2011.12.31

「自由・平等・友愛」 に対して明白に好意的であったヨハネ・パウロ2世教皇様 5

前教皇様のことを「責める」ためではなく、あくまで天主様の御心を訪ねるために最近の一人の(しかし傾向が顕著な)教皇様の御事を検討させて頂きます。
「カトリック教会は自由・平等・友愛のために一定の貢献をしたい」
2004年
教皇はフランス革命の理念「自由・友愛・平等」に会釈する
Gary L. Morella
8月14日、イタリアの通信社AGIは「教皇は自由・友愛・平等に会釈する」と題された新しいレポートを発表した。その記事は言う。
教皇ヨハネ・パウロ2世は、フランスに着いた時、フランスを成り立たせている基本的価値観に敬意を払うことを望み、彼の最初のスピーチで、「フランス革命に由来するそれらの理念──自由・友愛・平等」をキリスト教の偉大な遺産と結び付けた。
教皇は言った、「カトリック教会は、各自の責任と能力に応じ、共通善の追求において、自由・平等・友愛の理念が社会生活の基礎であるような世界の建設のために、社会に一定の貢献をしたいと望んでいます」。
ルルドでのヨハネパウロ2世
「教会は、自由・平等・友愛の理念と共に働くことができます」
- AP通信の写真 2004年8月15日
もしこのレポートが正確なら、私達は、カトリシズムの破壊をその主要目的とした革命のクレドを受け入れる教皇を持っていることになる。
このレポートに従えば、教皇ヨハネ・パウロ2世は、信じられないことに、カトリック国家フランスを事実上破壊したところのフランス革命の理念「自由・友愛・平等」に会釈したのである。フランスは現在、教会と国家の分離などといったものが無かった聖ルイ9世の時代よりも、「キリスト教国」という呼ばれ方がまだされていたその時代よりも、マシなのだろうか? 教皇はその声明によって、この質問に「イエス」と答えているかのようである。
一体どのようにすれば、カトリシズムの根絶を目指した革命の理念とカトリシズムとを「結びつける」などということができるのだろうか? ある事が「である(be)」と同時に「でない(not be)」などということはあり得ないというのが、無矛盾(non-contradiction)に関する哲学の基礎的公理である。願わくは、そのレポートが幾らかの誇張を含んでいて、不正確であらんことを。しかし、もし正確だったなら、それは、カトリシズムは今やフランス革命を問題視しないということを意味するのである。
しかし、これを、教皇聖ピオ10世が「シヨン運動」に関する使徒的書簡の中で自由・友愛・平等について言っている事と見比べてみて頂きたい。
シヨン運動は、フランス革命の精神によって損なわれたフランスのカトリックの運動であった。教皇聖ピオ10世の使徒的書簡は、その運動の幾つかの行き過ぎに反駁するために書かれた。その使徒的書簡が、教会と国家の分離と同様、自由、平等、友愛、人間の尊厳などといった誤った理念に対して、そして「愛の文明」なるものが意味するものに対して──それらがカトリックの教えであったことなどかつて決してなかった──どれほど強烈に反駁しているかに特に注意して頂きたい。
教皇ピオ10世の明確な非難を読むことで、真実を確認して頂きたい。
「シヨンの理論ないし幻想、また彼らが民衆の民主的な教育と称する教育が目指すところは次のようになります。すなわち各人の良心と市民としての責任感を最高度に高め、こうして経済的および政治的民主制ならびに正義、自由、平等、友愛の支配が生まれる、と言うのです。」
「そして、あろうことか、今やカトリックの青少年の心に、彼らの母である教会に対しての不信の念が注ぎ込まれています。彼らは19世紀を経た今に至るまで教会はこの世界に真の基盤に基づいた社会を築くことができずにいる、なぜなら教会は、権威、自由、平等、友愛、人間の尊厳といった社会についての概念を正しく理解せずにきたからだ、と言うのです。」
〔聖ピオ十世会の訳文をお借りしました〕
これについてもバチカンの公式サイトに記録されている。
Dans le respect des responsabilités et des compétences de chacun, l’Église catholique désire offrir à la société sa contribution spécifique en vue de l’édification d’un monde dans lequel les grands idéaux de liberté, d’égalité, de fraternité puissent constituer la base de la vie sociale, dans la recherche et la promotion incessante du bien commun.
自由、平等、友愛という偉大な理念」と言っているようである。
社交辞令?
確かに、私が今まで紹介したものは、どれも彼がフランスを訪問した時のものである。しかし、だからといって、それらを彼の単なる社交辞令だと言うことできないだろう。
何故なら、彼は1980年、ル・ブールジェ空港で、「自由、平等、友愛という理念は(…)深いところでキリスト教の理念だ」と言ったが(参照)、私達にとって「キリスト教は何であるか」はすこぶる重要な問題なので、人は本当にそう思っているのでなしにそのようなことを言うことはないからである。つまり、それは「社交辞令」という気遣いの、しかし一種の「軽口」には違いないものであった可能性は無い。彼は、フランスに居ようが居まいが、ただ彼として、普段からそう思っていたに違いない。
また何故なら、私の前には言語の壁が立ちはだかるけれども、とにかく、バチカンの公式サイトで「自由・平等・友愛」というワンセットの言葉をヨハネ・パウロ2世教皇様の発言の中に探す時、かなりの数がヒットするからである。検索
それらは社交辞令ではあり得ない。
そして次に、こう言える。
教皇様がこの「自由・平等・友愛」について説く時、「それらをキリストと結びつけて考えなければならない。必ずキリストという基盤の上のものとして見なければならない。それを決して忘れてはらない」と強調するとしても、おそらくそれで済むものではないだろう。
言葉はひとり言葉の問題なのではないからである。
言葉が重要なのではなく、言葉の裏にある、言葉を使う「人間」こそが、
もっと言えば「霊魂」こそが、重要だからである。
仮にもそれ(自由・平等・友愛)はフリーメイソンの旗(標語)なのである。
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