2012.01.25

「すべての民の御母」 は悪霊である 7  識別の一技法

この「粗悪な詐欺」に大騒ぎする必要はないかも知れない。
しかし、「悪いもの」を確認することによって「善いもの」を確認する。
再び、「すべての民の御母」
メッセージ7 1946. 2. 7
月面着陸
その後、わたしは目の前に細長い地図があるのに気づきます。
「ユダヤ!」
という声が聞こえ、「エルサレム」と書かれてあるのが見えます。
ふいに、先端が矢印になっている二本の線があるのに気づきます。ひとつには「ロシア」、もう一つには「アメリカ」と書かれています。
その後、わたしは婦人と一緒に、あたかも地球を下に見ながら立っているかのようです。婦人が何かをお示しになると、わたしの目の前にはっきりと月が見えます。なにかが月に向かって飛んでゆき、月に着陸するのが見えます。わたしは、「月の上になにかが降りてゆく」と言います。わたしはまるで空気中に浮いているような感じがします。あたりはなんとも不思議な光景です。「自然現象の一種」とわたしは言います。
エンデルレ書店『すべての民の御母のメッセージ』p42
「ユダヤ」とは、なにか意味深ではある。が、とにかく、婦人は有りもしない「月面着陸」を見せたのだから、それでアウトである。
(既に書いたが、その動機は単に、悪霊たちが面白がって、やがて自分たちの地上の配下に実行させることになる巨大な嘘をペアデマンに見せた、というところだろう。)
そして、それに加えて、私はこう思う。
仮にアポロの月面着陸は真実だったと仮定してさえ(そんなことはあり得ないが、話として)、ペアデマンにそれをのほほんと見せて終りにするとは何事か、と。
私が何を言いたいかを説明するために、ベイサイドを引用する。
「宇宙開発」に関してベイサイドは次のように言っている。
他の惑星に生命は無いのである。私達はあなた方に地獄からの乗り物について説明した。それ故、もしあなた方が他の惑星における生命の探索にあなた方の国の資金を浪費するなら、あなた方はあなた方の国民を更に窮乏の中に追い込むことになるのである。
- 1985年11月1日、イエズス
前半のことは別にしてさえ、後半が確実に真実である。私達は、宇宙に行くことなどよりも遥かに優先して、例えば世界から飢餓の問題をなくすことを考えるべきである。飢餓問題を根絶していない科学時代とは何という「科学」時代であることか。
婦人はこのような嘆きを持つことなしにペアデマンにのほほんと月面着陸を見せたのか?……ということである。
最初からそれに触れないなら別である。しかし、彼女はそれを見せておきながらそのような態度なのである。「人類が月に行くこと」が良いのか悪いのか、必要なのか不必要なのか、それを言え、である。ベイサイドはきっちりと言っている。そしてそれは正しい。地球上に問題が山積しているのに、月へ行くことになど資金を浪費している場合じゃない。
そして、前半の「他の惑星に生命は無い」も真実だろう。
「宇宙」に関してベイサイドが何と言っているか見てみよう。
他の惑星にはあなた方が知っているような生命、あるいは人間は居ません。御父の創造については愛と生命の書があなた方に教えている通りです。私の子供達よ、他の惑星に生命があるとは考えないで下さい。それは虚偽です。もし他の惑星に生命があるのなら、あなた方はそのように教えられてきたことでしょう。何故なら、御父はご自分の子供達に何もお隠しにならないからです。
- 1974年9月28日、聖母
もし地球以外の星に生物が居たならば、御父は必ず聖書の中でそれを教えて下さっていただろうというのである。私は、その通りだろうと思う。
ベイサイドの聖母は続ける。
御父は人間を作られました。それはアダムとイヴとして知られています。そのように彼らはあなた方の最初の祖先でした。それが御父の創造でした。人々は、自分達の最初の母と父のことはシンボルに過ぎない、と言うかも知れませんが。
こういうところに私的啓示の存在意義がある、と私は思う。何故なら、聖書だけなら、司祭でさえ「アダムとイヴは一つのシンボルではないか。その話は一つの寓話ではないか」と考える誘惑に遭いがちだからである。そうして、聖書の中の一つの逸話を「シンボルではないか。寓話ではないか」と考えるなら、他の逸話に関しても同じように考え始める可能性が高いだろう。一つ疑えば必ずや他のものをも疑いたくなるだろう。
以前言ったことを繰り返す。
「本物の教皇パウロ6世と同時並行的に偽の教皇パウロ6世が存在した」ということを信じられなくても結構。しかし、それ以外のこと、「信仰」に関することでは、「すべての民の御母の言ってることと比べれば、そりゃ、ベイサイドが言っていることの方が相当マトモだ」ぐらいのことは思わなければならない。
「言っていない事」に注目しなければならない
「のほほん」について更に言葉を重ねる。
のほほんとして言うべき事を言わない「婦人」を信じているのほほんとした人々に。
このとんでもない「婦人」を信じているそのような人達は、
「(婦人が)言っている事」のみに注目するから見破れないのである
「(婦人が)言っていない事」に注目しなければならない
つまり、それが人であれ霊であれ、当然言うべき事を言わない時、
当然警告すべき事を警告しない時、大いに疑うべきである。
人を騙そうとする時、表面上「善い事」ばかりを並べなければならない、
そうする必要があるということは、〇〇でも知っていることである。
しかし、あなたはそれを忘れる。
