2012.04.12

クリスチャンは職場で十字架を身につける権利を持たない

先月のニュースである。カトリックと直接の関係はない。
強調と幾つかの画像と〔 〕と * は管理人
英国政府曰く
「クリスチャンは職場で十字架を身につける権利を持たない」
政府は注目される裁判で「クリスチャンは職場で公然と(openly)十字架又は磔刑像を身につける権利を持たない」と主張する見通し。
政府は「クリスチャンは職場で公然と彼らの信仰のシンボルを表示する権利を持つ」と言うことを拒否した。
デイヴィッド・バレット
2012年3月10日
非常に注目される動きの中、関係各大臣は欧州人権裁判所(European Court of Human Rights)で、二名の英国婦人が十字架を表示する彼女らの権利を確立しようとする訴訟で戦うことになるだろう。
政府が「クリスチャンが職場でシンボルを身に付ける権利」を支持するかどうかを声明せざるを得なくなったのは初めてのこと。
Sunday Telegraph が明らかにしたところによると、関係各大臣は「十字架の着用はキリスト教信仰の『要件』ではないので、雇用者側は十字架の着用を禁止することができるし、十字架の着用に固執する従業員を解雇することもできる」と主張する見通し。
政府のこの立場は昨夜、前カンタベリー大主教ケアリーを含む著名人らからの怒りの反応を受けた。
ケアリーは諸大臣と法廷をクリスチャンに「指図」しているとして非難し、これはキリスト教が公的な場所から排除されつつあるもう一つの実例であると語った。
クリスチャンは職場で彼らの信仰のシンボルを表示する権利を持つと認めることを拒否する政府の態度は、同性間結婚を合法化しようとする政府の計画が英国のローマ・カトリック教会のリーダー達によって非難された後に現われた。
Sunday Telegraph によって委託された世論調査は、この問題についての国民の意見は割れていることを示した。
概して、投票者の45パーセントがゲイの結婚合法化の動きを支持、36パーセントが反対、19パーセントが「分からない」という回答だった。
しかし、首相は彼自身の党と足並みが揃っていない。
具体的には、保守党員の半数が原則的に同性間結婚に反対し、支持は35パーセントにとどまった。
国民はこれに関する法律を早急に変えることには消極的と見られる。世論調査に答えた人々のうち四分の三以上が、2015年より前にその計画を急速に進めるのは間違いであると言っており、14パーセントだけが、そうすることは正しいと答えた。
ストラスブールの〔欧州人権裁判所での〕訴訟は、人権に関する法が、ヨーロッパ人権条約の第9条の下、職場で十字架を身につける権利を保護するかどうかにかかっている。
第9条はこう謳っている。「全ての者は、思想、良心及び宗教の自由について権利を有する。この権利には、自己の宗教又は信念を変更する自由、並びに単独で又は他の者と共同して、及び公的に又は私的に、礼拝、教導、行事及び儀式において自己の宗教又は信念を表明する自由が含まれる。」
提訴したクリスチャン女性、ナディア・エウェイダとシャーリー・チャップリンは、彼女らの雇用者側が彼女らがシンボルを身につけることを禁じた時、自分達は差別されたのだ、と主張している。
Nadia Eweida
 
Shirley Chaplin
彼女らは、欧州人権裁判所がこの件を彼女らの自己の宗教を表明する人権を侵害するものだと裁定することを望んでいる。
政府の公式声明は、十字架の着用は「信仰の要件」ではなく、従って第9条の保護対象外である、というもの。
二人の婦人の弁護士らは、政府はあまりにもバーを高く上げ過ぎている、宗教の「表明」には「信仰の要件」ではない事をすることも含まれる、従って彼女らは人権(保護法)によって保護される、と主張している。
