2012.01.25

「すべての民の御母」 は悪霊である 5  絵の若干の観察

この「粗悪な詐欺」に大騒ぎする必要はないかも知れない。
しかし、「悪いもの」を確認することによって「善いもの」を確認する。
 
婦人は翌1951年(…)、ご絵を描くための指示をお与えになりました」
「すべての民の御母のメッセージ」p.xvi
 
ファチマのシスター・ルチアが1929年6月13日にスペインのトゥイで受けた示現の様を再現した絵
伝統的な感覚を持ったカトリック信者が左の絵を見て先ず初めに咄嗟に思うのは「このマリアは前に出過ぎではないか」ということである。
この婦人はイエズス様の場所を「奪っている」ようにさえ見える。
「違和感」を感じる。
それに対して右の絵は、十字架と共にあるのはイエズス様で、マリア様はその傍らに立ち、私達に「主」を指し示しておられる。
これは「伝統的」であり、従来の「神学」とも合致し、私達を安心させる。
左の絵に違和感を感じる人達に対して、その絵に納得している人達は「理解」を示すだろう。「ええ、分かります。私も初め、そうでした」と。
そして次に、その違和感なり疑問なりを解消してきた過去の自分のプロセスを話すだろう。悪意なく。
彼らはこの絵の持つ意味について「熟考」しただろう。
そして、「説得」された。自分の「頭」に。「理屈」に。
しかし、むしろ最初の思いに留まった方が良かっただろう。
The Lady of All Nations
 
「聖母はご絵をどのように描くべきかを自ら詳しく説明されました」
(パウロ・マリア・ジーグル神父*)
「婦人」はこの絵にクレームを付けなかったようである。
しかしこれは、まるで「女性でありさえすれば事足りる」といった風情である。
*パウロ・マリア・ジーグル神父 Fr. Paul Maria Sigl
別に積極的に紹介するつもりはないが、この運動を推進する司祭である。参照
今日のこの記事で取り上げる彼の幾つかの言葉は「すべての民の御母」普及の会いつくしみセンター を通して販売している『すべての民の御母を讃えて 祈りの日』(正式書名『すべての民の御母祈りの日 in ケルン』)という冊子からである。(Web にもその PDF が落ちている search。それはココのサイトの左の欄でも案内されている。)
いつくしみセンターは良い本も出してくれていて、基本、感謝したい。けれども、「婦人」に関してはどうしたことかと思う。
The Lady of All Nations
地球に立ち、蛇なし
 
不思議のメダイ
別に、あらゆる御絵の聖母が蛇を踏んでいなければならないというわけではないけれども。
しかし、この絵を見る人が次のような妙な事を言うようになるなら問題である。同神父──
蛇の頭を踏み砕く者として御母がサタンから私たちを守り、サタンを打ち負かすという聖書の教える真実が、このご絵では特別に印象的に表されています。このご絵には不思議のメダイの図柄とは違って蛇が見当たりません。なぜなら、蛇は完全に打ち負かされたからです。
p18
「蛇の敗北の図」が無いことによって「蛇の敗北」が印象的に表わされているというのである。
カトリック信者は口を慎まなければならないが... この神父様の脳内は “お花畑” である。悪魔の哄笑が聞こえるかのようである。
ですから私は、すでに聖母の汚れなきみ心が勝利をおさめたことを示すアムステルダムのご絵を『天国的な絵』と呼びたいと思います。
p18
「天国的」なのはこの神父様の脳内である。
真相はただ、「婦人」が蛇の敗北の図を入れたくなかったということである。
「婦人」のメダイも売られている。
教会に認められているかどうかは知らない。
また、最近の教会はこういうものをすこぶるお気楽に認めそうで怖い。
当然ながら、ここにも蛇の姿はない。聖母に踏みしだかれた自分達の哀れで屈辱的な姿のないメダイを見て、悪霊達も喜んでいることだろう。そして「もう一歩だ」と思っていることだろう。
「これが不思議のメダイにすっかり取って代われば、どんなにせいせいするだろう!」
似非天国の潮流
Oneness,  Unity,  Harmony,  Earth,  Global etc.
(婦人は頬っ被り ─ 偽装 ─ しているが、ここの出である)
「すべての民の御母」の運動は、「聖母」を口実にした、しかし実のところ宗教グローバリゼーションのための運動である。そしてその真の主宰者、プロモーターは悪魔である。
パウロ・マリア・ジーグル神父のことが憎いわけでも、この運動に参加している人達のことが憎いわけでもない。「悪魔に騙されるな」と言っているのである。
秋田
ついでに「秋田」について。
聖母は「大きな目的」のために、「緊急の目的」のために、秋田において多くのものを「我慢」なさったのか?
1.  婦人(悪霊)の祈りを──「かつて…」は削除されていたとしても──我慢なさったのか?
2.  婦人(悪霊)から指示され、その通りに作られたアムステルダムの像、それに模して作られた秋田の像にも我慢なさったのか?
3.  その上、その像に涙を流させた?
4.  手による御聖体拝領をしている一人の修道女をお選びになり、示現をお与えになり、そのプロセスが続けられている間中、同修道女による手による御聖体拝領を我慢し続けられたのか?
私は、「そうかも知れない」と思うのである。(
変な話だが、マリア様は「我慢」なさったのではないかと。
「我慢」などというとあまりに人間的に響くが、そのようなこともあり得るのではないかと。
何故ならば、秋田の物語は善いものだからだ。
それはアムステルダムの婦人が言ったような事を言っていない。
そのような「方向性」を持っていない。
その霊は厳しい調子を持っており、
アムステルダムの霊のようには軽薄さを感じさせない。
不思議なことである。合点がいかぬことである。
しかし、そうとしか思えない。
外形における共通性を持っていながら、二つの霊は別ものとしか思えない。
婦人の「変えよ」は、実際上、教会を流動的に、不安定にさせる。
それに反して秋田の聖母の「カルジナルはカルジナルに」という警告は信仰を固めさせる。
秋田の聖母は「教会は妥協する者でいっぱいになり」と言っている。
それは「教会の変化」を励ます婦人の言葉とは実際上同居できない。
あなたが心の中で思っていることは、まことか? まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしているわたしの修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となるために、三つの釘で十字架につけられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の三つの釘です。その中でも基は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、よき理解者となって、導いてくれるでしょうから
秋田の聖母のこのような言葉も、聖母マリアの言葉として「古式床しき」ものであって、アムステルダムの霊とは相当に “色” の違うものである。「正反対」と言っていいように思う。
私は別に、以上のような事を、秋田巡礼をしている聖ピオ十世会に気を使って書いたわけではない。
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