
これは私が心から正直に申し上げることですが、教皇様とのこの面談は私にとって全くもって降って湧いたようなものでした。確かに私はそれまで数年間にもわたってそれを望んでいたのです。私は教皇様と会い、彼に私の神学校のことや私の仕事のことについて話すことを望んでいました。様々な状況にも拘らず私がまだ幾らかの司祭を作ることが何とかできていることや、司祭を作ることで教会を助けることが何とかできていることをお話して、教皇様にお喜び頂くことができればと思っていたのです。しかし、私はそうすることに決して成功しませんでした。私はいつも、教皇様はあなたとお会いする時間がない、と言われました。それで、私がそのブロンズでできたドアを通り越すことが決してできなかったために、神学校に処罰が下された頃には、困難は明らかに少しずつ少しずつ大きくなって行きました。それらの出来事(神学校と兄弟会に対する抑圧)の後、私が教皇様に会うための条件として課されたのは、私が教皇様によって望まれた公会議、公会議後の改革、公会議後の方針に従うことでした。それは実質的に私の神学校の閉鎖を意味していました。私はそれを受け入れませんでした。私は神学校の閉鎖も神学校での聖職叙任権の停止も受け入れることができませんでした。何故なら、私の周り中で解体が進んでいたけれども、私は自分が建設的な仕事をしている、教会を引き下げるのではなくて建てている、と考えていたからです。私は、教会の破壊に手を貸すことなど良心にかけてできることではない、と考えていました。このことが私達を完全な行き詰まりに至らせたのです。一方では聖座が神学校の閉鎖を意味する条件を強要し、他方では私は神学校を閉じるつもりはありませんでした。従って、対話は不可能のようでした。それから、あなたもご存知のように、聖職停止の懲罰が下されました。それは教会にとって極めて重大なことです、そして特に司教にとってそうです。それは私の聖職叙任権と関係するあらゆる行為の禁止を意味していました。ミサも駄目、秘蹟の執行も駄目、秘蹟の管理も駄目。これは非常に深刻な事態でした。この事態は世論にも衝撃を与えました。そして世論の流れは、成り行きとして、私を支持する方向へと動きました。私がそれを企てたわけではありません。聖職停止と神学校のことを世の中に広汎に広めたのは聖座自身なのです。あなた(インタビュアー)は情報の普及のための全ての手段を代表しています。そしてこの出来事を話すことによって人々が知りたいと望んでいることを彼らに伝えることがあなたの仕事です。この世論のうねりは、バチカンにとって、控え目に言っても予想外のことでした。
そのように、バチカンは世論を前にして、かなり微妙で面倒な立場に立つことになりました。それが、疑いなく、何故教皇様が全てが済んでしまってから私に会うことを望まれたのか、しかも通常の経路を通してでなく非公式にそうされたかの理由だと思います。私は謁見をいつも管理しているマーティン司教に会いませんでした。ヴィロ枢機卿にも会いませんでした。誰にも会わなかったのです。私はブザンソンでミサを準備している時に思いがけず言われたのです、「ミサ後にあなたに会いたいと言っている司祭がローマから来ています。とても緊急で重要な用件だということです」と。私は答えました、「ミサの後でお会いしましょう」。
それで、ミサの後、私は彼と会い、部屋の隅に行きました。彼は確か Don Domenico La Bellarte という名の人だったと思いますが、私はそれまでこの人とは面識がなく、また、私の人生の中で一度も目にしたことがない人でした。彼は私に言いました、「最近、私の上司であるキエーティの大司教が教皇様にお会いになったのですが、そこで教皇様はあなたにお会いしたいとのお望みを打ち明けられました」。私は言いました、「ご覧下さい、私はここ五年というもの、教皇様との謁見を求め続けて来たのですよ。しかし彼らは常に私に条件を押し付けました。だから今回も彼らは同じ条件を押し付けるでしょう。私は、今自分がローマに行かなければならない理由を見出すことができません」。彼は強く主張して言いました、「変化があったのです。あなたに関してローマで何らかの状況の変化があったのです」。「結構。もしあなたがキエーティの大司教様が私に同行して教皇様のところに行って下さると保証してくれるなら、私は教皇様とお会いすることを決して拒否しません、私は行きたいと思います」。
