2012.02.18

「すべての民の御母」 は悪霊である 8  世のかしら

この「粗悪な詐欺」に大騒ぎする必要はないかも知れない。
しかし、「悪いもの」を確認することによって「善いもの」を確認する。
婦人は聖子のことを “the prince of the world” と呼んでいる。
しかしその言葉は、聖書中の聖子御自身の御言葉において “サタン” を意味する。
この事に気づかせてくれたマニラのドミニコ会のブラザーの文章を抄訳する。
すべての民の婦人の批判的検討
2010年10月26日
Marwil N. Llasos
A.聖書を直接的に否定する婦人のメッセージ
1.婦人はイエズス・キリストのことを「世の君(Prince of the world)」と呼んでいる
メッセージ33(1951年5月31日)より
男性たちよ、世界を、その唯一の君主であられる主イエス・キリストのもとへと導こうという力と意志が、あなたがたから湧き出てこなければならないのです。
普及の会『すべての民の御母のメッセージ』p136
From you, men, has to come the strength and the will to lead the world to the sole Prince of this world, the Lord Jesus Christ.
もし私達が、或る私的啓示のメッセージと聖書中の神の御言葉とのどちらかを選ばなければならないとしたら、どちらを信じるだろうか?「すべての民の婦人」はイエズス・キリストのことを「Prince of the world」と呼んでいる。しかし聖書は、ヨハネの福音書の 12:31 と 14:30 において、「Prince of the world」は悪魔である、とはっきりと言っている。
今、この世の審判が行なわれ、今、この世のかしらが追い出される。
NOW IS THE JUDGMENT OF THE WORLD, NOW WILL THE PRINCE OF THE WORLD BE CAST OUT.
ヨハネの福音書12:31
この世のかしらが来るからである。彼は私に対して何もできぬ。
FOR THE PRINCE OF THE WORLD IS COMING, AND IN ME HE HAS NOTHING.
ヨハネの福音書14:30
司祭も、司教も、そして事実、教皇でさえ、誰一人、定まった(fixed)意味を持った聖書のフレーズに、それと正反対の意味を与えることはできない。イエズス・キリストを「Prince of the world」という呼称(イエズス御自身が悪魔と結びつけた呼称)で呼ぶことは、われらが天主に対する侮辱である。婦人の擁護者の幾らかはこの事を「誤訳がある」と言って説明しようとする。しかしもしそうならば、更に面倒な問題が持ち上がることになる。すなわち、
1.私達は現在、「すべての民の婦人」のメッセージの三つの異なった版を持っている。その中の最新のものは1999年の版、しかし2002年5月31日付のプント司教(アムステルダム、ハーレムの司教)の序文が付いたものである。1987年の版には Imprimatur(印刷許可)と Nihil Obstat(無害証明)が付いている。第三のものは、この出現を普及する会が公的に出した小冊子である。そのどれにおいても、私達は誤訳に関する注記を見ない。実際それらは、イエズス・キリストは「Prince of the world」であると繰り返している!
2.もし誤訳があるとするならば、人はどのようにして、婦人のメッセージの中の他の箇所には誤訳は無いと確信できるのだろうか。私達はどのようにして、メッセージの全体を信頼できるのか。この出現を普及しようとする人達においては、それらのメッセージを広める前にメッセージのすべてを再照合し、それらの「誤訳」を発見することが最優先事項であるべきではないか。教会がどのような出現であれそれを広める時、私達は霊魂の永遠の運命を扱うことになるのだから、そのようにすることが一つの使徒的な責任である。
3.もし誤訳があるとするならば、この「婦人」が「かつてマリアであられた」とは言わなかったという可能性もあるのであろうか。
4.この出現の擁護者の幾らかは更に、当該語句は適切には『世の支配者(Ruler of the world)』と訳されるべきであった、と言う。しかしながら、聖書の言葉(ヨハネの福音書12:31)は、カトリック教会のカテキズム(p. 136 , no. 550)で引用されつつ、世の支配者(Ruler of the world)というのもサタンのことである、と言っている。世のかしら(Prince of the world)という称号と世の支配者(Ruler of the world)という称号は交換可能なものである。
〔訳註: 実際、フランシスコ会訳聖書のヨハネの福音書12:31は「今、この世の裁きが行なわれる。今、この世の支配者が追い出される」となっており、脚註には「サタンのこと」とある。〕