彼らは、クリスチャンは着衣やシンボルのための特別の立場を与えられている他の宗教の人々(例えばターバンやカーラ・ブレスレットを持つシーク教徒達、あるいはヒジャーブを持つイスラム教徒達)よりも保護されていない、と言う。
エウェイダ夫人(ブリティッシュ・エアウェイズの従業員)とチャップリン夫人(看護婦)が職場で十字架を身につけたという理由で懲戒処分を受けてからストラスブールの欧州人権裁判所に提訴していたことが、昨年明らかになった。
エウェイダ夫人の訴訟は、彼女が彼女の雇用者側がブリティッシュ・エアウェイズの服装規定に違反していると主張する彼女の十字架を彼女が取り外すのを拒否したとして停職処分を受けた2006年から続いている。
トウィッケナム在住、61歳の彼女は、コプト・キリスト教徒である。彼女は、ブリティッシュ・エアウェイズは他の宗教を持っているメンバーには宗教的な着衣やシンボルを使用することを許している、と主張している。
ブリティッシュ・エアウェイズはその後、服装規定を変更している。しかし、エウェイダ夫人は初期の控訴院での雇用審判において敗訴している。そして、2010年5月には、最高裁判所への上告が棄却されている。
チャップリン夫人(エクセター在住、56歳)は、彼女がチェーンを通して身につけている十字架を隠すことを拒否した後、Royal Devon and Exeter NHS Foundation Trust によって病棟勤務から外された。看護婦として働いて来た31年目のことだった。
政府は、二人の婦人のストラスブール裁判所への申し立ては「明らかに根拠がない」としている。
政府の回答は次のように述べている。「政府は次のように回答する。(…) 申立人らの公然たる(visible)十字架又は磔刑像の着用は、第9条が意味する範囲内の『宗教又は信念の表明』には当たらず、(…) 申立人らの公然たる十字架又は磔刑像の着用に対して雇用者が為した規制は、第9条によって保護される申立人らの権利に対する『侵害』とは言えない。」
外務省によって用意された回答は次のように付け加えている。「このどちらのケースにおいても、申立人らの公然たる十字架又は磔刑像の着用は信仰の要件であると看做されるとする提示(申立人ら自身による提示を含む)は言うに及ばず、それがキリスト教信仰の実践形態として一般的に認められたものだとするどのような提示も存在しない。」
政府はまた、別の二人のクリスチャンの提訴にも反対する意向も表明した。その一人は、同性愛カップルのためのシビル・パートナーシップ・セレモニー(Civil Partnership Ceremony)の運営に反対した元記録係である。
リリアン・ラデイル。彼女はロンドン北部のイズリントン区役所の住民課の記録係*として17年間勤めた。彼女は、自分は制裁を受け、2007年に辞職を余儀なくされたと言う。また、自分の信念のことでハラスメントを受けたとも主張する。
* この記事では「a registrar for Islington council」となっているから最初「イズリントン区議会の記録係?」と思ったが、他の複数の記事に「イズリントンの town hall の出生・婚姻・死亡に関する記録係」という記述があるから、上のようにしておいた。
ちなみに、彼女は正教会信者(Orthodox Christian)とのこと。
Lillian Ladele
イズリントンでのセレモニー
ゲイリー・マクファーレン(Gary McFarlane)。リレーションシップ・カウンセラー。彼は、同性愛カップルにセックス・セラピーを施すのを拒否したために Relate から解雇された。
クリスチャン達のグループは政府のスタンスを「異常(extraordinary)」と評した。
ケアリー大主教は言う。「彼らの立論は、彼らが何の専門知識も持たない神学とか礼拝とかの問題についての全く不適当な判断に基づいている。」