私は彼に、できるだけ早くローマに行きましょう、と約束しました。私はファンジョーでの式典を控えていたので、まずファンジョーに行き、その後、車で直接ローマに向かいました。私は先ほどお話した司祭に接触しようとしました。そしてローマで彼と会いました。彼は私に言いました、「どちらにせよ、あなたは教皇様へのちょっとした手紙を書かれた方がいいでしょう。私が教皇様の秘書をされているモンシニョール・マッキに手渡すことができるためです。そうしてから、あなたは教皇様とお会いになることができるでしょう」。私は訊きました、「でも、どの種の手紙をです? 私が教皇様に何を請願するか、あるいは私が私に押し付けられるであろう全てに対してあらかじめハイと言うかどうかということに関しては、何の疑問もないところなのです。私はそれらを受け入れることはできません」。すると彼は言いました、「何か書いて下さい。何か紙の上に書いて下さい。私はそれをすぐにカステルガンドルフォに持って行きましょう」。私は教皇の位に対する深い尊敬をこめ、もし私がかつてスピーチか執筆かにおいて教皇様にとって不愉快な何事かを表現したことがあったとすれば、私は残念に思うこと、そして私は常に教皇様に受け入れられたいと願っており、その用意もあること、などを書きました。そして最後に署名を入れ、その仕事を終えました。司祭はその手紙に目を通すこともせずに封筒に入れました。私は封筒に教皇様への宛名を書き、そして私達はカステルガンドルフォに向けて出発しました。
彼は宮殿に入って行きました。私達
[6] は外にしばらく残りました。彼はモンシニョール・マッキに会いに行き、そしてモンシニョール・マッキは彼に言いました、「私は今直ぐにお応えすることはできません。今晩7時頃にお返事を差し上げましょう」。それはその月の最後の木曜日の晩でした。そして実際7時に、私はアルバーノの私の部屋で電話を受けました。私は「明日の10時半に教皇様に謁見できることになりました」と言われました。
それで、その翌日、土曜日
[7] の10時15分に、私はカステルガンドルフォに行きました。そこで私は、自分が再びここに来ることができたのは、聖なる天使達がバチカンの職員達を追い払ってくれたからだ、と心から信じました。入口には二人のスイスの衛兵がいましたが、建物に入ってからはX司教(Y司教ではありません。彼らの名はとても似ていますが)に出会っただけでした。X司教は.. 彼はカナダ人ですが.. 私達をエレベーターに導きました。エレベーターの中にはその係の者がいるだけでした。私は上階に行きました。私達三人は二階に上がり、そしてそこから私はX司教に伴われて多くの部屋を通り抜けました。教皇様の執務室に辿り着くためには、少なくとも7から8のものがあります。いいえ、人の数ではなく! 通常... 私はピオ十一世教皇様、ピオ十二世教皇様、ヨハネ二十三世教皇様の各時代に、そしてパウロ六世教皇様になってからですら、しばしば個人的な謁見のためにそこを訪れていたのですが、そこには常に一人のスイスの衛兵、警官(gendarme)、そして数名の人達、それはたとえば教皇様専任の執事、物事に目をとめ、不祥事を防ぐためだけにそこにいるかのような司教達ですが、そのような人達が常にいたものです。
しかし、その時はどの部屋にも誰もいませんでした。誰も、全く誰一人いませんでした [8] 。そして、私は教皇様の執務室に行きました。そこには、教皇様と、その横にベネリ枢機卿がいらっしゃいました。私は教皇様にご挨拶申し上げ、そしてベネリ枢機卿にもご挨拶しました。私達はすぐに腰をおろし、謁見が始まりました。
