あれらのゲージツ家達を調達したのはフリーメイソンである
(やっぱり)
パスクァーレ・マッキ大司教
Pasquale Macchi(1923–2006)
「作品が特別にオーダーされた場合、そこには “発注者” が居るものである」と、何度か当り前のことを書いたが、その「発注者」というのがこの大司教である。彼があれらのゲージツ家達を「調達」し、その者らにサクヒンを「発注」した。彼はフリーメイソンである。
*
真面目で、私と違って「心ある」カトリック信者は、私が今、「大司教」や「枢機卿」に「様」を付けなかったからといって、また、「彼はフリーメイソンである」の前に「おそらく」を置かなかったからといって、「心痛める」のかも知れない。そのような人達は、常に次のフレーズを「良心」の代名詞であるかのように思い浮かべる──「嫌疑というだけでは十分ではない」。──確かに。
しかし、ある面、ある意味、それを言っていたのでは日が暮れてしまう、そればかり言っていたのでは多分〇ツの毛まで抜かれてしまう、そんな人の世、悪の世である。(お下品御免)
とにかく、ここは私自身の確信に従った表現をさせてもらう。
*
それは第一に、
例のリストの中に彼の名があるからである。
61. 暗号名:MAPA。異端の罪によりパウロ6世教皇によって破門されるまで、同教皇の秘書であった。しかしその後、国務長官のジャン・ヴィロ枢機卿によって復帰し
[1] 、枢機卿にまで上げられた。
「枢機卿」ではなく「大司教」ではないかと思うが(
catholic-hierarchy)、しかしそれはともかく、「一度、異端の罪により破門された」という要素と(事実ならば)、「リストに載っている」という要素の二つがあるのであれば、間違いないだろう。彼はフリーメイソンだろう。
そして第二に、以下のようなものがあるからである。
拾い読み
以下は、英語とイタリア語の記事から拾い読みして集めた情報の切れ端である。
翻訳の部分は、イタリア語の場合、当然、機械翻訳の英訳を経由した。だから、怪しい。しかしまた、そんなには遠くないだろうとも思う。
あなたもこれらを読めば、あれらのゲージツ家達やあれらのゲージツ品や宗教用具(Bent Cross)はフリーメイソンが置いたものであることを確信するのではないか。(画像は、全てではないが、元記事にリンクされている)
▶ マッキ大司教 と ボディーニ と パウロ6世ホール
よく分からないが、教皇様が2003年6月24日、バチカンのネルヴィ・ホール(パウロ6世ホール)におけるパウロ6世に捧げられた大理石像の除幕式で、フロリアーノ・ボディーニとマッキ大司教を迎えられた、というところか。
|
|
ボディーニは確かに、パウロ6世ホールにパウロ6世の(と言われる)胸像を納めている。(左の写真)
これは、彼の あれらのサクヒンと違って、そう変には見えないものかも知れない。
しかし、ここで一つ、教皇様について残念がっておかなければならない。
教皇様はボディーニの あのようなサクヒン(リンク同上)をご覧になっていた筈だ。にも拘らず、結局、彼のサクヒンに「理解」がおありだったということか?
|
|
(左の写真)
マッキ大司教とヨハネ・パウロ教皇様
ヨハネ・パウロ教皇様は良い人だ。けれども、おそらく、人やものに対する見方が甘かった人だ。いわゆる「気が良過ぎる」というやつだ。
|
▶ ボディーニの不気味なパウロ6世像はマッキ大司教が発注した
|
〔翻訳もどき〕
ジャーナリストのミーノ・ペコレッリが世に公表した(彼はその後ローマで殺されることになる)有名な「バチカン内フリーメイソン・リスト」の中には、パウロ6世の個人秘書であったモンシニョール・パスクァーレ・マッキの名も含まれている。
大司教パスクァーレ・マッキは、ヴァレーゼのサクロ・モンテに、パウロ6世のメイソニックな記念碑を建てさせた人物である。
|
「この像はパスクァーレ・マッキ大司教の要請によって作られた」とある。
また、この像についてはルイジ・ヴィラ神父も、その著書『PAOLO VI beato?(パウロ6世は列福されるか?)』(
伊PDF)で非常に詳細に分析している。やはり純度100%のフリーメイソンの記念碑のようだ。(イタリア語は少しも分からないが、多くの図版でそうと分かるw)
▶ リストは信用できるだろう。いわば「内部文書」である。
Carmine "Mino" Pecorelli
(1928–1979)
|
1978年9月、ジャーナリストでありフリーメイソンP2ロッジの不満分子であったミーノ・ペコレッリ( Carmine Pecorelli)は、自身の発行する雑誌『OP(Osservatore Politico)』に「バチカン・グランドロッジ」と題した記事を書き、バチカン内のメイソンであるとされる121人の名を世間に公表した。
