2012.01.25

「すべての民の御母」 は悪霊である 4  がさつさ

この「粗悪な詐欺」に大騒ぎする必要はないかも知れない。
しかし、「悪いもの」を確認することによって「善いもの」を確認する。
悪霊の「もの言い」の特徴の一つは “がさつさ” である。
本来非常に sensitive な、つまり慎重を要する問題でも、ひどくガサッと言うのである。別の言葉で言えば「曖昧」なのである。
で、「言葉」というものは、ハッキリしたことを言った場合は批判も受けやすいが、曖昧なことを言った場合は迂闊な人々から「(何となく)正しい」と思ってもらえるのである。
教えは正しいのです。しかし規則は変えることができ、また変えるべきです。
このような「もの言い」である。乱暴、がさつ、曖昧、無神経、軽卒。
何故ならば、本来「教え」と「規則」は密接な関係にあるからである。
場合によっては「密接不離」である。
だから、この「もの言いの軽さ」だけによっても、彼女は大いに疑われなければならない。
これは、消えなければならない古い霊〔spirit; 精神〕です!
何であれ、「婦人」はそれまで教会の中に存在して来た何かを「古い」と形容したわけである。これ自体、「聖母らしからぬ」ものである。
何故ならば、私達の教会は、兎にも角にも「継承の教会」であるからである。もちろんこの事は、私達の教会で何かを変える必要が生ずることはあり得ない、ということではない。しかしながら、教会にそのような必要が生じた場合でも、真の聖母なら決して上のような “言葉づかい” ──「古い」「消えなければならない」──はなさらないだろう。
あなたが「言葉」というものに敏感でありますように。
「言葉づかい」は単に「言葉づかい」ではない。
「たまたま」のものではない。
「言葉の姿」は「霊の性質」を映す。
加えて、彼女は、何が「古い」のか具体的には何も言わない。
神学はわが子の事柄に道を譲らなければならない
このようにガサッと言うのである。つまり、主語を「神学は」にしている。そして具体的にどのような神学かは言わない。
しかし、教会の長い歴史の中に教会の権威によって公的に「正統」と認められた諸々の神学が存在する。そして教会の理解によればおそらく、それらはただ勝れた人間の脳髄からのみ生まれない。必ず「天主からの照らしを受け、聖霊の導きによって」書かれたものとされる。実際そうだろう。
しかし、「婦人」の “神経” はそんなことには顧慮しないようである。
対比としてベイサイドの聖母に言及するなら、彼女はいつも、例えば主語を「モダニズムは」とか、具体的な言い方をするのである。「神学は」ではなく。
ほんとうに、「神学は」を主語としたこの否定的なセンテンスは狂っている。なんでこんなものを聖母の言葉と思うのか。
〔後日の追記〕
私はこれと似た「もの言い」(極めて重大な事柄に言及したに拘らず、何の具体性もなくガサッと言うこと)を別の偽りの啓示の中に見た。「時が始まって以来の預言者達は」を主語としたものである。参照
この時代は聖霊の時代です。
まことの霊、聖霊だけを探し求めて祈りなさい。
「婦人」は、曰く “人類の将来” のために、「古いもの」を何とかするようにと促す。
「古いもの」の一つは「規則」であり、もう一つは「神学」である。しかし、彼女は具体的な事は何も言わない。「この規則」「あの神学」とは。
そして、具体的な事を何も言わないまま彼女が次に進むのが「聖霊に聞け」である。
勿論、「聖霊に聞け」というのは、カトリック教会の中にいつの時代にもあった普通の勧めである。しかしながら彼女の場合、「 “古いもの” を取り外す」ということとセットになったそれである。
問:「 “古いもの” を取り外す」ということと「聖霊に聞く」ということがワンセットとして実践されればどうなるか。
答: 信者の心が漂い始める。(教会の継承性が危うくなる)
彼女は、今まであった教会の「規則」や「神学」よりも、信者個々の「感じ方」の方を上に置こうとしている。
第二バチカン公会議後の潮流そのまんまである。
形式と規則は、聖霊の助けによって変えることができます。
つまり、彼女は「どれを変えるかは聖霊に聞け」と励ましている。
「聖霊」と言うだけで、それは聖三位の内の一つを意味するのだから、つまり “非常に善いもの” を意味するのだから、言葉とは便利なものである。彼女は言葉を使い、イノセントな信者達はそれに他愛なく頷く。しかし、その「聖霊」の居るべき場所に「悪霊」が坐っていたなら、どうなるか。
イーダ・ペアデマン
「すべての民の御母」の幻視者
イーダ・ペアデマン
全ての「霊感」(inspiration, 内催しのもの)が「聖霊」から来るとは限らないのは勿論のことである。
(それから、おそらく「奇跡」も。)
例えば、ニューエイジ・ムーブメントの信奉者達もそれは「霊感」を受けるのである。
「カリスマ刷新運動」も然りだろう。
しかしまた、全ての「霊感」が「邪霊」から来るとも言えない。
見分け方は、やはり「伝統との引き比べ」だろう。
そしてベイサイドのことを言うなら、皆さんがどう思うか知らないが、それは本質的に伝統主義である。
「本物の教皇パウロ6世と同時並行的に偽の教皇パウロ6世が存在した」ということを信じられなくても結構。しかし、それ以外のこと、「信仰」に関することでは、「すべての民の御母の言ってることと比べれば、そりゃ、ベイサイドが言っていることの方が相当マトモだ」ぐらいのことは思わなければならない。
諸民族間の一致
「一致」という言葉が第二バチカン公会議の(それ的な、それに顕著な)言葉である上に、「諸民族間の」というのまでがくっついちゃあ、おしまいよ。
聖母はこんな言葉をお使いにならない。
聖母が口にされるのは、「一致」よりも圧倒的に「回心」という言葉だろう。
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