教皇様は初めのうちは十分にお元気そうでした。人が見たら、それはいくぶん興奮気味である、といった印象さえ受けかねないようなものでした。それは、教皇様は深く傷付いておられ、あるいはそれは私達がしていることによって引き起こされているのかも知れない、といった印象でした。教皇様は私に言いました:
「あなた方は私のことを非難しています。あなた方は私のことを非難しています。私のことをモダニストだと言うのです。私のことをプロテスタントだと言うのです。これは認められません。あなた方は悪事を働いています。あなた方はこんなことを続けるべきではありません。あなた方は教会の中にスキャンダルを起こしているのです」等々。教皇様はこれらのことを神経質な短気さでおっしゃいました。
私は静かにしていました、もちろんです。その後、彼は私に言いました:
「さあ、話して下さい、話して下さい。あなたは私に何を言いたいのですか?」
私は彼に言いました:
「教皇様、私はここに参りました。しかしそれは伝統主義者の頭としてではありません。あなた様は私が伝統主義者の頭であるとおっしゃいました。私は自分が伝統主義者の頭であるということを否定します。私はただ一人のカトリック教徒、ただ一人の司祭、ただ一人の司教であるに過ぎません。その良心、考え、心において引き裂かれバラバラに引き離されている、何百万ものカトリック教徒達、何千もの司祭達と他の司教達の中の一人であるに過ぎません。一方では、私達はあなた様の位について何の保留も置かぬために、あなたに完全に服従し、全てにおいてあなた様に従うことを望んでおります。しかし他方では私達は、公会議後に聖座によって形作られた物事の流れと全く新しい方針が、あなた様の前任者達から私達を引き離してしまっていることを知っています。ここで私達のすべきことは何でしょうか? 私達は、自分達をあなた様の前任者達に結び付けるか、それともあなた様の権威に結び付け、あなた様の前任者達から自分達を切り離してしまうか、そのような選択を迫られている自分自身を見出しているのです。カトリック教徒にとってこのようなことは前代未聞のことであり、信じ難いことです。そして、このようなことを引き起こしたのは私ではありません。このようなことは私が作り出した事態ではありません。このような事態を引き起こしているのは、信者達の心から湧き出る感情、私が直接は知らない何百万の信者達の心から湧き出る感情なのです。私はそのような信者達がどれほどいるか想像もつきません。彼らは世界の至る所に、あらゆる所にいるのです。あらゆる人達が、ここ十年の間に教会の中に起こったこの混乱について心配しています。教会の中に降り積もりつつある荒廃について心配しているのです。例を挙げれば次のようなことです。人々の中には基本的な態度があります。今や彼らを不変のものにしている内心の態度です。彼らは変わろうとは思いません。何故なら、彼らは選択をしたからです。彼らは伝統のために、伝統を維持する人々のために、自分の選択をしました。それはたとえば私が二日前に会った修道女達です。彼女らは自分の信仰生活を保ちたいと願っている善い修道者です。彼女らは子供達を、子供達の親達がそう教えてもらいたいと願うように教えます。多くの親達は、自分の子供達がこれらの修道者達からカトリック教育を受けることができるというので、子供達を彼らのもとに送っているのです。つまり、そこに自分達の宗教的な慣習を保っている修道者達がいるからです。しかし、彼らが古い祈りを維持しよう、古いカテキズムを保とうと望む、ただそれだけで、彼らは破門されることになるのです。修道院総長は解任されました。司教は五回も、お前達はもう平信者の地位に降格されたのだから、自分達の宗教的な慣習を捨てなければならない、と彼らに要求しました。このようなことを目にした人々は、理解することができないのです。