンタロン・スーツを着たようなかまびすしい修道女たち、それに反体制の俗人インテリだった。彼らはすでに六〇年代後半から司教達と一般信徒との間にくいこんで、教会を乗っ取っていた。そして彼らのなかのプロのマネージャーがすべてを巧妙に操っていた。改正提案を討議すべき分科会に出席したある俗人信徒は、進歩的修道女たちが討議の始まる前にすでに印刷された改正案を持ち込んでいるのに気がついたという。大会運営の実際は、マルクシストの無神論釣ヒューマニストとして著名な故ソール・アリンスキー(Saul. D. Alinsky)の『過激派の規則』(Rules for Radicals)などに沿ってなされていた。
ローマ教皇にはアメリカヘの介入権はない、と称するこの大会では以下のようなスローガンが採択されることになった。教会はありきたりの伝統的風習と完全に手を切り、人民主義の原則で地方の草の根「司牧評議会」を中心に下から組織し直し、制度的教会から大衆運動団体に変質せよ。貧困や社会悪など諸悪の根源は企業の論理にあると知り、自ら加害者意識をもって体制に抵抗せよ。目標は人間化された社会主義的ユートピア作り。正義、平和、尊厳、開かれた教会、刷新、真実の自己実現──。要するに、教会の本来の柱である各司教区の司教の権威はどこかに吹きとんでしまったのである。教会は全国司教協議会という全国組織で統一され、その実際の運営は、先述のミドル・マネジメントの手に握られることになった。
デトロイト大会の縁の下の力持ちになったいくつかの組織の中で注目すべきは、ワシントン(Washington D.C.)にある強力な進歩的カトリック圧力団体でイエズス会系の「センター・オブ・コンサーン」(Center of Concern)(邦訳では「意識化促進センター」)である。このセンターの指導者であるイエズス会士ヘンリオット(Henriott)神父は、ソビエトの外交政策は防衛中心で、共産圏にも人権抑圧はあるが、それは共産主義特有のものでほなく、自由諸国にも同様に見られると主張するような社会主義の煽動家。もうひとりの指導者ホランド(John Holland)はアジェンデ政権下のチリで働いていた元神父で、キリスト教的マルクシズムの推進者。
この両名の共著によるキリスト教的マルクシズムのパンフレットは『社会分析』(Social Analysis)として邦訳され、日本カトリック正義と平和協議会会長相馬司教の序文をつけて女子パウロ会から発行され、カトリック、プロテスタントの両教会でかくれたベストセラーになっている。訳者のひとりのイエズス会土山田経三神父は、かつてセンター・オブ・コンサーンで学び、現在はその姉妹組織ともいうべきイエズス会社会司牧センター(Jesuit Social Center)の指導的人物として、三人のスペイン人イエズス会士アンドレース(Andres)(日本帰化名安藤勇)、マシア(Juan Macia)、ニコラス(Adolfo Nicolas)(雙葉の修学分離の理論的指導者)とともに解放の神学の普及に努めている。
この社会司牧センターの事務所は、東京・新宿の河田町にある。三里塚、川鉄公害、スパイ防止法、フィリピンの日本企業などの問題で、社会司牧センターの見解は日本共産党新宿地区委員会と、地理的にだけではなくイデオロギー的にも近い。この社会司牧センターは、センター・オブ・コンサーンがデトロイト会議に対して行なったのと似た準備活動を、NICEに対して行なっている。一九八七年四月に社会司牧センターが出した報告書『手づくりの共同体をめざして』は、世界教会の伝統を離れて、日本独自の、貧しい人中心の、南米の教会小グループ(基礎共同体)に似た教会づくり提案している。明らかにNICEの全国会議を考えて作られたこの報告が、いかにネオ・マルクシズム的イデオロギーに根ざしているかは、そこに示されている教会史の時代区分からも読みとれる。