|
|
|
1979年3月20日、彼は殺された。
車上で射殺というマフィア的な仕方で。
|
▶ アンドレオッティ
|
アンドレオッティにはペコレッリ殺害の嫌疑がかかった。一旦は「殺人罪で懲役24年」の有罪判決が出た(2002年11月)。が、結局、「証拠不十分」で無罪放免となった。
|
またアンドレオッティは、イタリアでは「教皇ヨハネ・パウロ1世の “暗殺” にも関与していた」とも言われている。 [2]
|
おそらくこの人は、首相まで務めた人だが、「暗殺大魔王」である。
▶ マッキ大司教 と カザロリ枢機卿 と アンドレオッティ が
ボディーニのメイソニックな像の除幕式に集結する
|
〔翻訳もどき〕
これはパウロ6世の秘書であったパスクァーレ・マッキ大司教によってヴァレーゼのサクロ・モンテにある戴冠の聖母の聖地の裏の広場に建てられたパウロ6世の記念碑である。この記念碑は1986年5月24日、外相ジュリオ・アンドレオッティの臨席のもと除幕式が執り行なわれ、アゴスチノ・カザロリ枢機卿(バチカン国務長官)によって祝福された。
|
|
除幕式での記念写真:
像の前がアンドレオッティとボディーニ、その向かって右がマッキとカザロリだろうか。
見事な集結ぶりである。三悪党大集合。
(カザロリ枢機卿は後に回心したかも知れないけれども。 [3] )
|
▶ マッキ大司教 と レロ・スコルツェッリ
|
〔翻訳もどき〕
1963年、パウロ6世の選出と即位式の直後、教皇の個人秘書パスクァーレ・マッキはレロ・スコルツェッリという名のイタリアの彫刻家を呼び出した。
モンシニョール・パスクァーレ・マッキはその彫刻家に、パウロ6世が偽牧者に見えるように、と求めた [4] 。
かつて教皇は誰一人このようなものを使ったことがなかった。
|
* * *
以上はあくまで「拾い読み」であって、私はこれに「検証」などという立派な名前を付けるつもりはない。けれど、私自身にとっては十分である。Bent Cross から、ボディーニの像から、パウロ6世ホールの化け物まで、全て「フリーメイソン製」だと思っていいと思う。
特に Bent Cross について言えば、プロテスタントが「カトリックの教皇が手に持っている Bent Cross はサタニズムを起源とするものだ!」と叫ぶのを聞いて、カトリック信者がただ防衛的に反発するならば、その態度は間違っている。それは事実、サタニストが生み出したものだろうから。
しかしそれと同時に、プロテスタントが「だからカトリックの教皇はサタニズムの信奉者だ」と結論付けるならば、これも間違っている。真相は上の通りだろうから。(なかなかそうは見てくれないだろうけれども。)
管理人注
[1] 「ヴィロ枢機卿によって復帰し」とあるが、ウェブ上には、「それがそうであるのは、ヨハネ・パウロ2世教皇様がその方面の『権限』をヴィロ枢機卿に渡したからだ」という記述もある。
[2] 同じく暗殺に関与していたであろうヴィロ枢機卿の面構えをご覧下さい。
ヨハネ・パウロ1世教皇様には申し訳ないけれども、この写真は私にとって、教皇様の写真というよりも遙かにヴィロ枢機卿の写真である。(向かって左の教皇様の後ろに見える人物も不気味である。)
[3] ご存知のように、「カザロリ枢機卿は死の直前に回心した」という噂がある。それは確かに「噂」であり、不確かな「伝聞」ではあるが。
Agostino Casaroli
(1914–1998)
彼らはベイサイドの啓示を読んでいたという。人は、もし霊魂をまったく売り渡していなければ、こういうのを聞けば恐れる。
そして勿論、ベイサイドの啓示を信じた一団の信者達が、彼のために必死に祈り、犠牲を捧げたからでもあるだろう。
ベイサイドの聖母は「あなた方の祈りと犠牲とがあれば、三人のうちの一人は滅びを免れるかも知れない」と信者達に呼びかけておられた。
[4] この辺はこの筆者の「見方」「推測」だろう。証言など無いだろうから。しかし、マッキ大司教がフリーメイソンならば、そう求めて当然である。そしてスコルツェッリはと言えば、ブレーシアのあのレリーフに見るような、あのような凶悪なデザインを引き受けることのできるゲージツ家である。Bent Cross もである。マッキ大司教は暗に求める必要はなかっただろう。明確に、あからさまに求めることができただろう。
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→
フレームページのトップへ