「皮肉なことに、政府と裁判官がクリスチャンに対して頭ごなしに『十字架は大して重要性のないものである」と申し渡す時、十字架は更に重要なシンボルになり、私達の信仰の表現になるのです。」
チャップリン夫人とマクファーレン氏が起こしたストラスブールでの訴訟は、有力な人権派弁護士ポール・ダイアモンドを指名した Christian Legal Centre によってサポートされている。
ストラスブールの裁判官らは次に、全4つの訴訟を完全な審理にまで進めるかどうかを決めることになる。
もし彼らが完全な審理に入るなら、それらの訴訟は「宗教的諸権利が差別を禁ずるためにデザインされた平等法との間でどのようにバランスを取らされるか」をテストすることになるだろう。
アンドレア・ウィリアムズ(Andrea Williams; Christian Legal Centre 責任者)は次のように述べた。「保守党政府が『十字架の着用はキリスト教信仰の一般に認められた実践ではない』と主張したとすれば、それはまったく異常なことです。」
「ここ数ヵ月間、裁判官達は、十字架の着用、異性間結婚を支持する信念、キリスト教信仰の『中心的』表現である礼拝のための日としての日曜などを認めることを拒否して来ました。」
「次は何ですか。私達の裁判官達は十戒を覆そうとでもするのですか。」
(以下、省略)
予備リンク  Clerical Whispers  TLDM
─ 以下、管理人 ─
人間の知性は意外と「そもそも」の部分を避ける
そもそも何故、雇用者側は、彼女らに職場での十字架/磔刑像の着用を禁じたのか。
看護婦のチャップリンさんはこの為に病棟の仕事から事務仕事に移されたらしいが、病棟で働く看護婦がアクセサリーを身につけていたらそんなに危険か。
「商売に差し障りがある」からなのか。様々な宗教を持った顧客達を刺激しないために、接客する従業員は見かけ上宗教的に無色透明でなければならないというわけか。
それとも、奥にもっと別の思惑が動いているのか。
この記事にはこの「そもそも」の部分についての言及がない。他の記事もそのようである。それについて触れず、本来その「次」から始まるものから始める。
人間の知性は、おもしろい。
人権思想に保護してもらうのか
ラデイルさんについて伝えた他の記事の中に次のような記述があった。
昨年〔2007年〕の12月までに、〔英〕国内で、出生・婚姻・死亡に関する記録係の1700名が、シビル・パートナーシップ・セレモニーに関与することを免除されている。
だから、ある意味ラデイルさんは「運が悪かった」と言える。
しかし、問題はそれで終わらない。
キリスト者が自分の天主様への信仰のこの世における居場所を護ろうとして「人権思想」の方に行くのを見て、私の頬は引きつる。
 
欧州人権裁判所
キリスト者が自分の信仰のために人権思想(という権威)に庇護を求める時、自分自身ではよく意識しないかも知れないが、次のような論理でそれを求めることになるだろう。
「思想・信条の自由」 ではありませんか。
私達も他の人達の生き方の自由(選択権)を認めますから、
私達の 「宗教の自由」 も 「良心の自由」 も認め、尊重して下さい。
人権思想にくみするとはそういうことである。私達は人権思想に同意せずには人権思想に庇護を求めることはできない。一旦それに庇護を求めるや、私達は他の人々の同様の権利も認めざるを得なくなる。
自由?  権利?
今、「それで何が悪いのよ」と言うクリスチャンの声が聞こえたような気がする。「何の不都合もない」と言うクリスチャンが声が。
しかし、ではあなたは、異教徒が異教を信じることを、あるいは同性愛者が同性愛を生きることを、それが彼らの「権利」であるとして、認めるのか?
キリスト者としての立場から、そう認めるか?
キリスト者としての立場からは認めないが、市民としての立場からは認める?
あるいは、彼らは天主様に対してはそのような権利を持たないが、社会的にはそのような権利を持つ?「彼らは天主様を知らない」という理由によって?