さて、デトロイトのNICEは上述のようにきわわて社会義的傾向の強い政治集会であったから、イエズス会士のミチェリ(P. Miceli)神父は、それを「教会革命への呼びかけ(Call to Revolution)」会議と名付けた。伝統をすべて否定し、闘争体験の積み重ね過程を神の啓示とみるような変革は、革命と呼はざるを得ない。因みにミチェリは、アメリカの教会の世俗化、政治化傾向に抵抗するため、一九七五年に「カトリック聖職者友愛会」(Confraternity of Catholic Clergy)を創立した。ミチェリ自身は政治的闘争家ではないから、友愛会はローマに忠実で、神学と正統信仰の防衛に尽す聖なる司祭の育成を目ざした組織である。
デトロイトのNICEは教会革命大会だったから、その三日間は狂乱の三日間だった。教会の会議というよりも、民主党や共和党の党大会なみの集会だった。京都のNICEより遙かに祈りとは縁遠い、泥まみれの世俗的会合が一九七六年のデトロイトだった。
(五)デトロイトの原型・一九六六年のノルトワイカーハウト
教会をあらゆる面で変革し、世俗化して進歩的民衆運動のネットワークを作ろう、聖職者にも修道女にも結婚を認めさせよ、というデトロイトでの要求は、実はそれほど新しいものではない。貧しい者のための社会闘争、教会権力構造の否定など、ニコラスその他の闘士が依存する精神的故郷はヨーロッパにあった。デトロイトのNICEをさかのほることさらに十年、一九六六年の十一月にオランダのノルトワイカーハウト(Noordwijkerhout)で開かれた全国司牧会議は、デトロイトよりも規模において大きく、影響においてさらに深刻である。オランダのNICEといえるノルトワイカーハウトでの全国司牧会議の結果を知ることは、NICEが今、どこにあるか、それがやがてどこへ行く可能性があるか、を知る上で重要である。これは単なる組織問題ではなく、信仰の本質に関わる問題なのである。
オランダのNICEは六六年から七〇年十一月まで、途中中断しながら足かけ四年間にわたって開かれ、第三世界の開発、倫理問題、信仰生活、修道制、宣教とエキュメニズム(キリスト教会合同一致運動)などの問題を根本的に見直す作業を行なった。
しかし、オランダの教会はすでに一九五〇年代から「開かれた教会」を目ざしており、六二年にバティカン会議が始まると、いっそう「世界に開かれた」「新しい」教会の実現を促進する傾向が強まった。典礼、教理教育、司牧(牧会)において多様な実験が、ローマの指示などお構いなしに自由に始められた。教理教育では、信仰の根本教義を教える代りに、「開かれた教会」の旗じるしのもとで国際情勢を研究するようになった。国民の間に広く普及していたカトリックのマスコミも「新しい教会」「新しい神学」を標榜するようになり、既成のもの、昔のものは今日妥当しないという考えが広まった。
そして一九六六年には有名な『オランダ教理問答』が出版された。人間主義的、楽観主義的なこの教理問答は、ミサをいけにえよりも人間的共同会食ととらえ、真理や教義にかわって感情や体験を強調した。
ノルトワイカーハウトの司牧会議から生まれてきた、スヒレベーク(E. Schillebeeckx)やキュンク(H. Küng)などが発展させた新しい信仰観の中心になるのは、体験と感情である。真理とは教会の権威を媒介に与えられ、伝えられてきたものではなく、世俗世界での奉仕のなかでひとりひとりの人間が体験するもの、とされる。伝統的信仰と未来信仰、権威的信仰と責任信仰ないし自由信仰とが対照させられ、後者が優先するとされる。そこから当然、聖書を正しく伝え解釈する教会の教導権は不要物ということになる。
だから、オランダでいわれる信仰とか神の啓示とかは、第二バティカン会議のいう信仰とか啓示とはまったく別のものなのだ。「バティカン会議の精神」を掲げつつ、実は会議でいわれたのとは異なる教会と信仰が生まれてくるのである。啓示とは人間が歴史の中で積み重ねる体験、考えで、その表現は常に変化する。啓示は今も起り続けている経過である。だから聖書や聖書についての教会の解釈、伝承は信仰の規範ではない。それはわれわれの信仰体験を表現するときの参考以上のものではない。教会はそういう体験者の共同体の運動であって、聖職者たちは皆の信仰体験の認知者ないし信徒の世俗的奉仕活動の調整役に過ぎない──ということになる。