聖主の御言葉は、サタンは世のかしら(Prince of the world)である、と言っている。「すべての民の婦人」は、イエズス・キリストは世のかしら(Prince of the world)である、と言っている。この出現に加えられるどんな長々とした説明も、「婦人」がこのように聖書の言葉を直接的に否定したこと、あり得る最悪の形でそうしたことを、否定できない。
教会のために必要な、呼称の排他的な確保
この出現の擁護者たちは言うかも知れない、「世界(world)」という語はこの世界に生きている人々のことを指すのだ、従って、イエズス・キリストのことを「世界の唯一の君主(the sole Prince of the world)」と呼ぶ時、それは、彼はこの世界に生きている人々皆にとっての君主だ、ということを意味しているのだ、と。〔しかし〕「世界(world)」という語は単純に、この宇宙の中で人々が住んでいる物理的な場所のことを言っているのである。〔ならば〕「世の君」というフレーズがキリストのことを指すために使われるということがあり得るだろうか。
更にはっきり言うなら、婦人がそうしたように、キリストを意味するために「世のかしら」というフレーズを使うことは正当化され得るだろうか、あるいはほんの少しでも大目に見られ得るだろうか。
答えはノーである。ごく卑近な例で考えてみよう。
ここに二人の人が居て、終わりのない敵対関係にあったとしよう。そして、ある人がその両者間の根深い敵意を知っていたとしよう。その人は確かに、ネガティブな感情を刺激しないように、一方の人の面前で他方の人の名を言うことを恐れるだろう。
もし誰かがその二人に呼びかける時、間違って一方の人を他方の人の名で呼んだならば、事は確かに一層悪いだろう。たとえ不注意でそうしたとしても、自分の名を敵の名と取り違えられる時、それだけで耳に不快である。故意に誰かをその敵の名で呼ぶとすれば、それは侮辱として受け取られるだろう。
もしそのような、人間にとってごくありきたりな場面においてすら自分の敵の名で呼ばれることが、我慢のならない、不快で、受け容れがたいことであるならば、それが超自然的なレベルのもので、そこに絶え間ない対立、一層激しい対立、そして永遠の対立がある時、事はそれとは違って来るとでも言うのだろうか。
さて、カトリック教会において種々の呼称を確保する習慣について議論を進めよう。
敬虔な信者たちが無原罪の御宿りに対して祈る時、皆、それは福いなる童貞マリアに対して祈っているのだと知っている。しかし、そのグループの内の誰かが、キリストを無原罪の御宿りと結びつけてキリストに祈ることを提案したなら、人はそこに重大な神学的な障害を見るだろうか。
否、何も。
実際、その改革者は、「キリストは聖霊によって直接宿り給うた。彼は事実、マリアよりも一層汚れなく宿り給うた。それ故彼は『無原罪の御宿り』という称号により一層ふさわしい」と論ずることによって、その革新を正当化しようとするかも知れない。「無原罪の御宿り」という称号の既に受け入れられている用法からのこのような逸脱は、そこに神学上の障害は何も無いからというので、大目に見られることができるだろうか。
人は、もしそのような目新しさに対する寛容の中に、カトリック教徒たちの信心生活の中に混乱をもたらす潜在的可能性を見るならば、信心の現状の形を維持することを強く求めざるを得ないのである。「無原罪の御宿り」という称号を限定的にマリアのためだけに確保する習慣を続けることは、確かに一つの知恵である。
(以下、省略)
管理人
イエズス様は世を愛され、世を救うために世に来られた。
しかし、御自分と世との関係については、彼は常に、御自分を「世に属さない者」とされた。
この世はあなたたちを憎まないが私を憎む。それは私がこの世の悪を証明するからである。
ヨハネ 7
あなたたちがこの世のものなら、この世は自分のものを愛するだろう。しかしあなたたちはこの世のものではない。私があなたたちをえらんで、この世から取り去ったのである。
ヨハネ 15
私の国はこの世のものではない。
ヨハネ 18
だから、イエズス様は御自分のことを「Prince of the world」とお呼びになることはない。(地上におられた時も、そして今も。)
それ故、聖母も、御子のことを「Prince of the world」とお呼びになることはない。婦人の言うように、聖母が御子と「完全に一致(completely united)」している(35th message)なら、尚更である。
このように、「観察」は、二重にも三重にも、「婦人」が悪魔であることを示唆している。
だから、婦人を信じている人達、
ここで決定的に気づかれよ。
よい加減、気づかれよ。
教会権威に依らず(習い性)、ご自分で気づかれよ。
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