そうして、「言われている事」だけに耳を傾ける。
しかし、話者が詐欺師であっても「言われている事(言う事)」は全て表面上「善い事」なのであるから、「言われている事」だけに耳傾けてはならない。
むしろ彼が「言っていない事」、言うのが至当であるのに言っていない事に気づかなければならない。
私はこれを「識別のための一技法」として提案しておく。
そして振り返ろう、「婦人」には「前科」がある。
彼女は第二バチカン公会議以降の「変化」に伴う数々の「弊害」について言わなかったのである。(弊害と予見
そして今回、ベイサイドとの対比において、他の不幸の解決に当てるべきところを「宇宙開発」のために費やされてしまう莫大な資金について言わなかったのである。
婦人は「化け物」である
すべての民の御母
化け物じみた表示で、信じている人には少々申し訳ない。しかし、それは実際、化け物である。悪霊が「聖母」に “化けて” いるのだから。
自身は婦人を信じていなくてもイノセントな人は言うかも知れない、「この婦人を善意で信じている人もいるのです。こんな表示はそのような人達の心を傷つけるものです。善くないと思います」と。
しかし、私は「神かけて」言っているのである。他のどんな私的啓示に関してでもなく、この「婦人」に関して。
「あなたは、もし誰かによってあなたの信じているベイサイドについて同様の表示をされたら、どう思いますか?」とも言うかも知れない。
しかし、もし誰かが本当に心底「神かけて」ベイサイドのことを悪魔の詐術と確信するなら、それは致し方ないことである、と私は申し上げる。
この画像に見るように、この婦人は左手に「悲惨」を持ち、右手に「愛」や「平和」を持ち、その両方をあなたの前に差し出し、そのコントラストを以てあなたを騙しているのである。
もっとも、あらゆる聖母の啓示が似たような構成を持つというのも真である。
そうなるのは、ある意味、自然/当然である。
しかし、「必要な目」を持たなければならない。
少し、意地悪のような、ひねこびたような目を持たなければならない。
愛は善いものだ? 当り前だ、当り前過ぎる。
平和は善いものだ? 当り前だ、当り前過ぎる。
戦争、飢餓、疫病、大災害などは人類にとって悲しいことだ?
当り前だ、当り前過ぎる。
それらは深くは人類の罪のせい、人類が神の御心を知らないからだ?
そうだ、しかし当り前だ、当り前過ぎる。
……というような、少しこまっしゃくれたような性質を持っていなければならない。
あなたはそうなるのは嫌かも知れないが、多少そのようなものを持っていなければ「騙される」のである。あまりイノセントではいけない。
「悪魔は99%の真実に1%の嘘を混ぜる」のであれば、その「1%の嘘」に気づかなければならない(具体的に)。上の画像で言えば、「諸民族間(の一致)」や「Change!」が嘘である。何故かについては今まで説明してきたつもりだ。ヒューマニズムの煙に巻かれる教会 1
Change
この画像はほんの遊びである
Lady of all Nations, すべての民の御母
困難な時代にあっては、恐れを持ち、且つナイーブな者は、常に、カリスマ的な改革者に惹かれる。
あなたはそれほど「恐れの感情」に捕えられて「すべての民の御母」を信じたわけではないかも知れない。しかし、その要素はあるだろう。
「あらゆる聖母の啓示が似たような構成を持つ」と、上に書いた。
その通りである。一見、その通りである。あらゆる真正な私的啓示も、そして偽の私的啓示も、「愛」と「警告」の二つから成る。
しかし、真正な私的啓示は、どんなに人類の将来に予想される悲劇が重いものであろうとも、「信仰」を変えない、change しない
「人類を困難から救う」という理由のために、もし「聖母」が「信仰」の中に何らかの「安易性」を持ち込もうとするなら、それは真の聖母ではないと疑われるべきである。
そして、「すべての民の御母」がそれにバッチリと該当する。
それはもはや「疑い」では済まない。「結論」である。
まだ分からない人はもう一度検討して下さい。若干の比較 弊害と予見
エクソシズムにおける悪霊の...
一冊の本がある。既に何年にもわたってマーケットに出回っているものだ。それは『すべての民の婦人』と呼ばれている。我々は、これが特権的な霊魂を通して与えられたものだと主張した。しかも更に非常な苦しみを通ってきた霊魂を通して与えられたものだと主張した。そして我々はその中に多くの善いことを織り交ぜた。特に飢餓、戦争、大災害についてなどだ。
...というセリフは、ただ単に、単純に真実であるだけである。
それは悪霊が同じエクソシズムで、また別のエクソシズムで、「ルフェーブル大司教は正しい」と言わされたその辺のまとめ)のと同じく、ただ単に、単純に真実であるだけである。
「眉に唾つける」態度は「警戒」の初めとしては結構だ。
しかし、それで終っては、むしろそれは「習慣」である。
つまり「固まった態度」である。
「固まった態度」は「新鮮な目」をもたらさない。
むしろ「目の曇り」をもたらす。
私は、おそらく決して少なくない人から「妄想している」と思われている。
しかし、本当は、顛倒妄想しているのは皆さんの方である。
皆さんは、
「直球」が来ているのに「たちの悪い変化球」と思い、
あるいは「見え透いた変化球」と思い、
「たちの悪い変化球」が来ているのに「直球」と思うのである。
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