正統教義(orthodoxy)が何かというのは、このような信仰観では大切でなくなり、それよりも大切なのは正しい実践(orthopraxis)ということになる。社会のための奉仕活動、教会共同体を世俗社会に近づける活動こそが信仰であり、啓示である、ということになるのだ。
このような意味で「刷新」され、「開かれた教会」は急速に味を失い魅力を失い出した。司牧会議の最終答申を読んだプロテスタントのブロンクホルスト(Bronkhorst)教授は、その答申の神学的な浅薄さにあきれはてて、まるでサッカー・クラブの規約からの抜萃のようだと評した。人間による世界救済という水平次元に没頭して、キリストの恩寵による救いという垂直次元を忘れた教会は、ルターの言葉を用いれば、福音の教会ではなくて律法の教会である。因みに、この点では今日のプロテスタント教会についても同様のことがいえる。
要するにオランダでは、キリストの復活もキリストの神性も、秘跡として神から定められた司祭職も、聖体におけるキリストの現存も信じられなくなったのである。教会でのミサの参加率が、一九六〇年の七五パーセントから一九七七年の二十パーセントに低下したのも不思議ではない。四千三百人の修道女、修道士が退会し、二千人の司祭が還俗したというが、これも不思議ではない。
アムステルダムでは、市内十八のカトリック教会が今後七年間に閉鎖される予定だという。その大部分は取りこわされる。「開かれた教会」の運命である。ただし取りこわし反対もないわけではない。四年前にレデンプトリスト修道会が、カイザースグラハト(Keizersgracht)の教会を閉鎖して売ろうとしたとき、信徒たちは反対運動を起こし、募金で教会を買い戻した。因みにそこの信徒グループのゴーデリー氏はいう。──「教会に人が寄りつかなくなったのは神父のミサの立て方のためです。もし典礼がバティカンの指示通りに、深く霊的なし方でとり行なわれていたら、人々は必ずやってきます」。信仰の神秘的次元が忘れられたときに、教会は魅力を失う。霊的活力がなくなるから魅力もなくなるのである。デトロイトでは市の百七の教会のうち、間もなく四十二が閉鎖されるという。フランスでは中世初期ロマネスク様式の教会がレストラン、ガレージ、体育館になっている。ナント(Nantes)では十七世紀のサン・ヴァンサン(St. Vincent)教会がレストランに、バリ北のサンリ(Senlis)の町のサン・テニヤン(St. Aignan)教会が映画館、そしてその後文化センターになった。「開かれた教会」の行末はこれである。
(六)荒廃からの再生・聖性の再発見
「開かれた教会」とともに開かれて没落の運命をたどった、あるいはたどりつつあるのは多くの修道会である。冒頭にあげた雙葉を経営するM修道会は、貧しいものへの社会奉仕に重点を置くように会憲を改正した。修院学校で教えるよりも貧民街や第三世界で社会奉仕に従事させたい、というわけだ。解放の神学の妖気に会の上層部もあてられたのである。だが、古い修道生活や修院学校の変らぬ価値を現代に生かす、つまり過去を現在と結びつける代りに、過去を無定見に否定してただ未来のビジョンを漠然と夢見るような修道会に若者は魅力を感じない。だから修道者の召命(入会志願者のこと、今日修道会でも召命という宗教用語でなく、クラブと同様な「入会志願者」を用いることが多い。これも「開かれた教会」のしるし)が減る。しかし、新奇を求める冒険主義者は、教育修道会自体が若者の魅力を失ったと誤解する。
アメリカでは一九六六年から七六年の間に約五万人の修道会退会者があった。そして多くの修道会では新しい入会者がほとんどない。そのひとつの大きな理由は、少数の頑迷な冒険主義者が修道生活の由緒ある規律を破壊したことにある。若者たちは、世俗化した自由放縦よりも、超越的価値を追求する聖なる、規律ある生活に魅力を感じているからである。