キリスト者自身がそのように言うなら、どこか分裂病的(?)である。
しかし昨今では、教会自身が「いや、そうではない(分裂病的でない)」と言うのである。かえって「人権思想は深いところでキリスト教と結びついている」と言うのである。参照1  参照2
あるいは、知的な人は言うかも知れない、「『権利』という言葉をもう少し詰めなければならない」と。しかし、それをどんなに詰めようとも、「キリスト者」であるあなたにとって、問題は結局、同じ所に返って来るだろう。
もう... やめよう。既に聖ピオ十世会が論じ尽くしているところだ。
人間は、
他の理由によってではなく、
人間であるということそれ自身のゆえに、
肯定されなければなりません。
唯一、人間であることそれ自身のゆえに!
この世で虐げられている人達を救おうとしてこのようなことを言うならば、もちろんそんなに悪いことではない。けれど、「人間の尊厳」を最高度に強調するこのような言葉はヒューマニズムの言葉であって、必ずしも信仰の言葉ではない。
人間が人間であるということそれ自身のゆえにそんなに尊いなら、誰も地獄に落ちやしない。
(ヨハネ・パウロ2世教皇様のことが「憎い」のではない。ヨハネ・パウロ2世教皇様が一つの「典型」であられるからだ。)
磔刑像を首に掛けなさい
天国は、信者が首に「磔刑像」を掛けて信仰を「表明」することを望んでいるようだ。
誇りをもって首に磔刑像を掛けなさい。あなた方は自分が私の御子と共にあることを人に知らせるのを恥ずかしく思うのですか?
Wear your crucifix about your neck with pride. Are you ashamed to make it known that you are with My Son?
ベイサイドの聖母の言葉である。しかし、天国が実際そのように望んでいる可能性はあるだろう。(私にとっては「可能性」ではないけれど。)
「cross」ではなく「crucifix」である。
磔刑像の付いていないクロスなら、一般でもアクセサリー化している。しかし crucifix、磔刑像の付いている十字架は、それだけでほとんど一つの信仰表明である。
それを人目に付くかたちで身につけるとなると、私をも含めて、おそらく多くの日本人信者はこう思う──「日本では、どうかな」。
「日本では... 違和感が漂い過ぎる」、とか何とか。
しかし、ベイサイドの聖母は上の言葉を第一にアメリカ人に向けて言ったのだ。何故? その当時でさえ既にアメリカにおいてキリスト教が後退しつつあったからだ。そして、人間の心の弱さには洋の東西の別はないからだ。日本人だろうとアメリカ人だろうと、人間は「群れの中の小心者」だからだ。
だから、私達が「日本では」とか「アメリカでは」とか考えるのは、ほとんど無効だ。そんなことを言っている私達は、仮にアメリカに生まれていたとしても、そこで似たようなこと(逃げ口上)を言っているはずだ。
こぼれ話。
昔、職場に一人の年輩男性がいた。夏、外で動いていた彼は、事務所に戻るなり、涼を求めて襟元を少し開いた。と、そこから十字架のネックレスが覗いた。
まだ正式な求道者にもなっていなかったが既にカトリックに関心を持っていた私はハッとして、即座に訊いた、「クリスチャンですか? ... カトリック?」。
その人は頷いた。しかし同時に彼は襟元を直すような仕草をし、目を逸らし、何も言おうとしなかった。明らかに、それ以上訊かれたくないふうであった。
信仰について聞きたかった私は、ガッカリした。そしてやはり、信者としての彼のそのような姿に、「何だ」、と思った。
司祭に向かって「ちゃんとスータンを着用して欲しい」と言えるためには、私達信者だって、対外的に自分の信仰を表明する何かを身につけるべきだろう。
司祭は未信者の救霊のためにもスータンを常に着ていなければならない。信者だって、程度の差こそあれ、同様ではないか。上のこぼれ話に見るように、いつなんどき未信者が、私達の「信仰の印」(外から判別可能な)に目をとめ、希望を求めて質問したがるか分からないのだ。
聖母は「pride」とおっしゃっている。
私達が対外的な信仰表明においてもう少し「シャン」としていたなら、どれほどいいだろう。
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