また他方では、自分達の慣習を投げ捨て、あらゆる世俗的な虚栄に舞い戻り、もはや宗教的規則も持たず、祈りもしないような修道女達がいます。しかし彼女らは司教によって公的に承認されるのです! そして誰一人、彼らに反対して声をあげる者はいないのです! 一般信徒、気の毒なキリスト信者達は、これらのことを見、そして受け入れることができません。それは不可能です。そしてこれは司祭にしても同じことです。ミサを良く捧げ、祈り、よく告解室に控えており、真の教義を説教し、病者を訪問し、スータンを身に付け、古いいミサを捧げ続け、自分が叙階された時代のミサを捧げ続けるが故に人々に愛される、そのような真の司祭である善き司祭達は、もはや何の価値もない生き物であるかのように路上に投げ捨てられ、そのほとんどが破門されています。そして他の司祭達は工場に入り、彼らが司祭であることを知る者がいないように、決して司祭としての装いをせず、革命を説教し... しかし彼らは公的に承認され、彼らに声をあげる者は誰もいないのです。私自身もこれと同じ状態にあります。私は司祭達を作るように努めて来ました。昔通りの善き司祭達を作るように努めて来ました。色んな職業があります。若者達は、彼が地下鉄で列車に乗務するのを見る人々によって賞讃されます。彼らは人々に迎えられ、賞讃され、彼らの制服と努力の実りのためにお祝いを言われます。しかし私は停職になるのです、ああ、神よ! そして、もうどんな神学生も持たない司教達、一人の若い司祭も持たず、一切何も持たない司教達、そして神学校を持ってはいても、それがもはや善い司祭を生まない、そのような神学校を持っている司教達... 私は、彼らに向けるべき言葉を知りません。あなた様には理解できる筈です。特別なところのない平均的なキリスト者が、これらのことをはっきりと見ているのです。彼は選びました。彼は譲歩しないでしょう。彼は彼の限界に達したのです。それは不可能です」
「それは真実ではありません。あなたは良い司祭達を養成していません」と教皇様がおっしゃいました。「何故ならば、あなたは彼らに、教皇に反対する誓いをさせているからです」
「何ですって!?」と私は答えました。「教皇様に反対する誓い? 私はそれどころか彼らに教皇様への尊敬を教えようとしているのです! ペトロの後継者を尊敬することを教えようとしているのです! 正反対です、私達は教皇様のためにお祈りしているのです。教皇様、あなた様は、彼らがあなた様に反対するという内容を持ったその誓いを、決して私に見せて下さることがおできにならないでしょう。あなた様はその写しを私に見せて下さることがおできになりますか?」
しかし今、バチカンのスポークスマンが公式に、今日の新聞に書いています。あなたはそれを読むことができます。バチカン、否定。それは真実ではない。教皇は私にそんなことは言わなかった。教皇は私に、私が私の神学生と若い司祭に教皇に反対する誓いをさせている、などとは言わなかった、と。しかし、どのようにして私はこのような話を発明することができますか? どのようにしてこの種のものを発明することができますか? 考えられないことです。しかし今、彼らは事実を否定しています。教皇はそんなことは言わなかった、と。驚くべきことです。もちろん私は、その時の会話を録音したテープを持っているわけではありません。会話の全てを細大漏らさず書き起こしたわけでもありません。ですから私は物証をもって事実は反対のものであったことを証明することはできません。けれども、その時の私の驚き! 私は教皇様のそのような断定を前にした時の自分の驚きを忘れることができません。私は今でもその時の自分の身振りや言動をありありと思い浮かべることができます。「しかし教皇様、あなた様はいったいどのようにしてそのようなことをおっしゃることができるのですか!? その誓いの写しを見せて頂くことはできますか?」 全くもって途方もないことです!