ミルウォーキー(Milwaukee)の伝統あるドイツ系修道会に聖フランシス教育修道女会(The School Sisters of St. Francis)があった。三千人の修道女を擁して中西部からニューヨーク、コスタリカにまで及ぶ大教育修道会だった。一九六六年の総会で総長に選ばれたシスター・フランシス・ボルジア(Sister Francis Borgia)は「バティカン会議の精神」をかたって、新しい冒険主義の実験を始めた。話しあいの小グループが組織され、〔院長 ── 臣下〕の古い関係は廃され、個人が最高の権威になった。ベトナム反戦運動の闘士であるイエズス会のベリガン(Berrigan)神父を招いて「革命の世界」という講演をして貰った。規律がなくなり、すべて個人の自由になるにつれ、今まで見られなかった憎悪感情が共同体を分断するようになった。規律は非人間的だから廃止さるべきだ、教会も階層制の教会から人民教会に変った、と説明された。修道制の目的は魂の救いではなく人類の人間化にあるとされた。
共同生活を捨てて個人主義的自由主義の極端に走った聖フランシス教育修道女会にはローマからの査察官が送られ、祈りを忘れた世俗化、共同体内部の分裂、制服の廃止と贅沢な私服の着用、学校教育職の放棄、ローマへの不服従、修道会長上への不従順、不安定な一時入会制、高齢者のめんどう見の欠如、以上八点についての警告文が総長に渡されたが、シスター・ボルジアはそれを無視して冒険路線を追求し続けた。
彼女の総長時代に広められたのは、神の恩寵は超自然的手段ではなく、人間相互のつきあいを通じて得られるという考えで、その結果、ミサ典礼や秘跡の意義は見失われ勝ちになった。一九六六年から七六年までの十年間で聖フランシス学校修道会の会員は三分の一に減少した。
このように聖なるものが俗化し続ける状況の中で再び聖なるものの復権を求め、清貧、貞潔、従順の修道誓願の厳守を通じて聖性の追求を第一の目標に掲げ、その証として必ず修道服を着用し、共同体全体の毎日の典礼参加を中心とした共同生活の維持を誓った数名のアメリカ人修道女が「完全な愛徳連盟」(Consortium Perfectae Caritatis)を結成したのは一九七一年のことだった。「完全な愛徳」とは第二バティカン公会議の修道生活刷新に関する教令の冒頭の句である。今や四十五の女性修道会の四万余名の修道女を擁するこの連盟は、「バティカン会議の精神」をかたってその本来の決定から逸脱し、聖なるものを水まししようとする動きに対し、伝統の現代的刷新を求めて創立された。日本の雙葉を経営するM修道会の、解体に向かう不吉な予兆のことを聞き知った同連盟の会長シスター・エリーゼ(Elise)は、今年初頭のわたし宛の書簡次のように述べている。
「誤った自由主義神学が日本の修道女共同体の間に浸透し始めている、と聞くのはまことに悲しい。合衆国で私たちは、過去三十年にわたり、愚かな実験のためにまさに悪夢を体験しました。ある修道会ほ完全に消滅しました。内部分裂した修道会もあります。ある修道会では一部の修道女が脱会して、会を建て直しました。どうか、こういう断末魔の苦しみを日本のよき修道女たちが味わわないですませるようにしてあげて下さい」
シスター・エリーゼが送ってきた資料のなかには、マリア会のデュベイ(Th. Dubay)神父が、修道女の召命について調査した報告があった。それによれば、若者を引きつける修道会の特徴は次の六つだという。
一、祈りを大切にし、伝統的規律を守る。
二、内的統一があり、分裂していない。
三、修道服を召命の見える証として着用している。
四、信仰教義と教会の正当な権威への服従を示している。
五、修道生括についての健全な神学的理解がある。
六、世俗的職業的野心を持たず、本来の修道生活に専心する。
(七)聖なる美しい典礼 対「解放神学」
北米大陸で最も盛んだといわれる教会が、トロント市西南の貧民街パークデール(Parkdale)にある。オラトリオ会の修道院付属の聖家族教会(Holy Family Church)である。ここの教会には貧しい移住労働者、学生、教授、サラリーマンと、あらゆる階層の人々がくる。誰もが、ここでは他で得られなくなった霊的活力、聖なるものとの接触を体験できると感じているからである。
