右の角を拡大する。
この意味はかなり明白なように思われる。手が、パウロ教皇様のミトラを真っ二つに割り、破壊したのである。パウロ教皇様の「教皇職」を破壊したのである。
最後に、上の角のレリーフを拡大する。
あなたはこれを何だと思うか。上の角あたりに顔のようなものが見えないか。
これが本当に正しい宗教のものならば、そしてレリーフの上の角が「頂点」を意味するものならば、人はそこに「神」を配置したくなる筈であろう。
しかし、これは何か。神の顔か。
*
私の解釈を図式化する。
赤色 は サタン である。
青色 は 魔女 である。
黄色 は サタンに敗北した神の兵士の残骸 である。
サタン: まさか、この顔を「神の顔だ」と言う人は居ないだろう。
魔女: 彼女はサタンを指差している。こう言っているかのようである。
「この世界を支配してるのは誰だと思ってるんだい? イエスでも教皇でもないよ。彼だよ。」
神の兵士: 彼は甲冑を身にまとっている。盾も見える。剣も持っているのであろう。そして、僅かに上を、つまりサタンの方を見上げているようである。
しかし今、これら全ては過去のことである。見れば、甲冑は無惨にバラけている。否、甲冑ばかりでなく彼の体までもがバラバラになっているかのようである。これはサタンに戦いを挑んだが敗北した哀れな神の兵士の残骸である。
*
改めて全体を見る。
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サタン(頂点)
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害
さ
れ
た
教
皇
様
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破
壊
さ
れ
た
教
皇
職
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苦悶する、あるいは瀕死の、教皇様
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サタンを「頂点」に据えたところがミソだ。
これによって、このサクヒンの意図は明白だ。
*
では、これは結局、何か?
言われているように、
パウロ6世教皇様のための、
パウロ6世教皇様を顕彰するための、
パウロ6世教皇様を懐かしむための、
そのような温かなモニュメントか?
違う! 笑わせるな! とんでもない!
これは彼らの勝利宣言だ。
彼ら自身の、彼ら自身のための、
彼らの(勝手な)勝利の記念碑だ!
彼らはこのレリーフによって
力の誇示をしているのである。
トップが誰で、敗者は誰かを
暗に示しているのである。
これがこのサクヒンの意味である。
それ以外にどう読める?
*
あなたはまだ迷うのか。
まだ曖昧なのか。
では、これを見て下さい。
あなたはこれを何だと思うか。
この小さく弱々しげに描かれた様を見よ。
これは「苦しむ教皇に寄り添うが、
それを助けることのできない(かのような)
イエズスと守護の天使たち」である。
神の兵士の残骸と同様の表現である。
即ち、この記念碑においては、
天国に属する者たち全てが
「弱者」として、「敗者」として、
「儚い者たち」として描かれている。
そして、それとは対照的に、
サタンの顔が《頂点》に置かれている。
だから、一体誰が、この記念碑の解釈において
「迷う」などということができるのか。
*
スコルツェッリについてまとめておこう。
彼はこの三点を造ったのである。

Is he a good artist?
*
更にあなたに「目」があれば、
失礼ながら「目」があれば、
あなたには分かる、
特にこのレリーフ↓が何を意味しているのかを。
彼らはいつ、パウロ教皇様が
これほどお苦しみになる苦しみを、
パウロ教皇様に与えたのか。
それとも、与えていないのか。
これは彼らの現実離れした夢想的表現なのか。
彼らはそれほど「メルヘンチック」なのか。
そんなに甘い人間なのか。
否、彼らは極めて現実的だろう。
彼らは実際に、パウロ教皇様にこれほどの苦しみを与えたのである。だからこそ、誇らしげに、このような造形ができたのだ。
あなたはこれを、私の「我田引水」だと言うかも知れない。しかし、上の観察それ自体が(ベイサイドや他界からの警告とは関係なしに)、「教皇パウロ6世」に対する彼らの目が〈二重〉であることを物語っている。
彼らは一方では、一般にそう信じられているように、このモニュメント全体でもって、「教皇パウロ6世」を顕彰する。
しかし同時に、他方では、彼らは同じ教皇の苦しむ様を、陰険な誇らしさをもって、密かに、このモニュメントに滑り込ませる。(忘れないで欲しい。頂点には「サタンの顔」があるのである。)
彼らは愛し、且つ憎む。彼らは讃え、且つ嘲る。
この〈二重性〉、この〈矛盾〉が、ここには歴然と有る。
これが、観察それ自体で分かることである。これは、客観的に確かなことである。
そして、ここから先が私の推測である。
この「二重性」は「二人の教皇パウロ6世が居た」ことを引き付ける。それと呼応する。
*
いや、ここではそれを信じてもらいたいわけではない。
しかし、とにかく、
これがカトリック教会自身の中に置かれている、
カトリックのカテドラルの中に置かれている、
「教皇パウロ6世を記念する像」なのである。
慄然としないか?
* * *
余談
不可解なサイト
私がこれらの詳細な写真を頂いた
英文記事のことだけれども、実は、その筆者の言うことが少し変なのである。
まず、Bent Cross について、およそ次のようなことを言っている。
この磔刑像はキリストの謙遜を象徴しています。彼はその玉座から降り、愛の中に手を差し伸べます。この磔刑像は私達に、私達の罪が引き起こした痛みを思い出させるために、苦しむキリストの姿を提示しています。この磔刑像は現実的(realistic)です。それ故、それは私達に、キリストは神話上の人物ではないこと、彼はまことに私達の間を歩いておられること、彼の苦しみ、死、そして復活は現実のものであったことなどを思い起こさせます。
私は、全く大した「説明」だと思う。勿論、全く同意しない。
しかしまた、この程度の好意的(?)且つ柔軟な(?)解釈は、疑うことが苦手な「良心的」なカトリック信者にはありがちなことかも知れないとも思う。(筆者が信者かどうかは知らないが)
しかしである。その筆者は上の凶悪な記念碑のことまでも magnificent monument と言うのである。
magnificent[形]壮大な,堂々たる,華麗な; 気高い,崇高な; とびきり上等の,極上の,無類の.
一体全体、人は、私達の目にこれらの詳細な写真を晒しておきながら、同時にこの醜悪・凶悪なる彫像のことを magnificent と言ったみたりすることができるものだろうか?
リンク欄にはカトリック・サイトへのリンクも多いようだけれども、トップの画像は少しもカトリック的でない。フリーメイソンの、あるいはフリーメイソンの息のかかったサイトなのかも知れない。(それだったら理解できる)
備考 このモニュメントの写真が見られるページ
1(既出)
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