それから、教皇様は更に私におっしゃいました:
「それは本当のことです。そうではないのですか? あなたは私を非難しているでしょう?」
私はここで、話し合われていることの焦点がかなり教皇様ご自身のことに戻って来た、という強い印象を持ちました。つまり、教皇様は個人として傷付いておられるのだ、という印象です。
「あなたは私を非難しています。では、私がしなければならないことは何ですか? 私は辞表を提出して、あなたに私の場所を譲らなければならないのですか?」
「おお!」 私は手で頭を抱えました。
「教皇様、そのようなことをおっしゃっていはいけません。ノー、ノー、ノー、ノー!」 それから、私は言いました:
「教皇様、私に仕事を続けさせて下さい。あなた様は問題の解決をご自身の御手の中に持っていらっしゃいます。あなた様はただ一言、司教達に言って下さればいいのです。どうか伝統主義者のそれら全てのグループを、以前の時代の祈り、昔のような秘蹟、昔のようなカテキズムを保持することを望んでいるそれら全ての人々を、兄弟として、理解と愛をもって受け入れて下さい。どうか彼らを受け入れ、彼らに礼拝の場所を与え、彼らが祈ることができ、あなた様との関係に留まり、また彼らの司教達との親密な関係に留まることができるように、どうか彼らとの合意に達して下さい。あなた様はただ一言、司教達におっしゃればいいだけです。そうすれば全ての秩序が回復し、その瞬間に私達にはもはや問題がなくなります。物事は秩序を回復します。神学校にしても、私自身、司教達のもとにおもむき、そして彼らに私の司祭達を彼らの司教区に着任させて下さるよう頼むことに何の困難もなくなるでしょう。それで物事は正常になります。私自身、あなた様が信仰聖省の人員の中から任命して神学校に送る委員会との関係を、新たにしたいと非常に望んでおります。しかしはっきりと、私達は伝統的なやり方を続けたいと望んでいますし、またそうし続けるでしょう。私達はその習慣を維持することを許して頂かなければなりません。しかし私は、聖座及び各聖省と再び通常の公的な関係に戻りたいと願っています。それ以上のことは何も望んでおりません」
彼は言いました:
「私はよく考えてみなければなりません。私は教皇枢密会議に諮ってみなければなりません。ローマ聖庁に諮ってみなければなりません。私はあなたに回答を与えることができません。私達は会合を持つでしょう」
その後、彼は私に言いました、「共に祈りましょう」。
私は、「心から喜んで。教皇様」と答えました。
私達は、主祷文、聖霊来り給え、天使祝詞を唱え、そして教皇様はとても嬉しそうにしながら、私をもとの場所に導きました。しかしそれには困難を伴いました。というのは、彼の歩みは痛々しく、足を少し引きずっていらっしゃった
[9] からです。部屋に入り、隅に寄って、ドミニコが私のためにやって来るまで、彼は待ちました。そして彼はドン・ドミニコに小さなメダイを与えました。私達はそこを離れました。ベネリは口を開きませんでした。彼は終始秘書のように書きものばかりをしていて、それ以外には何もしませんでした。彼は少しも私を煩わせませんでした。それはまるで、そこにベネリ枢機卿はいないかのようでした。私は、ちょうど私が煩わされなかったと同じように、教皇様も何の煩いも受けなかったと思います。何故なら、教皇様は何もおっしゃいませんでしたし、そのような何のご様子も示さなかったからです。私はそれから二度繰り返して、問題の解決は教皇様の御手の中にあります、と申し上げました。そして彼は、今回の面談、対話を持ったことに、満足をお示しになりました。私は教皇様に、私はいつも教皇様の裁量の下にあります、と申し上げました。そして私達は別れました。
それ以来、今も、彼らは新聞で好きなように書いているのです。最も空想的な発明、つまり、私が何もかもを受け入れた、完全な服従をしたなどということを。それから彼らは今度は、それは全く反対である、と言いました。私は何も受け入れなかった、何も認めなかった、と。現在彼らは私に、私が嘘をついた、私が教皇様とした対話に関して物事を捏造した、と事実上言っています。私の印象はこうです。彼らはその謁見が通常の経路を通らずに予見できない形で行なわれたのでとても怒っているのです。そしてこの一件の評判をあらゆる手段をもって落とそうとしている。同様に私の評判をも落とそうとしています。明らかに彼らは、この謁見によって多くの人々の心が再び私への支援に向けられることを恐れています。人々は言っています、さあ、大司教様が教皇様にお会いになったのなら、もう心配はない、彼は再び教皇様のところに戻って来たのだ、と。しかし実際のところ、私達は今まで決して教皇様に敵対したことはありませんでした。常に教皇様と共にあることを願って来たのです。
因みに、私はちょうど先程、再び教皇様に宛てて手紙を書いたところです。Thiandoum枢機卿様が、ご自分が教皇様にその私の書いた短い手紙を届けることができるようにと、しきりに私に勧めるものですから。私は彼に言ったのです、「はい、結構ですよ。私には教皇様に短い手紙を書く用意があります(私は、この通信は終わりのないものになるだろうと思い始めていますが)。私は教皇様に今回の謁見を与えて下さったことに対する感謝をお伝えしたいです」。私は手紙を書きました。そして教皇様に感謝しました。