日曜のミサの短い説教は世間話ではなく信仰教義のポイントをおさえ、典礼歴のその日の聖人に言及する。他ではなくなった聖母マリアヘの信心が奨励され、毎日曜日の荘厳ミサはどこの国籍の人もわかる共通語ラテン語のグレゴリオ聖歌「ミサ・デ・アンジェリス」(Missa de Angelis)が共唱される。今やカナダのナンバーワンといわれる教会合唱隊はパレストリーナ(Palestrina)のモテットを歌う。ミサは再びここで美しさと聖なるものの総合となる。貧しい人の心の喜び、活力となるのは、きたなく卑属で日常的なものではなく、美しいもの、そして何よりも聖なるものなのである。
因みに、衣食住にこと欠くという意味での貧しい人は、先進工業国では構造的に皆無である。そして中産層も富豪もみな同じく神の民に属しており、物質的に豊かな彼らにはそれなりに多くの心の悩みがある。ここの教会には、特に貧しい百五十家族のための社会奉仕プログラムもあるが、それがすべてになっていないところが他との違いである。
週日でもここへひっきりなしに訪ねてくる人々は、これまた他ではなくなった罪のざんげ・告白の秘跡を受けるためである。心を清め、よりふさわしい心で聖体の秘跡を受ける。委員会や会議の立案ができてワープロを操れる神父は増えても、聖性への道案内、霊的ガイダンスのできる聖職者は少なくなったが、人々の霊的ニーズは積り積って増大しているから、オラトリオ会の教会は満杯になるのである。そしてここでは、修道士の志願者が国境を越えて増えている。
オラトリオ会というのは、十六世紀のローマでフィリッポ・ネリ(Filippo Neri)という人が作った、割に自由な、司祭の修道グループである。司祭の修道会ではあるが、俗人をも対象に、祈りと秘跡・典礼生活を強調する。典礼音楽の強調から生まれたのがいわゆるオラトリオという音楽のジャンルである。オラトリオ会の究極目標は音楽、学問、そして万事を通して聖性を涵養するという、これまた他では容易に見られなくなった目標である。
オラトリオ会は十九世紀にイギリスにもたらされ、イギリスに留学していた近代日本カトリック史上最大の使徒的学者神父といえる、岩下壮一によって日本にもたらされた。今日でも輝きを失っていない名著『信仰の遺産』(岩波書店、一九八二年第五版)の著者岩下は、一九三五年私財を投じて東京信濃町駅前に聖フィリッポ寮と称する学生向きの知的、霊的センターを作った。これが今日もそこにある真生会館の前身である。ただし、真生会館はこの約二十年来、解放神学の一拠点になっている。解放神学は、岩下が対決 した自由主義神学と近代主義の落し子ともいえるものだから、運命は皮内なものである。
解放神学は、よく考えて見れば二つの意味で隷属哲学であるといえる。第一に、それは人を俗なるものに拘束して聖なるものへの志向を妨げるからである。貧しい者のためと称して、同じミサでも、なるべくみじめでうす汚い居間のテーブルで、よごれたなりをして、ありあわせの皿や茶碗で捧げるのが解放神学のやり方である。これは、次第に聖なるものの尊さとそれへの畏敬を忘れさせる、非神聖化の手段であり、瀆聖であると同時に貧しい者への侮辱でもあろう。
また解放神学は個人的罪を否定し、罪としては社会的罪すなわち資本主義(そして天皇制)しか認めず、赦しと救いは社会主義にしか認めない。神による救いの道は閉ざされるわけである。
そして第二に、彼らの信奉する社会主義は貧困の解決を不可能にするものであり、現に社会主義で貧困が解決された例は皆無なのだから、解放神学は極めて無責任な、貧困恒久化の隷属哲学なのである。宗教者が無責任なしかたで貧困問題にかかわって、自分と他人の眼を天に向けることを妨げているのを見ると「貧困は宗教の阿片である」といいたくなるてはないか。
(八)聖なるものの忘却・教会の荒廃・日本の精神的荒廃から、聖なるものの再発見・教会の聖化・日本の精神的復興へ
オット(Rudolf Otto)が名著『聖なるもの』(Das Heilige)(岩波文庫、一九八七年、第十刷)で描いた、戦慄すべく、優越し、力ある、しかし賛美さるべく、魅力あるものとしてのヌミノーゼ(numinöse)(神聖なもの)、それは人が美しく荘厳な教会典礼で体験するところであり、典礼を通じて人は見えぬ恩寵の力を得る。「聖」はオットのいうように無限に俗を超越するが、創造者と被造物との間にはある種の連続があるゆえに、人は理性と感覚を通して美しい芸術や偉大な自然の彼方にある、人間を越えた聖なる無限者の存在を、不完全にではあるが、知るのである。
人間を越える偉大な、聖なるものへの道を開いている限り、全体主義的民主主義は生まれてこない。その道を閉ざしたとたん、人は自力で社会を自由に操縦できると思い上る。すべては俗社会の手段になる。それ自身で大切という、聖なるもの本質が否定されることになる。日本のNICEの第一回会議の答申には、典礼を社会改革の役に立たせるように作り直す、という意味の文章があるが、聖なる秘儀は何かの手段ではない。気をつけないと日本のNICEの中には、それをC. S. ルイスのNICEに転換させる危機が宿っている。そのような危険を見通して、一九八五年のローマの臨時司教会議(シノドス synodus)は秘義(mysterium)としての教会の再発見を強調したのである。
今、日本を含めた先進工業国の中でオカルトや悪魔崇拝が燎原の火のごとく広まりつつあるが、これは聖なるものの変態形での復権要求といえる。それは物質主義と合理主義そして聖なるものの軽視無視が生んだ当然の結果である。聖なるものへの願望は人間の最も根源的本性の表現だから、抑圧すれば当然、別の形で表われざるを得ない。
G. ケリー(Kelly)神父は名著『アメリカ教会をまもる戦』(The Battle for the American Church)(一九七五年)を「今、教会の中でゲリラ型の戦争が戦われており、結果は全く不明だ」という文章で書き始めた。同じことは、天皇制への愚かな攻撃を始めた日本のカトリック教会についても十年おくれで言えるだろう。
聖なるものの強調を、聖俗二元論だと歪曲して、あざけり、伝承を犠牲にした刷新を推進する日本の「開かれた教会」は、俗なるものと左翼には開かれながら、聖なるものと中道には閉ざされた教会になりつつある。少数の左翼教会テクノクラートの影響の下におかれた司教会議や多くのカトリック出版物諸組織は、その左傾化のテンポを早めつつある。このような世俗化、左傾化という意味での日本の教会の荒廃は、日本の教会が良識ある国民多数から孤立すること、そして今日本が必要としている真の精神的復興、魂の文化への目ざめの中で教会が果すべき役割を自ら放棄することを意味する。
今や日本全国各地でないがしろにされ、冒瀆されている聖体祭儀(ミサ)。それを『典礼憲章』に則した正しい姿に復興し、真に聖なるミサが捧げられるようになり、聖なる教会の祈りと秘跡によって養われた聖なる司教、司祭、修道者、聖なる夫婦、聖なる政治家、聖なる公務員、聖なるサラリーマン、聖なる企業家、聖なる労働者、聖なる教育者、そして生活のあらゆる分野で「聖なる民」が輩出されるようになれば、日本の精神的復興を期待することができる。いつの時代でも世を変革するのは聖人であって、政治家まがいの聖職者や聖職者まがいの革命的ジャーナリストではない。
その場合大切なのは、日本文化の悪しき部分をキリストの精神で切り捨てると同時に、善き部分をキリストの精神で生かすことである。カトリック者としてローマに中心を置く教会に忠誠を誓うことは、天皇制をはじめとする日本の先祖伝来の良風美俗や伝統的制度をただ否定することではなく、福音の幹に日本文化の善き枝を接ぎ木することである。それは福音の幹を悪しき枝で傷つけ歪めることではない。福音土着化の名をかりて福音を否定することではない。
日本の精神的、道徳的復興は、経済大国といわれるようになったわが国が今後日本自体と世界のために達成すべき大きな課題であり、そのためにも大切なのは教会の社会主義的世俗化ではなく、聖化である。教会の聖化が社会の聖化の大前提なのである。
澤田昭夫著『革新的保守主義のすすめ  進歩史観の終焉』PHP より
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